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「大勢この部屋にいると、圧迫感がありますね」
他愛もない世間話をしていると、ウィズが苦笑交じりに話し出す。
何て答えようか考えて、神官長様に視線を向けると、相変わらず不機嫌そうな顔で眉間に皺を寄せている。
「あまり広い部屋ではありませんものね」
ウィズの言葉を否定せず、ゆっくりと部屋の中の神官たちを見回す。
「みんな、巫女のことが心配なのですから、あまりお気を悪くなさらないでくださいませ」
その言葉に神官たちは深々と頭を下げる。
「巫女様はこの神殿に無くてはならない方ですしね」
言い切ると、ウィズがカップに手を伸ばす。
しばらくの沈黙があり、何かを思い出したかのように、またウィズが口を開く。
「心配といえば、こちらまで戦禍が及ぶ事は今のところありませんが、神殿の方々もくれぐれもお気をつけ下さい」
「そんなに、状況は宜しくないの」
「そうですね」
神妙な面持ちで、ウィズが神官長様の言葉を肯定する。
神殿の中にいて、木々と雪に阻まれて生活していると、一体外がどのような状況なのかわからない。
私にとっては、今年の冬も去年の冬も大差ない。
レツの声が聴こえない以外は。
外は一体どんな状態なんだろう。
私の家は、ママは、大丈夫なんだろうか。
湧き出す不安に胸が苦しい。
定期的に届く手紙には、戦争の事なんて書かれていなかったから、きっと大丈夫だと信じたいけれど。
「現在は海岸沿いの村や街に被害が出ています。海からの物資が滞るようになって、やはり国中で様々な影響が出ています。また天変地異も繰り返し起こっていますし」
天変地異って一体。
「地が震え、山が火を噴いたと聞き及んでおりますわ。収穫の時期に重なりましたし、食料が不足しているのではなくて」
山が火を噴く?
そんなの、想像もつかない。山火事とかって類のものじゃないのよね。
山火事だって、子供の頃に一度見たきりだけれど、火が消えるまですごく怖くて夜も眠れないくらいだったのに。
一体、この国はどうなっちゃってるの。
「ここ数年備蓄を増やしていましたから、飢えるという状況にはなっていませんが、色々厳しいですね」
ふうっと溜息をつくと、ウィズが奥殿を見る。
「水竜様のお力をお借りしたいものです」
ドキン。
心臓が跳ねる。
レツの言葉を求められている。
どうしよう。どうしよう。
膝の上に置いた手が震え、血の気が引いていく。
レツ。レツ。
お願い、答えて。私の声、聴こえているんでしょう。
ねえ、何とか言ってよ。私を助けてよ。
お願い。レツの声を聴きたいの。
「巫女?」
ふわっと衣が目の前を横切り、神官長様の細い指が動く。
白魚のような手って、きっと神官長様の手の事を言うんだわ。
真っ白な頭の中に、ふいにそんなことがよぎる。
「失礼」
視界が神官長様の体で遮られ、すっとベールが一瞬だけ持ち上げられる。
神官長様が立ち上がるのを目で追うと、ふらっと頭が揺れる。
貧血?
動悸がして、息が苦しい。
吸っても吸っても、どんどん呼吸が苦しくなってくる。
視界もゆっくりとぼやけていく。
「巫女をお部屋に」
バタバタと神官たちの足音が近付いてくる。
「巫女様、こちらへどうぞ」
差し出されたシレルの手を取り立ち上がろうとした瞬間、世界がぐるっと回った。
薄れていく意識の中、途切れ途切れに人の声を聞いた気がする。
「また」
「早く」
「水竜様のお怒り」
「巫女様を」
長い間眠っていたような気もするし、短い時間だったような気もする。
外の天気は相変わらずの雪景色で、どのくらいの時間が経ったのか、さっぱりわからない。
ゆっくりと視界を巡らすと、見慣れた天井で自分の部屋にいることはわかる。
人の気配のするほうへ目を巡らせると、ベッドサイドの椅子に神官長様が腰掛けている。
見間違いじゃ、ないよね。
「神官長様?」
「気が付きましたのね。良かったわ」
口元を上げて、笑みのようなものを浮かべてるけれど、その目は笑っていない。
神官長様のあまりに厳しい視線に、目を逸らしたくなる。
「起きたばかりなのに、ごめんなさいね。過呼吸を起こしたのではないかと診断されましたわ」
過呼吸?
「そうですか」
そう言われても、ぼーっとした頭ではあまりピンとこず、何を言われているのかもよくわからない。
「一つだけ、確認させてくださるかしら」
「はい」
何のことかわからず、頷き返す。
「祭宮殿下と何があったのか教えていただけるかしら」
「祭宮?」
一体何のことを言っているんだろう。神官長様の言わんとすることがわからない。
祭宮、ウィズが何かしたの? なんだろう。
「わたくし、信じていましたのよ。いくら何でも、殿下が毒を盛ったりするような事はないと。ですから要求も飲みましたけれど、かえって貴方には辛い思いをさせてしまいましたわね」
「毒……ですか?」
「ええ。今回と前回と、一体何をされましたの? 祭宮殿下に」
少し興奮気味な声に気圧される。
身を乗り出し、掴みかからんとするかのような勢いに圧倒され、口篭ってしまう。
「何かされたのね? わたくしが長をしている神殿で何て事を。もう許せませんわ」
怒りに口角を震わせる神官長様に、何もされていないと伝えなきゃ。
でも、どうやって。
どこまで説明したらいいんだろう。
視線を神官長様からずらすと、いつもの神官たちと神官長様付の神官がこちらの様子を伺っている。
老神官と目が合うと、老神官は頷き返す代わりに一回瞬きをする。
どんな意味を籠めてそうしたのかはわからないけれど、後押しをしてもらったような気がする。
わなわなと怒りに打ち震える神官長様に、ゆっくりと話し出す。
「祭宮様は、今回もこの前も、何もしていません。毒を盛られたりしていません」
「巫女?」
不思議そうに、神官長様が首を傾げる。
「何も庇う事は無くってよ。ありのままに教えて下さるかしら」
久しぶりにベール越しでなく、こんな近い距離で見る神官長様は本当に綺麗。
上品でたおやかで、咲き誇る花のよう。
たとえ、怒りで頬が紅潮していても、それさえも美しさを引き立たせているように見える。
「本当に。何も。上手くはいえないですけれど、この間は私の体が限界で、今回は急に息苦しくなって」
同性なんだけれど、あまりの美しさにどぎまぎしてしまって、上手く口が回らない。
「ですから、毒か何かを飲まされたのでしょう。祭宮殿下から何か飲み物や食べ物を勧められたりしたのではなくて」
「いえ」
何て言えばいいんだろう。
全部話せばいいんだけれど、そうしたらレツの声が聴こえない事も話さなきゃいけなくなる。
そうしたら、私はもうここにはいられなくなっちゃう。
「本当に、祭宮様は何もしていません。それは本当です」
ウィズが何かしたわけじゃないことだけは、ちゃんと伝えなきゃ。
誤解されたままだと、私のせいみたいで嫌だし。
神殿と王家側との亀裂を、こんな誤解で深めてしまうわけにはいかない。
しばらく間をおいてから、神官長様が溜息を就く。
「わかりましたわ。何日かゆっくり休養なさい。まだ体調が万全でないのでしょうから」
「でもっ」
何もしていないと、本当に私、巫女じゃなくなっちゃう。
「気に病む事はないわ。先日も礼拝で倒れたばかりでしょう。数日、巫女としての執務から離れ、ゆっくりするといいわ」
私、最近倒れてばっかりだ。
レツの言ったとおり、前みたいには戻れないからなのかな。
また礼拝の最中に倒れたりしても、神官たちにも迷惑をかけてしまう。
今は、神官長様のお言葉に従うしかない。
「はい」
「何か困った事があれば、いつでも言って頂戴ね。出来うる限りのことが致しますわ」
「はい」
いつもより少し優しいトーンの言葉が心に染み渡る。
もしかしたら、本当に心配してくれているのかもしれない。
「体の辛い時にごめんなさいね。では失礼するわ」
神官長様が、神官長様付の神官を従えて部屋を出ると、老神官がゆっくりと歩み寄る。
「お加減、いかがですかな」
にっこりと微笑む老神官に笑みを返す。
「今は、大丈夫です」
うんうんと頷くと、老神官は女官たちに手招きをする。
「ご無理は禁物ですぞ。今日はわしらは下がりますゆえ、ゆっくりとお休み下され。まだ青い顔をされておる。爺は心配でなりませんからの」
女官たちにあれこれと指示を出し、老神官がベッドサイドから遠ざかる。
部屋を出ようとしたその時、老神官が振り返る。
「今日は本も厳禁ですぞ。ゆっくり寝てくだされ。では失礼致します」
神官たちを見送り、化粧や飾りを取る女官たちに身を任せている間に、また睡魔が襲ってくる。
過呼吸なんて、何でなったんだろう。
思い当たる理由がない。
ぼんやりとした意識の中で、ずっとレツの名と過呼吸という言葉を反芻していた。
数日後、睡眠時間が短くなって体力も大分回復してくると、やることが無くて手持ち無沙汰になり、枕元の本に手を伸ばす。
教本はあらかた読んでしまって、今は神殿の儀式について書かれた本を読んでいる。
儀式の中の祝詞一つ取ってみても、全てに意味があって、無駄な事なんて一つもないということがよくわかる。
本当に一つ一つの言葉を大切にしなきゃいけないんだって思えてくる。
本来、寝転んで読むような本じゃないけれど、その事を咎める人は誰一人としていない。
コンコンと扉が叩かれ、返事をする間もなく扉が開かれる。
「あー。横になっていて下され。無理をなさいますな」
老神官が片手を挙げて、起き上がろうとしたのを制止する。
でもやっぱり具合が大分良くなっているし、横になったまま話をするのは気が引ける。
ゆっくりと体を起こすと、老神官がいつものように笑みを浮かべたまま、ベッドの横の椅子に腰掛ける。
面倒な遣り取りは、最近は省略することにしようと老神官と決めたので、畏まった挨拶はしないで本題に入る。
「お体の具合はいかがですかな」
「もう、大丈夫です」
「巫女様の大丈夫はあてになりませんからのう。あと五日は寝ていただくことに致しましょう」
「五日も? そんなに寝ていなくても、もう平気です」
「では三日にしておきますかの」
どっちにしろ、もう少し安静にしてろってことね。
今無理をしたって、何が変わるわけじゃないもの。雪が深くて、奥殿にはどうせ行けないのだし。
「さて、巫女様。爺にこっそり教えてくださらんかの。祭宮様と何があったのかを」
こっそりも何も、いつもどおり壁際には神官たちが控えているし、部屋の中では女官たちがあれこれと働いているじゃない。
なんだかユーモアたっぷりな言い方と表情に思わず口元が緩む。
「こっそりお話できる事は、特にないですよ」
「そうですか、残念じゃのう。では、四日後。巫女様にお話がございます。少しだけお時間をいただけますかな」
「はい」
何で四日後なんだろう。今じゃだめなんだろうか。
三日間寝て、その次の日に改めて話をするっていうことよね。なんだろう。改まって話をするようなこと、何かあったかしら。
「だから爺に、この間何があったのか教えて下さらんかのう」
何が、だからなんだろう。
この間っていうのは、ウィズが来た日のことでしょう。それと何か繋がりがあるんだろうか。
でも別に隠しているような事実もないし、敢えて話をするようなこともないのに。
「本当に、何もありません。神官長様が疑われていたような毒を盛られたというような事は何も」
ウィズは何もしていない。問題は私の中にある。
レツの声を聴きたいと強く願っただけなのに。
レツの声を聴かなきゃって思ったのに。
そう思ったら、急に胸が苦しくなって息ができなくなって。
レツの声を聴きたいと願う事すら拒絶されているのかな。それすらも望んではいけないの?
もしかして、私、神殿にいてはいけないんだろうか。
レツ。どうなの。答えてよ。
そんな事ないよって言って欲しい、あの声は聴こえない。
もうやっぱり、全部諦めてこの神殿を出るべきなのかな。
「では、何を憂いておいでなのじゃ、巫女様」
その言葉に顔を上げると、老神官は優しい顔をしている。
「そのお悩みを、わしには話して下さらんか」
話して、いいんだろうか。
レツの声が聴こえなくなってしまった事。
でもそれを言ったら、ここを出て行けって言われないかしら。
私はレツと一緒にいたい。ここにいたいのに。
だけれど話したら楽になるかもしれない。もしかしたら一緒に打開策を考えてくれるかもしれない。ほんの僅かな可能性にしか過ぎないけれど。
そんな可能性になんて賭けられない。
私が巫女だから優しくしてくれているだけなんだから、水竜の声が聴こえないという事を伝えたら、きっとこんな風には接してもられないかもしれない。
言えないよ。
縋ってでも、みんなを騙してでも、ここにいたいんだもの。
レツの声がもう一度聴こえるまで。
レツに「もういらない」って言われたら、それはすごくショックだけれど納得できる。
なのに、声が聴こえなくなったからおしまいなんて、納得できないもの。
私はまだ、レツに何も言われていない。
レツからの「おしまいの言葉」は言われていない。
布団の裾を握る手に力が入り、皺が徐々に広がっていく。
それはまるで、心の中の不安のようにどんどん波のように浸食していく。
レツのそばにいたい。
レツの声をもう一度聴きたい。
どうしてこんな事になっているのか、わからない。
神官たちの手を借りたら、もしかしたら解決の糸口は見えてくるのかもしれない。
もうこれ以上、黙っていて聴こえるフリをして騙しているのも辛い。
でも一言言ってしまえば、この神殿から追い出されるかもしれない。水竜の声が聴こえないなら、巫女とは言えないのだもの。
どうしたらいいんだろう。
ただここにいるだけじゃ、きっと解決なんて出来やしない。それはわかっている。
だからといって、真実を言ったら受け入れてもらえるの。
本当に見捨てられないって信じていいの。
全てを話してしまいたいのに、胸につかえがあって言葉が出てこない。
そのつかえが、話しちゃダメなんだって言っている気がする。
話してしまいたい。
話したらダメだ。
助けて欲しい。
ここから追い出されたくない。
だんだん呼吸が荒くなっていく。
部屋の中に、自分の息を吸う音だけが響いている。
息が、苦しい。
「長老。失礼致します」
背の低い神官がベッドサイドに歩み寄ってくる。
「巫女様。落ち着いて」
レツのような少し高い声がして神官のほうを見やると、にっこりと微笑み返される。
「大丈夫です。ゆっくり、ゆーっくり深呼吸してみましょう」
こくんと頷くと、神官は失礼しますと言って右手首をそっと掴んでくる。
「はい。大きく吐いて下さい。吐いてー。吸ってー。吐いてー」
何度か繰り返していくと、少し息苦しさが遠のいていく。
神官の言葉に合わせて吸ったり吐いたりしているうちに、焦りや不安も姿を潜めていく。
血の気の引いたようなひんやりと冷たい感覚や、指先の痺れも今は感じない。
その後もゆっくりと深呼吸を幾度か繰り返した後、神官の差し出した水を一口飲み込む。
グラスを神官に返すと、神官はもう一度微笑む。
「もう大丈夫ですよ。長老」
老神官に声をかけ、握っていた右手をすっと離すと、膝を折っていた神官が立ち上がる。
「ありがとうございます」
「何がです? 自分はこの為に貴女様のお傍にいるのです。先日は対処が遅くなって、御身にご負担をかけてしまいましたね。申し訳ございませんでした」
さらっと言うと頭を下げ、いつものように壁際に戻っていく。
「もし、わしらが力になれることがあれば、何なりとお申し付け下さい。では失礼いたしまする」
パタンと扉の閉まるをの見て、体を起こし奥殿が見える窓の前に立つ。
しんしんと降り積もる雪。深い木立ち。
この向こうにレツがいる。
今一番会いたい人。
こんなにもレツに会えないことが、話せない事が辛いことだったなんて知らなかった。
たった一言でいいの。私を呼ぶ、あの甘ったるい少年の声が聴きたい。
曇る窓を掌でこすると、水滴が指を伝う。
水を司るもの、水竜。
この一滴の水さえも、レツに繋がっているのかしら。
繋がっているのならレツに伝えて。もう一度会いたいって。
「お体に障ります」
シレルが暖めてある上着を肩からかけてくれる。
振り返ると、いつもどおりの無表情で小さく頭を下げる。
「御用がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
「ありがとうございます」
人の気配が遠ざかるのを確かめてから、そっと溜息をつく。
当たり前のように傅かれ、それに慣れきっている。
本当にこれでいいのかしら。
みんなに嘘をついているのに、大切にしてもらっている。
これで、本当にいいの?
これが私の望んでいることなの?
そうじゃない。別に崇め奉って欲しいわけじゃない。
誤魔化して、黙っていて、嘘をついて。
こんな事じゃいけないってわかっているのに。それでもここにしがみ付いていたい、傲慢な人間なのかもしれない。私。