第1話:瓦礫の中のきらめき
地下室の空気は、いつもひんやりと冷たく、そして少しだけかび臭い。けれど私、セラフィナ・オルコットにとって、この場所は何よりも落ち着く聖域だった。石造りの壁に囲まれた薄暗い空間には、乾燥したハーブの青臭さと、煮詰められた薬液のツンとする刺激臭が入り混じっている。華やかな香水が漂う地上のサロンとは対極にあるこの匂いこそが、私にとっての「安らぎ」だった。
「あと少し……あと、一滴」
私は作業台の上で、慎重にスポイトを傾けた。目の前にあるフラスコの中では、紫色の液体が不穏な泡を立てている。そこへ、抽出したばかりの月光草のエキスを一滴、また一滴と垂らしていく。
ジュッ、という微かな音と共に、紫色の液体が白濁し、やがて透明へと変化していく。成功だ。
「よし……これで中和剤の基礎は完成ね」
額に滲んだ汗を手の甲で拭うと、白い肌に黒い煤がついた。けれど、そんなことは気にならない。亡きお母様が遺してくれた古い文献、そこに記された「万能の霊薬」の記述。それを現代の錬金術で再現しようとする試みは、もう三年も続いていた。
お母様は、素晴らしい錬金術師だった。貴族の令嬢でありながら、ドレスよりも白衣を愛し、宝石よりも薬草の輝きに目を細める人だった。「セラフィナ、世界には目に見える美しさとは別に、隠された真理という美しさがあるのよ」そう言って微笑んでいた母の面影を、私はこのフラスコの中に追い求めているのかもしれない。
ふと、階上からドスドスという荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえた。心臓が跳ね上がる。この地下室は、使用人ですら滅多に近づかない場所だ。こんな時間に、こんな乱暴な足音を立ててやってくる人物は一人しかいない。
私は慌てて実験道具を布で隠そうとしたが、遅かった。
バン! と激しい音を立てて、重厚な木の扉が開け放たれる。地下室の入り口に立っていたのは、豪奢な深紅のドレスに身を包んだ、継母のベアトリス義母様だった。
「……ッ、ここにいたのね、この薄汚いネズミが!」
ベアトリス義母様は、ハンカチで鼻と口を覆いながら、汚物を見るような目で私を睨みつけた。その後ろからは、義理の妹であるリリアーナが、お母様の真似をして扇で顔を仰ぎながら顔をのぞかせている。
「お義母様、どうされたのですか。ノックもなしに……」
「黙りなさい! ノック? この家の主である私が、家の『汚点』が生息する場所に立ち入るのに、礼儀など必要ありませんわ!」
ベアトリス義母様の怒声が、狭い地下室に反響する。彼女の完璧にセットされた金髪が、怒りで震えていた。
「またこんな……気味の悪いことをしていたのね。薬品の臭いが上の階まで漂ってきて、わたくしの頭痛がひどくなりましたのよ。明日は王宮での夜会があるというのに、ドレスにこんな異臭が染み付いたらどう責任を取るつもり?」
「申し訳ありません。ですが、換気は十分に行っていますし、扉も閉めておりました。匂いが漏れるはずは……」
「言い訳をするなと言っているのです!」
ヒステリックな声と共に、義母様が大股で歩み寄ってくる。彼女にとって、私がここで行っていることは、高貴なオルコット伯爵家の品位を傷つける、許しがたい蛮行なのだ。
「お父様……伯爵様には、研究の許可をいただいております」
私は精一杯の抵抗として、父の名前を出した。父は婿養子であり、実権はベアトリス義母様が握っているとはいえ、曲がりなりにも当主だ。しかし、その言葉は火に油を注ぐだけだった。
「あの人は甘すぎるのです! 前妻の娘だからと甘やかして……いいこと? あなたのその薄汚れた手、薬品で変色した爪、煤けた頬。それら全てが、わたくしたちオルコット家の恥なのです。リリアーナをご覧なさい。宝石のように美しく、薔薇のように香り高い。これこそが貴族の令嬢のあるべき姿です」
リリアーナは勝ち誇ったように胸を張り、私を冷笑した。
「そうよ、お姉様。そんなカビ臭い部屋に引きこもってないで、少しは自分を磨いたらどう? まあ、素材が違うから無駄かもしれないけれど」
クスクスという笑い声が、私の胸を刺す。けれど、私は唇を噛んで耐えた。何を言われてもいい。この研究だけは、お母様との絆だけは、誰にも奪わせない。
しかし、今日の義母様は、いつもとは様子が違っていた。ただの小言では終わらない、どす黒い決意のようなものを瞳に宿している。
「もう我慢の限界です。何度言っても分からないのなら、物理的に分からせて差し上げましょう」
義母様はパチンと指を鳴らした。すると、扉の後ろに控えていた数人の屈強な男性使用人が、無表情で入ってきた。彼らは手に、ハンマーや鉄の棒を持っていた。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「お、お義母様……? 何をなさるおつもりですか」
「掃除よ。徹底的な、ね」
ベアトリス義母様は、紅を差した唇を三日月のように歪め、冷酷に命じた。
「やりなさい。ここにある薄気味悪い道具も、紙切れも、すべて粉々にしなさい。二度とこの娘が、忌まわしい真似事をできないように」
「やめて!」
私は叫び、作業台の前へ飛び出した。けれど、使用人の男に乱暴に腕を掴まれ、壁際へと突き飛ばされた。
「離して! お願い、それだけはやめて! それは母様の……!」
私の悲痛な叫びなど聞こえないかのように、破壊の宴が始まった。
ガシャン! という鋭い音が響き、ガラス製の蒸留器が床に叩きつけられて砕け散る。私が何ヶ月もかけて調整したガラス管が、無残な破片へと変わっていく。
「ああ……ッ」
ドガッ、バキッ。
木製の棚がなぎ倒され、貴重な薬草が入った瓶が次々と割れていく。床には様々な色の液体がぶちまけられ、異様な匂いが立ち込める。その匂いを嗅いだ義母様は、「オエッ」と顔をしかめながらも、愉悦に歪んだ表情を隠そうともしなかった。
「お母様の……お母様の研究ノートだけは……!」
私は這いつくばるようにして、一冊の古びた革表紙のノートへ手を伸ばした。そこには、母が生涯をかけて記した知識が詰まっている。私の命よりも大切なもの。
しかし、私の指先が表紙に触れる直前、鋭いヒールの踵が、私の手背を踏みつけた。
「うっ!」
激痛が走り、思わず手を引っ込める。見上げると、ベアトリス義母様が私を見下ろしていた。その目は、虫けらを見るような、完全なる蔑みに満ちていた。
「汚らわしい。その手が触れると、さらに汚れてしまいますわ」
義母様は私の目の前で、使用人にそのノートを拾い上げさせると、パラパラとめくり、鼻で笑った。
「何が錬金術よ。ただの妄想が書き殴ってあるだけじゃない。こんなゴミにすがっているから、あなたはいつまで経っても『汚点』なのよ」
「返して……それを返して……」
「ええ、返してあげるわ。灰にしてね」
義母様は、近くにあったアルコールランプを倒し、そこへ火を放ったノートを放り込んだ。
「あっ、あぁぁぁぁ!」
炎が、古びた紙を舐めるように燃え上がっていく。私の叫び声は、燃え盛る炎の音にかき消された。母の文字が、母の知識が、黒い炭へと変わっていく。
涙が溢れて止まらなかった。悲しみとか、悔しさとか、そんな言葉では言い表せない。私の魂の一部が、無理やり引き剥がされ、踏みにじられたような感覚だった。
やがて、部屋の中には原形を留めるものは何一つなくなった。割れたガラスの山と、ひしゃげた金属、そして燃えカスだけが残された。
「ふん、少しは綺麗になったかしら」
ベアトリス義母様は、満足げに荒れ果てた部屋を見渡した。
「セラフィナ。あなたは今日から、部屋を出ることを禁じます。食事も水だけで十分でしょう。少し頭を冷やして、自分がどれだけ恵まれた環境にいるのに恩を仇で返していたか、反省なさい」
「……行こう、お母様。ここ、本当に臭い」
リリアーナが鼻をつまみながら義母様を促す。二人は、床に崩れ落ちて泣いている私に一瞥もくれることなく、踵を返して出て行った。使用人たちも、最後に嘲るような視線を残して去っていく。
重厚な扉が閉ざされ、鍵がかけられる音が響いた。
静寂が戻った地下室に、私の嗚咽だけがこだまする。
暗い。寒い。
お母様、ごめんなさい。守れなかった。お母様が大切にしていた場所も、道具も、知識も、全部私が奪わせてしまった。私は、義母様の言う通り、何もできない無力な「汚点」なのかもしれない。
どれくらいの時間が経っただろうか。
膝を抱えてうずくまっていた私は、ふと、奇妙な静けさに気づいて顔を上げた。
地下室の明かり取りの窓から、青白い月光が差し込んでいる。夜になったのだ。
涙は枯れ果てていた。ただ、胸の奥に鉛のような重たさと、空虚感だけが残っている。
「……片付けなきゃ」
誰に言われるでもなく、私はふらりと立ち上がった。このまま瓦礫の中で朽ち果てるわけにはいかない。たとえ全てを失っても、私は錬金術師の娘だ。最後くらい、綺麗にして終わりたい。
月明かりを頼りに、私は床に散らばるガラス片を拾い集め始めた。
指先が切れて血が滲むが、痛みは感じなかった。心が壊れてしまったせいで、体の痛みなど些細なことに思えた。
その時だった。
瓦礫の山の下、破壊された実験台の隙間から、何かが微かに光っているのが見えた。
「……何?」
ガラスの反射ではない。もっと内側から発光するような、温かく、神々しい光。
私は瓦礫を慎重に取り除いた。そこにあったのは、奇跡的に割れずに残っていた、分厚い底を持つビーカーの破片だった。いや、正確には、割れたフラスコや瓶から流れ出した液体が、その湾曲したガラス片の中に溜まり、混ざり合っていたのだ。
青い薬液、赤い触媒、そして黄色い中和剤。本来ならば、決して混ぜてはいけない組み合わせ。もし教科書通りなら、爆発するか、黒く濁って異臭を放つ猛毒になるはずだった。
けれど。
私の目の前にあるそれは、黄金色に輝いていた。
まるで朝日を閉じ込めたかのように、透き通り、自ら光を放っている。そして、漂ってくるのは薬品の刺激臭ではなく、熟れた果実と、朝露に濡れた花々を合わせたような、芳醇で甘美な香りだった。
「これは……」
震える手で、そのガラス片を掬い上げる。
記憶の底にある、母の言葉が蘇る。
『セラフィナ、錬金術の極意はね、計算と理論だけではないの。時として、偶然という名の神の悪戯が、計算を超えた奇跡を生むことがあるわ。それを「賢者の気まぐれ」と呼ぶのだけれど……』
私は息を呑んだ。
混ざり合った薬液の成分を、頭の中で必死に分析する。月光草のエキス、竜の涙と呼ばれる鉱石水、そして……おそらく、破壊された棚から落ちたマンドラゴラの灰。それらが、破壊の衝撃と熱、そして絶妙な偶然のバランスで融合し、新たな物質へと昇華したのだ。
その輝きに見とれていると、閉ざされた扉の向こうから、使用人たちの話し声が微かに聞こえてきた。どうやら見張りの交代か何かのようだ。
「……聞いたか? 王宮からの早馬」
「ああ、王太子殿下の容態が急変したって話だろ?」
王太子殿下?
私はガラス片を持ったまま、扉に耳を近づけた。
「なんでも、『石化熱』とかいう奇病らしいぜ。体が石のように硬くなって、最後には心臓まで止まっちゃうんだと」
「恐ろしいな。国中の医者や魔術師がお手上げなんだって?」
「そうらしい。国王陛下も半狂乱で、治療法を見つけた者には、どんな褒美も取らせるって触れ回りを出したそうだが……無理だろうな」
石化熱。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に電流が走った。
石化熱は、古の時代に流行した呪いの一種だと言われている。現代の魔法医学では治療法が確立されておらず、発症すれば死を待つのみの不治の病。
だが、私は知っている。燃やされてしまった母のノートの、最後のページに書かれていた仮説を。
『石化の呪いを解くには、生命の流動を活性化させる究極の溶媒が必要である。それは太陽の輝きを持ち、あらゆる物質を浄化する黄金の雫……』
私は手の中にある、黄金色に輝く液体へと視線を落とした。
文献通りの色。文献通りの香り。
もしや、これが。
全てが偶然だった。義母様が実験室を破壊しなければ、これらの薬品が混ざり合うことはなかった。この配合は、人間の計算では到底たどり着けない、破壊と混沌の中でしか生まれ得ない「奇跡」だったのだ。
「……汚点、か」
私は小さく呟いた。
義母様は私を、そして私の研究を「家の汚点」と呼んだ。ゴミだと、恥だと罵った。
けれど、そのゴミの中から、国を救うかもしれない希望が生まれたのだ。
「ふふ……」
乾いた笑いが漏れた。絶望の底で、小さな、けれど確かな炎が私の胸に灯るのを感じた。
この薬が本物かどうかは分からない。けれど、もしこれが本当に石化熱を治せるものだとしたら?
王太子殿下の命を救うことができれば。
それは、私を虐げてきた義母様やリリアーナ、そして私を見捨てた父や使用人たちへの、何よりの証明になるのではないか。私がただの「汚点」ではなく、この手で輝きを生み出せる人間なのだという証明に。
「泣いている場合じゃないわ、セラフィナ」
私は涙を拭った袖で、汚れた顔を乱暴にこすった。
扉は鍵がかかっている。実験道具も失った。ドレスもボロボロだ。
それでも、私にはこの「黄金の雫」がある。
私は周囲を見回した。割れていない小さな香水瓶が、部屋の隅に転がっているのを見つけた。リリアーナが昔、「ダサいデザイン」と言って捨てていったものだ。私はそれを拾い上げ、中の古い香水を捨てると、震える手で慎重に、ガラス片の中の黄金の液体を移し替えた。
わずか数ミリリットル。けれど、それは暗闇の中で、宝石よりも強く眩く輝いていた。
「待っていてください、殿下」
私は香水瓶を胸に抱きしめ、固く誓った。
この家を出よう。そして、王宮へ行くのだ。
伯爵家の令嬢としてではなく、一人の錬金術師として。
破壊された瓦礫の山の中で、私は初めて、自分の足で立つ覚悟を決めたのだった。




