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初めて通された部屋はどことなく埃っぽさが残っている。
きっと随分長い間使われていなかったのだろう。
さして広くない部屋の中には円卓があり、窓のないこの部屋を明るく保つ為に、あちらこちらに蝋燭が置いてある。円卓の上にも。
昼間なのに薄暗い部屋の中は、どことなく子供の頃に森にみんなで作った秘密基地のようなワクワク感と、お仕置きの為に閉じ込められた納戸の閉塞感が混在している。
部屋の最奥の席に座ると、左にシレル右手老神官が座り、他の神官たちもいくつかの空席を残しつつも左右の席につく。
「ここは何の部屋なんですか」
右の老神官に話しかけると、老神官が首だけを巡らせてこちらを向く。
「わしらは円卓の間と呼んどりますが、本来何の為に作られた部屋かは知りませんなあ」
「神殿の改築をする際に巫女様の執務室を作ろうと計画した事があるそうですから、もしかしたらその時に作られたのかもしれませんね。こちらは新しく作られた棟になりますし」
のっぽの神官が老神官の言を補足する。
その説明どおりだったとしても、何で窓をつけなかったんだろう。
この神殿の中には、多分常識では計れない様々な仕掛けが施されているので、これもその一環なのかもしれない。
「巫女様がご自身のお部屋ではないところをご希望とのことでしたので、こちらに致しました」
体格の良い神官が話し終えると目礼をする。
最初、老神官は私の部屋で話をするつもりだったけれど、私の部屋は広くないので、全員が椅子に座って話をする事ができない。
神官たちは立ったままでもいいのかもしれないけれど、話が長くなるかもしれないから、ずっと立って話を聞いたり発言したりするのは疲れるんじゃないかと心配だった。
だから全員が座って話を出来るところを選んでくださいってお願いしたんだけれど、まさかこんな部屋に通されるとは思わなかった。
この薄暗さは、もう一つの奥殿の雰囲気に似ている気がする。
「さて」
「あの、本題に入る前に一つだけいいですか」
老神官の言葉を遮って、ずっと引っかかっていた事を切り出す。
「皆さんのお名前を教えて下さい。なんとお呼びしたら良いのでしょうか」
記録係の神官も、体格の良い神官も、背が低めで声の高い神官も、シレルも、老神官も、それから他の二人。髭の濃い神官と、隻眼の神官。
個別に話しかけたい時に、何て呼びかけたらいいかわからなくて困る。
「おやおや、巫女様は教本を読まれたのではなかったかのう」
老神官がチクリと嫌味を言う。
「現世での名は神官になったときに捨てたというのはわかっています。しかし皆さんの中の誰か一人に話しかけたい時に不便が生じます」
うーんと眉間に皺を寄せて、老神官が腕組みをして考え込む。
ぶつぶつと口の中で何やら呟きながら、神官たちに目を向ける。
「それぞれ通り名を」
老神官が神官たちに告げると、体格の良い神官が老神官に聞き返す。
「よろしいのですか」
「仕方なかろう。不本意じゃが、巫女様のおっしゃる事にも一理ある」
「少々ふざけた名もありますが」
「かまわぬ」
暫くの沈黙が流れ、神官たちはお互いに目配せをしている。
その様子を老神官は何も言わずに見守っている。
「では」
再び体格の良い神官が口を開く。
「自分の事は傭兵とお呼びください」
「傭兵?」
「普段はこの神殿の警固や守備に纏わる仕事をしています」
だから、傭兵なのかな。
次に口を開いたのは髭面の神官。
「熊です。見た目がこんななんで。式典を主とした祭事に関わる仕事をしています」
笑っちゃいけないけれど、ぴったりだわ。
その次に口を開いたのは、背が低く声の高い神官。
「助手です。神殿の医師長の下で働いているんで、こんな名で呼ばれています」
ということは、彼もまた医者の一人ってことかしら。今まで会った事は無かったけれど。
しばらくの間をおいて、隻眼の神官がボソボソと話し出す。
「片目。見たとおりです。情報収集の仕事をしています」
すぐに目を伏せて、片目はこちらを見ようともしないで俯いてしまう。
「執事。もしくは鉄仮面と呼ばれております。巫女様の呼びやすいよう、お呼びください」
横でシレルが生真面目な表情で告げる。
なるほど鉄仮面。言いえて妙だわ。
一番遠くに座っていたのっぽの神官がペンを動かす手を止めて顔を上げる。
「カカシです。書庫の整理と記録係をしています」
ひょろっとのっぽだからカカシなのかな。
見た目とか仕事内容で、通り名が付けられているって事ね。
やっぱり現世の名前を捨てたとはいえ、大勢の神官が働く神殿の中で、通り名がないとやっぱり不便だものね。
「わしは長老と呼ばれておる。じゃがもし良ければ、おじいちゃんと呼んで下され」
「長老」
「長老」
満面の笑みの老神官に、神官たちがほぼ同時に突っ込みをいれ、傭兵が言葉を続ける。
「それはいかがなものかと」
「ダメかのう。わしも一度はおじいちゃんと呼ばれてみたかったんじゃが」
「不可。却下です」
助手が傭兵の後押しをする。
「なんじゃ、みんなして。ちょっと言ってみただけじゃろ」
「あわよくば、おじいちゃんと呼んでもらおうと画策していたくせに、誤魔化さないで下さい」
傭兵があからさまな溜息をつくのを見て、老神官が肩をすくめる。
「皆、頭が固いのう。まあ良い。わしの事は長老と呼んで下され」
頷き返すと、長老が真顔に戻る。
「この通り名で呼ぶのは、この部屋もしくは巫女様のお部屋の中だけに限らせて下され。色々厄介事も有りますゆえのう」
「わかりました」
厄介事がどんな事かはわからないけれど、今まで私が耳にする機会も無かった通り名の事だし、本来は巫女には教えるべきではないとかっていう規則があるのかもしれない。
「では、本題に入らせていただいて宜しいかの」
「お願いします」
その言葉を合図に、長老が片目に目配せをする。
片目は相変わらず顔を上げようとはせず、手許の書類に目を落としたまま話し出す。
「では、国内の情勢を報告いたします」
ボソボソと聞き取りにくい声で、片目は先日祭宮が濁して答えなかった部分に言及する。
初秋の頃です。丁度巫女様がお倒れになる前でした。
王都でも甚大な被害があった、大地の鳴動がありました。
死者は数千とも数万とも言われておりますが、正確な数は王宮でも把握していないようです。
その一月後になりますが、北の峰の山の一つから白い雲のような煙のようなものが立ち上り空は暗雲に覆われ、雨の代わりに小石や灰が空から降りました。
北の峰から数百キロ離れた王都でも降灰があり、昼でも夕刻のように薄暗かったようです。
峰に近いところでは、山が火を噴き、火炎とともに大量の岩が山から流れ灰が降ってきたとのことです。
いくつもの村が家屋が倒壊または焼失し、壊滅状態になってしまったようです。
そのような状況の中、南西岸では他国からの侵略を受けて、商業や漁業に壊滅的なダメージが出ています。
死者も数百から数千。
放棄された街もいくつかあるようです。
国軍の多くは、戦の為に海上の戦場および他国の沿岸地域に配されており、自国の防御は手薄になっています。
当然、被災者への援助などは見込めない状況です。
更に天候不順、天変地異、戦乱による凶作。
飢えや疫病が蔓延するのも時間の問題かと思われます。
それを聞いても全く想像がつかない。まるで地獄のような光景で、片目の淡々とした説明を聞き終えた後でも現実感がない。
死者が数百とか数千とか数万とか。
まるで記号のように言うけれど、それだけ沢山の命がこの数ヶ月間で失われてしまったということ。
山が火を噴くとか、空が暗雲に覆われるとか、大地が震えるとか。そんな事は生まれてから一度だって経験したことがない。
そんな昔話だって聞いた事がないよ。
本当にこの国で今起きていることなの。
何でこんな事になってしまったの。どうしてそんな酷い事が起きているの。
「世界が朱に染まる時、ある者は歓喜の、ある者は悲しみの涙を浮かべるだろう」
ご神託の一説を熊が口にする。
「朱に大河が染まるとき、大地は沈黙し、眠りへといざなわれるだろう」
熊の言葉の続きを口に出してみて、気が付いたことがある。
「もしかして、水竜は」
はっとして長老の方を見ると、長老は頷き返す。
「全て、水竜様はご存知だったのでしょうな。このような日が来る事を」
沢山の人の命が、魂が、戦乱や天変地異によって死という永遠の眠りへといざなわれていった。
ふいに、レツの言葉を思い出す。
「こんな残酷な未来が来なければいいのにと願っていたのに。見たかったんだ。人の世の行く末を。人がどうやって世界を治めるのかを」
ざわっと空気が動く。
「それは、ご神託?」
長老が驚いたような表情で聞き返す。
「いえ、ご神託ではありません。奥殿で水竜がそのように言っていたのを思い出しただけです」
あの時、レツはどんな顔をしていたのだろう。
今では記憶はぼやけてしまって、レツの言ったことを覚えているだけ。
それも今ふいに思い出しただけで、聞いた時にはそのことを深く考えるだけの余裕も無かったような気がする。
そうだ。よくよく考えてみれば、レツはこんな日が来る事を予測していたと言っていた。
残酷な未来が来なければいいのにって。
引き金をひいたのは国王。
全ての災いは、戦を始めたときから始まったのだから。
「しかし、ご神託は矛盾をはらんでいます」
熊の言葉で現実に引きずり戻される。
今はあの国王の事を考えている場合じゃない。
ご神託に矛盾なんて存在しないわ。
なんだかレツのことをバカにされたような、自分を信じてもらえていないような嫌な気持ちになる。
「矛盾とはなんですか」
「ご神託には、大地が沈黙するとあります。しかし、大地は活発すぎるほど動き、地は揺れ山は火を噴きました」
あ。
そうだわ。言われて見れば、確かに矛盾している。
沈黙するならば、天変地異は起こらないはずよね。
何でそんな矛盾が存在するの。
コホンと、横で長老が咳払いをする。
長老の目が、真っ直ぐに私を見ている。とてもとても複雑な表情で、眉に皺を寄せつつも口元に笑みを作って。
「で、わしらは考えたんじゃが」
言いにくそうに言いよどみ、長老が目を逸らして溜息をつく。
何を考えたというのだろう。
瞳を巡らせ神官たちを見ると、皆一様に俯いてしまう。シレルを除いて。
シレルはいつもと変わらない様子で背筋を伸ばし、カカシの方へ目を向ける。
「結論の前に、まずここに至った過程をご説明すべきでは」
手許の書類から決して目を離そうとしなかったカカシがペンを置き、こちらを向く。
「以前、お話しましたね。水竜は血に酔うと」
「はい」
「朱とは何かというのを我々は考えました。主に私の仕事は過去の事例と照らし合わせる事ですが」
名実ともに記録係なのだから、それはきっと容易いことだったのかもしれない。
しかし朱とは何なのか。
ご神託を何度も口に出していたのに、その意味を心底解明したいと実のところあまり思っていなかった。
もっとも、自分の事で手一杯だったというのもあるのだけれど。
ご神託を聴いて祭宮に伝えてしまえば、それは自分の手を離れたものという意識があったからかもしれない。
一呼吸置いてから、カカシが説明を始める。
「朱とは戦火。山から噴き出した炎。大地に大量に流れた血」
火。炎。血。その全てが朱色だわ、確かに。
「大河にも多量の血が流れ込んだ事でしょう。結果、大河の化身たる水竜様は血に酔ったのではないかと考えました」
「過去にそういうことがあったのですか」
「いえ、ありません」
きっぱりとカカシが言い切ると、熊が顔を上げて口を開く。
「血は穢れがあるとし、神殿、特に祭事では禁忌とされています。元来の荒ぶる神である水竜様の本性を呼び起こすものとして」
話の相槌を打つと、熊は頷き返して話を続ける。
「奥殿に降り注ぐ血と、血の中で眠る水竜様というのは、先ほどカカシが申し上げましたように、血に酔った状態であると考えました。そして、巫女様の頬に傷を付けたものこそ、荒ぶる神であらせられた水竜様のお姿に他ならないと我々は考えました」
言われ、頬の傷に指先で触れる。
もう痛みはあまりないけれど、くっきりと残る傷跡がぷっくりと膨れ上がっている。
巨大な黒い影。光る爪。
あれは本当のレツで、血に酔った状態だったと考えるべきということよね。
「巫女様は酔うとどうなりますか」
唐突な質問に面食らうものの、熊や他の神官たちの顔は真剣そのもので、茶化したり冗談を言えるような雰囲気ではない。
「陽気になって、沢山飲むと多少気分が悪くなったり、眠くなったりします」
「そうですか。水竜様も全く同じ状態で、血に酔って眠くなられたのではないかと思います」
ドキっと心臓が音を立てる。
全身の血の気がさあっと引いていく。
何でだろう。別に今、何か嫌な事を言われたりしたわけじゃないのに。
どこかスイッチが入ったように、バクバクと鼓動がうるさいくらい音を立て始める。
一気に部屋の中の空気が薄くなったような気がして、息をするのが苦しい。
「大丈夫ですよ。何も心配しなくて平気です。落ち着いて」
助手がやわらかい口調で諭すように言う。
心配?
私は一体何を心配しているというの。レツが眠ってしまったということ?
わからない。
どんどん深みにはまっていって、形の見えない何かに押しつぶされそうな不安感でいっぱいになる。
「巫女様。何があってもわしらは決して巫女様を裏切りませぬ。どうか信じてくだされ」
長老の手が、知らないうちに震えだした私の手を握る。
あたたかい節ばった大きな手からは、優しさが伝わってくる。
「結論を申し上げましょう」
その熊の声が、さながら死刑宣告のように頭の中に響き渡る。
「水竜様は眠りにつかれた。ですから巫女様。今、貴方様には水竜様の声が聴こえないのではありませんか」
やっぱり、バレていたんだ。
レツの声が聴こえない事。
言葉を失い、溜息をつくしか出来ない。
いっそ、気を失えたら楽だったのかもしれない。