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 ポタポタと規則的な音が、耳障りなくらい大きな音に聞こえる。

 その音が胸をざわつかせて、落ち着かない気分になる。

 体の芯から震えが全身を包むように広がっていく。

「レツ。レツ」

 唇が震える。言葉が擦れて、上手く音にならない。

 全身の血の気が引いていく。

 何かとんでもないことが起こっている。

 これが、眠っていた時に見ていた夢だったらいいのに。どんな悪夢でも、目が覚めれば終わりが来るのに。

 今この目の前に広がっている光景は、悪夢のような現実だ。

 グラリと視界が揺れる。

 倒れている場合じゃない。ここで気を失ってる場合じゃない。

「おね、がい。お、きて」

 すっと手を伸ばすけれど、レツの体を素通りして冷たい床に触れる。その冷たさが指先から体中に広がっていく。

 もどかしくて、もどかしくて胸が締め付けられる。

 どんなに触れたいと願っていても、これは永遠に叶わない。そんなこと、わかりきっていた事なのに。

 どうして何もしてあげられないの。

 涙が溢れ出し、横たわるレツを通り抜けて、床に触れた手の甲へと落ちる。

 絶え間なく落ちる涙を止めることなんて出来ない。

 涙腺が壊れ、嗚咽が奥殿に響き渡る。

 どうする事もできないのだと言う事を、まざまざと見せ付けられ、悲しくて悲しくてどうしようもない。

 私は無力だ。

 何度も何度も今まで助けてくれたレツを、今度は私が助けたいのに。

 巫女である私しか、レツを助ける事は出来ないのに。レツが巫女に選んでくれたのに。

 噛み締めた唇からは、血の味がする。

 それが自分の血なのか、それとも落ちてくる血なのか。

 天を仰ぐと、顔には沢山の血がどこからともなく零れ落ちてくる。

 視界が赤に染まる。

 朱に染まる。


 レツを動かせないのなら、この血を止めればいい。

 ばっと立ち上がって、天井を睨みつける。

 涙で視界が歪むから、袖口で涙を力一杯拭きとって、これ以上涙が出ないように奥歯を噛み締める。

 そんなこと位では止まらない涙を、何度も何度も拭きとって、ぼやける視界が鮮明になるように頭を左右に強く振る。

 ぼわっと輪郭の歪む視界の中、この降り続く血の湧き出すところを探す。

 何の理由もなく、血が降ってくるなんてありえない。きっと何かの仕掛けがあって、こんな事になっているんだわ。

 だって、こんなのおかしい。

 ここはこの国の真の支配者である、水竜レツの住まいなのよ。

 神とも呼べる存在を、誰かが侵そうとしているとしか思えない。

 血は天井から染み出るように垂れているみたい。

 だんだんと奥殿の中に血の範囲が広がり、嫌なにおいが充満していく。

 見ると、体に赤い斑点が幾つも出来ている。落ちてくる血のせいで。

 それが禍々しくて、嫌で、気持ち悪い。一国も早くこれを止めたい。


 天井。

 天井の上なんて、どうやって上がるの。

 上に登れるところなんてあったかな。

 記憶の糸を手繰り寄せ。奥殿の構造を思い出す。

 ドキドキと音を立てる胸と、荒い呼吸音が思考を邪魔する。

 冷静に、冷静にならなきゃ。

 そう思っているのに、頭の中は混乱して、色んな事が散らかるように湧き上がってきて、まとめようにもまとめられない。

 天井って、どこから上がるの。

 階段なんてあるのかな。見たこともない。

 昔、奥殿の構造図を見せてもらった事があるような気がするけど。

 確か巫女になる前に誰かに習ったんだわ。

 誰に習ったのかな。どこで見たのかしら。書庫? 自分の部屋? 神官長様のところ?

 えっと。えっと。

 前の神官長様に習ったような気がするけれど。

 どこで見せてもらったんだろう。思い出せない。

 ううん、今、そんなことはどうだっていいんだって。

 上に登れるところ。

 そんなのあったかな。憶えてないよ。

 もうっ。何で大事な事を覚えてないんだろう。

 イライラが腹の底から湧きあがってくる。焦りだけがどんどん膨らんでいく。

「あー! もうっ!!」

 イライラを吹き飛ばしたくて、渾身の力をこめて叫ぶ。

 叫んだら、頭の中のモヤが一気に吹き飛んでいった。

 相変わらずイライラはしているけれど、ふわふわと落ち着かない感じはなくなり、眉間に力が入り、血に足が付いている感じがする。

「うろたえたって何にもならない。今、私がしなくてはいけない事は何」

 自問するように言葉を口から出す。そうすると、より意識が明確になっていく。

 薄暗い神殿、規則的に落ちる雫の音。横たわるレツ。

 そして視界を染め上げようとしている、朱色の血液。

 視界に映る全てが、悪夢としか言いようがない。

 だけど、たとえ夢だとしても、レツを助けたいっていう気持ちに変わりはない。

 レツを助けたい。

 今まで何度も助けてくれたレツを、今度は私が助けたい。

 でも、どうしたらいいのだろう。

 視界を巡らせ、考える。

 奥殿の屋根に登るところが本当にあるのなら、今までに登ったことがあるはず。掃除やら何やらで、登る機会はあったはずだわ。

 だけど、そんなことは一度もない。

 だから登ってこの降り注ぐ血を止めるのは不可能だわ。

 それに、誰かが人為的にこれを降らせているというわけではないという事にもなる。

 大体、水竜の神殿の最深部まで、どうやってはいってくるっていうの。

 迷路のような巨大な、そして大勢の神官が仕える前殿。例え夜でも、誰にも見つからずに神殿に忍び込むなんて不可能。

 一見すると行き止まりのようになっていて、隠し扉を通らなくてはいけない通路もある。また、屈んで入らなくてはいけない、そこが正規の通路とは思えないような場所さえもある。

 誰にも見つからず、迷わずここに辿りつける訳がない。

 そして登るところのない奥殿の屋根、もしくは天井から、レツに気付かれずに血を降らせるなんて不可能だわ。

 ということは、これはレツの領域で起きている現象と考えるべきなのかもしれない。

 人知の及ばない、人ならざるモノの世界で。

 ならば、やっぱりレツ自身をここから動かすしかない。

 でもどうしたらいいのだろう。

 私はレツに触れる事は出来ない。

 あれ、でも……。

「ここにいるレツは本質であって、本人じゃない。本当のレツはもう一つの奥殿の中」

 口にしてみて、はっとする。

 もしかして、本当のレツさえ守れれば、本質のレツも守れるのではないかしら。

 よくよく見ると、滴る血に晒されているはずのレツの顔は、いつもと変わらない白い肌をしている。

 血に侵食されていない。

 ということは、奥殿に降り注ぐ血から、まずは本当のレツを守らなくちゃ。

 そうしたらきっと、レツが目覚めた時に、この酷い状態を何とかしてくれるかもしれない。


 気休めだとわかっているけれど、羽織っていたショールをレツの上に掛け、少しでも穢されないようにする。

 例え触れられなくとも、実体が無くとも、今ここにレツがいることには変わりはないのだもの。

 横たわるレツに背を向け、奥殿の奥へ歩き出す。

 普段かくれんぼや追いかけっこをしたり掃除をしたりする為に奥までくるけれど、怖いとか嫌だなんて思うことは一度もない。

 奥とは言っても、入り口のあたりと同じように陽の光が天窓から入ってくるし、レツがいるから清涼な空気で満たされている。

 それなのに、今は一歩ずつ奥へ進むごとに得体のしれない恐怖が襲ってくる。

 何故だか進むごとに闇の色が増し、血のニオイが強くなってくる。

 いつの間にか握っていた手の中は、じっとりと汗をかき、鼓動が早くなってくる。

 これ以上行きたくない。けど、逆戻りも出来ない。

 立ち止まったら動けなくなりそうで、バクバクと音を立てる胸に手を当てて早足で進む。

 きっと、もう一つの奥殿に辿り着けさえすれば、この嫌な感じからも逃れられる。

 本当のレツのところまで行けば、こんな風に怖いと思うことなんてない。

 でももう一つの奥殿に行けたのは、レツと一緒に行った、あの一度きり。

 辿り着けるかわからない。

 どこからこの感情が湧いてくるのかわからないけれど、怖くて怖くて、本当は逃げ出してしまいたい。

 でも、レツを助けたいから。立ち止まったり、引き返したりなんて出来ない。

 荒くなる呼吸を整える為に、自分を鼓舞する為に、何度も深呼吸する。

 あの時と同じように本当のレツに会えると、信じて付き進むしかない。


 薄闇の中でも、鈍い色を放つ巨大な扉の前に立つ。 

 とても手の届かないところになる、誰が使うのかもわからない大きな取っ手。

 当然そこを押したり引いたりして扉を動かす事なんて出来ない。

「はー」

 大きく息を吐いて、扉を睨む。

 ここをあけなくては、多分本当のレツのところには近づけない。

 袖を捲くり、もう一度深呼吸する。この扉の向こう側に行かないと、レツを助けられない。

「開いて」

 願いをこめて、祈るように呟く。

 どうか、この声が何者かに届いて、この扉を開けてレツを助けられますように。

 全体重をかけて扉を押す。

 ぐーっと力をこめて押し続けるけれど、ピクリとも動かない。

 両腕はパンパンに張り、ぴくぴくと悲鳴を上げ始める。

 開いて。お願い。開いて!

 奥歯を噛み締め、目をつぶって、ありったけの力で扉を押す。

「んー!」

 あらん限りの力で扉を押しながら、扉の上方を見上げる。

 あの取っ手……。

「動いてぇっ!」

 どれだけ力を籠めても、仰ぎ見る巨大な扉は開かない。

 あの時、確かにこの扉は向こう側へと開いたのに。

 ぜいぜいと音を立てる息の音が、零れてくる雫の音に混じる。

 肩で息をしながら情報を見つめると、頬の上に血が一滴降ってくる。

 ぞわっと寒気が走り、乱暴にその雫を腕で拭う。

 早く。早くなんとかしなくちゃ。

 鼻腔に届く血のニオイが、さっきよりも濃さを増しているように感じる。

 このままじゃ、レツの本当の姿さえも、血の侵食を受けてしまう。

 もう一度ありったけの力を籠めて、扉を押してみる。

 開いてよ。レツを助けたいのよ。

 おねがい、ひらいて。

 やっぱりレツの特別な力がなければ開かないの。

 私じゃダメなの?

 レツの為に、私は何も出来ないの?

 もどかしくて、悔しくて、自分の無力さがどうしようもなくて、考えるより先に叫んでいた。

「ひらけー!!」

 ピクリとも動かない扉を拳で叩きつけ、床にへたり込む。

 どうしたらいい。どうしたら。

 焦りとイライラでいっぱいで、ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟る。

 妙案なんて、出てこない。

 これが、私に出来る全てだ。

 両手で頭を抱え込みながら、天を仰ぐ。

 落ちてくる一滴一滴。その全てが憎らしい。

 重たくて大きな、この開かない扉が腹立たしい。

 何も出来ない自分自身が嫌になる。

 誰がこんな事態を招いたの?

 こんな事、どうして起きるのよ。

 レツは、水竜は、この国で最も尊い存在なのに。

 どうしてレツの住まう処が、血によって穢されなければいけないの。

 ここは、この国で最も神聖な場所なのに。

 沸騰してしまいそうな怒りが体を駆け巡る。

 たとえレツに何もなかったとしても、こんなこと許されることじゃないし、許せない。

 私は無力で、お飾りの、ついさっきまで瀕死だった巫女だけれど、もしもこれが人の手によってもたらされた災いなのなら、その人を絶対後悔させてみせる。

 人の世でも奥殿でも、何も出来ない事位身に染みてわかっているけれど、絶対にこんな事あっていいことじゃない。


 ドン。

 力の限り、見えない誰かへの怒りも籠めて扉を叩く。

 この巨大な壁。

 まるで永遠に、私とレツとを隔てている距離みたい。

 レツに対して何かをしたいと思った時、いつも私とレツの間を隔てる障壁が邪魔をする。

 悔しい。

 私も始まりの巫女みたいに、レツを具現化させる力が欲しい。

 ギリっと奥歯がきしむ。

 きっと今、すごく醜い顔をしている。

 叩いたって壊せるはずのない壁を、ドンドンと何度も叩きつける。

 何で、私には力がないの。

 どうして私は何もしてあげられないの。

 悔しい。悔しい。悔しくってしょうがない。

 月夜の下、湖の上でポツンと立ち尽くして涙を浮かべたレツ。

 絡み付く金と銀の鎖。

 全部、全部、私に力があれば解決出来るのに。

 こんなところに、レツを置いておいたりしないのに。

 今すぐレツの本質を抱き上げて逃げるのに。

 本当のレツをここから逃がして、自由にしてあげられるのに。

「何でダメなのよ!」

 両手を振り上げ、渾身の力を籠めて扉と叩く。

 激しい呼吸の音が、耳障りなほど響き渡る。

 まざまざと見せ付けられる「お前ではダメだ」というメッセージを叩き壊してしまいたかった。

 だけど、もうこれ以上、私に出来ることはない。

 強い怒りは姿を少しずつ消していき、その代わりに深い絶望感が襲ってくる。


 本当は私なんて、レツに必要とされていないのかもしれない。

 巫女なのに、こんな時に何もしてあげられない。

 かといって、前殿でも巫女としての業務を完璧に全うしているとも言えない。

 私が巫女に選ばれた意味って何だったんだろう。

 薄暗い奥殿の中は、血の落ちる音以外は静か過ぎるほど静かで、私の存在がちっぽけで、何でここにいるのかすらわからない。

「私、何でこんなところにいるんだろう」

 ボタボタと落ちる大粒の涙が止め処なく流れ、情けなくて、ずっと認めたくなかった言葉を口にせずにはいられない。

 いつも力不足で、泣いて、結局何も出来ていない。

 何の為に、私は巫女なんだろう。

「巫女になるべきじゃなかった」

 こんな緊急事態に、泣くしかできないんだもの。

 どんなに取り繕っても、私は田舎の村娘以上の何者でもないんだよ。


--成長して戻ってこいよ。


 ふいにウィズの笑顔が頭に浮かぶ。

 青々とした木々、優しい木漏れ日の中で見た穏やかな笑顔。

 私を力づけてくれる約束の言葉。

 巫女になった日。

 私が一番嬉しかった日。

 レツの声を聴けた、歓喜に震えた日。

 あの満ち足りた幸福な時間を、私は手に入れるべきじゃなかった。

 だって、他の誰かなら、もしかしたら今レツを助けてあげられたかもしれないんだもの。

 ごめんなさい。

 あの日、巫女になることを選ぶんじゃなかった。

 後悔が止め処なく押し寄せてきて、立っている事も出来ず、膝を抱えて壁を背にして座り込む。

 どうしようもない。

 きっとレツの本質も、本当のレツも穢されてしまう。私の力不足で。

 ごめんなさい。

 何も出来ない巫女でごめんなさい。

 涙で歪む視界の中、朱色が少しずつ勢力範囲を広げていく。

 入り口のそばで横たわるレツの姿が、小さな塊のように見える。

 何も出来ないけれど、せめてそばにいよう。



 ゆっくりと立ち上がり、決して遠くはない場所にいるレツの元へと歩く。

 歩き始めると、怒りで忘れていた底知れぬ恐怖がまた襲ってくる。

 さっきと同じように、まるで何かに追われているような。

 こわい。にげたい。

 カツ。カツ。

 響くのは確かに自分の足音だけなのに、でも何かが後ろから迫ってきている。

 耐え切れなくなって、目を固くつぶり立ち止まる。

 バクバクと心臓が壊れそうな位大きな音を立てている。

 得体の知れぬ「何か」が怖くて、カタカタと体が震えている。

 後ろに、何かいる。でも何がいるっていうの。

 やっぱりこの奥殿の中に進入した「誰か」がいるんだわ。

 何の為に。どんな目的があって?

 耳をどんなに澄ましても、迫ってくる足音なんて聞こえない。

 けど、確かに後ろから近付いてくる気配を感じる。

 もう我慢できないっ。

 流れ落ちる冷や汗を拭いもせず、全力で走り出す。

 ここにいるのが怖い。

 このままじゃ、捕まっちゃう。

 ぞわっと寒気がして、前進に鳥肌が立つ。

 逃げなきゃ。ここから早く出ないと。

 後ろを振り返るのも怖くて、ただ前を見て開放されている前殿へと続く橋へと抜けられる扉へと駆け抜ける。

 走っている間、聞こえてくるのは自分の足音だけ。

 それがまた、不気味で怖い。

 だって確実に気配は大きくなってくるんだもの。

 入り口に近付いてレツの顔が見え、走る速度を緩める。

 ここまでくれば大丈夫。

 ふいに、こんな時なのに、レツの顔見たら笑みが浮かんでくる。

 もう大丈夫。ここにはレツがいるんだもの。



--逃……げ……。



 血の海に横たわるレツを見下ろす頭の中に、微かに響くレツの声。

 奥殿にいるのに、まるで前殿でレツの声を聴いているかのように、耳じゃなく頭の中に声が聴こえる。

 立ち尽くし振り返った時、何か黒い巨大な影が頭上をうごめき、闇をもたらす。

 見上げても、それが何か全くわからない。

 なのに、微かに光に反射する鋭利な爪が光り輝いているのが見える。

 それを何故「爪」だと思ったのか、それすらも私の中に答えはない。

 ただただ見える全てを瞳に写し、ガタガタと震えているだけ。

 輝く爪がシュっという音を立てて、空を切る。

 その音がして暫くすると、頬が焼けるように熱くて、手のひらで頬を覆う。

 手を頬から離すと、手のひらは血で染まっている。

 爪で引き裂かれたんだわ。

 自分の事のはずなのに、全て他人事のように感じている。

 痛みを感じる事も、恐怖を抱く事もない。

 でも漠然と、死ぬんだろうなって思う。

 うん。それもいいかもしれない。

 麻痺した頭は、容易に死を迎え入れ、ゆっくりと目をつぶろうとしていた。



--逃げて!!



 レツの絶叫が耳に響き、はっと我に返る。

 同時に頬にピリっと痛みを感じる。そして薄ら寒いような感覚が前進を包む。


--今すぐここから逃げて。ボクの手の届かない迷宮の中へ。サーシャ。早く!」


 言っている意味はわからないけれど、全力で奥殿に背を向けて走り出す。

 逃げなくちゃ、捕まっちゃう。あの爪に。



 橋を渡り、くるりと湖の周囲をめぐり、木のアーチが続く通路を一気に駆け巡る。

 走って走って走って、そして奥殿へと続く通路から抜けた時、ふっと全身の力が抜けて座り込む。

 背中に感じていた重苦しい圧迫感はもう無い。

 もう大丈夫。逃げ切れた。

 気が抜けて座り込んだ頭上に、控えめな声が掛けられる。

「……巫女様……」

 聞き慣れたシレルの声。

 それと同時に、小さな悲鳴と誰かが倒れる音が聞こえる。

 けれど、誰が倒れたのかなんて気にならなかった。

 置いてきてしまった。あの場所にレツを。


 レツ、レツ。大丈夫?

 ねえ答えてよ。

 あのままにしちゃってゴメンね。怒ってる?





 どんなに呼んでも、レツの声が返ってこない。

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