第4話:汚点は磨けば光る
「……ごきげんよう、お義母様」
セラフィナの澄んだ声が、静まり返った広間に波紋のように広がった。
その一言は、単なる挨拶以上の意味を持っていた。それは、長年虐げられてきた者からの、優雅にして冷徹な宣戦布告だった。
ベアトリスの顔色は、白を通り越して土気色になっていた。喉の奥でヒューヒューという音が鳴り、引きつった唇がパクパクと動くが、言葉にならない。彼女の脳内では、理解不能な事態が発生し、思考回路がショートを起こしていたのだ。
あの薄汚い地下室の住人が。
家の「汚点」と呼び捨てていた存在が。
今、王太子の腕に抱かれ、夜空を切り取ったようなドレスを纏い、自分を見下ろしている。
「な……な、な……」
ようやく絞り出した声は、蛙が潰れたような醜いものだった。
「なんで……あなたが、そこに……」
「殿下がご紹介くださった通りですわ。私は、殿下の治療を担当させていただいた錬金術師として、この場に立っております」
セラフィナは扇を閉じ、小首をかしげて見せた。その仕草一つ一つが、計算されたように洗練されており、周囲の貴族たちから感嘆のため息が漏れる。
「そんな、馬鹿な……! ありえないわ!」
ベアトリスは叫んだ。周囲の目など気にする余裕はもうなかった。彼女の完璧な世界観が、音を立てて崩れ去ろうとしている恐怖が、彼女を衝き動かしていた。
「皆様、騙されてはいけません! この娘は、我が家の恥さらしなのです! 嘘つきで、薄汚くて、いつも泥遊びのような真似事ばかりしている、出来損ないなのです!」
会場がどよめいた。王太子のパートナーに対し、公衆の面前でこれほどの罵詈雑言を浴びせるなど、前代未聞だったからだ。
しかし、セラフィナは眉一つ動かさなかった。むしろ、哀れむような瞳で義母を見つめた。
「お義母様。……泥遊び、ですか」
「ええ、そうよ! 薬品の悪臭をまき散らし、高貴なオルコット家の品位を貶める害虫! それがあなたよ! 錬金術? 笑わせないでちょうだい。あんなもの、貧乏人がやる野蛮な魔術じゃないの!」
ベアトリスは一気にまくし立てた。彼女の中では、錬金術=不潔=悪という図式が絶対的な正義なのだ。
その時、冷ややかな声が割って入った。
「……野蛮、と申したか」
声の主は、クラウディス王太子だった。
先ほどまでの穏やかな表情は消え失せ、そこには絶対権力者としての氷のような威圧感が漂っていた。
「ベアトリス夫人。そなたは今、我が国最古の学問であり、私の命を救った神聖な技術を『野蛮』と愚弄したな?」
「ひっ……!」
ベアトリスは王太子の視線に射抜かれ、たじろいだ。
「ち、違います殿下! わたくしは、ただ真実を……この娘が、どれほどふさわしくない人間かをお伝えしようと……」
「ふさわしくないのは、どちらだ」
王太子は一歩、ベアトリスに歩み寄った。その一歩だけで、ベアトリスは目に見えない重圧に押され、膝が震えだす。
「セラフィナ嬢の手を見たことがあるか? 彼女の知識に耳を傾けたことがあるか? ……いや、あるまい。そなたは彼女の才能を『汚点』と決めつけ、地下室に幽閉し、虐げ続けてきたそうだな」
「そ、それは……しつけです! 教育の一環で……」
「教育? 研究室を破壊し、亡き母の形見を焼き捨てることがか?」
王太子の口から具体的な事実が突きつけられると、会場の貴族たちから「なんてことだ」「ひどすぎる」という非難のささやきが巻き起こった。
「あの日、私が倒れた日。彼女は破壊された瓦礫の中から、奇跡を拾い上げたのだ」
王太子はセラフィナの手を取り、皆に見えるように掲げた。
「彼女が私に飲ませてくれた『黄金の雫』。それは、そなたが彼女の実験室を破壊し、様々な薬品が偶然混ざり合ったことで生まれたものだそうだ」
「え……?」
ベアトリスは呆然と口を開けた。
セラフィナは静かに言葉を継いだ。
「皮肉なものですわ、お義母様。あなたが『掃除』と称して破壊したあの暴挙がなければ、殿下を救う特効薬は完成しませんでした。その意味では……感謝すべきなのかもしれませんね」
セラフィナの言葉には、毒が含まれていた。
破壊という悪意が、結果として最高の善行を生んでしまった。
それはベアトリスにとって、自分の存在意義そのものを否定されるに等しい屈辱だった。「私が殿下を救った」のではなく「私が虐めたおかげで殿下が助かった」などという事実は、彼女のプライドを粉々に砕いた。
「そ、そんな……嘘よ、嘘よ……あんなゴミ溜めから……」
ベアトリスはふらふらと後ずさった。
助けを求めて、隣にいたはずの娘、リリアーナを見る。
「リリアーナ、あなたも言ってやりなさい! この姉がどれほど卑しいか、あなたが一番知っているでしょう!」
しかし、リリアーナは動かなかった。
彼女は、青ざめた顔で母を見て、それから煌びやかなスポットライトを浴びる姉を見た。そして、周囲の貴族たちが、母を「狂人」を見るような目で見ていることに気づいてしまった。
リリアーナは愚かではあったが、生存本能だけは鋭かった。
このまま母の側にいれば、自分も「狂人の娘」として社交界から追放される。
「……お母様」
リリアーナは、扇で顔を半分隠し、冷たく言い放った。
「見苦しいですわ。……殿下の御前で、そのような暴言を吐くなんて」
「なっ……!?」
ベアトリスは信じられないものを見る目で娘を見た。
「何を言っているの、リリアーナ? お母様よ? あなたのために、こんなに素晴らしいドレスを用意して……」
「そのドレスも、今となっては道化の衣装にしか見えませんわ。……私、お姉様が錬金術師だなんて知りませんでしたの。お母様が『お姉様は病気で頭がおかしいから地下で療養している』って仰っていたから、信じていただけです」
リリアーナはすらすらと嘘をつき、一歩、また一歩と母から距離を取った。そして、セラフィナに向かって深々と頭を下げた。
「お姉様、いえ、セラフィナ様。無知な私をお許しください。……まさか、これほど素晴らしい才能をお持ちだったなんて」
その変わり身の早さに、セラフィナは呆れを通り越して感心すら覚えた。
(相変わらずね、リリアーナ。その強かさがあれば、どこででも生きていけるわ)
セラフィナは妹を責めなかった。妹もまた、この毒母の支配下で、歪んだ価値観を植え付けられた被害者の一人なのだから。
「……リリアーナ、あなた……裏切るのね!?」
ベアトリスは絶叫した。夫は空気のように存在感がなく、頼みの綱だった娘にも見捨てられた。
孤立無援。
四面楚歌。
そこへ、王太子が冷徹に告げた。
「衛兵。この者を捕らえよ。王家への不敬、ならびに、国の英雄に対する虐待の罪で、厳正なる裁きを下す」
「ひっ! や、やめて! 離して! 私は伯爵夫人よ! 私は被害者なのよ! 家の恥を隠そうとしただけで、なぜこんな目に!」
近衛兵に両脇を抱えられ、ベアトリスはその場に引きずり出された。
豪華なピンク色のドレスが床を擦り、髪は振り乱れ、かつての「完璧な貴婦人」の面影はどこにもない。
彼女は必死の形相で、セラフィナの足元にすがりつこうとした。
「セラフィナ! 助けてちょうだい! あなた、私の娘でしょう!? 育ててあげた恩を忘れたの!?」
見苦しい命乞い。
プライドもかなぐり捨てて這いつくばるその姿は、かつて地下室で「汚点」と罵られたセラフィナの姿と重なるようでいて、決定的に違っていた。
そこには「品格」のかけらもなかったからだ。
セラフィナは、床に這いつくばる義母を、静かに見下ろした。
怒りも、悲しみも、もう湧いてこなかった。
ただ、哀れみだけがあった。
セラフィナは、王太子に目配せをして許可を得ると、ゆっくりと膝を折り、義母の顔を覗き込んだ。
「お義母様」
耳元で囁くその声は、甘い毒薬のように優しかった。
「あなたは私を『汚点』と呼びましたね。家の名誉を傷つける、不要な汚れだと」
ベアトリスは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、憎悪と恐怖の混じった目で見返した。
セラフィナは、懐から小さな小瓶を取り出した。
あの日、地下室の瓦礫から救い出した、残りの「黄金の雫」が入った瓶だ。
それはシャンデリアの光を受けて、キラキラと幻想的な輝きを放っている。
「これが、あなたが汚点と呼んだものの結晶です」
セラフィナは小瓶を揺らし、その輝きを義母の瞳に焼き付けた。
「お義母様。……**汚点とは磨けば光るものだと、教えて差し上げましょう。**」
ベアトリスの瞳孔が開く。
「もっとも、あなたのその曇った眼には、最初からこの輝きが見えなかったようですが」
セラフィナはふわりと微笑み、立ち上がった。
そして、冷たく言い放った。
「さようなら。……二度と、私の視界に入らないでください」
その言葉を合図に、衛兵たちはベアトリスを乱暴に引きずっていった。
「いやぁぁぁぁ! 私は悪くない! 間違っているのは世界の方よぉぉぉ!」
断末魔のような叫び声が遠ざかり、やがて重い扉が閉ざされる音と共に消えた。
会場には一瞬の静寂が訪れ、次の瞬間、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
それは、悪を退け、真の実力者が正当に評価されたことへの称賛の拍手だった。
「見事だったよ、セラフィナ」
クラウディス王太子が、彼女の肩を抱き寄せた。
「ありがとうございます、殿下。……少し、言い過ぎてしまったかもしれません」
「いいや。彼女には必要な言葉だった。それに、君の最後の言葉……『汚点は磨けば光る』。あれは心理だね。君は自らの力で、その身を宝石へと変えたのだから」
セラフィナは恥ずかしそうに頬を染めた。
ふと見ると、会場の隅でリリアーナが小さくなっているのが見えた。彼女もまた、これから茨の道を歩むことになるだろう。社交界での立場は失墜し、家の再興は困難を極めるはずだ。だが、母という呪縛から解き放たれた彼女が、どう生きるかは彼女次第だ。
「さあ、踊ろうか。今宵の主役は君だ」
王太子に手を取られ、セラフィナはホールの中央へと進み出た。
音楽が奏でられ、二人は優雅にステップを踏み始める。
旋回する視界の中で、煌めくシャンデリアと、羨望の眼差しを送る人々が流れていく。
かつて地下室の暗闇の中で、孤独にフラスコを振っていた少女はもういない。
今の彼女は、国一番の錬金術師であり、王太子の愛する女性。
そして何より、自分自身を誇れる、気高い一人の人間だった。
(これで、本当に終わり)
セラフィナは心の中で、亡き母に語りかけた。
お母様。私の錬金術は、誰かを傷つけるためではなく、守るために使えました。
そして、私自身を守るための、最強の武器にもなりました。
「セラフィナ。……この騒動が落ち着いたら、君に専用の研究塔を贈ろうと思うんだ」
踊りながら、クラウディスが耳打ちした。
「研究塔、ですか?」
「ああ。最新の設備と、希少な素材を揃えた最高の場所だ。そこで、君には宮廷筆頭錬金術師として、この国の医療と科学を牽引してほしい。……もちろん、私の側でね」
それは、実質的なプロポーズであり、彼女の生き方を全面的に肯定する最高の愛の言葉だった。
セラフィナは満面の笑みを浮かべた。
それは、どんな宝石よりも美しく、見る者を魅了する輝きに満ちていた。
「はい、殿下! 喜んでお受けいたします。……ただし、たまには爆発してしまうかもしれませんけれど」
「ははは、それは困るな。だが、君が起こす爆発なら、きっとまた奇跡を生むに違いない」
二人の幸福な笑い声が、音楽と溶け合い、夜会は最高潮の盛り上がりを見せた。
悪意に満ちた「汚点」というレッテルは剥がれ落ち、そこには誰も傷つけることのできない、本物の輝きだけが残されたのだった。




