第6章 『記憶の根。』
雪 栞 中島春樹 荒川レン 中島恵美子 縁側 霊媒師
6月24日
午前4時55分 ― 新宿駅
その時間、まだ街は本格的に目覚めていなかった。
普段は人であふれかえる新宿駅も、この時ばかりはまるで別の場所のように静まり返っていた。
電子掲示板が、誰にも向けられていない冷たい光をホームに投げかけ、数人の通行人が夢の続きを歩いているかのように、足早に構内を通り抜けていく。
無理もない。何しろ、まだ朝も朝。
正直、自分自身もまだ夢の中にいるような感覚だった。
「これが本当に夢だったらいいのに」
思わず、誰に聞かせるでもなく呟いた。
でも、現実だった。
中央線のホームの前で、片方の肩に中途半端に詰めたリュックを背負い、目の奥に眠気を残したまま、ぼんやりと立っていた。
数分後、名前を呼ぶ声がした。
「レン! こっち!」
手を振りながら駆け寄ってきたのは、春樹だった。
片手にステンレスタンブラーを持ち、もう片方にはスポーツバッグを肩から提げている。
「顔、死んでるぞ。ちゃんと寝たか?」
おどけた調子で言ってくる。
「まあ、そこそこ」
苦笑いを浮かべながら答えた。
やがて電車がホームに滑り込んできた。
俺たちは乗り込み、窓際の席に腰を下ろした。
この時間帯の車内は、ほとんど空っぽだった。
扉の近くで年配の男性が眠っており、向かいの席では黒い表紙の本を読んでいる女性が静かにページをめくっている。
発車と同時に響く車輪の音が、どこか心の奥に溜まっていた考えごとまで一緒に運び去っていくような気がした。
しばらくのあいだ、俺たちはほとんど会話もなく、窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
街の色は少しずつ変わっていく。
高層ビルは姿を消し、小さな住宅や畑、トンネルの合間に顔を覗かせる林が視界を占めるようになっていった。
「……思い出せそう? あの町のこと」
春樹が、ふいに窓の外から視線を外さずに尋ねた。
「えっ?」
「まあ、東京に引っ越してから一度も奥多摩には来てないだろ? だからさ」
春樹は少し寂しそうに笑いながらそう言った。
──つまり、俺は東京に来る前、奥多摩に住んでいたということか。
だけど、それはおかしい。
東京に引っ越す前、俺は……俺は……。
記憶を辿ろうとした瞬間、頭の中に浮かんできたのは、ぼやけた映像だけだった。
どんなに思い出そうとしても、何も掴めない。
「……何なんだよ、これ以上おかしくなる余地なんてないと思ってたのに」
目の焦点が遠くに飛びながら、そんな風に考えていた。
「……おい、レン? 大丈夫か? なんか、ボーッとしてたけど」
春樹が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……あ、うん。ごめん。ただ寝不足で、まだちょっと眠くてさ」
誤魔化すように笑ってみせた。
「そうか、ならいいけど……ま、昔からちょっと抜けてるとこあったもんな、はは」
「……昔から?」
疑問を口にすると、春樹はうなずいた。
「うん。学校の頃からだよ。お前が東京に引っ越すって聞いたときは、ちょうど俺が自衛隊に入ってる時期だったから驚いたよ」
「……え、自衛隊?」
「うん、まあ……正確には途中で辞めたけどな。俺、ああいうガチガチの生活向いてなかったから」
「はは、それっぽいな。お前、苦労とか嫌いそうだもんな」
俺が冗談めかして言うと、春樹は嬉しそうに笑った。
──なぜだろう。
この何気ないやりとりすら、どこか懐かしく感じた。
まるで、何度も繰り返してきたような……そんな感覚。
「ま、とにかくさ。最近ようやく俺も東京に引っ越してきて、今は普通に仕事してるんだ。これでまた会える機会も増えるな、相棒」
そう言って、春樹は軽く俺の腕を叩いた。
「……ああ、そうだな」
本当のことが言えない自分に、少しだけ罪悪感を覚えた。
でも、それでも。
だからこそ、今こうして春樹と一緒に旅に出ているのかもしれない。
少しでも、何かを思い出すために。
電車が緩やかにカーブを曲がる頃。
ふと、脳裏に映像が浮かんだ。
──木造の橋。
──その下を流れる澄んだ川の音。
──そして、白い浴衣を着た少女が、背を向けたまま、ぼんやりと灯る提灯の中を歩いていく姿。
見たことのないはずの光景なのに、
胸の奥がざわつくほど、それは鮮やかだった。
俺はそっと額に手を当てた。
痛みはなかった。ただ、何かが内側から浮かび上がろうとしているような、そんな奇妙な圧迫感を感じた。
「大丈夫か?」と春樹が聞いてきた。
「うん、ちょっと…軽くめまいがしただけ」
そう言って、俺は嘘をついた。
車窓の外では、空がすっかり明るくなっていた。
木々の葉を優しく揺らす朝の風に、太陽の光が差し込み始める。
その光を見ていると、まるで俺の内側にも、何かが少しずつ光を取り戻していくような気がした。
奥多摩へ向かうこの道は、ただの旅路ではなく、俺の内面を辿る道でもあるように思えた。
電車が小さな駅に停まる。
看板には『奥多摩まで、あと二駅』と書かれていた。
「もうすぐだな。きっと楽しくなるよ」
春樹が笑いながら言う。
「……そうだといいけど」
俺は曖昧に返事をした。
だけど、胸の奥では、名前のない期待が静かに脈打っていた。
7時30分
電車が小さく軋む音を立てて停車した。
ドアが開き、ひんやりとした澄んだ空気が車内に流れ込む。
まるで『ようこそ』とでも言っているような、静かな歓迎だった。
春樹の後ろに続いて電車を降りた瞬間、俺の感覚が都市のそれとはまるで違う匂いに包まれた。
アスファルトも、ガソリンの匂いもない。
あるのは湿った木の匂い、松の匂い、そして朝露を含んだ土の香り。
駅舎はこぢんまりとしていて、低い屋根と明るい木造の柱が特徴的だった。
梁がむき出しのその建物には、時代の流れが届いていないような古びた看板がいくつも掲げられていた。
ホームの両脇には花が植えられ、鉄製のベンチには、つばの広い帽子を被った老婦人が一人、誰かを待っているようだった。
そして、線路の向こうには、山々が連なっていた。
木々に覆われたその景色は、まだ朝霧に包まれ、まるで夢と現実の間にあるように見えた。
空は澄み切った淡い青で、夏のまぶしい陽射しをゆっくりと落とし始めていた。
たった数時間前に離れたはずの東京が、今ではまるで遠い夢のようだった。コンクリートの檻のようなあの街は、この風景にはまるでそぐわない。
ここには、電車の騒音も、せわしない足音も、絶え間ない広告の声もない。
あるのは、多摩川のせせらぎ、鳥たちのさえずり、そして風に揺れる木々のささやきだけ。
そしてその中に――
いつものあの音が、そっと紛れ込んでいた。
微かな鈴の音。金属的で、一定のリズムを刻む音。
まるで、誰かがわざとそれを鳴らして、俺に気づかせようとしているようだった。
俺は反射的に後ろを振り返った。だが、そこには誰もいなかった。
階段の方へと歩いていく春樹と、さっきまでベンチに座っていた老婦人が違う方角を見つめているだけだった。
なぜか、俺の体はその場で凍りついたように動けなかった。
肩を誰かにそっと掴まれているような、そんな感覚。
鈴の音は、もう聞こえなかった。だが、その余韻が頭の中にいつまでも残っていた。
ポケットからスマホを取り出す。
まだ電波は届いていた。
【俺 – 7:35】
「着いたよ」
「思ったよりも静かだけど……なぜか、生きてるって感じがする」
「栞さんは、奥多摩に来たことある?」
「ここで、何か大切なことが起きた気がするんだ。何かは、全然覚えてないけど」
返信はすぐには来ないだろうと思った。
この時間なら、栞さんはカフェで開店準備をしているはずだ。
スマホをポケットに戻し、階段の下で待っていた春樹のもとへと歩き出す。
「大丈夫か?」と春樹が少し眉を上げて聞いた。
「うん……ちょっと空気を吸ってただけ」
どう説明すればいいのか分からなかった。
まるで、俺が生まれるずっと前から、あのホームで誰かが俺を待っていたような――そんな感覚だった。
駅から村へと続く道は細く、朝の風に揺れる高い木々に囲まれていた。
アスファルトは古びてひび割れ、地中から伸びた根がところどころに浮き上がっていた。
道の両側には、斜め屋根の木造家屋が並び、荒れた庭の向こうからは、時折セミの鳴き声が聞こえてきた。
夏が本格的に始まったのだと、改めて思い知らされる。
「知ってた?この辺りって、江戸時代には商人たちの重要な通りだったんだよ。」
春樹が歩きながら言った。
まるで何度も聞いたことのある話を、習慣のように口にしているようだった。
「今となっては……若者なんてほとんど残ってないけどね。みんな街に引っ越しちゃってさ。」
「じゃあ、なんで君は戻らないの?」
俺は素直に気になって聞いた。
「難しい話なんだよな。母さんが一人で暮らしてるし、兄弟もいないし、父さんはもう亡くなってる。
でも……俺が東京で働かないと、生活が成り立たないだろ?」
そう言って、彼は肩をすくめた。
俺は黙ってうなずいた。
春樹は笑顔で話していたけれど、その言葉にはどこか寂しさが滲んでいた。
胸の奥に、ちくりとした痛みが走る。
「だからさ、時間ができた時にはこうして母さんのところに来て、少しでも一緒に過ごすようにしてるんだ」
春樹はそう締めくくった。
俺たちは、閉まったままの店の前を通り過ぎた。
入口には紙の提灯がぶら下がっていて、トンボや雲の絵が描かれていたが、色褪せて太陽に晒されていた。
道はゆるやかに傾き、その先には小さな木の橋が見えてきた。
その橋は、せせらぎの上に静かに架かっていた。
突然、俺の体が止まった。
一瞬、空気が重くなったような気がした。
水が岩にぶつかって流れるその音が――
あまりにも、懐かしかった。
橋。水の音。白い浴衣。灯った提灯。
ありえないはずの夕暮れ。
俺は胸に手を当てた。
何かが内側でざわついているような、不思議な熱さを感じた。
まばたきを数回繰り返すと、あの光景はあっという間に消えていった。
「レン?」
数歩先を歩いていた春樹が振り返って声をかけた。
「あ……うん、行くよ」
彼を心配させたくなくて、無理に足を動かした。
「ずいぶん静かだね。大丈夫?」
「うん、ちょっと考え事してただけ……」
またしても、嘘をついた。
どう説明すればいいのか、自分でも分からなかった。
まるでこの町が、俺に語りかけているようだった。
俺たちは無言のまま歩き続け、やがて二階建ての一軒家の前にたどり着いた。窓には麻のカーテンがかかり、玄関には整然と靴が並べられていた。
手入れの行き届いた庭には、咲き誇る紫陽花の鉢植えと、小さな盆栽が縁側のそばに置かれていた。
春樹は一歩先に進み、自然な動作で玄関を開けて中に向かって叫んだ。
「母さん!ただいまー!」
中からは、あたたかみのある女性の声が返ってきた。
「はーい、おかえり。今、台所よ〜」
俺たちは玄関で靴を脱いだ。
家の中には、炊き立てのご飯と味噌汁、そして古い木材の匂いが混ざり合って漂っていた。
春樹は俺に笑いかけた。
「覚悟しとけよ。母さん、絶対レンのことを飢えてる子どもみたいにご飯食わせようとするから」
台所からは、まな板の上で包丁が優しく鳴る音が聞こえてきた。
その音とともに、懐かしさと温もりが胸に広がる。
それは、『帰ってきた』という感覚に近かった。
中嶋恵美子さんは、淡い水色のエプロンをつけて、台所の入り口に姿を現した。髪は低い位置でひとつにまとめられ、手はまだ米を洗っていたのか、ほんのり濡れていた。
「まあまあ、レンくん……大きくなったわねえ。ようこそ。荷物は奥の部屋に置いていいわよ。すぐ朝ご飯ができるから、それまでにゆっくりしてね」
彼女の声は柔らかく、しかしどこか確信に満ちていた。まるで、以前から知り合いだったかのように。
「ありがとうございます…そして、ご迷惑をおかけします」
そう言って、俺は軽く頭を下げた。
「もう、そんなこと言わないの。レンは、うちの子同然なんだから。さ、荷物を置いてきなさい」
味噌汁の香りと、古い木材の匂い。
そして洗い立ての布のような清潔な香りが混ざり合って、家全体に満ちていた。空気は冷たすぎず、心地よい涼しさだった。
畳の廊下を歩きながら、一歩ごとに木の板がきしむ音が足の裏に伝わってきた。
客間はシンプルで明るかった。片側には丸められた布団、明るい木のタンス、そして庭に面した窓。外には、紫陽花が満開の小さな庭が広がっていた。
俺は布団の横にリュックを置き、床に座り込んだ。
近くの森からは、聞いたことのない鳥の鳴き声が風に乗って届いてきた。
そして突然、妙な感覚に包まれた。
不快というわけではない。ただ、違和感があった。
まるでこの布団も、この家も、この空気も――俺のものではない、別の世界に属しているもののようで。
それでいて、何かが俺を招き寄せているようにも感じた。
しばらく黙って座っていた。膝に手を置き、白い壁をぼんやりと見つめながら。
「どうして、子どもの頃の記憶が思い出せないんだろう……」
さっき、電車の中で気づいたあの違和感。
東京に来る前の自分の人生が、霧に包まれたようにぼやけている。
学校に通っていたことは分かる。家族がいたことも覚えている。
だけど、母の顔も、自分の部屋も、明確な日付さえも――何ひとつ、思い出せなかった。
誰かが俺の記憶に、濡れた布でそっと触れたような感覚。
それが怖いとは思わなかった。むしろ、そうであることが当然のように感じてしまっている自分がいた。
「……忘れたんじゃなくて、最初からその人生を生きてなかったとしたら?」
不意にそう思った瞬間、胃の奥がきゅっと痛んだ。
馬鹿げている。ありえない。
でも――どこかで、その可能性に惹かれている自分がいた。
俺はポケットからスマホを取り出した。
俺 – 8:21】
「この世界の方が、俺よりも俺のことを知っている気がする」
「変な感覚だよ…何かが逆さまになってるような」
「栞さんは、そんなふうに感じたことありますか?」
返信は待たずに携帯をポケットへ戻した。
立ち上がって、深く息を吸い、食堂へと戻った。
台所では、恵美子さんが丁寧に朝食の準備をしていた。
炊きたての白ご飯、きつね色の卵焼き、湯気の立つ味噌汁、漬物に焼き鮭――
どれも家庭的で、見ているだけで心が和む。
「うわー、お母さん今日気合い入ってるじゃん!いただきます」
春樹が手を合わせながら嬉しそうに言った。
「だって、今日は久しぶりにお客さんがいるからね」
恵美子さんが穏やかな笑みで答える。
俺も黙って席につき、春樹の真似をして手を合わせた。
「いただきます」
しばらくの間、朝食の音だけが静かに部屋に流れていた。
箸が茶碗に当たる音、味噌汁をすする音、窓の外から入る風の音。
「レンくん君、東京に行ってから、ここに戻ってくるのは初めてなの?」
お茶を注ぎながら、恵美子さんがふと尋ねてきた。
「えっと…はい、たぶん…」
思わず曖昧に返事してしまう。
彼女は不思議そうに俺を見つめた。
「たぶん?記憶喪失かしら?」
「いえ、違います。ただ…最近ちょっと頭の中がごちゃごちゃしてて、気分転換もかねて来てみたんです」
何とか話をそらそうとした。
すると、恵美子さんはふと真面目な表情になり、
「頭で覚えてなくても、身体が覚えてることってあるのよ。特に、こういう歴史のある場所ではね。この町には、昔からいる霊や、空気に溶け込んだ記憶がたくさんあるの」
「霊…ですか?」
驚いて聞き返すと、彼女はくすっと笑った。
「言い方よ。私はそういうふうに考えるのが好きなの。
時々ね、時間は一直線じゃなくて、円のように繰り返しているんじゃないかって思うのよ」
俺は何も言えなかった。
黙って、茶碗に残っていたご飯を口に運んだ。
春樹は、というと、恵美子さんの言葉にはあまり注意を払っていないようだった。すでに鮭のおかわりを皿に乗せていた。
外では、朝がすっかりと町を包み込んでいた。
温かく心地よい朝食をとっていても、胸の奥には、まだ小さな震えのような感覚が残っていた。
まるで足元の大地が、見た目よりも脆くて崩れそうな気がするような——そんな感覚。
朝食の後、空はすっかり晴れていた。
山から吹き降ろす風は柔らかく、湿った土やシダ、新しい葉の匂いを運んできた。
遠く、木々の合間から多摩川のせせらぎが聞こえていた。
清らかな水が、山の斜面を静かに流れている音だった。
「暑くなる前にちょっと歩いてみない?」
春樹が伸びをしながら言った。
「うん、いいね」
まだ口の中に卵焼きの味が残っていた。
家の横から外へ出て、砂利道を歩き始めた。
田植え前の水田が道に沿って広がり、水面が空を揺らめく鏡のように映していた。
トンボが飛び回り、セミが時折けだるそうに鳴いていた。
「六月はこんな感じさ。梅雨本番の前だけど、空気が重くなってきて、夏が本気を出す前の深呼吸って感じだね」
春樹はまるで俺の思考を読んだかのように言った。
俺は無言でうなずいた。
東京の暑さとは違っていた。あちらは重く、汚れている感じがした。
けれど、ここでは、太陽さえもどこか遠慮深い。
しばらく黙って歩いた。古びた金物屋の前を通り過ぎた。窓ガラスはほこりで覆われ、ツタが窓枠を這っていた。
その店先の影には、年老いた犬が眠っていた。俺たちに気づいても微動だにしなかった。
「この道、覚えてる?」
春樹が、上り坂の途中にある林道の分かれ道を指さして聞いた。
「いや…もしくは、うん、たぶん。」
正直なところ、自分の中の何かがその道を懐かしんでいるような気がした。
あるいは、『覚えたい』と思っているのかもしれない。
言葉を交わさずに坂を登った。
やがて、木々に囲まれた小さな空き地に出た。
そこには、朽ちかけた古い家が建っていた。
屋根の一部と、雨に濡れて色褪せた障子が残る壁だけが、かろうじて原形をとどめていた。
だが、俺を立ち止まらせたのは、その建物ではなかった。
それは——
ほんの一瞬の、閃光のようなイメージだった。
木々の間に響く笑い声。走り回る少女。長い黒髪。揺れる鈴の音。
そして、誰かが名前を呼ぶ声。
「レン……」
目を閉じた。
その記憶は、遠くから響く残響のように突然押し寄せてきた。
夢じゃない。そう確信できた。俺は……ここに来たことがある。彼女と一緒に。
「春樹、お前……この辺に住んでた女の子のこと、覚えてるか?黒髪で、ストレート。目が大きくて……どこか悲しそうなのに、誰も見てないときだけ、こっそり笑う子。白い浴衣を着てたような……そんな子、覚えてない?」
そう聞いて、春樹は眉をひそめて少し考え込んだ。
「白い浴衣の女の子? うーん……いや、そんな子は知らないな。なんか昔見たアニメとかのキャラじゃないの?」
「違う。そういうのじゃない。たしかに……俺たち三人で、ここで遊んでた気がするんだ」
春樹は俺を一瞥し、ふっと小さく笑った。
「あー、もしかしてそれ、お前が昔言ってた『空想の友達』じゃないの? 母さんがよく言ってたよ。レンはちょっと変わった子で、よく一人で喋ってたり、『女の子がついてくる』って言ってたって。覚えてないの?」
俺はその場で固まった。
「……空想の、友達?」
「うん。いつも『彼女が待ってるから遅れちゃダメ』とか言ってさ。正直、ちょっと怖かったよ。でもまあ、誰でも子どもの頃は変な時期あるしな」
春樹は冗談っぽく肘で小突いてきた。
返す言葉が見つからなかった。
俺が雪さんを『作り出した』のか? それとも……それとも何か、別の理由が?
視線を再び開けた場所へ向けた。
崩れかけた古い家。
そこに誰もいない。俺たち二人だけだった。
風が木々を揺らしていた。
春樹はもう歩き出していたが、俺はその場に少しだけ留まった。
この場所には、何かがある。
少女の記憶だけじゃない。空気そのものに、何かが染み込んでいるような感覚。
そして、その時だった。
それはふとした瞬間にやってきた。
「……この匂い……?」
思わずつぶやいた。
かすかに漂ってくる香り。
――淹れたてのコーヒーの匂い。
ありえない。
近くに店なんてないし、電気も通ってない。けれど、確かにそこに香りがあった。
まるで誰かが、この場で今しがた湯を注いだばかりのように。
ゆっくりと振り返り、あの香りの出所を探すように辺りを見渡した。
しかし、そこには何もなかった。
静寂――
そして、その後に聞こえたのは、もう聞き慣れたあの音だった。
鈴の音。ひとつだけ。
肌が粟立った。
考えるより先に、一歩踏み出していた。
そして、石畳の隙間の間に何かが見えた。倒れた枝の下に、くしゃくしゃに折れたポストカードがかすかに覗いていたのだ。
しゃがみ込んで、そっとそれを拾い上げた。
湿った地面に触れていたせいで、カードは濡れていた。
けれど、その表面には、はっきりと見覚えのある風景が写っていた。
――あの寺。前に見つけたポストカードと同じ場所だ。
「また、これか……」
自然と、ポストカードをジャケットの内ポケットにしまい込んでいた。
もう一度だけ開けた場所を見回したが、さっきまで漂っていたコーヒーの香りは、もう跡形もなかった。鈴の音も、同じく消えていた。
無言のまま、春樹の後を追って小道を下っていく。
香りは消えたが、あの時の感覚だけが胸の奥に残っていた。
まるで、何かが俺を呼んで――そしてまた、隠れてしまったかのように。
砂利道を静かに歩いていった。
太陽はすでに高く昇っていたが、木々の影が俺たちを涼しく守ってくれていた。
風が枝の間を抜けて、葉を優しく揺らす音が心地よかった。
「なあ、春樹。夏祭りって、いつだっけ?……ほら、『奥多摩納涼祭』ってやつ」
自分でも驚いた。どうしてその名前を覚えていたのか、わからなかった。
奥多摩の祭りになんて行ったこともないはずなのに……言葉が自然と口からこぼれた。
「納涼祭? 八月十二日だよ。毎年その日。忘れたのか? 来るつもりか?」
そう言って、春樹は楽しそうにこちらを振り返った。
「うーん……たぶん。まだ決めてないけど……もしその前に来れなかったら、その日は来たいな」
俺は空を見上げながら、そう呟いた。
木々の隙間から見える青空は、どこまでも澄んでいた。
春樹は片眉を上げて、笑った。
「へぇ、本当? それは嬉しいな。お前、花火が怖くて祭りに行かなくなったんだろ? 覚えてるか?」
「うん……なんとなくね」
半分笑いながら答えたけれど――
実のところ、そんな記憶はまったくなかった。
でも、その光景を想像しただけで、心の奥がふるえた。
紙の灯籠に照らされた夜、人々のざわめき、木々の間を飛ぶ蛍の光、湿った夏の空気……
そして、そのすべての中に、どこか遠くで響く鈴の音。
もしかしたら――
本当に、もしその祭りの日にここへ戻ってくることができたら、彼女にまた会えるかもしれない。
あの寺も、もう一度現れるかもしれない。
雪さんも、またそこに。
だって、まだ何かが足りていない気がするから。
太陽が西の空へ傾き始めた頃、俺たちは春樹の家へ戻ってきた。
蒸し暑さが増して、空気の中には蝉の鳴き声が途切れることなく響いていた。まるで終わりのないマントラのように。
「シャワー浴びてくる。マラソン走った後みたいに汗だくだ」
そう言って、春樹はサンダルを脱ぎながら玄関に入り、俺を残した。
「うん、俺はちょっと外にいるよ」
俺は縁側の木の段に腰を下ろした。
ポケットからスマホを取り出すと、未読メッセージがいくつか届いていた。
栞さんからだった。
【栞 – 9:01】
「もう着いた?」
「それとも、すでに殺されちゃった?」
【栞 – 9:43】
「返信ないと不安になるよ。大丈夫?」
【栞 – 10:12】
「さっき書いてたこと……
『世界の方が自分をよく知ってる』ってやつ」
「その感覚、なんかわかる気がする」
「もしかしたら、君が逆なんじゃなくて、他の人たちがまだ眠っているだけかもね」
思わず笑みがこぼれた。
これも彼女らしい。
一見冗談っぽいのに、どこか詩のような深さがある。
まるで短歌か俳句を、メッセージのふりをして送ってくるみたいな――そんな感じだ。
俺は返信を書き始めた。
【俺 – 16:42】
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「春樹とちょっと散歩してて、また変なもの見つけた」
「森の中でコーヒーの匂いがしてさ。前に見たのと同じポストカードも」
「それと……鈴の音も聞こえた」
「またこの場所に戻らないといけない気がする」
「きっと答えはここにある」
【俺 – 16:45】
「でも、ちょっとした問題があるんだ」
「……完全に金欠です :( 」
間。
スマホが震えた。
【栞 – 16:47】
「じゃあ、仕事が必要だね」
「皿洗いしてくれたら、コーヒー一杯淹れてあげるよ」
「それとも、お金じゃなくて知恵とコーヒーで報酬をもらうのは不満かな?」
思わず、声を殺して笑ってしまった。
ちょうどその時、春樹が髪をタオルで拭きながら出てきた。
「ん?なんだよ、それ。女の子か?」
「そんなとこかな……仕事が必要みたいだ」
俺はスマホをしまいながら答えた。
「マジかよ?彼女に財布空っぽにされた?やっぱり、それで最近悩んでたのか~」
春樹が冗談めかして呟く。
「いや、もっと深刻だよ。
『コーヒー一杯のために皿洗いするかも』ってレベル。でも女とは関係ないんだ」
俺は苦笑いしながらそう返した。
「うわ、それもう底だな。さあ、入れよ。あとで最高の履歴書作ってやるよ。『奥多摩の猛暑を乗り越え、複数のイマジナリーフレンドを持つ男』ってな」
「完璧じゃん。霊媒師として雇ってもらえるかも」
ふたりで笑いながら玄関をくぐった。
畳の香りがふわりと鼻をくすぐる。
まるでこの家も、『どうせまた来るんでしょ』と言っているようだった。
その夜、俺は早めに布団に入った。だけど、眠れなかった。
蝉の声はいつの間にか消えて、代わりに森の静寂が、濡れた毛布のように重くのしかかっていた。
天井の木目を見つめながら、何も考えず、だけど何かをずっと考えていた。
彼女も夏を待っているんだろうか。
俺のこと、覚えているのかな。
あのコーヒーの香り……
いや、もしかすると、コーヒーそのものが――
彼女と繋がるための『橋』なのかもしれない。