第2話:覆面の錬金術師
地下室の扉は、頑丈な鉄の錠前で閉ざされていた。物理的な力でこじ開けることは、か弱き乙女の腕では到底不可能だ。しかし、私には知識がある。瓦礫の山から奇跡的に見つけ出したのは、「黄金の雫」だけではなかった。床に散らばっていた薬品の残骸の中には、強力な酸性の溶剤を含んだ瓶の破片もあったのだ。
私はハンカチに染み込ませたその液体を、慎重に鍵穴へと流し込んだ。
ジジジ……という微かな音と共に、白い煙が立ち上る。金属が腐食する独特の刺激臭が鼻を突くが、今の私にとっては自由へのファンファーレのように感じられた。数分後、カチャリという乾いた音がして、錠前の機構が崩れ落ちた。
「開いた……」
重い扉をそっと押し開ける。廊下は静まり返っていた。深夜の屋敷は、昼間の喧騒が嘘のように静寂に包まれている。使用人たちも、義母様たちも、皆眠りについている時間だ。
私は音を立てないよう、抜き足差し足で階段を上がった。目指すは自分の部屋だ。そこには、唯一義母様の魔の手から隠し通していた、母の形見の夜会用ドレスがある。今のボロボロの格好では、王宮に近づくことさえできない。資金も必要だ。あのドレスを売れば、なんとか変装の道具を揃えられるはずだ。
幸い、誰にも見つかることなく自室にたどり着くことができた。クローゼットの奥、床板の下に隠しておいた包みを取り出す。深紅のベルベットで作られた、優美なドレス。母が若き日に一度だけ袖を通したという、思い出の品。
「お母様、ごめんなさい。でも、このドレスが国を、そして私の未来を救う鍵になるの」
ドレスに頬ずりをして別れを告げると、私はそれを風呂敷に包み、窓から庭の木を伝って屋敷を抜け出した。夜風が冷たい。けれど、胸の内で燃える使命感が、寒さを忘れさせてくれた。
王都の街並みは、夜だというのに異様な熱気に包まれていた。いや、それは熱気というよりは、不安と焦燥が入り混じった澱んだ空気だった。王太子殿下の病状悪化の噂は、既に市井にまで広まっているのだろう。時折通り過ぎる巡回兵の表情も険しい。
私は裏通りにある、深夜営業の古着屋兼質屋へと足を向けた。ここは身分を隠した貴族や、怪しげな品を売り買いする者たちが集まる場所だ。
「いらっしゃい。……なんだ、随分と汚れたお嬢さんだな」
店主の老人が、カウンター越しに怪訝な顔を向ける。私はフードを深く被り直し、震えそうになる声を抑えて、包みを差し出した。
「これを買い取っていただきたいの」
包みを開いた瞬間、店主の目が大きく見開かれた。薄暗いランプの光の下でも、ベルベットの光沢と、ふんだんにあしらわれた刺繍の質の高さは隠しようがない。
「こりゃあ……上玉だな。伯爵家御用達の仕立て屋の仕事だ。盗品か?」
「家宝です。急用でお金が必要になったの。詮索はしないで」
毅然とした態度で告げると、店主は「ふん」と鼻を鳴らし、金貨の袋をカウンターに置いた。足元を見られた価格だったが、交渉している時間はない。私は金を受け取ると、そのまま店内の吊るし売りコーナーへと向かった。
「それと、このローブと、あの仮面もいただくわ」
私が選んだのは、魔法使いが着るような厚手の濃紺のローブと、顔の上半分を覆う銀細工の仮面だった。さらに、薬瓶を入れるための革の鞄も購入した。
店の奥で着替えを済ませ、鏡の前に立つ。そこにはもう、虐げられた令嬢セラフィナの姿はなかった。ローブのフードを目深に被り、銀の仮面から瞳だけを覗かせる姿は、正体不明の魔女か、あるいは高名な賢者のように見えなくもない。
「……行かなくちゃ」
私は「黄金の雫」が入った小瓶を革鞄の底に忍ばせ、夜の王都へと駆け出した。
一方その頃、オルコット伯爵邸では、まだ明かりのついている部屋があった。
豪華な調度品に囲まれたサロンで、ベアトリスとリリアーナは優雅にハーブティーを啜っていた。深夜だというのに二人が起きているのは、王宮からの急な呼び出しに備えてのことだったが、その表情に悲壮感はない。
「お母様、本当に大丈夫かしら。王太子殿下が亡くなったら、次期王妃の座もなくなってしまうわ」
リリアーナがクッキーをかじりながら、心配そうに眉を寄せる。しかしベアトリスは余裕の笑みを浮かべ、娘の髪を優しく撫でた。
「心配いりませんよ。王宮には優秀な治癒師が山ほどいます。一時的に騒いでいるだけで、すぐに回復されるはずです。それよりも、回復された後のことが重要よ」
ベアトリスは瞳をぎらつかせ、テーブルの上に広げられたドレスのデザイン画を指差した。
「殿下が病床から起き上がった時、一番最初に目にするのが、献身的に回復を祈っていた美しい令嬢……つまり、あなたであるべきなの。他の家が『治療法がない』と諦めて引き下がっている今こそ、お見舞いの品を持って駆けつける絶好の機会よ」
「なるほど! さすがお母様ね。弱っている殿下の心に付け入る……じゃなくて、寄り添うのね」
「その通りです。邪魔な長女も地下室に閉じ込めたし、これで憂いはありません。あの薄汚い『汚点』がいないだけで、この家の空気はこんなにも清浄なのですから」
「あはは、本当ね! あのお姉様、今頃地下で泣き叫んでいるかしら。それともネズミとお友達になってるかも」
二人は高らかに笑い合った。地下室の扉が溶かされ、もぬけの殻になっていることなど、露ほども知らずに。彼女たちの想像力の欠如こそが、最大の弱点であり、後に訪れる破滅への序章だった。
王宮の正門前は、混沌を極めていた。
「通してくれ! 私の回復魔法なら、殿下をお救いできる!」
「怪しげな薬など信用できるか! 下がれ!」
松明の明かりに照らされた門前には、一攫千金を狙う自称治療師や、怪しげな祈祷師たちが押し寄せ、それを阻止しようとする近衛騎士たちとの間で押し問答が続いていた。怒号と叫喚が飛び交う様は、まるで戦場のようだ。
私は群衆の後ろから、その様子を冷静に観察していた。正面から突っ込んでも、彼らと同じように追い返されるだけだ。騎士たちの目は血走り、疲労と不信感で濁っている。誰も彼もが嘘つきに見えているのだろう。
ここを通るには、ただの「治療師」として振る舞ってはいけない。もっと圧倒的な、有無を言わせぬ「何か」が必要だ。
私は深呼吸をして、意識を切り替えた。今の私は伯爵令嬢ではない。真理を探究する錬金術師だ。
群衆をかき分け、最前列へと進み出る。一人の騎士が、私の行く手を槍で阻んだ。
「なんだ貴様は。関係者以外は立ち入り禁止だ。帰れ!」
「王太子殿下の『石化熱』を治療しに参りました」
私は静かに、しかしよく通る声で告げた。周囲の喧騒が一瞬、凪いだように静まる。
「石化熱だと……? なぜ、病名を知っている」
騎士が眉をひそめた。病名は公表されていないはずだ。単なる「急病」としか発表されていない。私がそれを知っていたのは、地下室での盗み聞きのおかげだが、それを悟られてはいけない。
「石化熱特有の匂いが、ここまで漂ってきております」
私は嘘をついた。だが、錬金術師としてのハッタリも実力のうちだ。
「風に乗って運ばれる微量なエーテルの乱れ。そして、門番であるあなた方の顔色。皮膚がわずかに灰色がかり、乾燥している。これは高濃度の石化の呪いに長時間触れた者の特徴です」
騎士たちが慌てて自分の顔や手を触る。もちろん、そんな症状は出ていない。だが、不安に駆られている人間は、暗示にかかりやすい。
「で、デタラメを言うな! 我々は健康だ!」
「今は、まだ。ですが、源泉を断たねば、この城にいる全ての者が石像と化すでしょう。……それでも私を追い返しますか?」
フードの下から、射抜くような視線を向ける。騎士がたじろいだその時、背後から威厳のある低い声が響いた。
「……通しなさい」
現れたのは、白髪の初老の男性だった。身につけている豪奢なローブと、手にした杖から、彼が宮廷筆頭魔術師であることが分かった。彼もまた、目の下に深い隈を作り、憔悴しきっていた。
「グランド・マエストロ! しかし、このような素性の知れない者を……」
「構わん。病名を言い当て、さらに『二次感染』のリスクまで指摘したのは、この者が初めてだ。……それに、もう我々には打つ手がない」
老魔術師の言葉には、深い絶望が滲んでいた。彼は私の前に立つと、探るような視線を銀の仮面に投げかけた。
「名は?」
「……名乗るほどの者ではありません。ただの、流れの錬金術師です」
「よかろう。だが、もし殿下の御体に害をなすようなことがあれば、その首が飛ぶと思え」
「承知しております」
重厚な正門が、ギギギと音を立てて開かれた。私は背筋を伸ばし、堂々と王宮の敷地内へと足を踏み入れた。
案内されたのは、王宮の最奥にある王太子の寝室だった。
部屋の前には数人の高位の医師と護衛の騎士が立ち尽くし、沈痛な面持ちで俯いていた。扉が開くと、ムッとするような熱気と、埃っぽいような乾いた臭いが流れ出してきた。これが、石化の呪いの臭いだ。
天蓋付きの大きなベッドに、王太子クラウディス殿下は横たわっていた。
その姿を見て、私は息を呑んだ。
美しい金色の髪は輝きを失い、透き通るようだった肌は、肘から先、そして足先から膝にかけて、不気味な灰色に変色していた。石化は確実に進行しており、心臓へと向かっている。呼吸は浅く、胸の上下も微かだ。
「ひどい……」
「もう、時間の問題だ。あと数時間で心臓に達するだろう」
筆頭魔術師が苦しげに呟いた。
「あらゆる解呪魔法、聖女による祈祷、希少な薬草……すべて試した。だが、石化の進行を遅らせることすらできなかった。お主に何ができると言うのだ」
部屋にいる全員の視線が、私に突き刺さる。期待よりも、諦めと疑念の色が濃い視線だ。どうせ失敗するだろう、という冷ややかな空気が満ちている。
私は無言でベッドサイドに近づいた。そして、革鞄から小さな香水瓶を取り出した。
「それは?」
「我が一族に伝わる、秘伝の霊薬……の、ようなものです」
私はコルクの栓を抜いた。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
甘く、芳醇で、どこか懐かしい香りが爆発的に広がったのだ。それは死の臭いを瞬時に駆逐し、まるで春の花畑にいるかのような錯覚を抱かせた。
「な、なんだこの香りは……!」
医師たちが驚愕の声を上げる。筆頭魔術師も目を見開いた。
「魔力が……濃縮されている? いや、それだけではない。これは、生命力そのものの輝きか?」
私は香水瓶を傾け、中身をスプーンに一滴だけ落とした。黄金色の液体は、ランプの光を受けてキラキラと輝き、まるで自ら発光しているかのように見えた。
「これは『エリクサー』の亜種です。破壊と再生の狭間で生まれた、奇跡の雫。石となった細胞に、再び命の脈動を与えることができるはずです」
「エリクサーだと!? 馬鹿な、それは伝説上の……」
「論より証拠。飲ませてみれば分かります」
私はスプーンを殿下の唇へと近づけた。
「待て!!」
鋭い声と共に、近衛騎士団長と思われる男が私の腕を掴んだ。
「貴様、正気か? どこの馬の骨とも知れぬ薬を、殿下に飲ませるなど!」
「離してください。一刻を争います」
「ならぬ! 毒見が先だ!」
「毒見をしている時間はありません! それに、この薬は世界にこれしか存在しないのです。毒見で消費してしまえば、殿下を救う分がなくなります」
「なんだと……!? そんな戯言が通じると思っているのか!」
騎士団長の手の力が強まり、私の手首が軋む。痛い。けれど、ここで引くわけにはいかない。私は仮面越しに、騎士団長を睨みつけた。
「では、あなたが殿下を殺すのですか?」
「な……!」
「私の薬を試せば、助かる可能性がある。試さなければ、確実に死ぬ。……どちらを選びますか? あなたのその『慎重さ』が、殿下の命綱を断ち切ろうとしているのですよ」
私の言葉は、不敬極まりないものだった。処刑されても文句は言えない。だが、その場の誰もが反論できなかった。私の目には、一点の曇りもない確信が宿っていたからだ。
「……団長、手を離せ」
沈黙を破ったのは、筆頭魔術師だった。
「しかしマエストロ!」
「この娘の言う通りだ。我々にはもう、賭けるチップすら残っていない。……それに、私の魔眼が言っている。その黄金の液体は、決して毒ではないと」
騎士団長は悔しげに歯噛みし、乱暴に私の手を離した。
「……失敗したら、その場で斬り捨てる」
「構いません」
私は短く答え、再び殿下に向き直った。
震える手で、硬く閉ざされた殿下の唇をこじ開ける。スプーンに乗った黄金の一滴が、ゆっくりと口の中へと流れ込んでいく。
ゴクリ、と喉が動いた音がした。
全員が固唾を飲んで見守る。一秒が永遠のように感じられた。
最初は、何も起きなかった。
失敗か……? 誰かが落胆の息を漏らしかけた、その時。
カッ!
殿下の身体が、内側から激しい光を放った。まばゆい黄金の光が部屋中を満たし、私たちは思わず目を覆った。
「うおっ!?」
「な、なんだ!?」
光は数秒間続き、やがて粒子となって霧散していった。
恐る恐る目を開けた私たちは、信じられない光景を目にした。
灰色に染まっていた殿下の肌から、石化の色が嘘のように消え失せ、健康的な血色が戻っていたのだ。止まりかけていた胸の上下動も、力強く規則正しいものに変わっている。
「……ん……」
そして、長い睫毛が震え、クラウディス王太子殿下がゆっくりと瞳を開けた。その瞳は、宝石のような鮮やかな碧色を取り戻していた。
「……ここは……?」
「で、殿下!!!」
「奇跡だ……! 石化が、解けたぞ!!」
歓声が上がった。医師たちは抱き合って泣き、騎士団長はその場に崩れ落ちて神に感謝を捧げている。筆頭魔術師は、信じられないものを見る目で私を見つめていた。
「本当に……成し遂げるとは。お主、一体何者だ?」
私は答えなかった。ただ、安堵で力が抜けそうになる膝を必死に支え、ベッドの上の殿下と目が合った。
殿下は、まだ焦点の定まらない瞳で、仮面をつけた私をじっと見つめた。
「……君が、私を……?」
その声は掠れていたが、はっきりとした理性が宿っていた。
「……ご無事で何よりです」
私は深くお辞儀をした。込み上げてくる涙を、仮面の下でぐっと堪える。
やった。私にもできた。誰かの役に立つことが、「汚点」と呼ばれたこの手で、未来を救うことができたのだ。
しかし、私の戦いはこれで終わりではない。むしろ、ここからが本当の始まりだ。
私は顔を上げ、筆頭魔術師に向かって毅然と言い放った。
「約束通り、治療は成功しました。……つきましては、私の素性を詮索しないこと、そして報酬の件で、後ほど改めてお話をさせていただきたく存じます」
私の「ざまぁ」の舞台は、まだ幕を開けたばかりなのだから。
その時、宮殿の外では、まだ何も知らないベアトリスとリリアーナの乗った馬車が、悠々と正門へ近づいていた。彼女たちがこれから直面する現実を、まだ誰も知らない。




