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第5章 『夢と兆し。』

(ゆき) (しおり)  中島春樹(中島はるき)  荒川レン(あらかわレン)


6月22日 ― 早朝

夏の夜明け前のそよ風が、開け放した窓からそっと部屋に流れ込んでいた。

星を眺めながら眠りにつこうとしていた僕は、いつの間にか夢の中にいた。

その瞬間がいつだったのかは分からない。ただ気づけば、

僕は砂利道を歩いていた。足元で、細かい石がさくさくと音を立てていた。

空は古びた写真の縁のような、くすんだ橙色に染まっていた。

昼でも夜でもない、不思議な時間帯。目覚めと記憶の狭間に漂う『青の刻』。

その小道の両側には、霞がかった縁日の屋台が並んでいて、

和紙の提灯がぼんやりと光っていた。

どこからともなく、懐かしくて温かい旋律が空気の中に漂っていた。

耳からというよりも、胸の奥に直接響くような…

大地そのものが奏でているような、そんな不思議な音色だった。

まわりには誰も知らない顔ばかり。いや、そもそも顔がなかった。

すれ違う人々は、まるで霧から生まれた影法師のようで、笑っていたり、話していたり、楽しそうにしているのに、その声は僕のもとに届く前に消えていった。

唯一、僕の記憶に触れる音があった。

そう——あの鈴の音。いつも夢の中で聞こえていた微かな音。

そして、彼女が現れた。

彼女は背を向けていた。一本の大きな木のそばに立ち、その枝には赤い糸で結ばれた白い短冊が無数に揺れていた。

風が彼女の薄青い浴衣の裾をやさしく撫でていた。

浴衣には小さな花が散りばめられていて、灯りに照らされてまるで鼓動しているようだった。

高く結い上げられた髪からは、うなじの曲線が覗いていた。

その肩に、白いリボンで結ばれたひと房の髪が落ちていた。

彼女の姿は、世界のすべての動きを止めてしまうほどの静けさを纏っていた。

気づけば、僕は彼女に向かって歩いていた。

どれほど距離があったのか分からない。ただ、道が自ら縮んでいくような感覚だった。

そして彼女が、ゆっくりと振り向いた瞬間——

時が、砕けた。

その瞳が僕をとらえた。懐かしさも、悲しみも、喜びもない。

ただ、痛いほどの静けさと共に、確かな『認識』がそこにあった。

「遅かったね...」

彼女がそう呟いた。

その声は、まるで記憶の奥に埋もれた響きのようだった。

何度もどこかで聞いたことがある気がして、胸の奥に懐かしさが広がった。

言葉を返したかった。

ここがどこなのか、なぜこんなにも馴染み深く感じるのか——問いかけたかった。

けれど声が出なかった。喉が塞がれ、言葉が別の言語に閉じ込められているような、もう存在しない『別の僕』がそこにいるような、そんな感覚だった。

雪さんは一歩、僕の方へと近づいた。

首元の鈴が、かすかに音を立てた。その音が、骨の奥まで響いた。

「……まだ思い出せないのね。でも、すぐに思い出すわ」

その言葉は、風に溶けるようなささやきだった。

彼女は視線を落とした。

その手に、小さな陶器のカップが握られていた。まるで宝物のように、そっと大切に持っている。顔の近くに寄せると、静かに香りを吸い込んだ。

「……コーヒー……」

その声は、空気の中でほどけるように消えていった。

僕は必死に言葉を追おうとした。

一語一語に意味を求めた。

けれど、音は水に溶けたインクのように散っていった。

最後に見えたのは、彼女の唇がもう一度動いたこと。

僕の耳が拾ったのは、たった一つ——

「コーヒー……」

光が消えていった。

夏の匂いも、彼女の姿も、少しずつ世界から消えていった。

そして——目が覚めた。

激しく脈打つ心臓の音で目覚めた。

部屋はまだ暗く、夜明け前の灰色が天井に滲んでいた。

僕はしばらくそのまま、天井を見つめて動けなかった。

今までの夢とは違っていた。目覚めても、記憶が霧のように消えていかなかった。

彼女が何を言ったのか、はっきりとは思い出せない。

でも、胸のどこかで震え続けていたものがあった。

「……コーヒー」

ただの一言。日常的で、平凡なはずの言葉。

それなのに、僕の中で、まるで宇宙を抱えているかのような重さを感じた。

顔を横に向けた。窓からのそよ風はまだ吹き込んでいて、カーテンをやさしく揺らしていた。

アスファルトの湿った匂い。どこか遠くの店で焼かれている、朝一番のパンの香り。それから、たぶん気のせいかもしれないけれど——コーヒーの匂いも。

ばかばかしい話だ。部屋の中にはコーヒーなんてどこにもない。

なのに、夢からずっとその香りが僕の後を追ってきたような、そんな気がした。

ベッドの上で身体を起こすと、時計は午前五時四十七分を指していた。

もう一度目を閉じようとしたけど、無理だった。あの夢が残した感覚が、眠りに戻ることを許さなかった。

「……答えが見つかるとしたら、行く場所はひとつだけだ」

理由なんてない。でも、なぜか信じられる気がした。

それは——

『段ボールの猫』。

ゆっくりとシャワーを浴び、まだ早朝の静けさの中で着替えた。

淡い色のシャツと、少しくたびれたジーンズ。スマホと財布をポケットに入れて、部屋を出た。

建物全体がまだ眠っていた。自動照明が僕の動きを感知してちらつき、エレベーターがゆっくりと唸りながら降りてくる。

それでも、驚いたことに普通に作動していた。

「……ついに修理に来たのか?」

誰にともなく呟いて、外に出た。

街はまだあくびをしているようだった。街灯はまだ点いたままで、でも東の空がうっすらと明るみ始めていた。

通りはほとんど人がいない。

時折すれ違う自転車や、牛乳配達のバイクが角を曲がっていく。

僕は静かに歩いた。自分の足音と、遠くで休んでいる電車の音だけが耳に残る。

そして、大通り近くの角を曲がったとき——それは起こった。

「……レン?」

名前を呼ばれて顔を上げた。

肩にリュックを背負い、半袖の白いシャツに、ゆるく結んだネクタイ。

見覚えのある制服姿の青年が、目を見開いて立っていた。

急いでいるようだったが、僕を見て驚いた表情を浮かべている。

「まさか……君だよね?オレだよ、春樹!」

……春樹?

その名前に、心が少し揺れた。

声にも、どこかで聞いたような懐かしさがあった。

でも、彼の顔は……まだぼんやりと霞んでいて、記憶の奥から引きずり出すには、少しだけ時間が必要だった。

「……春樹?」

自信なさげに名前を繰り返した。

彼は笑った。まるで、すぐには思い出せないだろうと分かっていたように。

「久しぶりだな!何年ぶりだろう……」

そう言って、どこか嬉しそうだった。

「……あ、うん」

僕は何を言えばいいのか分からなくて、とりあえず微笑んでみた。彼を傷つけたくなかったから。

春樹は一歩近づき、僕の肩を軽く叩いた。まるで別れの挨拶みたいに。

その瞬間、不思議と心の奥が温かくなった。懐かしい——でも説明できない感覚だった。なぜか分からないけれど、それは確かに心地よかった。

「もっと話したいけど……このままだと遅刻しちゃうな。あ、LINEやってる?ID教えてよ。」

僕はぼんやりしたままスマホを取り出し、連絡先を交換した。

春樹はニコッと笑って、

「よし、じゃあまた連絡するよ。ちゃんと話そうな!それじゃ、また!」

そう言って、時計に追われるように歩道を駆けて行った。

「……また、ね」

僕はその場にしばらく立ち尽くして、彼の背中が見えなくなるまで見送った。心のどこかが揺れていた。

彼の声も、仕草も、どこか懐かしい。でも、最近の記憶には彼の姿はなかった。昔の思い出を遡っても、どうしても見つからない。

まるで——僕が経験したはずの物語から抜け落ちてしまった登場人物のようだった。

頭を軽く振って、再び歩き出す。

街は少しずつ目を覚まし始めていた。

通勤の人々が増え、車の音も賑やかになってきた。

僕はその流れの中を静かに進み、『段ボールの猫』へ向かった。

夢のことを、そして春樹との出来事を、栞に話したいと思ったから。

到着した時、カフェはまだ開いていなかった。

ガラス扉の前に立ち、営業時間の札を読んだ。

『開店時間:午前7時〜』

まだ10分ほど早かった。

入口横のベンチに腰を下ろし、そっと目を閉じた。朝の風が前髪を揺らす。

心が、少しずつ静まっていくような気がした。

隣の店から、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。それは濡れた木々の匂いや、温まった舗道の匂いと混ざり合い、どこか懐かしく、心を落ち着かせる。

世界がほんの少しだけ、僕に猶予を与えてくれているようだった。答えを迫られる前の、静かな一呼吸。

午前6時58分ちょうど。カフェの内側のカーテンがそっと揺れた。

見慣れた影が扉に近づいてくるのが見えた。

栞さんがゆっくりと扉を開け、そこに座っている僕を見つけて、目を細めた。

その表情が驚きなのか、あきれなのか、僕には分からなかった。

「……ずっとそこにいたの?」

「ほんの数分だよ。……まだ開店前だけど、入ってもいい?」

僕が立ち上がりながらそう言うと、栞さんはため息まじりに答えた。

「静かにしてくれるなら、特別にいいわ」

中に入ると、いつもの香りが僕を包み込んだ。

湿った木材と、バニラ、そしてコーヒーの香り。

栞さんは準備用のトレイをカウンターに置き、無言でカップを並べ始めた。

その横顔を、僕はしばらく黙って見つめていた。

無駄のない、しかし慌てることのない動き——

それが、夢の中で湯呑みをそっと手にした雪さんの姿と重なった。

「……寝不足?」

こちらを見ずに、栞さんが紙フィルターの準備をしながら問いかけた。

「うん……というか……夢に君が出てきたんだ」

僕はカウンター席に座りながら、笑いをこらえつつ答えた。

栞さんは片眉を上げたが、手の動きは止めなかった。

「朝からそんな直球でくるとはね」

その無表情にもう冗談の意味も薄れてしまい、僕は肩をすくめた。

「そういう夢なら、誰が出てきたか確実に覚えてたはずなんだけどな。……冗談だよ」

「それで?どんな夢だったの?昨日の女の子、あの『雪さん』と関係あるの?」

「あるよ。……彼女が夢に出てきたんだ。今回は……話しかけてくれた。祭りの中にいて、薄い水色の浴衣を着てた。そして——コーヒーの話をしてた」

栞さんの手がふと止まった。

ほんの一瞬だった。だが、それは確かに感じ取れた。

沸騰しかけたお湯の音さえ、一拍だけ息を止めたかのようだった。

「……祭り?どこで?」

彼女がようやく口を開いた。

「わからない。霧に包まれていて、提灯の光がぼんやりと揺れてた。都会の大きな祭りって感じじゃなかったな。あえて言うなら、郊外のどこか静かな町…そんな雰囲気だった」

「ふーん……で、その子が話してくれたのは、毎日飲んでるコーヒーのことだけ?

……もしかして、“夜ふかしやめろ”っていうメッセージなんじゃない?」

栞さんは少し冗談っぽく言った。

「今日は冗談モードなんだな」

「だって、さっきの『夢に出てきた』発言にはやられたからね。これでおあいこ」

そう言いながら、彼女はドリッパーの上にお湯を注ぎ始めた。

湯気が立ちのぼる中、豆の香りがふわりと広がる。

「……で、夢の話なんだけど。栞さんはどう思う? 何かの『サイン』だと思う?」

僕がそう尋ねると、栞さんはほんのわずか眉を寄せた。

真剣な表情が、いつもの無表情の奥から顔を覗かせる。

「そればかりは……私が断言できることじゃない。それが『サイン』かどうかは、君自身がどう受け取るかで決まると思う」

その言葉には、飾り気のない誠実さがあった。

真っ直ぐに答えてくれているのが、目を見ただけで分かった。

「うん……わかってる。でも、時々思うんだ。『自分、おかしくなってるんじゃないか』って……」

僕は小さくため息をついた。

その瞬間、栞さんはコーヒーカップを僕の前に置いた。

「人生って、時々ものすごく不思議な形で、何かを伝えようとしてくるからね。

……ちゃんと聞こうとすれば、案外、答えは近くにあるのかもしれない」

その一言が、今の僕に必要な後押しだった。

「……いつも、そんな哲学的に話すの?」

苦笑しながらそう言うと、栞さんは何も答えずにくるりと背を向けた。

まるで、僕の言葉がカウンターの向こうにある空のカップに吸い込まれていったかのようだった。

「……夢の中のあの町、何かヒントが隠れてる気がしてさ。あの『雪さん』って子についての。……本当に存在するのかどうかは別として」

僕の言葉に、彼女は振り返らずに答えた。

「——それで?その場所に行ってみるつもり?」

「簡単に言うけど、日本には小さな町なんていくらでもあるよ」

僕は少し落胆しながら言った。

「探してる答えって、案外、もっと近くにあるかもしれないよ。

……あとは、ちょっとした忍耐だけかもね」

栞さんの声には、どこか深みがあった。

「……そうか。たしかに、焦っても仕方ないよね」

「意外だったよ。夢にそんなに敏感なタイプだとは思わなかった」

「僕もそう思う。というか、こんな夢を見たのは初めてだ。夢っていうより、まるで記憶みたいだったんだ。……ありありと感じられて」

「それで?これからどうするつもり?」

「まだわからない。まずは頭の中を整理しないと……

でもそれが難しくてさ。ずっとあの夢のことばかり考えてて、目が覚めたあとも、全然眠れなかった」

「じゃあ、無理してこんな朝早くに出てこなきゃよかったのに」

「でも……こっちに来る途中で、もっと変なことがあってさ」

「……あら、まだあるのね」

彼女は小さくつぶやいた。

僕は春樹のことを話した。どうやって僕を認識したか。昔の友達みたいに声をかけてきたこと。それなのに、僕には彼のことがまったく思い出せなかったこと。

「……もしかして、記憶喪失になりかけてるんじゃない?そういうこと、案外あるらしいよ」

栞さんは冗談めかして言ったが、その声にはどこか優しさがあった。

「違うと思う。……たぶん、それ以上の、何かがおかしいんだ」

僕はそう言いながら、声を落とした。

「……でもLINE交換したんでしょ?なら、メッセージ送って聞いてみればいいじゃない」

その瞬間、彼女の言葉がどこか『普通の女の子』みたいに聞こえた。

それが不思議だった。

今までの栞さんとの会話は、いつも静かで、深くて、

まるで水面の奥底を覗き込むような感覚だったのに。

一瞬だけ、彼女は誰にでもいるような、気さくな友人のようだった。

……でも、その『日常』はすぐに消えて、また静けさが戻ってきた。

「彼に肩を叩かれたとき、不思議な感覚があった。懐かしくて……あたたかくて……

まるで何年も会ってなかった誰かに再会したみたいな感じ。実際、彼もそう言ってた。『久しぶりだな』って。でも、いくら思い出そうとしても……記憶が浮かんでこないんだ」

彼女は何も答えなかった。

今回はただ、黙って僕の話を聞いてくれていた。

「こういうのって、よくあるの?……夢の話をしに来る客とか、コーヒーに答えを求めに来るような人」

少し場を和ませようとして尋ねてみた。

「そんなにないよ。夢の話でバリスタに語りかけてくるような人、今のところ君だけ」

彼女はわずかに肩をすくめながらそう言った。

「はは……ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」

「気にしなくていいよ。見てのとおり、そんなに忙しくもないし」

そう言いながら、彼女は店内を軽く見回した。

やはり、今日も『段ボールの猫』には僕と彼女しかいなかった。

僕はコーヒーに口をつけた。

深みのある苦味。けれど、そのあとにかすかに甘みが広がる。

柔らかく、どこか寂しさを感じさせる味だった。

――もしかして、これが夢の中で雪さんが言ってたコーヒー……?

夢と同じではない。けれど、その香りは、今朝目覚めた時に感じた『虚しさ』と同じ余韻を残していた。

「ねえ、栞さん。ちょっと図々しいかもしれないけど……」

「私の連絡先?」

彼女は僕の言葉を最後まで聞かずに口にした。

「……うん。ほら、万が一の時のためにね」

僕は少し恥ずかしそうに言い訳したが、それは本心だった。

変な意味はなかった。ただ、何かあったときのために繋がっておきたかった。

栞さんは手を拭くと、スマホを取り出した。

「いいよ。ただし……夜中の三時に変なスタンプとか送ってこないでね」

「はは、約束するよ」

LINEのIDを交換したあと、再び、静けさが店内を包み込んだ。


午後4時13分。

ほぼ一日中、街を歩き回っていた僕は、疲労と混乱の入り混じった感覚を抱えながら部屋へ戻った。

特に何か不思議なことがあったわけでもない。

だけど、完全に普通だったとも言えなかった。

駅も、ショーウィンドウも、ネオンの看板も、すべてがまだそこにあった。

けれど、どの風景にも、ほんのわずかな違和感があった。

いつも見ていたはずの店が閉店していたり、よく通っていた食堂の名前が変わっていたり、地下鉄の南側の壁に描かれていたはずの壁画が消えていたり…。

部屋に入ると、靴を脱いでテーブルの上にスマホを置いた。

その瞬間、ポケットの中で何度も震えていたことに気づいた。

少し面倒な気持ちで手に取って、画面を見た。

新着メッセージがひとつ。

【春樹 - 15:52】

「おい、まだ寝起きみたいな顔してんの?」

「久しぶりの再会にいいアイデアがあるんだ…」

「今週末、母さんの家がある奥多摩に行こうと思ってさ。空気はきれいだし、都会の喧騒もないし、人も少ないし。どう?:)」


「奥多摩…」小さく呟いた。

その名前には、どこか聞き覚えがあった。

川、山、吊り橋…。

昔行ったことがあるような…それとも、夢の中だったのかもしれない。

もう一度メッセージを見返す。その絵文字が、どこか場違いに思えた。まるで、何かを隠そうとしているかのような。

誘いを受けるべきかどうか、正直わからなかった。何かが自分を引き寄せている気がしたけれど、同時に警戒する気持ちもあった。

「うーん…どうするべきだろう」

そう呟いてから、目を閉じた。

窓の隙間から差し込む午後の風が、カーテンをわずかに揺らしていた。

遠くからは車の走る音と、どこかで鳴く蝉の声が聞こえてくる。

空には白く高い雲が浮かび、昼間の熱気もようやく和らいできた頃だった。

思い浮かんだのは、なぜか栞さんの顔だった。

理由もなく、LINEを開いて、メッセージを打ち込んだ。

【俺 - 16:20】

「なあ……もしさ、自分のことを知ってるって言う相手に誘われて、その人のことをほとんど覚えてなかったら……それでも数日、知らない町に行ってみるべきだと思う?」

送信したあと、すぐに既読のマークがついた。

でも、返事はすぐには来なかった。

1分…2分…。

アプリを閉じかけたそのとき——

【栞 - 16:24】

「思い出が全部揃ってなくても、それでも価値のあるものってあると思う」

「もし本能がそう言ってるなら、耳を傾けてみたら?」

「それまでも、そうやって動いてきたんでしょ?」

そのメッセージを、何度も読み返した。

シンプルな返事だったけれど、いつものように、奥に深い意味が込められている気がした。

ちょうどそのとき——

チリン。

あの鈴の音が、また聞こえた。遠くから、かすかに金属が触れ合うような音。誰かが意図もなく、どこかで鳴らしたかのように。

反射的に窓の方を向いた。けれど、そこには誰の姿もなかった。

ただ、ゆっくりと変わり続ける世界の残像だけが映っていた。

もう一度、栞さんのメッセージを見返し、ためらうことなく春樹に返信を送った。

【俺 - 16:31】

「奥多摩って言ってたっけ?」

【春樹 - 16:32】

「うん、西の方にある町だよ」

「母さん、そこに住んでる」

「覚えてないの?」

もちろん、まったく覚えていなかった。でも、春樹が嘘をついているようには思えなかった。直感が、そう言っていた。

【俺 - 16:34】

「…ああ、なんとなく思い出してきたかも」

「それで、いつ出発する?」

【春樹 - 16:34】

「よかった〜。幼なじみの親友に母さんのこと忘れられてたら、きっと悲しんでたと思うよ」

「土曜日、5時に新宿駅で待ち合わせでどう?」

春樹が母親の話をした瞬間、なぜか胸がドクンと鳴った。

そのとき、迷いがすっと消えていった。行かなければ、という気持ちが自然と湧き上がってきた。

ふと、頭の奥でぼやけた映像が浮かんだ。

古い台所から、やさしく笑いかけてくる女性の姿——

思い出せないけど、懐かしい感情だけが、確かに残っていた。

【俺 - 16:35】

「わかった、行くよ」

「じゃあ土曜日に」

【春樹 - 16:36】

「よし、母さんにも伝えとくね」

「またね!」

春樹とはそれ以上、何を話していいか分からなかった。

会えばきっと、もっと思い出せる——そう思って、会話を終えた。

代わりに、今度は栞さんに伝えることにした。

自分の決断を。


【俺 - 16:48】

「結局、行くことにしたよ」

【栞 - 16:50】

「時には、自分の直感に賭けることが一番の選択かもしれないね」

【俺 - 16:51】

「彼の母親が、僕のことを忘れたら悲しむって言ってた」

【栞 - 16:54】

「そうだね。きっと、あなたが探してる答えはその場所にあるのかもしれない」

「あるいは、何かの『しるし』かもね」

【俺 - 16:54】

「うん…ありがとう、本当に」

「いつか必ず恩返しするから」

【栞- 16:57】

「楽しみにしてるよ、ふふっ…」

「大丈夫、何かあったらいつでも連絡して」

「助けになれなくても、話を聞くくらいはできるから」

スマホのバッテリーが残り少なかったので、そこで会話を終えることにした。

ベッドから立ち上がって、机の上で充電を始めた。

そのまま、シャワーを浴びるためにバスルームへ向かった。

「…お腹減ったな」

シャワーを浴びながら、そう独りごちた。

無理もない。一日中、街を歩き回っていたのだから。

「…たしか、棚にインスタントラーメンが残ってたはず。今日はもう、外に出たくないな」


午後8時38分。

窓の外では、街が静かな光の海のように輝いていた。

シャワーの後、髪がまだ少し濡れたまま、インスタントの味噌ラーメンを食べ終え、ベッドの端に腰掛けていた。

特に何も考えずに、ただ遠くのビル群を見つめていた。

世界は、僕がその一部かどうかに関係なく、変わらず回り続けている。

そのことに、少しだけ安心した。

春樹のことを思い出した。彼のメッセージ。かすかにしか記憶にない、あの山あいの町。

彼の母親のこと。僕を待っているかもしれない人。

そして…

「答えは、あの場所にあるのかもしれない」

栞さんの言葉が、静かに頭の片隅で響いていた。

それが本当かどうかは分からなかった。

でも、少なくとも——土曜日には、新しい場所へ向かう理由ができた。

新しい行き先。

たとえ進む先がはっきりしていなくても、歩き続けるための口実。

窓から差し込む風のささやきが、そっと目を閉じさせた。

街の光、遠くのざわめき、そしてようやく和らいできた熱気——

これが、今の僕の「現実」なんだ。少なくとも、今は。

ゆっくりと横になりながら、白い天井が思考と溶け合っていくのを感じた。

…この現実に目覚めてから、初めてだった。

完全に独りではないと思えたのは。


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