帰還
携帯無線機でSTCB(特殊脅威対策局)の回収のトラックを呼んだとき、俺は自分が生きているのが未だに信じられなかった。
鉛色の空の下、20メートル前方にはさっき倒した化け物の亡骸が横たわっている。
40㎜榴弾の直撃と炸裂によって奴の腹部の肉は大きく抉れ、尖った耳の生えた頭からは血が流れて黒土と丈の短い草をべっとりと濡らしている。悪臭を放つ毛のない鼠色の巨体はもう呼吸を止めているが、そいつは多くの人間を殺した怪物だ。たとえどれだけ死体らしい振舞いを見せていても、警戒を解く理由にはならない。
巨大な死体のそばには人間の死体も転がっている。彼らはRAT兵だ。俺と同じグリーンラットもいれば、訓練や実戦経験の少ないグレイラットもいる。
彼らの恰好は様々。黒や紺、都市迷彩パターンの戦闘服を着ている者もいれば、スウェットパーカーにジーンズというラフな私服の者もいる。共通している事といえば、ほぼ全員が件の化け物によって殺されたこと。会うのは今日が初めてとはいえ、生前は目的と行動を共にする俺の仲間だったこと。そして傍らには彼らが使っていたライフルやショットガン、ピストルが転がっていることだ。
闘争の興奮から醒めつつある体に急激に虚脱感が押し寄せる。キャップ帽の中が汗で濡れていて気持ち悪い。帽子を脱いで、シューティンググローブに包まれた手の甲で額の汗を拭った。
今すぐこの場に腰を下ろし、喉の渇きを潤したい。だが、まだやるべきことが残っているし、何よりここは化け物やローグのうろつく、人間の支配の及ばない区域だ。油断すれば闘争の気配に集まってきたクズどもに殺されてしまう可能性が高い。だから回収トラックが来るまでにやるべきことを済ませようじゃないか。
履いているミドルカットブーツの下の黒くて柔らかい土は、この周辺一帯がもともとは食糧生産地域であったことを示す数少ない証拠だった。肥沃であることの代償に歩きにくいその土を踏みしめながら、俺は仲間の死体のもとへと近づいて行く。
用があるのは彼らが身に着けているチェストリグやプレートキャリアに装着されたマグポーチ、そしてバックパックの中に入っている銃弾だった。俺が使っている銃と同じ口径の弾はありがたく頂戴するし、口径が合わなくても武器市場で売却すればいい資金源になる。
ニーパッドで保護した膝を地面につき、手持ちのBlocker19ピストルが使用する9×19㎜弾、そして今はSTCBの武器保管部に預けているKarov-104アサルトライフルが使用する7.62×39mm弾を優先的に回収。それ以外の弾はまとめて自分のバックパックに放り込んだ。
血と泥で汚れた死体をまさぐりながら何度も顔を上げて周囲を見渡す。幸い視界に移るのは名の分からないまばらな雑草の繁茂に屈しそうになっている、元は数多の穀物や野菜を育んでいた黒土の平原と、長年の風雨にさらされて倒壊し、骨組みが剥き出しになった木造家屋の群れだけ。
ピストルやショットガンを振り回しながら近寄るローグどももいなければ、群れを成して行動する理性なき化け物の姿も見当たらない。敵影なし。それでもこの作業はいつだって落ち着かない。こちらの命を脅かす怪物ども、ローグ、それらすべてに警戒しながら死体のポケットやバッグを漁る必要があるからだ。
バックパックが拾い上げた銃弾とマガジンで重みを増してきたあたりで、作業を切り上げた。警戒のために死体のそばに伏せ、背負っていたバーガルB15ライフルを構え、その上部にマウントされたスコープを覗く。
スコープが結ぶ像の中には、ライフルの銃身が向いている先の風景が大きく拡大された状態で映っている。数十、数百メートル先の家屋がどのように崩壊しているかがありありと映る。その気になれば屋根が何枚の瓦で構成されているかまで数えられそうだ。だが、その像の中にはやはり敵対的な種族や人間の姿は映っていない。ボルトアクションライフルの細い銃身を滑らせ、スコープの中の風景を平原の向こうに変えても、意思を持った生物の姿は映らない。
ライフルの銃口を滑らせ、一本の未舗装路を捉えたとき、ついに3台の軍用トラックが姿を現した。ここからの距離は1キロほど。先頭を走っている1台のナンバーが俺をここに連れてきたものと同じであることを確認したところで、ようやく構えていたライフルを下ろして地面から体を起こした。
トラックの車列が俺のいる場所まで近づき、停車した。ドアの開いた助手席や幌掛けされた荷台から、ダークネイビーで統一されたコンバットシャツとカーキのカーゴパンツ、そしてキャップ帽やニット帽を着用した男たちが降車する。皆、LP-6サブマシンガンやMR-400カービンライフルで武装していて、油断なく周囲に目を光らせている。彼らのシャツの胸元にはSTCB直属の戦闘員、ネイビーラットであることを示す黒のバッジが縫い付けられていた。
その中から一人の男が進み出てきた。彼もまた他のネイビーラットと同じ格好をしていて、スリングで胸にMR-400ライフルを吊っている。
ただし、この男だけが黒のバッジの上にいぶし銀のコマンダーバッジも付けていた。つまり指揮官クラスの人間だ。ここに俺や仲間を連れてきたトラックの中にはいなかったはずだが。
「生き残ったのはお前一人か?」
背後の死体たちと俺の目を交互に見据えながら彼は聞いた。
「ああ」
「そうか。なら真ん中のトラックに乗れ。荷台の方にな。そこで調書を取る」
俺は回収部隊のリーダーが言っていたトラックへ歩いて行った。入れ違うようにして、ネイビーラットたちが死体の群れの方へ歩み寄る。振り返ると一人が大型のカメラを取り出して怪物の死骸の撮影を開始し、他の男たちも散乱した遺品や人間の遺体の回収作業に入り始めた。
トラックのそばに立っている見張りのそばを通り抜けて幌掛けされた荷台に上る。
中には二人のやせ型の男がいた。また、運転席には運転手兼護衛と思しきRAT兵がいて、ミラー越しに俺に睨みを利かせている。
やせ型の男たちは二人とも外の連中と同じくコンバットシャツとカーゴパンツに身を包んでいて、折り畳み式のアルミフレーム椅子に座りながら手元のタブレットを熱心に操作している。入口に近い位置にいる眼鏡をかけた一人が、俺の姿を認めると会釈をして、向かいに用意されていた簡易チェアに座るよう促してきた。
「どうぞそちらへ」
椅子に腰かけ、向かいに座る二人の男を眺めた。油断のない外の男たちとは違い、どちらも普段はどこかの事務室で事務仕事に勤しんでいそうな感じだ。戦闘用の服を着てこそいるが、体が細く、荒事慣れしていることを窺わせる雰囲気がない。
「この度はご苦労様でした。私はSTCB内部オペレーターのトムと申します。まずは危険な生物が跋扈する区域に赴き、対象生物を討伐してくださったことに心より感謝申し上げます。お疲れのところ申し訳ないのですが、これよりいくつかの質問をさせていただきたい。それらの質問は全て依頼の書類に達成のスタンプが押され、あなたに報酬が迅速に支払われるために必要なものですので、どうかご理解いただけますと幸いです」
トムの前口上に耳を傾けつつライフルを背中から下ろし、銃身を上にして自分の肩に立てかけた。これからうんざりするほど繰り出されるだろう質問の数々に備えるためだった。
「──あなたを除くチームのメンバー11人は皆死亡が確認されましたが、全て討伐対象の攻撃によるものですか?」
「ほとんどがそうだ。しかし、味方からの流れ弾で死ぬやつもいた」
「何人が誤射で亡くなったか、分かりますか?」
「戦闘の混乱で詳しくは分からない。ただ、見た限りでは2人だった」
「討伐対象をどのようにして倒しましたか?」
「味方の遺体から回収したグレネードランチャーと手榴弾で攻撃し、動きが止まったところをこのライフルで頭を撃ってとどめを刺した」
「死亡したメンバーの遺体から回収したのはそのランチャーと手榴弾だけですか?」
「そうだ。ああ、あとは銃弾も」
「死亡したメンバーの中に、あなたとの面識があった人はいましたか?」
「いや、全員会うのは初めてだった」
「報酬の支払い形式には口座への振り込みと現金、どちらを希望されますか?」
「口座への振り込みを」
全ての質問が終わった時、外で作業を行っていた男たちが続々とトラックに戻ってきた。
重武装した兵士たちが荷台や運転席に詰めかけ、たちまち車内は窮屈になる。全員が乗車したタイミングで運転席の無線が鳴り、発信の号令を告げた。
エンジンが唸りを上げ、車列が移動を開始し、振動で車内にいる人間の頭が揺れる。
そうして俺はこの危険な場所、かつてはクレイウェルと呼ばれていた区域に別れを告げたのだった。
揺れる車内で椅子に座るのはかえって不安定だったため、椅子を折りたたんで床に片付けた。他の男たちがそうしているように床に胡坐をかき、グリーンのカーゴパンツと黒のミドルカットブーツに包まれた自分の足に視線を落とす。車内の視線がこちらを向いていることは見なくても分かった。目を合わせれば、さっきトムがしてきたような質問がまた飛んでくることも分かっている。同じ質問に何度も答えるのは御免だ。
「あの化け物、お前ひとりでやったのか?」
左隣に座っている長身の男がこちらを見下ろしながら囁いた。俺は内心で舌打ちする。
「そのとおりだ」
男が口笛を吹く。
「グレネードガンで仕留めたみたいだが、あれは素人に扱えるようなものじゃない。どこかの軍にいた経験が?」
「2年前までヴェルトール国防陸軍にいたんだ」
「本当か?どこの部隊だ?」
「第5陸戦歩兵連隊」
「なるほど、どおりで」
納得がいったとでも言うように男が相槌を打つ。出来る限り声を潜めて喋ったつもりだったが、他の男たちが黙っているためにそれは意味を為さなかった。この会話は車内の全員に聞こえている。
「第5陸戦連隊って言うと、ウルゴノに派遣されてた部隊かい?」
今度は斜め向かい、トムの左隣に座っていた金髪の若い男が会話に加わった。身を乗り出し、好奇心を抑えられない様子で声を上げる。
「そうだ。あそこでの戦いはかなりヤバかったって話だ。ヴェルトールにいた俺のダチも第5連隊に所属してたんだ。だが戦争が終わって軍を除隊したあと、アルコールとヤクの中毒になっておまわりと銃撃戦を繰り広げて死んじまった。そいつはいつもウルゴノでの戦いがどれだけひどかったかを話してたよ」
俺の代わりに長身の男が答え、そこからは車内の男たちが好き勝手に会話に加わっての雑談が始まった。初めはウルゴノや第5陸戦歩兵連隊の話題が中心だったが、やがて全く関係ない話題に話が飛び、最後には自分だったらどうやってローグや怪物の数々を相手取るかという内容にシフトしていった。
大声で話す男たちを見て、俺は静かに安堵の息を吐いた。かつて自分がいた戦地での話をするのは、言うなれば古傷を広げてそこに塩を塗りたくるようなものだ。トラックの車列はクレイウェル(現在の正式名称は第22非支配エリア)を離脱し、安全で豊かなソルトウェルの街へと続く道に入っていった。
STCBソルトウェル支部が保有する小規模な基地の中にトラックが停まり、俺は他の男たちと共に舗装された地面に降り立った。クレイウェルのあの黒くて柔らかい土とは正反対の、白くて硬い地面。トラックから降りたとき、ブーツの靴底の溝から土の塊が零れ落ちて、動物の糞のようにそこに残った。
その後、トムの後に続いて基地の事務室へと向かう。残っている手続きや調査を終わらせるためだ。
全てが終わった。
ピストルとスナイパーライフルが入ったケースを小脇に抱えて基地受付棟入口のドアから外に出たとき、そこにはソルトウェルの春の街並みが広がっていた。街路樹や道路沿いの花壇に植えられた花は競うように花弁を開いて、甘い香りを振りまいている。山から吹き下ろす風はまだ少し冷たかったが、日差しのおかげで気にはならない。通りを歩く親子や老人も、ここから150キロ離れた場所に怪物どものねぐらがあることなんてまるで知らないかのように、幸せそうな笑顔で俺のそばを通りすぎていく。最寄りのベーカリーでパンを購入し、近くのベンチでカップコーヒーを啜りながら平らげた。栄養の回り始めた頭で考えるのは報酬の使い道に関することだったが、実のところそれはもう決まっているようなものだった。
宿屋へ戻って借りていた部屋に入り、まずはそのままシャワーを浴びた。泥のように全身にまとわりついていた疲労と汗が熱い湯によって勢いよく洗い流され、つかの間、自分が生まれ変わったような気分になる。
泥の中から顔を出した、何かの生き物の幼体になったような気分に。
バスルームから出ると、私物のスポーツシャツと新しいカーゴパンツに着替え、備え付けられていたベッドに倒れこんだ。ガキの頃はこうするのが好きで、ベッドのスプリングや部屋の床を軋ませては母親に怒られていたものだ。
仰向けになって手足を広げると、乳白色ののっぺりとした天井がミルクの海のように広がっていた。
そうとも。俺は戻ってきたんだ。クレイウェルでの危険な仕事を終え、再びここに五体満足で戻ってきた。
「黒いつぼみ」と呼ばれる死体袋に入ることになった11人の男たちのことは残念だった。彼らが何のために危険生物の討伐依頼を引き受けたのかは知らないし、これからも知ることはないだろうが、命を落としてしまった気の毒な男たちであることには間違いない。
少しばかり眠ることにする。ごわごわしたピンクの毛布と白の掛け布団を被り、瞼を閉じた。生き残った今は前向きなことを考えるべきだろう。死者のことを考え続けると、彼らに意識を囚われてしまう。
目を覚まして寝返りを打つと、窓の外は藍色になっていた。ベッドから降り、窓辺に近づいて眼下の景色を見下ろす。ヘッドライトを灯しながら走る自動車の列や街頭の群れに照らされた歩道を歩く人々の姿が見えた。
午睡のつもりがかなり長く寝ていたようだ。だるさを訴える体を捻り、伸びをしてから、一階の食堂で夕食にありついた。もちろん自分の銃器は部屋に備えられていたガンロッカーに保管し、施錠もしてある。
食事のメニューはなかなかに豪華だった。トマトと肉と野菜を煮込んだスープに、ステーキとライ麦パンと大盛のサラダ。デザートにオレンジのゼリー。危機から抜け出して強い空腹を感じている体にはありがたいメニューだった。激しい恐怖や緊張から解放された後の俺の体はいつも栄養を欲しがるのだ。
宿の主人から酒に誘われたが丁重に断り、軋む木製の階段を上がって部屋に戻った。ロッカーから銃を取り出す。手入れを済ませてから軽くトレーニングをし、小説を読んでから眠った。枕元にはBlocker19がある。堅牢で信頼性の高い軍用ピストルの存在は、いつだってわずかばかりの安心感を保証してくれる。
翌朝、あらかじめ設定していたアラームによって目を覚ました。
顔を洗い、食堂で朝食を済ませてから部屋で荷造りを行ったあと、宿屋の主人に行き先を伝えてから外へ出た。昨日と変わらない、気持ちの良い春の日差しが俺を出迎えた。
銀行で報酬の金の一部を引き出し、向かう先は通りを東に進んだ先にあるフリージア教の教会だった。
歩いているうちに目的の場所が目に入った。
ソルトウェルの教会は小さく、寂れていた。だが庭園は綺麗に手入れされていて、ノースポールがそこかしこで白い花弁を開いている。庭園を横切り、教会の入り口に立って中に入ろうとした時、20代前半ほどのシスターがドアからひょっこりと顔を出した。突然の来訪者に彼女は驚いたような表情を浮かべたが、その顔はすぐにシスターらしい穏やかな微笑みに変わる。
「あら、お祈りにいらしたのかしら?」
眼鏡の奥の柔和そうな瞳が細められた。
「ええ、そんなところです」
「では中へどうぞ。ちょうど清掃も終わったところですから……」
シスターの小さな背中に続き、礼拝堂へ続く通路を歩く。館内にはシスター以外にも教会の関係者や事情があって引き取られたと思われる子供たちがいて、子供たちは見慣れない男に対する好奇心と警戒心を隠そうともしなかった。
案内されて入った礼拝堂は教会の外観に違わず小ぢんまりとしていて、香炉の匂いが漂っていた。聖堂の中央を横切る赤い絨毯が敷かれた通路の左右には来訪者が座るための席がある。さらに礼拝堂奥の祭壇、その背後には大きな台座が鎮座し、台座の上には女神フリージアの像が祀られている。聖堂のどの席に座っていても、女神フリージアの詳細な姿が分かるようになっていた。
慈愛を司る美しい女神は両手に抱きかかえた我が子に愛おしげな表情を浮かべた顔を近づけており、その口元は微笑んでいた。また、彼女は死者の魂を安息の国へと導く存在としても知られている。
ここにいるのは俺と若いシスターだけだ。がらんとした席を見渡してみても、誰もそこには座っていない。
「祈り方には何か決まった方法が?」
「何も難しいことはありませんわ。目を閉じて両手を組み、頭を垂れればそれが祈りの正しい姿です。私は席を外しておりますので、もし他に何か御用がありましたらお申し付けください。礼拝堂の外でお待ちしています」
そう言い残し、シスターは礼拝堂を静かに出ていった。入口の扉が音もなく閉まり、俺一人が取り残される。
手近な席に座り、腕時計のアラームを11分後に設定してから祈った。
女神フリージアを強く信仰しているわけではないし、特定の宗教に入信しているわけでもない。だが、それでも祈り続けた。入口で説明された手順に従って目を閉じ、両手を胸の前で組み、頭を垂れ、祈った。アラームが鳴ると席を立ち、礼拝堂の入口横に設置されていた寄付箱に金を入れた。討伐で得た報酬の半分を。
教会を後にして、午前の太陽が温かく降り注ぐ中、通りを少しぶらついてから宿屋へと戻った。
部屋に置いていたバックパックを背負い、ロッカーから銃の入ったケースを引っ張り出し、受付でチェックアウトを済ませる。宿を出ると、裏手の雑草まみれの敷地に停めておいた自分のバイクにガンケースを括り付け、ヘルメットを被り、サドルに跨ってエンジンを始動させた。