第4章 『答えを探して。』
雪栞荒川
6月21日 — 午前10時12分。
アパートのカーテンの隙間から、朝の光が差し込み、木製の床に淡い線を描いていた。
外では、蝉の単調な鳴き声が静けさを破っていた。冷蔵庫のかすかな唸り声と、暑さで膨張した木材がきしむ音が、それに重なる。
僕はソファに座っていた。まだパジャマのまま、手には冷めたコーヒーのカップ。
昨晩はよく眠れなかった。
公園の出来事から二日が経ったというのに、あのポストカードの光景が頭から離れなかった。
テレビの横にある小さな棚の上に、そのハガキを置いていた。今の位置からも、石段の縁と、木々の間に浮かぶ寺のシルエットが見える。
あの時、雪を追ってたどり着いたあの寺と、同じ構造だった。――偶然とは思えなかった。
「ふぅ……」と、ため息をつく。
机の方へ歩き、ノートパソコンを起動してブラウザを開いた。
検索バーに、慎重に文字を打ち込む。
『東京 寺 石段 灯籠 森』
検索結果は、ありふれたものばかりだった。明治神宮や浅草寺、有名な京都の寺院、観光地ばかりが並んでいて、あのポストカードの場所とは似ても似つかない。
観光ブログや古地図、日本の寺に関するデータベース、さらにはSNSまで、いろいろなサイトを調べた。
曖昧な言及や断片的な情報は見つかったが、写真付きのものはなかった。詳細もなかった。まるでその場所が、もう語ることのできない誰かの記憶の中にしか存在しないかのように。
検索ワードも変えてみた。
『東京 山の上 寺』『急な石段 寺 古いポストカード』、さらには英語でも試してみた。
でも、何も出てこなかった。
「ネットで何でも見つかるって言うけど……全部嘘だな」
思わず眉をひそめた。なぜ、これほどまでに情報が見つからないのか。
どんなに小さな寺でも、たいていWikipediaには載っているこの国で、こんなにも手がかりがないなんて……おかしすぎる。
もう一度ポストカードを手に取り、じっと見つめた。
石段。石灯籠。苔に覆われた古びた屋根。
あの時、自分は確かにそこにいた。そう信じている。
なのに、なぜ他の誰もこの場所を知らないのか?
「なんなんだよ、もう……」
イラつきながら、机を軽く叩いた。
欲しい情報が見つからない苛立ちに、じっとりと肌にまとわりつく夏の暑さが加わって、気持ちがどんどんすり減っていくのがわかった。
立ち上がり、ベッドの縁に体を投げ出すようにして、目を閉じた。数秒してから、もう一度ポストカードを見つめ直す。
その時、あの公園で栞さんが言った言葉が、頭の中に浮かんできた。
「見えているものが、本当に『そこ』にあるとは限らないのよ。ただ、自分の居場所を探しているだけかもしれない——」
「……それって、どういう意味だよ。あの寺のこと? それとも、俺自身のことか?」
呟きながら、苛立ちが混ざったため息を吐いた。
どうしても、この一連の出来事のすべてが、雪と関係しているような気がしてならなかった。名前すら知らない、あの不思議な少女。
けれど、彼女はいつもそこにいて、まるで「追いついて」と言わんばかりに僕を見つめていた。
唇を強く噛んだ。
これ以上、同じところをぐるぐる回っていても仕方ない。
もう二日間も、部屋から一歩も出ずに考え込んでいたのだから。
もしかしたら、別の手がかりが必要なのかもしれない——もっと古くて、確かな情報源。
そう思って、ふと図書館のことを思い出した。
ただの図書館じゃない。
僕の住んでいるマンションからそれほど遠くない場所に、昔の地図や歴史的な写真を所蔵している資料室のある図書館があったのだ。
運がよければ、何かしらの痕跡が見つかるかもしれない。
ただ、一つ問題があった。
この『ねじれた世界』では、公園のように、その図書館さえも、以前と同じ場所に存在しているとは限らないということ。
それでも、行ってみるしかなかった。
だって、自分の目で、あの寺を見たのだから。
僕は立ち上がり、動きやすい服に着替えて、ポストカードをジャケットの内ポケットにしまい、不思議な高鳴りを胸に感じながら部屋を出た。
何かを見つける予感か、それともまた少し迷い込む兆しなのか——それはわからなかった。
外は、雲の隙間から差し込む白くぼやけた光に包まれていた。
6月の東京らしい、蒸し暑さの中に重く澱んだ空気が流れていて、木々の葉がやけに緑濃く見えたのは、たぶん先日の雨をたっぷり吸い込んでいるからだろう。
歩いていたのは、理屈の上では『よく知っているはず』の通り。
けれど、歩を進めるたびに、何かが少しずつズレているような感覚があった。
横断歩道のそばにあったはずの文房具屋は消えていて、その代わりに青いファサードのミニマーケットが、まるでずっとそこにあったかのように立っていた。
角にあった古びた中華料理屋の木製の看板も、今はちらつくデジタルサインに置き換えられている。
信号機の緑も、僕の記憶にある鈍い色ではなく、やけに明るく、新品のように見えた。
「……前からこんなだったか? いや、絶対に違う」
周囲の景色は、いつもの日常を装っていた。
遠くで鳴るサイレン、自転車のタイヤがアスファルトを擦る音、どこかで吠える犬の声。
それでも、何かが微かに違っていた。
セミの鳴き声だけが変わらず響いていた。まるでこの異質な夏の、唯一の本物の証人であるかのように。
「はあ……このままだと、熱中症になるな……」
そうつぶやきながら、自動販売機へと足を向け、レモネードを一本買った。
ちょうどその時、夏服の制服を着た学生たちが、横断歩道を渡っていくのが見えた。
彼らのシャツは真っ白で、いくつかの肩に小さなリュックが片掛けされていた。
そのうちの一人が、冷たいお茶のボトルを振りながら笑っている。
季節的にはごくありふれた光景のはずなのに、なぜかそれが少し懐かしく感じられた。
「……また、勉強だけに悩んでいた頃に戻れたらな。」
図書館までの道のりは、以前なら目を閉じても歩けるほど馴染んだはずだったが、今では交差点ひとつひとつ、路地の一本一本に注意を払わなければならなかった。
途中、道に迷ったかと思った。
だが、有栖川公園の曲がった塀と、鉄柵の向こうに伸びる高い木々の梢が視界に入ったとき、ほっと胸をなでおろした。
幸いなことに、東京都立中央図書館はまだそこにあった。
「助かった……今日はもう、長い観光コースを歩き回る気力はなかったんだよな……」
そうつぶやきながら、公園の入口をくぐった。
木陰のベンチには年配の夫婦が座って、紙製の扇子で静かに風を送っていた。
鳥のさえずりと、木の葉を揺らす風の音が重なって、不思議なくらい穏やかな空気が流れている。
まるでこの場所だけが、世界の時間から切り離されているかのようだった。
通り過ぎた噴水では、二人の子どもが水しぶきを上げながら足をバシャバシャと遊ばせていた。
そのうちの一人が着ていたシャツには、しおれた花の模様が描かれていた。
「……」
僕は何も言わなかった。
けれど、なぜかその光景が妙に引っかかって、自然と眉間にしわが寄った。
そして、坂道を上っていくと、それはついに目の前に現れた。
淡い灰色のコンクリートの外壁、ガラスの自動ドア、そして黒い文字で書かれた看板——
『東京都立中央図書館』
そこにあった。僕の記憶とほとんど変わらない姿で。
ひんやりとした風がそっと頬を撫でていった。
まるで何かが『ようこそ』と言ってくれているような、そんな感覚。
僕はガラス扉の前で一度立ち止まり、深く息を吸った。
そして、ジャケットの内ポケットに手を伸ばす。
あのポストカードはまだそこにあった。
体温でほんのり温まっていたけれど、変わらずしっかりと存在していた。
正直なところ、僕の中のどこかで、あのポストカードが他のものと同じように消えてしまっているんじゃないか、そんな気がしていた。
けれど、それはそこにあった。
「……行こうか」
一歩、足を踏み出す。
自動ドアが静かにスライドし、ひんやりとした空気が全身を包んだ。
外とのコントラストはすぐに感じられた。
中は涼しく、静かで、まるで時間が止まっているかのようだった。
街の喧騒に代わって、エアコンの低いうなり声だけが空間を満たしていた。
ここには何度も来たことがある。
けれど、今の僕には、それがずっと昔のことのように思えた。
あるいは、まったく別の世界での記憶だったのかもしれない。
それでも——ほとんどが記憶通りだった。
灰色のカーペットの床。
大きな窓に沿って並べられた閲覧テーブル。
整然と並ぶ本棚には、丁寧に印刷されたラベル。
数人の職員が静かに通路を歩いていて、その動きはまるで振り付けのように滑らかだった。
音といえば、ページをめくるかすかな音か、遠くから聞こえるキーボードのタイピング音だけ。
存在感のある静寂が、この空間全体を包んでいた。
ロビーの近くで足を止める。
ガラスケースの中に、有栖川公園の大きなジオラマが展示されていた。
その横には、荷物を預けるロッカーと、パンフレットが並ぶカウンターがあった。
「……ここだけは、何も変わっていないようだな。少なくとも、そう『見える』だけかもしれないけど」
胸の奥に、かすかなざわめきが走った。
それは懐かしさとは少し違っていて、むしろ不快に近い感覚だった。
この場所が変わらずそこにあることで、他の世界が『変わってしまった』という事実を突きつけられた気がしたのだ。
「もしかして、世界がずれてるんじゃなくて……僕の方が、ずれてるんじゃないか?」
肩にかけたカバンのストラップを強く握りしめながら、そう思った。
カウンターや新刊コーナーを横目に、中央通路を進んでいく。
壁には『静かにしましょう』『携帯電話の電源はオフに』『書籍を丁寧に扱いましょう』といったシンプルなポスターが貼られていた。
開いた本の上でうたた寝している若い女性。
虫眼鏡を片手に、黄ばんだページを指でなぞる老人。
それぞれが、それぞれの時を生きていた。
あまりにも日常的で、あまりにも現実的な風景が目の前に広がっていて、一瞬だけ、こう思ってしまった。
——雪のことも、あの寺のことも、時間の逆行も、全部ただの悪い夢だったんじゃないか、と。
「……」
だが、ポケットの中にあるポストカードの感触が、すぐに僕をもうひとつの現実へと引き戻した。
脇の階段を使って二階へ上がる。高い窓から自然光が差し込んでいて、階段の途中で少し目を細めた。
そこには、歴史、地理、そして特別資料のコーナーがあった。
「もし答えがあるとしたら、きっとここだ」
そう呟いて、番号の振られた書架の間を歩く。
やがて目に入ったのは一枚の看板だった。
『郷土資料・古地図』
このセクションは、いつもと同じように閑散としていた。
知識の小さな片隅。ほとんど誰にも顧みられない場所。
僕は古びた革表紙の本や、修復された資料、消えた寺のカタログをなぞるように指でなでながら、棚の間をすり抜けていった。
その手触り、紙の擦れる小さな音、ほんのりとした埃の香りが、不思議と心を落ち着かせてくれる。
この歪んだ世界の中で、印刷された歴史だけは変わらない『真実』なのではないか。
——そんな風に思いたかったのかもしれない。
やがて、一冊の分厚い本の前で足が止まった。
背表紙にタイトルはなく、番号とすり減った漢字が一文字だけ。
窓から少し離れた閲覧テーブルに本を運び、ゆっくりと開く。
——そして、それはそこにあった。
黄ばんだページ。かすれた印刷。
その一枚に載っていたのは、解像度の低いモノクロの古い写真だった。
石段が写っていた。両脇には石灯籠。
奥には、木々の間に浮かぶように、あの寺の影が見える。
間違いなかった。あのポストカードと、同じ寺だった。
だが、僕の息を止めさせたのは、そこに写っていた別の『何か』だった——。
写真の右下——
かろうじて見える場所に、ひとりの青年の姿があった。
カメラに背を向けて立ち、寺の方をじっと見つめている。
短くて茶色い髪。僕とよく似ていた。
そして着ていたのは、1960年代の西洋文化の影響を受けて流行り始めたような、レトロなスーツ風の服だった。
……けれど、服装なんてどうでもよかった。
喉がカラカラに乾いた。
「……俺、か……?」
信じられない思いで、そう呟いた。
そっと本を閉じる。
表紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ほとん『呆然』という状態に近かった。
もちろん、確証はない。
画像はあまりにも古く、あまりにもぼやけていた。
——それでも。
写真の中の『何か』が、僕の胸の奥を不意に揺さぶった。
まるで、別の『僕』がすでにあの場所に立っていたかのように。
その存在が何かを残し、僕はようやくその痕跡に気づいたかのようだった。
「こんなの……偶然じゃない。いや、そうじゃないと……おかしい。……それとも俺、もう完全にイカれちまったか……?幻覚でも見てるのか?」
本の参考番号をメモしながら、そっとジャケットの内ポケットに手を伸ばす。
中のポストカードの紙が、ぬくもりを帯びて指先でかすかに音を立てた。
誰かに……このことを話さなければならない。
この光景を、どうにかして理解しなければならない。
——なぜか、真っ先に頭に浮かんだのは栞さんだった。
あの夜、事故に遭ってから唯一まともに会話をした相手。
彼女だけが、僕の知っているこの世界と、どこか『ズレた』現実との間に立っているような気がした。
「……これ、あの時彼女が言っていたことと、関係あるのか……?」
そう考えながら、僕はスマホを取り出し、ページの写真を撮った。
「……できれば、この本そのまま持って行って見せたかったけど……残念だな」
小さく呟いて、本を丁寧に棚へと戻す。
この本が置かれていたのは、歴史資料や古地図、地域記録といった、文化的価値の高い資料を扱う特別なセクションだった。
もちろん貸し出しは禁止されている。
日本では、そういった文化財の保存と保護が非常に重要視されている。
少なくとも、この世界でもその価値観だけは変わっていないようだった。
図書館に入ってから、すでに二時間以上が経っていた。
外に出ると、昼の暑さは少し和らいでいた。
さっきまで澄みきっていた青空は、いまや灰色の雲に部分的に覆われている。
まだ雨が降る気配はなかったが、空気の重みが違っていた。
何かが蓄積されているような、張りつめた空気。
僕は急がず歩き出した。
今回は、行きよりも短く感じた。
……いや、もしかすると、もう周囲をそれほど気にする必要がなかっただけかもしれない。
今日という一日で、この世界を見つめるには十分だった。
街はいつも通り、生きていた。
店に出入りする人々。点滅する信号の灯り。巨大なスクリーンから流れる広告の音声。
すべては『普通』に進んでいた。
——だが、僕の手の中には、その『普通』から外れた何かがあった。
色褪せたポストカード。
そして、自分自身かもしれない人物が写った、存在するかどうかも怪しい寺の写真。
パターンを見つけようとしているだけなのかもしれない。
……それとも、本当にあるのかもしれない。
答えを知るには、前に進むしかない。
角を曲がった瞬間、あのカフェの看板が目に入った。
まるで古い友人に出会ったような、不思議な安心感。
——『段ボールの猫』
あの場所は、まだそこにあった。
なぜだか、たった二日前に訪れたはずなのに、もう消えているのではないかという不安があった。
あのポストカードの寺のように……。
僕はガラスの扉を押した。
カラン、と小さな鈴が鳴り、すぐにコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐった。
カウンターの向こうで、栞さんがカップを拭いていた。
「……こんにちは」
僕はカウンターへ近づきながら挨拶した。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ。すぐにご注文を伺いますね」
相変わらずの落ち着いた口調で、手元の作業を止めずに答えてくれる。
「ありがとうございます。じゃあ、あの窓際の席で……」
少し緊張しながら、前回と同じ、通りに面した窓際のテーブルを指差した。
栞さんは僕を見て、ほんのわずかに微笑んだ。
店内は前回と同じく、静まり返っていた。
他に客の姿はなかった。
店内にいるのは、僕と栞さんだけだった。
それがどうにも不思議で仕方なかった。
外は人通りが多く、近くの店もそれなりに賑わっていたのに、このカフェ『段ボールの猫』だけは、まるで時間が止まったように静かだった。
だが、その奇妙な静けさに触れないことにした。
むしろ、今は誰もいないこの空間を利用して、図書館で見たことを栞さんに話すチャンスだと思った。
「……まあ、これ以上悪くはならないよな」
そんなことを心の中でつぶやきながら、窓際の席に腰を下ろした。
それから一分ほどして、栞さんがテーブルへとやってきた。
「前回と同じコーヒーでよろしいですか?」
前に注文した時のことを覚えていたらしく、穏やかに尋ねてきた。
「あ、えっと……はい。お願いします。でも、今日はそれに加えて、煎餅もお願いしたいんですが……」
「うーん……わかりました。すぐにお持ちします」
そう言って、小さなノートにメモを取り、カウンターの方へ向かおうとする。
その背中に、思わず声をかけた。
「……栞さん」
なぜだか分からないが、言葉が喉に詰まりそうになった。
けれど、ここで黙っているわけにはいかなかった。
彼女は振り返り、黙って僕を見つめてきた。
表情には驚きも困惑もない。ただ、穏やかな静けさだけがそこにあった。
「少し……話せる時間ありますか?」
できるだけ落ち着いた声を装いながら、僕は言った。
「見せたいものがあるんです」
栞さんは数秒ほどじっと僕を見ていたが、やがて何も言わずに小さく頷き、カウンターへと戻っていった。
数分後、彼女はトレーを持って戻ってきた。
その上には二杯のコーヒーと、小さなお皿に盛られた煎餅が載っていた。
彼女は黙ったまま、僕の前に一杯のコーヒーを置き、そして反対側の席にももう一杯を置いた。
最後に、煎餅の皿をテーブルの中央に置いた。
「……座るんですか?」
思わずそう尋ねてしまった。
少し驚いていた。
「……普段はこういうこと、しないんだけどね。でも今回は……必要みたいね?」
そう言って、栞さんは静かに僕の向かいの席に座った。
その声は、いつも通り落ち着いていた。まるで、何か異常なことが起きていると分かっていながら、それでも動じることなく受け入れているかのような雰囲気だった。
彼女は、テーブルの中央に置いた煎餅の皿から一枚を何のためらいもなく取り上げた。まるで、最初から自分のために用意されていたかのように。
「ちょっと、それ俺のなんだけど……」
わざと不満げな声を出してみたが、思わず口元に笑みがこぼれてしまった。
「たくさん頼んだでしょ。それに……お腹が空いたまま大事な話なんてできないよ」
そう言って、栞さんは煎餅を一口かじり、コーヒーをすすると、静かに微笑んだ。
僕は短く、どこか緊張混じりの笑い声を漏らした。
——そのやり取りが、ふと何かを思い出させた。
はっきりとは思い出せない、けれど確かにどこかで似たような場面があったような……そんな感覚。
まるで以前にも、こんな会話を交わしたことがあるような気がした。
だが、現実ではこれは初めての『本当の会話』だった。
僕は小さく息をついて、ポケットから丁寧に折りたたんでいたハガキを取り出した。
続いてスマートフォンを取り出し、ギャラリーを開いて、図書館で撮ったあの写真を探し出した。
「……これを、君に見せたかったんだ」
そう言って、僕はスマホを彼女の方に向け、ハガキをその隣に置いた。
栞さんは手にしていたカップをそっと置き、何も言わずに写真とハガキを見比べた。
まずは古くてぼやけた寺の写真をじっと見つめ、それから少し角度の違うイラストのハガキへと視線を移した。
しばらくの間、彼女は何も言わなかった。
ただ、じっと見ていた。
あたかも、何かを思い出そうとしているかのように。
「これ、どこで見つけたの?」
ようやく口を開いた栞さんの声は、いつもと変わらぬ静けさを保っていた。
「図書館で見つけたんだ。三十年以上前の資料らしいけど……よく見て」
僕は身を乗り出し、指先で一人の人影を指し示した。
「この奥に写ってる人物、俺に……似てないか?」
けれど、栞さんの表情に動揺はなかった。眉一つ動かさず、彼女はまた一枚、煎餅をつまんで……
「ふむ……」とつぶやき、そして静かに言った。
「——もしそうだとしたら?」
僕は言葉を失った。
まさか、そんな返事が返ってくるとは思っていなかった。
「そんなはずない」とか、「気のせいじゃない?」とでも言われるかと予想していた。
だが返ってきたのは、否定でも肯定でもない——あいまいな確信だった。
「……何が起きてるのか、自分でもよくわからない。でも、何かもっと大きなものの一部になってる気がしてる……。まだ全体像は見えないけど」
ようやくそう言って、僕は肘をつき、両手で顔を覆った。
栞さんはコーヒーを一口飲んだ。
それから、背筋を伸ばし、柔らかな表情で僕を見つめた。
「地図の中を歩いているときって、全体を見渡すことはできないのよ」
その一言が、妙に胸に刺さった。
ただの比喩のようで……どこか、本当のことを語っているようにも思えた。
「じゃあ……君は、何が起きてるのか知ってるの?」
少し躊躇いながらそう尋ねると、栞さんはすぐには答えなかった。
ただ、またあのまっすぐな目でこちらを見つめてくる。
その時、僕はふと気づいた。
彼女は意図的に何かを隠しているわけじゃない。
まだ——今はその『とき』じゃないから、語らないだけなんだ。
栞さんは手の中のカップを少しのあいだ静かに抱えながら、そのぬくもりを感じているようだった。
「……足りないピースのあるパズルを解こうとしたことって、ある?」
突然そう尋ねてきた。目はカップの中を見つめたまま。
僕は少しだけ眉をひそめて、
「うん……たぶん、あると思う」と答えた。
栞さんは小さくうなずいた。それで十分だと言わんばかりに。
「ピースを早く見つけすぎると、かえって他の部分の意味が分からなくなったりするの。
……もっと悪いのは、完成したと勘違いしちゃうこと。実はまだ全体の半分も見えてないのにね」
彼女はそう言って、カップを指でゆっくりと回した。
僕は何も言わずに、ただその言葉を心の中で何度も繰り返していた。
——まるで、古い本の中にふと見つけた謎めいたフレーズみたいに。
その時にはよく分からないのに、なぜか心に残って、ずっと頭から離れなくなる言葉。
「……じゃあ、俺はどうすればいい?」
声を落として、ようやくそう問いかけた。
「何もなかったふりをして過ごせばいいのか? それとも、全部が自然に明らかになるのを待つだけ……?」
栞さんはそっと首を振った。
「待つことでもないし、必死に探すことでもないわ。
必要なのは……小さなことに気づくこと。ちゃんと『見る』こと。ちゃんと『聞く』こと」
僕は背もたれに身を預け、テーブルの上のポストカードに視線を落とした。
あの寺は、今ではまるで遠い記憶の中の幻のように思えた。
自分が行ったこともない場所のはずなのに……忘れてしまっただけなのかもしれない。
「でも……時間が、もうあまり残ってない気がする。何かが、ゆっくりと近づいてきていて……俺には、それを止められないかもしれない」
口に出した瞬間、自分でも驚くほど自然だった。
栞さんはその言葉を聞いて、しばらく僕を見つめた。
その瞳に浮かんでいたのは、哀れみでも悲しみでもなかった。
ただ、静かな受け入れ……そんな表情だった。
「そうかもしれない。でも、もしかしたら時間があなたに近づいてるんじゃなくて……
あなたの方が、時間に近づいてるのかもね。まだ気づいていないだけで、あなたはすでに大きな何かを背負っているのかもしれない」
その言葉に、僕は何も言い返せなかった。
「全部を今、理解する必要はないわ。でもね、あなたをここまで導いた『感覚』……それだけは、絶対に忘れないで」
「……その感覚って、なんなんだ?」
栞さんは最後の一口のコーヒーを飲み終え、
カップをソーサーに置いた。カチリと小さな音が響いた。
そして、まっすぐ僕の目を見て、言った。
「それは……君自身が見つけるものよ。
——きっと答えは、あの外にある。君を、待ってるわ」
その声は決して大きくはなかったけれど、
時には、聞き慣れない静かな言葉の中にこそ、真実が隠れているのかもしれない。
僕は何も返せなかった。ただ、静かにその言葉が空気の中に溶けていくのを感じていた。
まるで、ぬるくなった湯気のように、淡く、すぐに消えてしまうような言葉たち。
——その時。
カラン……
扉が開く音がした。
店内の静けさを切るように、かすかな風が背中を撫でて通り過ぎた。
僕は反射的に顔を上げた。
そして、見た。
誰かが、『段ボールの猫』に入ってきたのを——。
夕方の光が彼女の背後から差し込み、その輪郭を金色の輪のように包み込んでいた。
逆光のせいで一瞬だけ顔立ちは見えなかったが、二歩ほど進んで光が頬に触れたその瞬間、彼女の姿ははっきりと浮かび上がった。
――間違えるはずがなかった。
「……雪さん?」
思わず声が出た。胸の鼓動が跳ね上がる。
けれど、返事はなかった。
あんなに近くで彼女を見るのは初めてだった。
幻覚でも錯覚でもない。今ならはっきりと言える。
確かに『人間』として、そこにいた。
白いリネンのブラウスは袖がふわりと広がり、
濃紺のプリーツスカートは膝下まで優しく揺れていた。
黒いハイソックスに、音もなく歩けそうなシンプルな靴。
髪は今回、左肩にかかるゆるい三つ編みにまとめられていて、
淡いベージュ色の小さなリボンがさりげなく結ばれていた。
首元には、小さな銀の鈴が一つ。
かすかに鳴る音が、空気の中に溶けていく。
――あの音。ずっと前から、何度も耳にしてきた音だった。
あの日、初めて彼女を見たときから、ずっと。
その瞳は、嵐の前の霧のような、淡い灰色。
一瞬だけ、彼女の視線が僕の上に止まった。
認識でも、無関心でもない――言葉にできない何かだった。
彼女は何も言わなかった。
ゆっくりと、でも確かな足取りでテーブルの間を通り抜けていく。
まるで、ただ通り過ぎるだけの存在のように。
栞さんも、驚く様子はなくその姿を見ていた。
まるで、最初からその瞬間を知っていたかのように。
「……知り合い?」
栞さんの声は、まるで空気の延長のように静かだった。
僕は答えられなかった。
ただ目で追いかけていた。彼女が通り過ぎ、遠ざかっていく姿を。
――そして。気がつけば、彼女の姿はもうなかった。
扉の方へ視線を戻したが、そこには何もなかった。
ドアが開いた音も、鈴の音も、閉じる気配すらない。
まるで、空気ごと消えてしまったようだった。
栞さんは、もう何も言わなかった。
ただ一枚のクッキーを指先で割り、ゆっくりと口に運んだ。
まるで、何も起きなかったかのように。
でも僕にとっては、
――すべてが、変わってしまった。
テーブルに手を置き、ゆっくりと息を吐き出す。
「さっきの子……最近、ずっと見かけてるんだ」
喉の奥が詰まりそうになりながらも、なんとか声を出した。
栞さんは僕を見つめていたが、口を挟むことはなかった。
「彼女を見たのは……すべてが始まったあの夜、あの交差点で。それから、あの寺の前でも。公園にも現れた。そして今は、ここに……」
言葉をつなぐたびに、喉が詰まるようだった。
「まるで僕に『ついて来て』って言ってるみたいなんだ。でも、いつも追いつく前にいなくなる。それでも、いつもどこかにいる気がするんだ」
栞さんは黙って聞いていた。
「なぜかわからないけど……彼女はすべてを知っているような気がする。僕のことも、昔から知ってるような……そんな感覚があるんだ。ずっと待っていてくれたみたいで……でも最後には、何も言わずに消えてしまう」
声が震えた。吐き出すように、やっと話せた。
「……そう」
それだけ呟いた栞さんの表情は変わらなかった。
「今まで誰にも話してなかった。こんなこと言ったら、きっとおかしいって思われると思って。でも、今は……君も見たよね?」
そう言いながら僕の声はわずかに上ずっていた。
栞さんは一瞬だけ目を伏せ、考えるように息を吸ってから、静かに僕を見つめ返した。
「それで――その子の名前は?」
その問いに、僕は言葉を失った。
事故で目を覚ましてからというもの、その名前を口にしたことは一度もなかった。
だけど、もう隠す意味なんてなかった。
栞さんも、今はその存在を『知って』いるのだから。
「……雪。彼女の名前は……雪だ」
その名を口にするとき、自然と声が低くなった。まるで祈るように、敬うように。
カフェの外では、陽がだんだんと傾きはじめていた。
窓の縁に淡いオレンジの光が差し込み、店内の空気に柔らかい余韻を残していた。
時計の針はすでに二時間を示していた。
でも僕の中では、ほんの数分しか経っていない気がしていた。
まるで、今この空間だけが、他の時間とは違う流れにあるようだった。
――それでも、確かに感じていた。
少しずつ、ほんの少しずつだけど……
僕は『何か』に近づいている。
答えを見つけるには、まだまだ道のりは長い。
けれど、今日のこの瞬間は――間違いなく、その一歩だった。