終わりの約束。
もうすぐ終わりがくるのだと、知っていた。
いつか尽きゆくものが、すぐそこにいるのだと知っていた。
だから、決めていた。
ひとりぼっちの、冷たく、寂しい、黒い彼にあげよう、と。
ひとりきりで戦う、やさしい彼の力になりたかったから。
約束した。
全てがこぼれ落ちてしまう前に、絶対に受け取ってね、と。
そうしてやってきた最後は、想像よりずっと昏く、恐ろしく、寂しくて。
けれども、彼がそばにいてくれるから、だから。
――――……あったかい、な。
少女は小さく微笑んだ。
身体は氷のように冷たい。寒くて寒くて凍えてしまいそうなほどの暗闇のなかで、手のひらだけが熱に包まれたかのように温かかった。緑の雨に揺られているかのような穏やかさが心を満たしている。
「どうして笑ってるんだ?」
壊れてしまうのを怖れているような柔らかな声が、戸惑いの音調を持って暗闇のなかに響いた。
どうして、何て。
戸惑いと共に含まれた哀しみを感じとった少女は、少しでもそれを軽くしてあげたくて、優しく囁いた。
「春みたいだなって思ったから、だよ」
「……は、る?」
「そう。まるで蜂蜜色の日だまりの真ん中にいるみたいに」
見なくてもわかってしまう。彼の表情はひどく苦しそうに歪んでいることくらい。その顔を見る度、胸が痛んだことを思い出す。
「だけど……っ」
哀しみに押しつぶされそうなほど痛々しい声音でそう言いながら、彼は少女の手を離そうとする。
途端に温もりが霧散していくのを感じ、少女はほとんど残っていない力で彼の手を握りしめた。
「やめてっ。離さないで」
「だけどこれはっ、きみの――――命なのに!」
……本当に、もう。
彼はやさしすぎる。だから彼にこんなことを頼むのは、本当にひどいことだとわかっている。でも、それでもと、願わずにはいられない。
「約束、したでしょう?」
「……それ、は……」
「……ひどいことして、ごめんなさい。でも、ね」
少女は反対の冷たい手をゆるゆると伸ばして、彼の頬にそっとふれた。
「どうしても、あなたがよかったの。あなたに、あなただけに、あげたいと思ったの。他の誰にも、渡したくなった」
……神さま。そこにいるならどうか教えてください。
わたしは、うまく笑えていますか?
わたしは、彼の苦しみを、哀しみを、軽くすることができましたか?
ここは暗くて、月を守る夜のような瞳も、光を隠してくれる漆黒の髪も、もう見えないのです。
「だから、そんな顔しないで」
僅かに残っている力を振り絞り、腕をさらに伸ばして彼を抱きしめると、彼はびくりと身体を震わせた。
「だめだ、そんなことをしたら……!」
手のひらだけだった温かさがゆっくりと腕から広がっていく。少女の温もり、つまり命が先より速く広く流れ出ているからだ。
彼が切羽詰まった声を上げて離れようとするのを感じ、少女は霞みかけた声で必死にすがりついた。
「ずっと、ずっと、こうしたかったの……。これが最初で最後だから、お願い、だから」
けれど、少女にはもう彼を抱きしめる力もなくて、彼が離れていく。戻ってきた寒さが、お前は一人ぼっちなのだと嘲笑い、少女の心を蝕む。
「いや……っ」
ぽた、と涙が落ち――――
「……わかった」
ふわりとした温かさが少女を掬い上げた。
「ぁ……?」
声にならない声が血の気の失せた唇から零れ落ちた。
「だから、泣かないでくれ」
耳元で囁かれた声が、甘い光のような熱が、彼がすぐそばにいるのだとわからせる。いつからかの望み、彼の温かさを帯びつつある体温を感じる。
抱きしめられて、いるから。
柔らかな感触が額に、頬に、目元に、いつか樹々の隙間から見えていた陽の光のように降り注ぐ。こめられた慈しみと愛しさ、そして哀しみが少女を闇の奥へと導いていく。
「……嫌、だった?」
「え……?」
「だって……泣いてる」
知らず知らずのうち、少女の頬を涙が伝っていたらしい。彼の声が気遣いの色を帯びる。
嫌?
違う違う違う。これは嫌とか、哀しいとか、そういう感情じゃなくて。
「うれしい……から、だよ……」
「よかった……」
安堵の言葉の後、唇に熱がそっと灯った。
彼はこれを少女の命と言ったけれど、少女はそうは思わない。これはきっと彼の優しさの温度だ。だからこんなにも穏やかで幸せな気持ちに満たされている。
「……ね、きいて、も……い?」
「何を?」
「……な、まえ……き、たい……」
もう声さえもきちんと出せない。それでも彼には伝わったようだ。これがきっと最後の音だろう。
「――――」
……ああ、これさえあれば、わたしは死んでいける。
これがきっと、わたしが生きて、あなたと出逢った意味だから。
少女は微笑み、彼のもたらす闇に沈んだ。