第8章 『最初の断片。』
雪 栞 中島春樹 中島恵美子 荒川レン
8月11日、新宿。
19:22
カフェは、いつも以上に静かだった。まるで空気さえも、この瞬間を尊重しているかのように。
柔らかな電球の光が、空のテーブルに吊るされ、壁にやさしい影を落としていた。
栞さんは背を向けて、高い棚にカップを並べていた。店の主照明はすでに落としてあって、その中で彼女のシルエットだけがくっきりと浮かび上がっていた。
僕はカウンターの内側で、小さなスプーンを指の間で転がしていた。
明日には奥多摩へ向かう。ここでの最後の勤務だった。
彼女は最後のカップを棚に置くまで、何も言わなかった。
それからゆっくりとこちらを振り返り、いつもと違うカップを僕の前に差し出した。
それは普段使っているものより小さく、濃い色の陶器で、縁にわずかな歪みがあった。
「これはまだ飲んだことないでしょ。濃くて、苦い。でも…最後までちゃんと待てば、無糖のカカオみたいな深みと、スパイス、そして最後にかすかに花の香りが残るの」
栞さんはそう言った。
僕はひと口すすると、思わず眉をひそめた。強烈だった。舌に残るしぶみ。
でもその奥に、どこか懐かしいものがあった。
「どう?」
「…不思議な味。だけど悪くない。正直で、何も隠してない感じ」
そう言って、僕はカップをゆっくりと回した。
彼女はカウンターに肘をつき、腕を組んだ。
「美味しいものが甘いとは限らないよ。時には少し痛みがある方が、心が目を覚ます。記憶みたいに」
そう、ささやくように言った。
僕は彼女を見つめたが、彼女の視線はカップの中の液面に釘付けだった。まるでそこに、言えない何かが浮かんでいるかのように。
「明日、奥多摩へ戻る。祭りだけが理由じゃない。なんというか…あそこに呼ばれてる気がする」
やっとのことで口にした。
「理由もなく何度も戻ってしまう場所は、大抵…最初の出発点なの」
栞さんがつぶやいた。
しばし沈黙が流れた。
やがて彼女は後ろを振り向き、カウンター裏の小さな引き出しの一つを開けた。中から白い紙に包まれた何かを取り出し、それを僕の前にそっと置いた。
「はい、これ」
栞さんは言って、紙に包まれた小さな物を僕の前に差し出した。
開いてみると、それは手作りのブレスレットだった。赤い糸を編んだもので、中央には小さなコーヒーカップのチャームがついていた。
「…これ、何?」
「糸よ。迷わないための。ときどき、糸はね、後で誰かとまた出会うためにあるの。人生の使命を思い出すためにも」
そう言って、彼女は少しだけ微笑んだ。
僕は何も聞かずに、それを丁寧に手首に巻いた。
遠くで電車の音がかすかに鳴り、店内の静けさを横切った。
「ねえ栞さん…なんか、これってまるでお別れのプレゼントみたいだね。はは…月曜の朝にはちゃんと戻ってくるのに」
そう言いながら、僕はブレスレットを見つめた。
「うん、わかってる。でも…何が起きるかなんて誰にも分からないでしょ。だから、ただ…コーヒーが焦げる直前の匂いを忘れないで」
彼女の声は静かだった。
「それが限界なの。まだ救えるものと、もう手遅れなものの境界線。」
何を言いたいのか正直分からなかった。けれど、不思議と問い返す気にはなれなかった。
その時の栞さんの表情は、どこか懐かしさを帯びていて、でもやっぱり、いつものように少し遠くを見ているようでもあった。
僕は立ち上がり、軽く会釈をした。
彼女は右手を上げて、まるでその瞬間を空気ごと掴もうとするように、ゆっくりと手を振った。
***
カフェを出ると、東京の夜空は深い藍色に染まっていた。まるで、何かが変わる前の夜だけに現れる色だった。
手首に巻かれたブレスレットのチャームが、街灯の下でほのかに光っていた。
22:14
部屋に戻ると、ベッドの上には半分詰められたリュックが置かれていた。
着替え数枚、充電器、夜用の薄手のセーター、あのポストカード、そして喫茶店で見つけたイラスト──ノートのページの間に丁寧に挟んでおいた。
僕はしばらく何もせず、ただそこに座った。
部屋には扇風機の気だるい回転音だけが漂っていた。
外の東京の光は、どこか眠そうにちらちらと瞬いていた。
そして、聞こえた。
カラン……。
微かに、けれど確かに。
この世界の縁から漏れ出たような、あの音──
鈴の音だった。
目を閉じた。
「甘いだけが、心地いい味とは限らない——」
栞さんがそう言ったのは、まるで物語の始まりに結末を告げるような、静かで確信めいた口調だった。
あの時の彼女の目には、どこかすでに先の出来事を知っているような光があった。
スマートフォンの画面がふと光る。
春樹からのメッセージが二件届いていた。
【春樹 – 22:06】
「東京から逃げる準備は万端?」
「地元ではちょっと高いから、クラフトビール持っていくぞ」
思わず小さく笑った。
【僕 – 22:15】
「完璧。7時20分に駅で会おう。あまり早起きはしたくないし」
「遅れたら窓側は譲らないからな」
【春樹 – 22:16】
「それは交渉次第。おにぎりをくれたら、なんとか生きて行くかもな」
スマホを机に置き、アラームを確認する。
バッグは閉じてあった。東京の街はまだ眠らずに光り続けていたけど、僕の心はすでにそのざわめきから遠ざかっていた。
手首のブレスレットを指でなぞる。
窓の向こう、ビルの隙間から星が一つだけ顔を覗かせていた。
「迷わないための糸……」
栞さんの言葉が、ゆっくりと胸の奥に再び響いた。
電気を消して、目を閉じる。
***
8月12日 – 午前7:28。
青梅線・奥多摩行き。
電車は静かに、ゆっくりと都市の縫い目を滑るように進んでいた。
高層ビルはいつしか低くなり、風景は緑に飲まれていく。
電柱はやがて木々へと変わり、窓の外には夏の朝の光が淡く広がっていた。
春樹は、窓に頭をもたせかけたまま眠っていた。イヤホンは片方だけ耳から外れ、肩の上で揺れている。
僕は窓に映るぼんやりとした景色を見つめていた。
電車が曲がるたび、東京が遠ざかり、何か大切なものへと近づいていくのを感じた。
そっと、リュックの肩紐を握る。
内ポケットには、あの絵と、あのポストカード。
そして、手首には栞さんからもらった赤いブレスレット。
あれはただの飾りじゃない。
——まるで、お守りみたいだった。
失くしちゃいけない。そう思った。
車内アナウンスが最終到着駅を告げる。
奥多摩。
春樹が眠そうに身体を伸ばし、何か寝言をつぶやいた。
僕は窓の外を見た。
山々がそびえ、川がきらめき、緑と空のあいだに浮かぶようにして、あの町があった。
「今回は——逃げない」
そう心の中でつぶやいた。
***
午前10時13分。
電車が金属のきしみと共に停車した。
ドアが開き、東京とはまるで違う、湿った澄んだ空気が、古い息のように押し寄せてきた。
僕たちはホームに降り立つ。
細いプラットフォームには低い柵が並び、石畳の隙間からは小さな野草が遠慮なく顔を出していた。
遠くからは多摩川のせせらぎが聞こえ、山々がまるで町の守り手のように静かに佇んでいる。
奥多摩には、時間の流れが違うような気がした。
都会のざわめきはここではもう聞こえない。
代わりに蝉の声、木の軋む音、そしてすれ違う人々の穏やかな挨拶。
通りを歩くうちに、夏祭りの準備がそこかしこに見えてくる。
提灯が赤と白に揺れ、竹の枠が店先に立ち始め、子どもたちの笑い声と、遠くから聞こえる太鼓の練習音が夏の到来を知らせていた。
「こんなに綺麗だったっけ?」
つい、口に出ていた。
春樹はリュックの紐を直しながら、笑って言った。
「ん? たまには雨が降って泥だらけになることもあるぞ。……でも、今年は天気もやる気あるっぽいな」
数分後、僕たちは春樹の家に到着した。
「母さーん!着いたぞー!」
春樹が玄関の扉を開けながら大声をあげる。
キッチンの奥から、明るく通る声が返ってきた。
「レンくん、いらっしゃい!前より痩せたんじゃない?東京じゃまともに食べてないの?」
恵美子さんがエプロン姿のまま現れた。
夏の日差しに焼けた肌と、ゆるくまとめた髪。
その笑顔は、いつも通り、何もかもを包み込むような温かさを持っていた。
玄関を入ると、軽くお辞儀をしながら冷たい飲み物を差し出してくれた。
「ありがとうございます」と僕は頭を下げる。
すると、恵美子さんは肩をすくめながら笑った。
「もう、そんなにかしこまらないで。君はうちの次男みたいなものよ。感謝なんて要らないの。
それに、春樹のそばには、目を光らせる人が常に必要なのよ」
廊下の奥から春樹が「なんだよそれ!」と冗談混じりに抗議し、僕たちは三人で笑い合った。
***
昼の暑さが少しずつ和らいできた頃、僕は家の二階にある小さなバルコニーに出た。
目の前には、奥多摩の町の一部が見渡せた。
まだ開いていないたこ焼きの屋台、風船で遊ぶ子どもたち、家々の間に色とりどりの旗を結ぶ近所の人たち。
空はすっきりと晴れていて、筆で描いたような薄い雲がゆっくりと流れていた。
空気は、温かい木材と竹と、炊きたてのご飯の匂いが混ざった香りだった。
祭りを迎えるには、これ以上ないほど完璧な空気。
けれど、僕の胸の奥では、何かがざわついていた。
それは期待か、それとも、戻れなくなることを知っている時にだけ感じる、あの、静かだけど強い予感かもしれなかった。
手首を見下ろす。
栞さんにもらった赤い紐のブレスレットが、夕日を受けてわずかに光った。
今夜、雪さんが現れるのか。
それとも、すべては僕の思い込みなのか。
――わからない。
でも、確かに、僕は『待っていた』。
***
午後8時47分。
町の中心通りは、まるで誰も目覚めたくない夢の中のようだった。
赤と白の提灯が頭上で揺れ、あたたかい風が通り抜けるたびに、かすかに揺れては光をちらつかせる。
空は完全に夜の色に染まり、濃い藍色が空全体を包んでいた。
けれど、どこかで太陽がまだ名残を残しているような、そんな深く静かな青だった。
僕は春樹と並んで歩いていた。
まわりには笑い声、狐のお面をつけた子供たちの甲高い叫び、水風船の音。
甘辛い焼き鳥のタレの匂いと綿菓子の香りが混ざり合い、
どこか現実離れした、夢のような空気をつくっていた。
春樹が手にしたクラフトビールをひとくち飲みながら言った。
「誰か探してるのか?」
僕は一瞬だけ足を止めて、彼を見た。
「…いや。ただ、見てるだけ」
彼は小さく笑った。
「ふーん。そういう顔じゃないけどな。知らなきゃ、誰かにドタキャンされたのかと思うくらいだぞ」
視線は群衆の向こうを泳いでいた。
自分でも、何を探しているのか、はっきりとは分からなかった。
でも…いや、本当はずっと分かっていた。
そのときだった。
――チリン。
あの音が、した。
小さな鈴の音。
祭りのざわめきとは明らかに異なる、時をずらしたような不思議な音色が、耳の奥で響いた。
僕は反射的に振り返った。
そこに、雪さんがいた。
お面屋の屋台と、紙の提灯の間。
人混みの中に、まるで最初から存在していたかのように、静かに立っていた。
夢で見たのと、同じ浴衣――
白地に浮かぶその姿は、周囲の灯りを吸い込むように、淡く光っていた。
髪は記憶よりも長く、肩のあたりで柔らかく揺れていた。
彼女は何も言わず、何も動かず、ただ僕を見ていた。
その瞬間、全てが繋がった気がした。
目覚めた日からここまで、何かに導かれるように進んできた道。
そのすべてが、この瞬間のためだった。
雪さんは静かに歩き出した。
まるで人波に紛れるように、けれど僕の目にははっきりと映っていた。
…一瞬、目を逸らしただけだった。
けれど、もう彼女の姿はどこにもなかった。
胸が一瞬、強く締めつけられる。
ドンッ、と空に響く音。
視界の上で大輪の花が咲いた。
金、赤、緑――夜空を染める色とりどりの花火。
誰もがその美しさに息を飲んでいた。
けれど、僕の頭の中には、たったひとつのことしかなかった。
町の人々は皆、夜空を彩る花火に目を奪われていた。
大人も、子供も、若者たちも、誰もが空に咲くその一瞬の光を見つめていた。
けれど、僕だけは違った。
この機会を、逃すわけにはいかなかった。
「ちょっと探し物がある…」
そう春樹に告げたが、彼の返事を待つことなく、その場を離れた。
足が、勝手に動いていた。
頭で考えるよりも先に、体が何かを知っているかのように。
祭囃子や太鼓の音、笑い声や石畳を踏む足音は、徐々に遠ざかっていった。
光が一つ、また一つと消えていく。まるで誰かが遠くから息を吹きかけているかのように。
道は細くなり、木々は高く、空を覆い始めた。
湿った苔と、古い木の匂い。
夏の夜の森が、僕を飲み込んでいく。
そして、見えたんだ。
そこにあったのは――あの神社だった。
草木しかなかったはずの場所に、まるで異界から現れたかのように静かに立っていた。
月の光に照らされ、朧げにその輪郭を浮かび上がらせていた。
――あの日、最初にこの世界に来た日に見たもの。
――図書館で見つけたあの絵と同じ。
――ポストカードの中に描かれていた、あの場所。
今なら認められる。
あの夜、新宿の交差点で僕はたしかに死んだんだ。
だからこそ、今こうして違う時間を歩いている。
でもそんなことはどうでもよかった。
今、僕がここにいる理由は、ただひとつ。
神社の前に、彼女がいた。
雪さん。
背を向けたまま、音もなく、そこに立っていた。
名前を呼ぶことができなかった。呼んではいけない気がした。
一歩、足を踏み出す。近づこうとした。
けれど彼女は振り返らず、静かに神社の中へと歩き出した。
僕もその後を追う。だが、どれだけ歩幅を合わせようとしても、届かない。
彼女との距離は一定に保たれたまま、まるで僕を誘うように。
心臓の鼓動が速くなる。
何かが起ころうとしていた。
今度こそ、答えにたどり着けるかもしれない。
そう、強く感じていた。
そして、僕は覚悟を決めて――
神社の敷居をまたごうとした。
…だが、その瞬間だった。
僕の中の『何か』が止まった。
空気が変わった。
まるで外の世界の法則が通じない、別の次元に足を踏み入れたかのようだった。
扉はなかった。ただ、風雨に削られた柱、呼吸しているかのように揺れる影、そして――あの匂い。
コーヒーの香り。
コンビニの缶でも、自販機の即席でもない。
『段ボールの猫』で漂っていた、あの香り。
栞さんが静かに淹れてくれた、あのコーヒー。
閉店後、指先や服に染み込んだ、あの温かくて切ない香りが、この空間を満たしていた。
もう一歩踏み出そうとした。だが、進めなかった。
目には見えない壁が、僕を押しとどめていた。
「来たんだね」
声がした。
振り返ると――雪さんが、そこにいた。
以前のように遠くから見ていた彼女ではない。けれど、完全にこの世界のものでもなかった。
彼女と僕の間には、神社の境内を隔てるような、目に見えない距離が存在していた。
けれど確かに、そこにいた。
まるでずっと前から、この瞬間を待っていたかのように。
「ここは…どこなんだ?」
そう問いかけたが、自分の声が妙に軽かった。まるで重さを失った音。
「すべてが始まり、すべてが還る場所。あなたが始まった場所。そして、あなたが戻るべき場所」
彼女の声は揺らぎなく、でも優しく、静かだった。
数歩の距離――けれど、それはまるで一生分の隔たりのようだった。
「どうして僕なんだ? 戻るって…何をすればいい?」
言葉は重ねたが、彼女は目を伏せた。
その瞳には、僕が忘れていたすべての夜が宿っていた。
「君は…もうしてるよ。思い出したんだよ。自分が失っていたものを――」
その瞬間だった。
胸の奥深く、何かが開いた。
目には見えない裂け目から、光があふれ出す。
目を閉じる。
そして、見えた。
若い自分の手。
不格好な陶器のカップを握る手。
雨の降る窓の向こうで、笑い合う誰かと。
農作業に汗を流す日々。
戦場で、血にまみれながら、それでも生き抜く自分。
栞さんが、あの控えめな笑顔を浮かべていた。
雪さんが、僕の隣にいた。
そして、僕もそこにいた。
時代も場所も違う。
けれど確かに、僕たちは一緒にいた。
人間が生まれるずっと前から――
この世界の記憶の奥底に、ずっと。
もし僕が…すでにこれをすべて経験していたのなら、一体何が起こったのだろう?
なぜ今の今まで、何一つ思い出せなかったのか?
「俺は…本当は誰なんだ?」
目を見開いた。コーヒーの香りが胸の奥で煮え立つように強くなっていた。
雪さんは静かに僕を見つめていた。
そして、初めて――逃げずに、優しい声で言った。
「これは、ほんの第一歩にすぎない…まだ長い道のりが待っている。でも諦めないで。君が使命を果たさなければ、すべては滅びる」
「使命? 俺は誰なんだ? 君は? 栞さんは一体何者なんだ?」
答えよりも疑問の方が多くなった。
でも、不思議と、前に進んでいる気がした。
たとえ何も分からなくても、確かに一歩――本当の自分に近づいた気がした。
「今はまだ、そのすべてを理解するには早すぎる…でも、道は始まったのよ。君は一人じゃない。でも、自分自身で思い出さなくてはいけない」
「じゃあ、今何をすればいいんだ?」
光の熱がまだ胸の中で震えているのを感じながら尋ねた。
「今の君には、かけらが一つ戻ってきた。記憶の断片――
それをすべて集め、本当の自分を思い出して。過去の君、今の君、そして未来の君を――
でも何よりも…この世界における君の使命を」
僕は神殿の方を見た。揺らめく影、ほんの数センチ開いたままの門。
もう一度、無意識に足を踏み出そうとした――
だが、再びあの目に見えない圧力が胸を押さえ、前へ進ませなかった。
「まだだよ… すべてのかけらが戻るその時まで、ここには入れない」
雪さんがそっと一歩、こちらに近づいた。
僕は視線を落とした。
手首にはまだ赤い紐のブレスレットが巻かれている。
その中央にある、コーヒーカップの形をしたチャームが、まるでこの光景を閉じ込めたように淡く輝いていた。
「君は…知ってたんだね? 最初から。栞さんも…全部知っていたのか?」
彼女は答えなかった。
ただ、物語の終わりを知っている者のように――
どこか寂しげに、優しく微笑んだ。
「栞さんを責めないで… 彼女は私より、ずっと前から…ずっと長い時間、君の傍にいたの。君がまだ覚えていないだけ…
私は、ここで待ってる。その時が来るまで――この場所で、また…」
そして、まるで幻のように、その光景は溶け始めた。
最初に消えたのは、あのコーヒーの香り。次に、柔らかな灯りの灯籠たち。
そしてゆっくりと、神殿そのものが輪郭を失っていった。
雪さんの姿も、同じように――静かに、そこから消えた。
気がつけば僕は、一人きりで森の中に立っていた。
もう、コーヒーの香りもしない。鈴の音も、遠くの気配もない。
雪の存在も、今は感じられなかった。
代わりに戻ってきたのは――この世界の記憶だった。
春樹のこと、彼の母の恵美子さんのこと。
子供の頃に一緒に過ごした夏の日々、この世界で生きてきた僕のすべての記憶が――今、鮮やかに胸の奥に広がっていた。
頭上では、まだ花火が夜空を染めていた。
けれど、もう僕は、かつての僕ではなかった。
「急いで戻らなきゃ…」
恐怖ではなく、発見の衝動に背中を押されていた。
今すぐ春樹に話したい。
栞に会いたい、聞きたいことがたくさんある。
そして、この町を、もう一度心から味わいたいと思った。
湿った土を踏みしめるたびに、胸の奥で記憶が鳴った。
熱を帯びたまま、外へ飛び出したがっているようだった。
春樹… 栞さん… 雪さん…
すべてが、戻ってくる。
空気には、湿った薪の香りと、花火の煙の名残が漂っていた。
遠くで鳴った最後の花火の音が、夜空に優しく残っていた。
祭りの灯りが木々の隙間から見え始め、村の明かりもそれに続いた。
「どうして…こんなに歩いたことに気づかなかったんだろう?」
そう思いながら、僕は走った。
そして――あの橋にたどり着いた。
それは、川をまたぐ古い木の橋だった。多摩川の上に、静かに、でも確かに存在していた。子供の頃、何度もここを渡った――そんな記憶が、今、胸にある。
水の流れは穏やかだった。
まるで僕の焦りとは無関係のように、ゆっくりと進んでいた。
橋の真ん中で、僕は立ち止まり、古びた欄干に手を添えた。
水面には、灯籠の光が揺れて映っていた。
僕の鼓動が、それに重なって響いた。
「春樹に話さなきゃ… 栞さんにも、聞きたいことが…
俺は…俺は――」
そのときだった。
それが聞こえた。
鈴の音。
後ろからでも、前からでもない。下から――川の中から。
僕は身を乗り出した。
鈴の音の正体を確かめたかったのか、それとも、ただ風のいたずらか――あるいは、運命だったのかもしれない。
その瞬間だった。
橋の縁が、僕の足元で崩れた。
落ちた。
世界が、一秒で裏返った。
そして、冷たい腕に包まれるように、川の流れが僕を呑み込んだ。
頭と背中が、岩に打ちつけられた。
肺の中の空気が一気に抜けて、意識が遠のいていくのを感じた。
――もがかなかった。
生きたくなかったわけじゃない。
でも、体がじんわりと麻痺していくようで、もう力が残っていなかった。
「また…死ぬのか? 今までの努力が、全部無駄になるのか?」
そう思った。
意識の奥で、デジャヴのような感覚がよみがえった。
あの日、新宿の交差点で死んだ時と、まったく同じだ。
そのとき――
赤い紐のブレスレットが、僕の手首から滑り落ちた。
水中で、一瞬だけ浮かび上がる。
小さなコーヒーカップのチャームが、最後の光を放ち――そして、流れに飲まれて消えていった。
視界が、真っ白に染まる。
それは光だった。
光のあとにやってくる、完全な――闇。
最後に思い浮かんだのは、
あのコーヒーが沸騰する香りと、雪さんの声だった。
「これは、まだ最初の一歩……」
その言葉を胸に、僕の体は川に流され、夜は静かに目を閉じた。