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 いつもと変わらない、いつものように穏やかな朝。

 居並ぶ神官たちの間を抜け、前殿の中で最も神聖な場所である祭壇の前に歩み寄る。

 この礼拝堂は年に一度、三日間だけ一般にも開放されるけれど、普段は立ち入れるのは神官だけ。

 朝と晩の2回、ここで礼拝は行われ、全神官が一同に会する事になる。

 いつもと変わらないのに、心の中では誰かに気付かれてしまうのではないかと気が気でない。

 私には、レツの、水竜の声が聴こえない事を。

 一歩一歩進む足が、前へ進む事を拒まれているかのように重たい。

 これから私は、さもレツの声が聴こえているかのように祭壇の前で振舞わなくてはならない。

 でも、もしかしたら、ここならレツの声が聴こえるかもしれない。

 迷宮の中へ逃げてと叫んだレツの声を聴いたのを最後、それっきりレツの声が聴こえない。

 どんなに呼んでも。心の中で呼んでも、口に出してその名を呟いても。

 頬の傷は思ったよりも深く、もしかしたら傷が残るかもしれない。

 もう少し休んでいたら良いのにと神官長様からの伝言を賜ったけれど、部屋で横になっているだけで、レツの声も聴こえず、巫女としての業務をこなさなかったら、本当に私の存在価値は無くなってしまう。

 まだ、ここにいたい。

 もう一度、レツの声を聴きたい。

 こんな形でレツと一生会えなくなるのは嫌だもの。

 祭壇の前に立ち、天窓から振り注ぐ陽の光を仰ぎ見る。

 全てを計算しつくされたこの礼拝堂は、自然と祭壇に光が当たるように設計されている。

 朝も、昼も、夕方も。

 もしかしたら月の光の入り方さえも計算されているかもしれない。

 少しずつ角度や色を変えながら、陽の光が祭壇を神々しく照らし出す。

「この国において水を司り、万物の創造主であり、この神殿の主で在らせられる尊き方よ……」

 自然と口をついて、長い長いお祈りの言葉が出てくる。

 一月以上も眠っていて、久しぶりの礼拝なのに。

 私の体には、いつの間にか「水竜の巫女」が染み付いている。

 まるで息をするように、考えるよりも先に口が動き、手が動き、礼拝を進行していく。

 初めて気が付いた。

 私、ちゃんと水竜の巫女だったんだ。

 神官たちを見渡せば、誰一人顔を上げている者はいない。神官長様さえも頭を垂れている。

 今まで必死すぎて、そんな事気付かなかったよ、レツ。

 もっと肩の力を抜けばいいのにって、こういう事だったんだね。

 自分の事だけに必死にならずに、もっと視界を広くする事。そうすれば沢山のことが見えてくるんだね。

 礼拝堂の中が、たくさんの祈りで満ちている事。

 朝の陽の光が優しく温かいこと。

 今まで気付かなくて損したよ。こんなに綺麗な瞬間を見落としていたなんて。

 私ってバカだね。ねえ、レツ。



「……レツ」



 返ってくる言葉は無く、つかの間の幸福からどん底へと突き落とされる。

 祈りの言葉も、口から出てこない。

 胸の前で組んでいた手が、いつの間にか解け、だらしなく垂れ下がっている。

 私、どうしよう。

 レツの声が聴こえなきゃ、どんなにみんなが敬ってくれたって、本当の意味で巫女じゃない。

 巫女じゃない。

 全身がガタガタと震えだす。

 どうしよう。どうしよう。

 さっきまで輝いていた全てが色を失い、神官たちは無機質な記号の群れに見え、陽の光は鋭い氷柱のように突き刺してくる。

 ぐらっと世界が揺れる。

 ここにはもう、いられない。




 目を覚ました時に視界に入ったのは、最近見慣れていた自室の天井。

 無駄に木目の模様まで憶えてしまったみたい。

 まだぼんやりと霞む目で周りを見回すと、いつもように女官たちが見える。

 その中の一人が、早足で枕元まで近寄ってくる。

「ご気分はいかがですか」

 その言葉を皮切りに、周囲が慌しく動き出す。

「ご無礼かと存じましたが、お召し物を緩めさせていただき、宝飾品などは外させていただきました」

 恰幅のよい女官は、仰々しく頭を下げる。

 見ると巫女の正装のままで、体が苦しくないように所々帯などが緩められている。

「ありがとうございます」

「いいえ」

 女官はにっこりと微笑み、他の女官から手渡された服を受け取る。

「お召し替えなさいますか」

 いくら緩めてくれたとはいえ、窮屈な事には変わりないので、素直にその言葉に従う事にする。

 体を起こして服を受け取ると、部屋の中にいた神官や女官が部屋を退出していく。

 何かを考えるような表情をしてから、服を渡してくれた女官が言いにくそうに口を開く。

「巫女様。どうかご無理をなさらないで下さい。あなた様あっての水竜の神殿なのです」

 痛い。

 その真摯な訴えが、泣き出したくなるくらい痛い。

 ほんの数日前までなら、その言葉が心が躍るほど嬉しかっただろう。こんな風に心配してくれる人が周りにいるなんて。

 でも今は。

「すみません、立場もわきまえず」

 暗い表情に気付かれてしまったのかもしれない。女官は恐縮しきった顔をしている。

「いえ、ありがとうございます。申し訳ないのですが、しばらく一人にして下さい」

「畏まりました」

 パタンと扉が閉まるまで目を伏せたままでいて、女官やシレルがどんな表情をしているのか、考えようとも思わないでいた。


 決してあの女官が悪いわけじゃない。

 苦言を言われたのが不快なんじゃない。

 私にはそう言われるだけの価値がないのだから、どう受け止めたらいいのかわからない。

 巫女であることの最上の、そして唯一の条件である「水竜の声を聴くこと」が出来ないのだから。

 するすると巫女の正装を脱ぎ、新しく用意された神官の服に袖を通す。

 苦笑いが自然と浮かぶ。

 皮肉にも、こちらの服のほうが着慣れていてしっくりとくる。

 ふわふわと頼りなく、華美な装飾が施された巫女の正装よりも、実直で動きやすい神官の服のほうが私らしくていい。

 もっと似合うのは、女官たちの着ている服だったりして。

 それでも、村で着ていた服に比べたら十二分に立派な服だわ。

 決して貧しかったわけでもないし、生活に困った事もないけれど、もっと生地が薄くて荒いものを身に着けていた。

 今身に着けているものに比べたら、ごわごわしてチクチクしていた。

 衣一つ取ってみても、とても恵まれた環境にいる。

 それは、私が水竜の巫女に選ばれたからこそ得られた特権。

 本来ならば、一生袖を通す事のないような上質な仕立ての衣を纏い、一介の村娘が対等に口を利けるような相手ではない王族とすら対峙する。

 それどころか、ただの村娘なのに、国中から崇め奉られ敬われている。

 その全ては「水竜の声を聴く者」に対してのもの。

 なのに、私にはレツの声が聴こえない。

 レツ。レツ。

 どうして何も答えてくれないの。

 私には何が足りないの。何がいけなかったの。教えてよ。

 こんな形で、巫女からただの村娘に戻してしまわないで。

 ちゃんと、お願いだから、レツの声でレツの言葉で説明してよ。

 ……レツ。

 もう二度と、その声を聴く事は出来ないの?

「私、どうしたいいんだろう」

 自問する声に、反応はない。

 不思議と涙は出てこない。ただ呆然と窓の外に映る景色を眺めている。

 視界の先に見える奥殿を見つめ続ける。

 答えはきっと、あそこにしかない。けれど、あそこに行く事も出来ない。

 レツが逃げろと言ったから。

 あの巨大な爪。

 あれはきっと、本当のレツの姿なのだと思う。

 多分、間違いない。

 本当のレツとレツの本質という、二つの異なった感情が奥殿の中でせめぎあっているのかもしれない。

 それはどうしてなんだろう。

 もしかしたら、それがレツの声が聴こえなくなった原因なのかもしれない。

 行こう。奥殿へ。

 もう一度、レツのところへ。

 もしかしたら本当のレツに切り裂かれてしまうかもしれない。

 それは怖い。今思い出しても、恐怖で体がすくんでしまう。

 それでも、レツのところに行かなくては。

 聴こえなくても、姿は見えるかもしれない。レツの姿を見られたら、筆談だってなんだって出来るわけだし。

 俄然元気が湧いてきて、勢いをつけてベッドから飛び降りる。

 怖くないわけじゃない。

 あの血の海に戻る事も、本当はすごく嫌だけれど。

 でも、それでも私はレツに会いたい。

 鏡、鏡。

 寝癖がないかチェックしなきゃ。そういうの目ざといんだもん、レツって。

 口酸っぱいくらい、ボクの威厳に関わるとか言われるし。

 まあ確かに、巫女が髪の毛はねていたりしたら格好が付かないのはわかるけれど。

 覗き込んだ鏡の中の頬には、真新しい生々しい傷跡が残っている。触れてみるとピリっと痛みが走る。

 本当のレツ。

 以前見た(というのが正確な言い方ではないかもしれないけれど)レツの本体はまるで眠っているようで、穏やかであたたかくて優しい感じがしたのに。

 何でこんな風に傷をつけられたのだろう。

 私、何か機嫌を損ねるような事をしたのかな。

 ううん、違う。きっとそうじゃない。

 あの時と今の本当のレツは全然違う。

 何がって聞かれたら上手く答えられないけれど。何かとても重要な部分が違う気がする。

 それが何なのかを言い当てられる程の、知識も経験もないのが歯がゆい。

 頬の傷から目を逸らし、化粧台の上にあるベールを手にし、いつものようにベールで顔の表情を覆う。

 こうやってベールをしてしまえば、いつもどおりの巫女の私の出来上がりだわ。

 もう一度おかしなところはないか念入りにチェックして、部屋の扉を開ける。

 何気なく開いた扉の向こうは人垣だった。

 人垣……人の壁?

 それが一斉に振り返りこちらを向くので、気圧されてしまう。

「巫女様、どうなさいましたか」

 扉の一番近くにいたシレルが、いつもどおりの口調で問いかけてくる。

 その返答を待つたくさんの視線を浴び、言葉に詰まる。

「何か御入用でございますか」

「いえ、あの」

「誰かお呼びでしょうか」

「あの……」

「何か不自由な事がございましたか」

「いえ、そうではなく」

 一つ一つ確認するシレルは決して矢継ぎ早というわけではないのに、大勢が固唾を呑んで見守っている状況で雰囲気に飲まれてしまって、言葉に詰まってしまう。

 せわしなく鼓動を打ち続ける胸を押さえつけ、ベールの下で気付かれないように深呼吸する。

「奥殿に参ります」

「それは了承致しかねます。どうかお部屋でお休みください。巫女様」

 ピシャリとシレルが撥ね付ける。

 こんな風に強く拒絶されるのは初めてで、まじまじとその表情を伺うものの、いつもと何も変わらない。

「お体、まだ本調子ではないのでは。巫女様にお伝えしたい事もございますゆえ、一度お部屋の中でお話をさせていただけますかな」

 しゃがれた声がするほうを向くと、先の神官長様付きの年老いた神官がにこやかに笑っている。

 人の良さそうな優しそうな笑顔に否とは言えず、了承する。


 部屋の中に戻ると、一度部屋を出ていた女官たちも一斉に部屋に戻り、あれよあれよという間にベッドの上に座らされ、沢山のクッションを背もたれになるように置かれる。

 確かに椅子に座っているよりも、ずっとラクだけれど。

「巫女様、お薬を」

 そう言って水と粉薬の乗ったお盆が目の前に差し出され、やはり有無を言わせない空気があり、大人しく薬を飲み水を飲み干す。

「お体を冷やすといけませんから、こちらをどうぞ」

 温石が布団の中に入れられ、肩には厚手のショールが掛けられる。

 その女官が去ると、次の女官がベッドサイドにテーブルを持って来る。

 更に次の女官が、その上に筆記用具などの日常使う細々としたものを置いていく。

 何なんだろうと思っていると、また別の女官がやってくる。

「巫女様。温かいお飲み物をお持ち致しました」

「……ありがとうございます」

 飲みたい気分じゃない、なんて言えない。

 この至れり尽くせりな状況は一体何なのか。場の空気に呑まれ、促されるままにカップに口をつけて、ベッドサイドのテーブルに置く。

 本っ当に何なの、これ。

 今まで、一度だってこんな事経験したことないのに。

 くるくると動き回る女官たちの動きを唖然としながら眺めつつ、手持ち無沙汰なのでカップに注がれたお茶を飲み続ける。

 おかしい。

 巫女になってから今まで、こんな手厚い扱いを受けたことがない。

 何でいきなりこんな事になってるの。

 巫女だからというのが理由ならば、もっとずっと前からこういう風にされていただろうけれど、今まで一度だってこんなことない。

 これから一体何が始まるんだろう。

 恐らく廊下で女官たちが一段落するのを待っているであろう、しゃがれ声の老神官が入ってくるのを落ち着かない気分で待っている。

 その間も、髪やベールを整えられたり、何故か手のマッサージまでされたりしていた。


 女官たちがその動きを止め、一礼をして扉の向こうへ消えると、今度は神官たちが部屋に入ってくる。

 老神官はシレルと共に最初に姿を現し、その後ろに四人の神官を引き連れている。

 見たことのある顔ばかり。

 あの無礼者の国王が来たときに傍にいてくれた神官たちだわ。

 その後ろに、もう一人。

 あれは書庫の奥の方で書き物をしていたり、書物の整理をしている、ものすごく細くて背の高い神官だわ。

 こんなに大勢の神官がやってくるなんて、また神殿に無礼者がやってきたのかしら。それとも何か大事が起こったのかしら。

「お体の具合はいかがですか」

 ごくごく普通の口調でシレルが切り出す。

「変わりないです。特に悪いところもありません」

 普段答えるのと同じ語句で返す。

 ざわっと空気が動く。

 その違和感。口を開き大きく息を吸い込む者、目を見開く者。その反応に、今自分が言った事がおかしいんだと気付く。

 そうだ。私、昨日までベッドの住人で、瀕死で生きている事さえも奇跡だと言われるほど体調が悪くて、起き上がる事すらままならなかったんだわ。

 今はレツのおかげで、以前と同じようにとまではいかないけれど、人並みに健康体になっている。

 普通に考えたら、それって受け入れがたい事実のはずよね。

 生きるか死ぬかの瀬戸際にいた人間が、翌日に普通に元気なのって。

 何か聞かれたら、どうやって答えよう。

 どうしたらいい? レツ。

 癖でレツに語りかけるけれど、戻ってくるのは沈黙だけ。

 チクっと胸にトゲが突き刺さる。

 私にはレツの声が聴こえない。

 布団の端を掴み、何かを考えるより先に溜息が出る。

 レツが助けてくれたのに、私にはもうレツを助ける事が出来ない。

「巫女様、この老いぼれに話を聞かせて頂けますかな」

 微笑をたたえ、老神官が優しく問いかける。

 優しいその声が懐かしくもあり、同時に哀しくてしょうがない。

 私を村に迎えにきてくれた。「あなたを必要としています」と言って、巫女への道を後押ししてくれた。

 この神殿で「次代様」と呼ばれていた頃、先の神官長様と共に様々な事を教えてくれた。

 レツとはまた違う意味で、私を巫女にしてくれた一人。

「この後ろにおる者達は皆、巫女様をお守りする為に日夜御付の神官と共に尽力している者達。その後ろにいるのは記録係」

 神官たちが一斉に頭を下げる。

「もし差し支えなければ、この爺に巫女様に起こった奇跡をお話下さらんかと思いましてな。無論、他言無用というのであれば決して口外致しませんぞ」

「……奇跡?」

 奇跡なんかじゃない。レツの、水竜の声が聴こえなくなったのは、私にとっては悲劇でしかない。

「左様。つい先日まで、巫女様は立つ事すらままならぬ、もう二度と巫女としてのお役目は果たせぬであろうと侍医から聞かされておりました」

 ズキっと胸が痛む。

 具合が悪くても、昨日まではレツの声が聴こえていたのに。

「それが奥殿に行かれてからは、走ることも出来るようにおなりになり、今日は礼拝にも起こしになられた。神官たちは皆、巫女様の起こされた奇跡を目の当たりにし、一体何が起こったのかと噂しておりまする」

 だから女官たちも急に態度を変えたのね。私が奇跡を起こしたと思っているから。

「私には」

 喉に言葉がひっかかり、擦れて上擦ってしまう。

 老神官の優しい口調と目線、そして真摯な姿勢に堪えていたものが雪崩のように押し寄せてくる。

「私には奇跡なんて起こせません。全ては水竜の力で、私は何もしていません」

 ベッドサイドに近付き、老神官がしゃがみ込んで視線を合わせる。

 その瞳は穏やかなままだ。私とは正反対に。

「無力なんです。私は崇め奉られるような価値のある人間じゃない」

 揺るがず、何も変わらず、老神官は静かに控えている。

 シレルたち他の神官は、微動だにせず静かに控えている。

 目を巡らせるとそんな光景が瞳に映り、消えてなくなってしまいたいような気分になる。

 水竜の声が聴こえるから、みんなこうやって私を大切にしてくれる。

 でも今の私は。

 老神官の瞳を覗き込む。

 この人なら聞いてくれるんだろうか、私の話を。

 レツの声が聴こえなくなって不安でいっぱいなことも、そのほかの色々な事、全部聞いてくれるのだろうか。

 縋ってしまいたい。

 でも、巫女として期待してくれているのに、育ててもらったのに裏切るような事は出来ない。

 やっぱり、言えないよ。

 老神官から目を逸らし、窓の外、深い木々の向こうにそびえる奥殿を見る。

 レツ。

 ねえ、レツ。私、これからどうしたらいいの。

 私一人じゃどうにもできないよ。何にもできないよ。

 レツの声が聴こえないのに、私、ここにいてもいいの?

 レツ。

「奥殿で、巫女様に何が起きたのですかな。聞かせていただけますかな」

 優しい声で現実に引き戻される。

 呼んでも呼んでも届かない声に落胆していたところで。

「お嫌なら無理にとは申せませぬ。ただ、巫女様が血まみれでいらしたので、わしらは心配でしてな」

「ああ、そうでしたね」

 意図的に忘れていたわけではないけれど、改めて自分の無力さと向き合わなくてはいけないのが嫌で、記憶の片隅に追いやっていた。

 だけれど、それと向き合う事から逃げ続ける事を、この神殿にいる限りは許して貰えそうにはない。

「私が奥殿に着いた時、私はもう立っている事も出来なくて倒れてしまって、目を開けていることすら困難で、その時に奥殿がいつもどおりだったのかはわかりません」

「ほう」

 老神官が相槌を打つのを見ると、扉の傍でせわしなく記録係の神官が手を動かしているのが見える。

「レ……水竜が私の額の上に手をかざすと体が楽になっていって、今のように回復しました。でも、その後水竜と一緒に奥殿の床に横たわって眠ってしまったんです」

 老神官の顔が曇り、皺が深くなる。

 巫女としてはお行儀のいいものではないものね。元教育係としては、一言物申したい感じなのかしら。

 でも口を挟む気配がなかったので、そのまま続ける。

「目を覚ました時、水竜は眠ったままでした。その体の上に、奥殿の天井から血が滴り落ちていたんです。私はどうにかして血の穢れから水竜を守りたかったんですが、出来ませんでした」

 あの光景を思い出して、どうしようもない無力感にさいなまれる。

 足掻いても、もがいても、何も出来なかった。

 私にもっと力があれば。始まりの巫女のような力があれば、助けられたのに。

「助けたいんです。水竜を。きっと今頃奥殿は血でいっぱいになっています。だから、あそこから水竜を助け出したいんです」

 老神官は言葉もなく、ただただ目を見開いたまま固まってしまった。

 他の神官たちも言葉を失い立ち尽くし、記録係の神官は顔を上げ、手にしたペンが落ちている事すら気付いていない様子だった。

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