第3話:王命と称賛
「……あたたかい」
それが、死の淵から舞い戻ったクラウディス王太子が最初に紡いだ言葉だった。
石のように凝り固まっていた血管に、熱い血流が奔流となって駆け巡る。身体の芯から湧き上がる力強さは、病に倒れる前よりも遥かに充実していた。彼は自身の指先を目の高さにかざし、何度も握ったり開いたりして、その感覚を確かめた。
「殿下……! ああ、なんという奇跡だ!」
「顔色が、これほどまで良くなるとは」
周囲を取り囲む医師や騎士たちの歓喜の声が、遠くから聞こえるさざ波のように耳に届く。だが、クラウディスの意識は、それらの騒音を遮断し、ただ一点に集中していた。
ベッドの脇に佇む、紺色のローブを纏った小柄な人物。
銀の仮面の下から覗く瞳は、アメジストのように深く、澄んでいた。そして何より、この人物から漂う香り――甘く、芳醇で、どこか懐かしい陽だまりのような香り――が、彼を死の世界から引き戻したのだと本能が理解していた。
「……そなたが、私を救ってくれたのか」
クラウディスは上体を起こそうとした。周囲が慌てて制止しようとするが、彼は手でそれを払い、仮面の人物へと手を伸ばした。
「名を、教えてくれないか。我が命の恩人よ」
仮面の人物は一瞬ためらうように視線を伏せたが、やがて覚悟を決めたようにゆっくりと仮面に手をかけた。カチャリ、という小さな音と共に銀の覆いが外される。
現れたのは、煤と涙の跡で少し汚れた、けれど驚くほど理知的な顔立ちをした少女だった。色素の薄い灰色の髪はボサボサで、目の下には疲労の隈がある。宮廷の着飾った貴婦人たちとは比べ物にならないほど「見栄え」は悪い。
しかし、クラウディスは息を呑んだ。
その瞳に宿る光の強さに、心を射抜かれたのだ。
「……私の名は、セラフィナと申します。オルコット伯爵家の長女にございます」
「オルコット家……? あの、美と伝統を重んじるという?」
「はい。ですが、私は家にとって『汚点』でしかありません。錬金術などという、薄汚い真似事に没頭する変わり者ですので」
セラフィナは自嘲気味に笑い、自分の手を隠すように背後へ回した。薬品で変色し、細かな傷が無数にあるその手は、貴族令嬢にあるまじきものだと自覚していたからだ。
だが、クラウディスはその隠された手を素早く掴み取った。
「で、殿下!?」
「汚いなどと、誰が言った?」
王太子は、その荒れた手を両手で包み込み、宝物でも扱うかのように慈しんだ。
「この指先の傷は、幾多の実験を繰り返した証だろう。この染みは、真理を探究し続けた勲章だ。……美しい手だ。この手が、国中の誰も成し遂げられなかった奇跡を掴み取り、私の命を繋いでくれたのだから」
「……ッ」
セラフィナの大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
地下室で否定され続け、焼かれ、踏みにじられてきた彼女の誇りが、この国の次期国王によって初めて肯定された瞬間だった。
「ありがとう、セラフィナ嬢。君の知性と勇気に、心からの敬意を」
クラウディスは跪かんばかりの真摯な態度で、彼女の手の甲に口づけた。その光景は、薄汚れたローブ姿の少女が、ドレスを纏ったどんな令嬢よりも高貴に見える瞬間でもあった。
周囲で見守っていた筆頭魔術師が、満足げに髭を撫でる。
「陛下への報告は私がいたしましょう。……ですが殿下、この功績を公表するには、少々準備が必要ですな」
「ああ。彼女の名誉を回復し、そして彼女を虐げてきた者たちに相応の報いを与えるために、最高の舞台を用意しなくてはならない」
クラウディスの碧眼に、鋭い光が宿る。それは賢王としての冷徹な怒りと、命の恩人を守り抜くという熱い決意の色だった。
***
それから三日後。
オルコット伯爵邸のサロンは、狂喜乱舞の渦中にあった。
「まあ! まあ! ご覧になって、リリアーナ!」
継母ベアトリスは、王宮からの使者が届けた純白の封筒を握りしめ、顔を紅潮させていた。封筒には王家の紋章である金色の獅子が刻印され、最高級の紙が使われている。
「王太子殿下の快気祝い……! それも、オルコット家を『主賓』として招待すると書かれているわ!」
ソファーでふんぞり返っていたリリアーナも、弾かれたように飛び起きた。
「えっ、本当!? 主賓って、あの一番良い席に座れるってこと?」
「ええ、そうよ! やはり殿下は分かっていらっしゃるのね。私が毎日、殿下の回復を祈って最高級の香油を炊いていたことが、天に通じたのよ!」
ベアトリスの解釈は、あまりにも都合が良すぎた。
王宮からの招待状には「オルコット家の錬金術の功績を称え」という一文が添えられていたのだが、彼女の脳内で「錬金術」という単語は自動的に削除され、「オルコット家の献身」と変換されていたのだ。あるいは、夫である伯爵が何か寄付でもしたのだろうと勝手に納得していた。まさか地下室に閉じ込めたはずの前妻の娘が関わっているなど、想像の埒外だった。
「どうしましょうお母様、着ていくドレスがないわ! 流行の最先端のものを用意しなくちゃ!」
「慌てないで、リリアーナ。時間はまだあります。王都一番の仕立て屋を呼びつけなさい。金に糸目はつけません。今回の夜会は、あなたが次期王妃としてお披露目される事実上の婚約発表のようなものですからね」
「キャーッ! 素敵! 殿下ったら、病み上がりですぐに私に会いたがるなんて、情熱的なのね」
二人は手を取り合って踊るように喜んだ。
その喧騒の裏で、地下室の扉が壊されていることや、セラフィナの姿が屋敷のどこにもないことには、誰一人として関心を払わなかった。「どうせ恥じ入って隠れているのだろう」「死んでいたとしても、祝賀会の後で片付ければいい」――その程度の認識しかなかったのだ。
ベアトリスの指示で、屋敷中の金目のものが換金され、最高級のシルクや宝石が買い集められた。
「もっと派手に! もっと輝かしく! 王家の隣に並ぶのですから、誰よりも目立たなくてはなりません!」
ベアトリスの美的感覚は「豪華絢爛」こそが正義だ。リリアーナのためにあつらえられたドレスは、鮮やかなピンク色を基調とし、無数のレースとフリル、そして過剰なほどのダイヤモンドが縫い付けられたものになった。歩くたびにジャラジャラと音がしそうなそのドレスを見て、ベアトリスは「完璧よ」と涙ぐんだ。
「これこそがオルコット家の『美』。あの煤けた汚点がいなくなったことで、ようやく我が家は本来の輝きを取り戻したのよ」
「ええ、お母様。私、きっと殿下を虜にしてみせるわ」
リリアーナは鏡の前でポーズを取り、うっとりと自分の姿に見惚れた。その姿が、まるで飾り立てられた道化師のように滑稽であることに気づく者は、この屋敷には誰もいなかった。
***
一方、王宮の客室。
セラフィナは、三人の侍女に囲まれて困惑していた。
「あ、あの……これほど高価な生地は……」
「何を仰いますか、セラフィナ様! これは殿下が直接選ばれた生地でございますよ」
「ええ、あなたの瞳の色にぴったりの、深い夜空の色ですわ」
侍女たちは楽しそうに、セラフィナの身体に布を当てていく。
王宮に保護されてからの数日間、セラフィナは夢のような時間を過ごしていた。温かい食事、清潔なシーツ、そして何より、誰も彼女を「汚い」と罵らない環境。筆頭魔術師をはじめとする学者たちは、彼女の錬金術の知識に敬意を表し、対等な議論を求めてきた。
(私の知識は、間違っていなかったんだ……)
失われた自信が、少しずつ、けれど確実に積み上げられていくのを感じていた。
そこへ、ノックの音と共にクラウディス王太子が入室してきた。まだ病み上がりとは思えないほど、その足取りはしっかりとしている。
「準備は進んでいるかな?」
「殿下……。あ、あの、本当によろしいのですか? 私のような者が、殿下のパートナーとして隣に立つなど……」
セラフィナは俯いた。長年染み付いた卑屈さは、そう簡単には拭えない。
クラウディスは侍女たちを目配せで下がらせると、セラフィナの前に立ち、その肩に優しく手を置いた。
「君のような者だからこそ、だ。君は命の恩人であり、この国を救った英雄だ。それに……」
彼は少し悪戯っぽく微笑んだ。
「私は君との会話が楽しくて仕方がないのだ。昨晩話してくれた、『月光草の変異性』についての理論。あれほど知的好奇心を刺激されたのは久しぶりだ。君となら、退屈な公務も彩り豊かなものになるだろう」
「殿下……」
「自信を持ってほしい。君は『汚点』などではない。原石ですらなかった。君は最初から、誰よりも輝く宝石だったのだから」
クラウディスの言葉は、熱を持ってセラフィナの心に染み渡った。
彼女は顔を上げ、彼の瞳を見つめ返した。そこには、同情ではなく、信頼と好意がはっきりと見て取れた。
「……はい。謹んで、お受けいたします」
「ありがとう。……さあ、今夜は思い切り着飾ってくれ。君を捨てた家族たちが、君だと気づかないくらいにね」
その夜、セラフィナが身に纏ったのは、深いミッドナイトブルーのドレスだった。
過度なフリルやレースは一切ない。シンプルながらも洗練されたAラインのシルエットが、彼女の華奢な身体のラインを美しく引き立てている。
特筆すべきは、ドレスの裾や袖口に施された刺繍だ。金糸を使って描かれているのは、花柄ではなく、星図や幾何学模様――錬金術の魔法陣を模したデザインだった。
それは「美しい」だけでなく「知性」を感じさせる、彼女だけのための戦闘服。
髪は丁寧に手入れされ、艶やかな銀髪がアップスタイルにまとめられている。化粧も、彼女の本来の透明感を活かした控えめなもの。
鏡に映る自分を見て、セラフィナは一瞬、息を止めた。
「これが……私?」
「ええ、とてもお似合いです」
背後からクラウディスが声をかける。彼は彼女の腰に手を回し、エスコートの体勢を取った。
「行こうか。君の輝きを、世界に見せつけるために」
セラフィナは深く頷き、その腕に手を添えた。
もう迷いはない。震える足に力を込め、彼女は王太子の隣を歩き出した。
***
王宮の大広間「鏡の間」は、数百本の蝋燭とシャンデリアの光に満ち、眩いばかりの輝きを放っていた。王国中から集まった高位貴族たちが、グラスを片手に談笑している。
その中でも一際異彩を放っていたのが、オルコット伯爵夫人ベアトリスと、その娘リリアーナだった。
ピンク色のドレスのボリュームは周囲を圧迫し、強すぎる香水の匂いがすれ違う人々をしかめっ面させている。しかし当の本人たちは、それを「羨望の眼差し」と勘違いしていた。
「ほら見て、リリアーナ。皆があなたを見ているわ」
「ええ、お母様。私の美しさに圧倒されているのね」
二人は扇で口元を隠しながら、勝ち誇ったように会場の中央へと進んでいく。
周囲の貴族たちは、ヒソヒソと噂話を交わしていた。
「あれがオルコット伯爵夫人か……随分と派手だな」
「噂では、今回の功労者はオルコット家の人間だというが」
「まさか、あの派手な娘が錬金術を? とてもそうは見えんが」
そんな冷ややかな視線も、ベアトリスには届かない。彼女は、王太子が現れた瞬間にリリアーナを押し出し、婚約者として認知させるシミュレーションで頭がいっぱいだった。
やがて、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
会場のざわめきがピタリと止まり、全員の視線が大階段の上の扉へと注がれる。
「国王陛下、ならびにクラウディス王太子殿下の御成!」
重厚な扉がゆっくりと開かれる。
まず現れたのは、安堵の表情を浮かべた国王陛下。そしてその後に続いたのが、奇跡の生還を遂げたクラウディス王太子だった。
病み上がりとは思えない颯爽とした姿に、会場から感嘆のため息が漏れる。
だが、次の瞬間。
会場の空気が大きく揺らいだ。
王太子の左腕に、一人の令嬢の手が添えられていたからだ。
「……誰だ?」
「見たことのない令嬢だぞ」
「なんて美しい……夜の女神のようだ」
深い紺色のドレスを纏ったその女性は、凛とした表情で王太子の隣に立ち、堂々と階段を降りてくる。その姿は、王太子のパートナーとしてあまりにも完璧で、調和が取れていた。
最前列に陣取っていたベアトリスは、目を疑った。
「な……何よ、あれは」
自分の娘リリアーナが隣に立つはずだった場所に、見知らぬ女がいる。
それだけでも許しがたい屈辱なのに、その女の顔には、どこか見覚えがあった。
(まさか……いえ、ありえないわ)
ベアトリスは激しく首を振った。
あの「汚点」は、薄汚い地下室で煤まみれになっているはずだ。あんな、洗練された所作で、知性を滲ませて歩くような優雅な生き物ではない。あんな風に、王太子と親しげに微笑み合うなど、天地がひっくり返ってもありえない。
「お母様……あの人、誰? ムカつくわ。私の場所を奪うなんて!」
リリアーナが地団駄を踏む。
「落ち着きなさい。きっと、ただのゲストよ。あるいは他国の王女かもしれないわ。だとしても、今日の主役は私たちオルコット家なのよ。殿下が私たちを紹介してくださるはずだわ」
ベアトリスは必死に自分に言い聞かせ、引きつった笑みを浮かべて王太子の到着を待った。
階段を降りきった王太子と謎の令嬢は、貴族たちの作る人垣の間を通り抜け、ホールの中央へと進み出る。その間、王太子は片時も彼女から目を離さず、何かを囁きかけては、彼女を安心させるように微笑んでいた。
その親密さは、誰の目にも明らかだった。
ベアトリスの心臓が早鐘を打つ。
近づいてくるにつれて、その令嬢の顔立ちがはっきりと見えてくる。
透き通るような白い肌。
意思の強さを感じさせる眉。
そして、あの忌々しい前妻に瓜二つの、アメジスト色の瞳。
(嘘……嘘よ、嘘よ嘘よ!)
ベアトリスの顔から血の気が引いていく。
ドレスも、髪型も、雰囲気も、匂いすらも全く違う。
けれど、その骨格は、その存在感は、間違いなく彼女が虐げ、否定し続けてきた義娘のものだった。
王太子と令嬢が、ベアトリスの目の前で足を止めた。
周囲の貴族たちが固唾を飲んで見守る中、クラウディス王太子が静かに口を開いた。
「皆、今宵は私の快気祝いに集まってくれて感謝する」
よく通る声が、ホールに響き渡る。
「私が死の淵から生還できたのは、ここにいる一人の女性の、勇気ある行動と深い知恵のおかげだ」
王太子は、隣に立つ令嬢の手を取り、高く掲げた。
「紹介しよう。私の命の恩人であり、この国が誇るべき最高の錬金術師――」
ベアトリスの喉が、ヒュッと鳴った。
心の中で「やめて」と叫ぶが、声にならない。
「――オルコット伯爵家令嬢、セラフィナ嬢だ」
その名が告げられた瞬間、会場は雷に打たれたような衝撃と、割れんばかりの拍手に包まれた。
ただ二人、ベアトリスとリリアーナを除いて。
セラフィナは、拍手の波の中でゆっくりとベアトリスの方へ視線を向けた。
その瞳は、かつて地下室で怯えていた少女のものではない。
冷たく、静かで、そして全てを見透かすような「強者」の瞳だった。
セラフィナは扇で口元を隠し、優雅に、しかし残酷なほど美しく微笑んだ。
「ごきげんよう、お義母様。……あら? 顔色が優れませんわね。まるで、幽霊でも見たかのようなお顔ですわ」
その声を聞いた瞬間、ベアトリスの作り上げてきた虚飾の世界に、ピキリと亀裂が入った音がした。




