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どのくらいの間が開いたのか、もしかしたらそれは一瞬のことだったのかもしれない。
カチャンという微かな音に老神官が振り返ると、記録係の神官が落としたペンに誰かの足が触れ、転がっているところだった。
「あ……あ。あの。申し訳……」
その音で初めてペンを落としたことに気が付いた様子で記録係が頭を下げ、シレルが床に落ちたペンを拾う。
シレルは手にしたペンを記録係に渡そうとはせず、老神官を見やる。老神官はシレルに頷き返し、それからまた私の方に向き直る。
その顔からは、さっきまでの余裕は姿を潜め、雪さえちらつく季節だというのに額にはうっすらと汗がにじんでいる。
そしてまた、長い沈黙。
再び空気は凍りつき、部屋の中の誰もが老神官が口を開くのを注視しているにもかかわらず、老神官は石のように動かない。
「巫女様は……」
長い沈黙の後、上ずった声が老神官の口から紡ぎだされる。
裏返った声を正すかのように咳払いを何度か繰り返し、それからゆっくりとまた話し出す。
「水竜様が視えるのですね」
重たい、けれど静かに沁みこむ様に伝わってくる言葉からも、老神官自身からも目を逸らさずに頷き返す。
視えることを理解してもらえるなら、もしかしたら奥殿へ行く事を許可してもらえるかもしれない。私がレツを助ける為に何らかの手を尽くせる可能性があることを、理解してもらえるかもしれない。
普通、巫女は「水竜の声を聴くことが出来る」のであって「水竜の姿を視ることが出来る」わけではない。
それは巫女としてはもしかしたら異常と言わざるをえないことかもしれない。だから、もしかしたら信じてもらえないかもしれない。
レツも言っていた。もう何十年も本質を見たものはいないと。
でも、きっと信じてくれる。
そう信じるしか、私にはレツを救う手立てはもう残されていない。
レツの声を聴こえない今、限り在る知識と経験だけでは、レツを決して救うことは出来ない。だから、なりふりなんて構っていられない。
奇異の目で見られるようになったとしても、レツを助ける事が出来るのならば、それは安い代償だわ。
老神官へ、色々は気持ちを籠めて頷き返す。
私の気持ちはどのように伝わったのか、わからない。
老神官は目を瞑り、何かを考え込むように眉間に皺を深く刻み込む。
外の神官たちに目を巡らせると、みんな目が合うとふっと視線を足元に落として目を逸らす。シレルさえも。
やっぱり、受け入れてもらえないのだろうか。
助けて欲しいと縋る事は間違っていたのだろうか。
後悔が一気に胸の中で膨らんでいく。
言わなければ良かった。
やっぱり、誰かに頼ろうなんて思っちゃいけなかったんだ。
視えるなんて、言わないでいればよかった。
どんなに孤独でも、不安でも、私だけで何とかしなきゃいけなかったんだ。
じわっと涙がこみ上げてきて、目が熱くなる。
でも、ここで泣いたってしょうがない。絶対に泣いたりしない。
隙を見せたらいけない。私が泣いたりして弱いところを見せたら、レツが侮られる。
奥歯を噛み締めて、ぐっと前だけを見続ける。
「巫女様」
暫くの間をおいてから、老神官を見つめ返す。老神官の瞳は澄んでいて、迷いがないように見える。
「類稀な方。わしらは貴方様が神殿にお見えになるのを、心よりお待ち申し上げておりました」
老神官が深々と頭を下げ、それに習うように他の神官たちも一斉に頭を下げる。
膝を折り床に頭を擦り付けんばかりの勢いの、これまでにない程の最敬礼に、どうやって返したらいいのか分らず、何も言えずに白髪に覆われた老神官の頭を食い入るように見つめる。
一体、何が起こっているの。
たぐいまれなかた?
私、数年巫女やっているのに、何で突然そんな事を言い出すの。
寧ろ出来損ないだと思われていたはずなのに。巫女になる前も、巫女になった後も。
老神官が頭を上げ、続くように他の神官たちも頭を上げる。けれど、全員床に跪いたままで、立ち上がる気配はない。
「神話の時代より、ある一定期間にお一人、水竜様のお姿を視ることの出来る巫女様がいらっしゃいました。しかしこの爺が神殿に入ってからは、一度もそのような巫女様は現れませんでした。もう水竜様と人との縁は薄くなってしまったのかと、わしは思っておりました」
唇は震え、頬を紅潮させながら老神官は話し続ける。
「今、この混沌とした時に、類稀な方が神殿にいらっしゃるとは。こんなにも心強い事はありませぬ。貴方様を失うような事にならず、水竜様に心から感謝致したい気持ちですぞ」
早口でまくしたてる老神官の様子に、本当にどうしたらいいかわからず、生返事を返す。
私は私で、何も変わっていないのに。何か特別な事なんて出来ないのに。
ほんの少し、レツ曰く感応力が強いだけでしかないのに。
そんな涙を流して感動してもらえるような、すごい人間じゃない。
信じて欲しかったけれど、こんな風に敬って欲しかったわけじゃない。私はそんな言葉が欲しかったんじゃない。もっと近くで相談できる人が欲しかっただけなのに。
持ち上げられれば持ち上げられるほど、心の中に寂しさがこみ上げてくる。
そんな目で見て欲しくなかったのに。
「水竜様が視えるという事。他の者や祭宮様にお話された事はございますかな」
「いいえ」
だって、誰も信じてくれるなんて思いもしなかったし、いちいち言う程のことでもないかと思っていたし。そもそも、打ち明けたいと思える相手すらいなかったもの。
「それは安心致しました。王宮側にこの事が伝われば、またお命を狙われるような事になるやもしれませぬ。どうか、この件はご内密に」
命を狙われるって、一体。
「いつ、そんな事があったのですか」
覚えがない。それに、そんな事はレツは一言も言っていなかった。
目をぱちくりとさせ、老神官が一瞬答えに詰まる。
「祭宮様に先日お会いになられた時と、大祭の時の二度、ございましたが」
首を横に振り否定する。レツはそんなことは言っていない。
それに祭宮は、ウィズはそんな事するわけがない。あの国王の手から逃がしてくれたのはウィズだったんだから。
「祭宮様は、私の命を狙って何かを行ったわけではありません」
あの日起こった出来事を何て形容したらいいかわからなくて、遠まわしな言い方になってしまう。
でも、これだけははっきり言える。
確かに命を天秤にかけたかもしれないけれど、意図的に命を奪おうとしたわけじゃない。
もしウィズがそんな風に思って近付いていたのなら、レツが気が付かないはずない。
それに私の体を意のままに操る事の出来たレツが、その場でウィズに制裁を下さないわけがない。
だから、絶対に違う。
違う。ウィズは私を殺そうとなんてしていない。
「そんな事、したりしませんっ」
語尾が強くなってしまった事に気付き、咳払いをして誤魔化す。
少しムキになったみたい。もっと冷静にならないと。
「大祭の時の出来事は、私を葬ろうとした訳ではなく、水竜の権威を失墜させる為の謀略というか、暴挙だったと水竜より聴いています。ですから決して……」
「巫女様のおっしゃるとおりかもしれませぬ。しかし、巫女様が類稀な方と王宮側に伝わった時に、御身に危険が及ぶ事も容易に考えられます。どうかご内密にお願い申し上げまする」
重なるように、続く言葉を遮り強い口調で言う老親簡易、口を噤み頷き返すしかない。
結局のところ、私はバタバタともがくように、本心と上辺の間をいったりきたりしている。
それは今この瞬間も、瀕死になる前も、何も変わってなんていない。
どうして上手く自分の気持ちを伝えられないのだろう。
「さて、本筋からずれてしまいましたな」
こほんと咳払いをし、折っていた背筋をピンと伸ばし、老神官がにっこりと微笑む。
「巫女様のお心。この爺がしかと受け止めました」
「はい」
どこまで理解してくれたのかはわからない。でも信じようと決めたのだから、もしかしたらちゃんと伝わっていないかもしれないけれど、真っ直ぐ受け止めよう。
「わしら全員、巫女様にお力添えできますよう、精一杯努力いたしましょう」
「ありがとうございます」
そう答えると、老神官は部屋の隅で頭を垂れる神官たちに顔を上げるように促す。
もう目を逸らされたりしなかった。シレルと目が合うと、そっと目礼をするのがわかる。
信じて下さいと告げられているように思えて、シレルに頷き返す。
「わしらとて、水竜様をお助けしたい気持ちは変わりありませぬ。水竜様と巫女様の為、最善を尽くす事が我ら神官の使命ですからの」
気に病む事はないと言わんばかりの笑顔が、構えて凝り固まっていた心をほんの少しだけ溶かしていく。
一緒なんだ。水竜であるレツを助けたい気持ちは。
私はずっと長い間、一人っきりでレツの事を想ってきたように思っていたけれど、そんな事は無かったんだわ。
きっと私以上に神官たちは、水竜たるレツを心から大切に思い信仰してきたに違いない。
なんでそんなことに今迄気付かなかったんだろう。どうして警戒しなくてはいけない相手だと思っていたのだろう。
同じものを大切に思ってきたのに。
完璧な隙のない巫女でいようとするが為に、色んなものが見えなくなっていたのかもしれない。
多分、巫女である以上、神官との一線は越えられないと思うし、きっとこうやって崇め奉られ続けなくてはいけない。本心を言える相手を求める事は不可能なんだろう。
だけど、ほんの少し心を許して手を貸してもらうことは、決して間違った事じゃない。
巫女である以上、弱いところは見せられないけれど、手に余る荷物を一緒に持って欲しいと頼む事は可能だったんだわ。
「では、あの。私、奥殿に行きたいのですが」
水竜を助けてたいっていう気持ちを理解してもらえたし、水竜を助けたいと同じように思っているのなら、きっと良い返事が貰えるよね。
にこにこと笑みを浮かべながら、老神官はきっぱりと告げる。
「却下致しますぞ、それにつきましては」
笑顔とは裏腹のはっきりとした拒絶に、思わず唖然としてしまう。この笑顔から発せられた言葉とは思えないくらい冷淡な響きを併せ持っていたから。
それに、ついさっき助けてくれるって言ったのに。
「どうしてですか」
言っている事、全然違うじゃない。
不満は表情に表れていたのかもしれない。老神官の笑みが苦笑に変わる。
「巫女様。わしらが何よりもまずお守りしなくてはならないのは、貴方様なのですぞ」
それって、どういう……。
「わしがお教えしたこと、お忘れかな」
巫女になる前、次代の巫女としてこの老神官から様々な事を教えられていた日々を思い出す。
その顔はあの時と変わらず、まるで出来の悪い生徒を教えている教師のような面持ちで見ている。
「神官とは、何の為にこの神殿にいるのか。その意義をお教えしたはずですがな」
記憶を掘り起こし、神官とはというその問いに対する答えを導き出す。
「水竜に仕える巫女を補佐し、守り、水竜の神殿を維持する為に、俗世を捨てた者」
「満点は差し上げられませんなあ。まあ大まかには合っておりますがな」
何か足りなかったかしら。
「まあ、よろしいでしょう。こんな講義をする為にここにいるわけではありませんからな。それよりも巫女様。礼拝でお倒れになられたのをお忘れか」
結局合ってたのよね、答え。
でもそのことはどうでもいいことのようで、話題はもう他の事に変わっている。
「忘れていたわけではありませんが、水竜を助ける為には奥殿に行かなくては」
「なりませぬぞ、巫女様。貴方様がまず成すべき事は、御身を癒す事に他なりませぬ」
「でもっ。でも、今も水竜は血の海の中にいるかもしれないんです」
これだけは譲れない。
あの中からレツを助け出したいの。一分一秒でも早く。
あんな禍々しい場所に、ずっとレツを置いておけないよ。私の体が少しでも動くなら、行って助けなきゃ。
それが出来るのは私だけなんだもの。
それに、何よりも、どうしてレツの声が聴こえないのか、ちゃんとレツに確かめたいの。
もう一度、レツの声が聴きたいの。
「では尚の事、許可できませぬ。巫女様を血の穢れに晒すことは出来ませぬ」
「それでも、私にしか出来ないんです。例え穢れがあろうとなかろうと。私しか奥殿に行けないんですから」
血の穢れがどういう事かかんて知らない。その結果、そういう事になるのかなんてわからない。
たとえどんな事態が待ち受けていようとも、レツを助けられるなら、後悔なんてしない。
「では水竜様が、巫女様に奥殿に来て欲しいとおっしゃっていらっしゃるのですか」
ズキン、と胸が痛む。
レツを助けたい。レツの声を聴きたいと焦っていた私の心に重く圧し掛かり、冷静な老神官の視線が心の奥底まで射る。
それは、今の私にとって一番厳しい言葉かもしれない。本当にレツはそう言っているのかと疑われているようにすら思えてくる。
感情的になっていた頭は、冷や水をかけられたように冷静になっていく。
「水竜様は、巫女様に何とおっしゃられたのですか」
答えない私に、老神官はゆっくりと促すように問いかける。
瞳を見つめ返すと、ふわっと老神官の目尻が緩む。本当に人のいいおじいちゃんみたいな笑みで、ほんの少し前の責めるような表情はどこかに吹き飛んでしまっている。
この笑顔に弱いみたい。
どうにかしなきゃっていう焦りも、レツの声が聴こえない不安も、疑われているのではないかといういたたまれなさも、穏やかな波へと変化していってしまう。
「水竜は、逃げてって言いました。手の届かない、迷宮の奥へ」
「そうでしたか。迷宮とは、水竜様もおっしゃいますなあ」
ひとりごちで笑みを浮かべる老神官は、窓の外の奥殿を見つめる。
外から見た限り、奥殿には何の変化もない。
「どうやら巫女様を奥殿から遠ざけたいように思えますがな。爺の勘違いですかのう」
「……いいえ」
あの時のレツの声はまだ耳に焼き付いている。
甲高い、よく通る声ではっきりと「逃げて」と言った。
その言葉に従わなかったら、私の体にはもっと無数の傷がついていたかもしれない。最悪、この場所にもう一度戻ってくる事もなかったかもしれない。
レツが望んだのは、私があそこにいることなんかじゃない。レツの手の届かないところにいること。
「では、水竜様をお助けする術は、わしらでお調べ致しましょう。巫女様は今はお体を休め、一日も早く元気なお姿を見せてくだされ」
唐突に思えるほど突然話を打ち切り、老神官はにんまりと笑う。
「今なら廊下を走っても減点致しませんぞ」
巫女になる前の失敗だらけの日々を思い出し、顔がかあっと赤くなる。返す言葉がないくらい恥ずかしくて、出来ることなら布団の中に隠れてしまいたい位。
「そのくらい元気になってくだされば、爺も安心致します。どうか今はお体の事だけをお考え下され」
優しすぎるほど柔和な笑みを浮かべて老神官は立ち上がり、他の神官たちに立つように促す。
「我ら、決して巫女様を裏切るような事は致しませぬ。全身全霊をかけて、巫女様のお力になりましょう」
そう言うと一礼し、神官たちは一斉に部屋の外へと出て行く。
一人部屋に取り残され、窓の外の奥殿を見る。
ねえ、レツ。
レツの声も聴こえない。巫女として何の価値もない私なのに、こんな風に崇め奉られていいのかな。
雪が降り始めたね、当分、レツのところにはいけないみたい。ごめんね。
返ってくる言葉をずっと待ち続け、そして戻ってこない声に絶望を覚えた。