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書庫で借りた「教本」と記録係の神官の話から、レツのことが少しずつ見えてきた気がする。
私が知っていたレツは、何て言うのが適当なのかわからないけれど、人間臭いというか、子供っぽいというか、神様っぽくなかった。
冗談を言い、かくれんぼが好きで、ヘソを曲げたり、わがままを言ったり。
笑ったり怒ったり、表情がコロコロと変わる。
だから、レツがすごい存在なんだって事を意識する事が希薄だったと思う。
しかし知れば知るほど、レツとは人外の生き物であって、この国にあっては唯一の神ともいえる存在なのだと痛感する。
そのレツと人を繋ぐ架け橋である巫女。
子供なのに子供じゃない、人の姿をしているけれど人じゃない、巨大な竜の化身。水竜レツ。
私にしかその声は聴こえないし、その姿を視る事は出来ない。
それこそが巫女である証なのに。
鏡の向こうの、今まさに巫女として飾りたてられている自分が滑稽に見える。
巫女だけれど、巫女じゃないのに。
綺麗にお化粧を施され、髪を編みこまれ、宝石で飾られ。どこからどう見ても、立派な水竜の巫女。
だけれど、まるでハリボテの巫女だわ。
本当の意味では巫女ではないんだから。
でもそのことを誰かに言うなんて出来ない。
もしもレツの声が聴こえない事がバレたら、私はここから出て行かなきゃいけなくなる。
それはイヤだ。
私はもう一度レツの声を聴きたい。レツの傍にいたい。
ぐちぐちしていてもしょうがないんだけれど、水竜の声が聴こえない形だけの巫女だということを、あの人に見破られてしまいそうで怖い。
祭宮。カイ・ウィズラール。
あの人は本当の私を知っているから。ただの村娘でしかないサーシャを知っている。だから、気を抜いてはいけない。
「こちらはいかがいたしますか」
薄衣を手に持ち、女官が問いかける。
「お願いします」
「かしこまりました」
顔を隠す為のベールが視界を覆う。
少しでも、表情を隠しておかないと、ウィズには見破られてしまいそう。
今は、絶対にそれだけは避けなくちゃ。
「巫女様」
野太い声に振り返ると、筋肉質な体格の神官が跪いている。
「頭をあげてください」
こう言わないと、神官たちはずっと跪き、頭を垂れたまま話しだそうとしない。
そんなに畏まらなくてもいいのに。
そこまでする価値、私にはないのに。レツの声が聴こえないんだから。
自分を卑下したってしょうがないんだけれど、こういう時、早くなんとかしなきゃっていう焦りと、レツの声が聴こえないのに聴こえるフリをして騙していることに胸が痛む。
「神官長様の執務室に行かれる際、自分も同席させていただけないでしょうか」
部屋の中で他の作業をしていたシレルの手が止まる。
「祭宮様とお会いする際、同室を許されるのは、御付神官だけと聞いています。そういう規則ではないのですか」
視線を動かすと、跪いた神官の視線が同じように動き、シレルのところで止まる。
「巫女様のおっしゃるとおりです。本来巫女付きと我々は呼んでいますが、巫女様のお世話等をする御付神官のみが、同室を許されております」
「では、貴方に同室していただく訳には参りません」
昔から規則として決まっている事を、私が覆すわけにはいかない。きっと、そう決まっているのは何らかの理由があるはずなんだから。
「しかし、祭宮様が巫女様のお命を狙っている可能性がある以上、巫女様をお守りすべく、人員を増やしておいた方がよろしいかと思います。また、いつもより人が多いという事が、祭宮への圧力となりましょう」
ウィズ、すっかり疑われているんだ。
そうだよね。ウィズと会っている最中に倒れているんだし、実際神官たちの中では祭宮ではるウィズの謀略だったという説が大勢を占めているみたいだし。
仕方がないといえば、仕方が無い事だよね。
あの場所で何があったのか理解しているのは私とウィズとレツだけなんだもの。
同室する事で神官たちの疑いが晴れたり、何かあるんじゃないかと心配する事が無くなるのなら、悶々と待たせたり誤解を膨らませるよりは良いと思うのだけれど。
「私の一存では決めかねます。皆さんで協議して結論を出し、神官長様からお許しが出れば構わないと思います」
どうやらこの神官が一人で決めて提案してきたように思えるから、老神官やシレルたちと話して、規則上問題がないか話し合ってもらう必要が有ると思う。
その上で、規則に問題が無かったとしても、神官たちの頂点に立つ神官長様のお許しを得なくてはいけないと思う。
道理を通す上でも。
「では、長老と神官長様の同意が得られれば、同室をお許し頂けると」
長老というのは、あの老神官のことかしら。
「はい。私は同室していただいても構いません」
言い切ると、神官は深々と頭を下げてから立ち上がる。
彼の視線が真っ直ぐにシレルに注がれ、シレルが頷き返し二人が入れ替わる。
交替した神官は、静かに扉の向こうに姿を消す。
「既に祭宮様はお着きになられておられます。少しお待ち頂くよう連絡して参ります」
「そうですね。お願いします」
あまり待たせるのも失礼にあたるだろうから、素直に従う。
神官たちが部屋から出て、女官たちも一通りの仕度を終えて次々と部屋を後にすると、静寂が周りを広がっていく。
ウィズに会う。
その事を意識しただけで体中に緊張が走り、全身に冷たい気配が広がっていき、指先は血が凍りついたかのように温度が無くなっていく。
どうしてこんなに緊張するんだろう。
毎日、レツの声が聴こえない事を悟られないように細心の注意を払っている。ウィズと会うことは、それの延長上でしかないのに。
息が苦しい位の不安と、震えが湧き上がってくるほどの寒気がする。
この部屋から、一歩踏み出す事すら怖い。
目を閉じ、ゆっくり何度も深呼吸して、正体のわからない恐怖感と激しい鼓動を押し鎮める努力をする。
こんな時レツの声が聴こえたら、何も怖くないのに。
レツが全部笑い飛ばしてくれるのに。
レツ。どんな顔して、ウィズに会えばいいの。
扉をノックして入った私の後ろにぞろぞろと続く神官たちを見て、神官長様の顔から笑顔がすーっと消える。
それとは対照的にウィズの顔には、満面の笑みが広がっていく。
ソファから立ち上がり、ウィズがゆっくりと近付いてくる。
「お久しぶりです。祭宮様。御変わりはありませんでしたか」
ドキドキと高鳴る鼓動と、手のひらにじっとりとかいた汗に気取られないように、なるべく自然に挨拶する。
「わたしのことなんてどうでも良いです。あなたがお元気そうで良かった。巫女様」
本気でそう思っているのかな。ウィズの顔には安堵の表情が広がっていく。
本当に心配してくれてたんだ。良かった。
命を取ろうと思ってやったことじゃないってレツが説明してくれたけれど、それでもこうやって神殿中がウィズが犯人だと思う空気があったから、もしかしたらっていう気持ちは消し去る事は出来ないでいた。
このことは考えたくなかったから、なるべく心の片隅に追いやっていたけれど、今こうして目の前にいるウィズを見るまで、疑いの気持ちを捨て去る事が出来なかった。
だから、怖かったのかな。
「本当に、どこもお辛いところは無いのですね。神官長様からお話は伺いましたが、にわかには信じられません」
「はい。大丈夫です」
「あなたが無事で本当に良かった。あなたをこの腕に抱きしめたいくらいです」
「え……?」
笑顔で語るウィズに絶句する。
抱きしめたいって一体何を。誰を。
「祭宮様」
冷ややかな神官長様の声に、はっと我に返る。
「お喜びを表現なさるのは結構ですけれど、その位になさったらいかが」
溜息交じりの言葉にウィズが苦笑し、神官長様のほうへ首を回す。
「その位、嬉しかったんですよ。冗談に決まっているじゃないですか。巫女様に触れるなんて、そんな畏れ多い事、わたしには出来ません。そんなにお怒りにならなくても」
ウィズはまだ行く手を遮るように目の前から動こうともしないので、二人のやりとりを眺めている。
こういう時は口を挟む余地がない。何て言ったらいいかわからないせいもあるけれど。
バクバクとすごい音を立てていりう胸元を押さえ、二人の様子を伺う。
「冗談なら余計に悪いですわ。貴方の目の前にいるのが水竜様がお選びになられた水竜の巫女という事実をお忘れにならないで。王宮で姫君たちと相手にしているのとは違いますわよ」
「そのようなつもりではありませんが、ご不快にさせてしまったのでしたら申し訳ありません」
見上げた横顔は、申し訳ないなんてこれっぽっちも思っていないような清々しいほどの笑顔で、それが余計に神官長様の怒りに火を注いだみたい。
多分、私が相手でもムカっとするだろうな。謝っておきながら、こんな笑顔されたら。
「全く心にも思っていないことを言われるほうが、よっぽど不快ですわ。祭宮として、水竜の神殿の巫女に対する態度をもう一度考え直されてはいかがかしら」
「今日だけですよ。どうかお許し下さい」
言葉の殊勝さとは裏腹な笑顔で神官長様の言葉を遮る。
「ご無理はきかないと伺っております。立ったままではお体に障るでしょうから、どうぞお掛け下さい」
体を横にずらし、その手をすっとソファの方へと伸ばす。
ウィズの言葉に促され、ソファの方へと歩みを進める。
「本気だよ」
横を通り過ぎる時、消え去りそうな位の小声が耳を揺らす。
息が止まりそうになり反射的にウィズを見上げると、ウィズが祭宮の笑顔を浮かべる。
「どうぞ。巫女様」
もうっ。余裕綽々で腹が立つ。
何でこんなにドキドキさせられるのよ。ムカつくわ。
ウィズに会うと、あっという間にウィズのペースになるから悔しい。
レツがこんな時いつも冷静になるような事を言ってくれるのに。
感情に流されてはいけない。今は、一人でなんとかしなきゃ。
ちゃんと巫女の仮面を被り続けて、ここにいる誰にも、レツの事を悟られないように。
ベールがあって良かった。これ一枚で、随分色んな事を隠せていると思うもの。
ソファに腰を下ろすと、神官たちがそれぞれ部屋の中に立ち、ウィズも席に着く。
「改めまして、お久しぶりです、巫女様。お元気そうで何よりです」
「この天候ではお越しになるのも大変でしたでしょう。祭宮様もおかわりなくお元気そうですね」
社交辞令に社交辞令を返す。
そうしている時のほうが、逆に心の中が落ち着いてくる。
にこにこと笑みを浮かべるウィズとは対照的に、まだ苛立ちがおさまらないのか神官長様は憮然としている。
「いえいえ、これでも少し体重が落ちたんですよ。巫女様が心配で」
「殿下っ。戯言はおよしになって。貴方今日何をしにいらしたんですっ」
神官長様にしては珍しく、声を荒げてウィズを糾弾する。
そんな神官長様の様子にウィズは肩をすくめて苦笑いを浮かべる。
それって、余計に怒りを煽るんじゃないかしら。
「……わたくし、少し席を外しますわ。今、冷静にお話しできる自信がありませんの」
ウィズを睨みつけ、多分きっと沢山言いたいことを飲み込んで、努めて冷静に神官長様が言い放つ。
「畏まりました。では、申し訳ありませんが、巫女様とお二人にしていただけますか」
口元に笑みを浮かべるウィズは、何かを企んでいるようには見えず、穏やかに提案する。
だけど、私の心の中はいてもたってもいられない位、ざわざわと落ち着かなくなってくる。
二人っきりで話をするなんて、無理。無理。
巫女の仮面を被りきる自信なんてないよ。
はらはらして、どうかその提案を断ってくれるようにと願いながら、神官長様の事を見つめる。
「始めから、それが狙いだったのでしょう。わたくしを苛立たせたのも」
「さあ。どうでしょう」
飄々とした様子でお茶を口にするウィズを一瞥すると、神官長様がおもむろに立ち上がる。
衣を翻し、神官長様付きの神官に目配せすると、神官長様はウィズを睨みつける。
「15分。それ以上は差し上げられませんわ。ご自分のお立場、状況。おわかりですわね」
「ええ。十分ですよ。ありがとうございます」
感情の読めない笑みを浮かべて頭を下げるウィズに溜息をつき、神官長様がこちらを向く。
「巫女。わたくし達はしばらく退室いたします。何かあればすぐに対処出来るよう、神官たちを扉のそばに配しておきます」
それは、何かあればすぐに神官たちに助けを求めろということかしら。
そしてウィズの事を信頼してはいけないと、言外に伝えようとしていると見ていいのかな。
やっぱり神官長様もウィズを疑っているということよね。私を亡き者にしようとしたと。だからそんな事を言うんだろう。
浮ついた気分に冷や水をかけられる。
恐らくウィズは、神官長様に事の顛末を、全てではないにしても話しているはず。どんな話をしたかはわからないけれど。
王家の人間であり、先の巫女でもある神官長様が、今回の一件に関してどこまで知識があり、どこまでの話を聞いているのかはわからない。
だけどそのお立場から考えても、ウィズにあの日起きたことの説明を求めたに違いない。
ウィズから直接話を聞いた神官長様が、ウィズの事を疑っている。
でも、二人きりで話す時間は、制限付きとはいえ認めている。
その意図がわからない。
裏の裏まで読んでみても、決して本心には辿り着けない。
とにかく今わかるのは、気を引き締めて、決してレツの声が聴こえない事を感付かれない事。
パタン。
扉が静かに閉まる。
目の前に座るウィズは、ゆっくりとお茶のカップを置く。
カチャリという陶器のぶつかる音が部屋に響き、先ほどまでの喧騒が嘘のような静けさで、呼吸の音さえ響きそう。
思わずゴクリと生唾を飲み込む。
飲み込んでから、その音がウィズに聞こえてたらどうしようと不安になる。
緊張している事、ドキドキと胸が音を立てていること、息をする事さえ苦しい事を気付かれたら恥ずかしい。
視線があってしまったら、もうきっと全部ぐちゃぐちゃになってしまう。
レツ。
レツの声が聴こえない事が、こんなにも私を弱くしているよ。
巫女らしく。巫女らしく。
「ササ。あのさ」
控えめなその声に、パっと顔を上げてしまう。
「ごめんな。俺、ちゃんと謝りたかったんだ、ずっと。水竜の巫女様にじゃなくて、ササに」
泣き笑いのようなウィズの表情から、目が離せなくなる。
巫女じゃなくて、ササに謝りたいってどういうこと。
「どこまで聴いた?」
レツに、という事よね。あの日起こった事。
「多分、ほとんどは」
「そっか。んじゃ、俺がササの命を意図的に危険に晒したって事、知ってるんだな」
「うん」
自重するような笑みを浮かべ、それからウィズが頭を深々と下げる。
「本当にごめん。一か八かの賭けだったのは本当だ。でも、これだけは信じて欲しい。俺は決して、お前を殺したいとかって思っていたわけじゃない」
「うん。水竜も、そう言ってたから知ってる。頭を上げて。怒ったりしてないから」
「ごめんな。ありがとう。こうやってもう一度会えて、本当に良かった」
ほっとしたような笑みを浮かべたウィズに、肩の力が抜ける。
良かった。
ウィズはちゃんと心配してくれていたんだ。倒れて寝込んで死にかけたのは事実だから変えられないけれど、ウィズは謀略という意味で殺そうとしたわけじゃない。
「でも、一つだけ、聞いてもいい?」
心の中に刺さっている棘。
「私がもしも死んでしまっても良いと、思ってた?」
声が掠れる。
この神殿にいる誰もがウィズの事を疑っている。ウィズから直接話を聞いているであろう神官長様も。
そうじゃないと信じたいけれど、でもウィズにとってその位軽い存在なのか。賭けに失敗して死んでしまったかもしれないんだし。
どうしても、聞いておきたかった。
気付いたら両手を膝の上で握り締めている手が震えている。
「いいや。もしそういう事になるのなら水竜が出てこないと思ってたからな」
向かいあうソファから降りて、目の前にウィズがまるで神官たちのように跪く。
あっけに取られていると、ウィズの手が真っ直ぐに伸びて差し出される。
考えるより先に、その手の上に震える手を差し出すと、ウィズが触れるか触れないか程度に手を重ねる。
「お前が俺の前からいなくなって良いなんて、思ってないよ。あの時も、今も」
真っ直ぐに見つめてくるウィズから目が離せない。
「水竜のお許しが出るなら、この手を握って抱きしめたい位だ。確かにササはここに存在するんだって」
カーっと全身が熱くなり、ぱっと手を引いて戻す。
「え……あの……。え?」
「あの日、力無く倒れ、血の気の引いたササを見たのが最後、その後は意識が戻らないだとか瀕死だとか、あまり良くない話ばかり聞いていたからな。本当にここにササがいるんだって、どうにも信じられなくてな」
ウィズも手を戻し、小さく溜息をつく。
「だけどそんな事したら、またお前の神様が怒って出てくるかもしれないだろ。俺はもうお前を危険に晒したくない」
本気でそう思ってくれているんだ。
真摯な目で訴える姿に、それが痛いほど伝わってくる。この人は、みんなが思っているような私の敵じゃない。
そうだ、大切な事を伝えなきゃ。
「私、もう出来ないの。もうあんな事出来ないよ。体が保たないって水竜が言ってたから」
「そうか。神様頼みはもう辞めたから、安心しろ」
しっかりとした決意が瞳の中に見える。
大丈夫だ。信じてもいい。
「そういえば、お前顔に傷作ったんだって?」
跪いたまま、ウィズがベールを軽く持ち上げる。
薄布一枚で隔てられていて表情が見えない安心感が無くなり、はっと息を呑む。
息さえかかってしまいそうな、呼吸音すら聞こえてくる距離に動く事が出来ない。
どうしよう。どんな顔したら、いいんだろう。
「離れて」
息、出来ないよ。
「何で。イヤ?」
「嫌とかじゃなくて、恥ずかしいから。近くて」
ふっと口元を緩め、ウィズがにやっと笑う。
「何が恥ずかしいんだよ」
意地悪い笑顔から目を逸らし、ウィズの手を払いのける。
ふわっとベールが視界を覆うと、ウィズは立ち上がり、元いたソファに座り直す。
ちょっと前までの真摯さはどこにいったの。いつも通り、嫌味で斜に構えて笑うウィズは、小憎たらしく思えてくる。
「痕、残んないといいけどな」
「どうかな。残るかもしれないみたい」
ふうっと大きく溜息をつき、ウィズが腕組みする。
「なんでそんな傷つけてんだよ。何があった?」
――どうぞ、ご内密に。
ふいに老神官の言葉が頭に浮かぶ。
この傷が出来た所以を話すなら、レツが視える事を言わなきゃいけない。でも、それは絶対に言えない。
何て答えるべきか考え、口ごもってしまうのを見て、ウィズが窓の向こうの奥殿に視線を移す。
「俺に、言えないことか」
「ううん、そういう訳じゃないんだけれど」
咄嗟に取り繕ってしまって、考えるより先に言葉が出てくる。
「何て説明したらいいかわからなくて。奥殿に、具合があまり良くない時に行って、戻ってくる時に怪我したんだけれど、どうしてこんな風になったのか、よくわからなくて」
「わからない?」
「う、うん」
ふーんと言ったきり、ウィズは黙り込んでしまう。
すごく掻い摘んで話したけれど、嘘はついていない。
奥殿に行った時の事だし、どうしてレツが血まみれだったのか、どうして巨大な爪に襲われたのかわからないって事も真実だし。
だけれど、これ以上突っ込んで聞かれたら何て答えたらいいのかしら。ねえ、レツ。
無意識にレツに話しかけている自分にはっとする。
レツの声は聴こえないんだ。
ウィズの見つめる先にある奥殿は、降り続く白い雪がまるでカーテンのようで、その輪郭がうっすらとわかる程度でしかない。
レツの声が聴きたいな。
またあそこで、レツと一緒に色々な話をしたい。
そのことが急に頭をもたげる。
目を瞑れば、そこにレツの姿が見える。頭の中にはレツの笑い声が響く。
冬の間は会えないのはわかっている。去年までもそうだったんだもの。だからせめて、声だけでも聴きたいよ。
ねえ、レツ。あなたは今どうしているの。
部屋の中には沈黙が流れ、神官長様たちがお戻りになるまで、ウィズは決して口を開こうとはしなかった。
私の心は、目の前にいるウィズのことよりも、ここにはいないレツのことでいっぱいになっていた。
レツ。
どうしたら、私はあなたを取り戻せるんだろう。