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第3章 『見えないパズルの断片』

(ゆき)(しおり)


6月19日。

午前8時。

目を覚ました瞬間、最初に目に入ったのは――昨夜開けたままにしていた窓の向こう、灰色の雲に覆われた空だった。

いつ眠りについたのかは覚えていない。

最後に覚えているのは、湿った肌に触れるシーツの温もり、窓越しに微かに聞こえる街のざわめき、そしてどこか他人のもののような自分の呼吸音だった。

天井はいつも通りの無機質さでこちらを見下ろしていた。

何も変わっていないはずなのに、それはまるで昨日の夜とは違う場所のようで――借りたばかりの部屋のように、どこか自分のものではない感覚があった。

ベッドの端に腰を下ろし、冷たい床に足をつける。軽く目を閉じて、めまいが引くのを待った。

……だが、それは去らなかった。

まだそこにあった。

あの音――

かすかに響く鈴のような音が、物の裏側で震えている。

理由も意味もわからないまま、ただそこに在り続ける気配。

まるで、街全体が何かを語ろうとしているのに、俺だけがその『周波数』を拾っているような感じだった。

電化製品の作動音でもなければ、交通の騒音でもない。

それは、空気の中に、壁の中に、肌の上に漂っている。

……目には見えない、何かが取り憑いているかのように。

「ふぅ……起きるか」

寝起きのまま、息を吐きながらつぶやく。

重い身体を無理に動かし、窓際まで歩いた。

外の光は淡く、雲の合間からほんのわずかに太陽の光が漏れている。

一日全体が、まるで“ふたつの思考のあいだ”にあるような、静かな間に閉じ込められているようだった。

人の声は聞こえない。遠くで車の音がかすかに鳴っていて、それだけがこの街がまだ『回っている』ことを示していた。

空を見上げた。

厚く広がる無色の雲の下には、鳥の姿ひとつなかった。

まるで空が、雨を降らせるかどうかすら決めかねているようだった。

昨夜のことを考えてみた。

白いリボンをつけた少女。もう存在しないあの寺。そして、あの喫茶店で――あの女性が、まるで昔から俺を知っていたかのように語りかけてきたこと。

それから、雪――。

なぜあんなにはっきりと覚えているのか、自分でもわからなかった。

たしかに見たはずなのに、その存在すら曖昧で、現実だったのか妄想だったのかも判別できない。

ため息をついて、窓から離れる。昨日と同じ服を着たままだった。

携帯にも一度も触れていない。だが、ズボンのポケットを探ると――そこにちゃんとあった。

「そりゃそうだよな……」

呟きながら浴室へ向かう。

鏡に映った自分は、青白く、目の下にくっきりとした隈をつけ、髪は乱れていた。どこか、自分自身から遠ざかってしまったような顔。

昨夜の出来事が、眠った時間をすり抜けてそのまま顔に刻まれているようだった。

思考を止めたままシャワーを浴びる。熱い湯が肌を流れていくのを感じながら、心の靄が少しでも晴れるのを願っていた。

……だが、湯気の向こうに希望はなかった。

それでも、体が幾分か軽くなった気がした。それだけで十分だった。

今日は何をする予定もなかった。

手帳を見ても、仕事も、予定も、会うべき家族もいない。

だが、それでも――落ち着かなかった。

何かが、どこかで、俺を呼んでいるような気がしていた。

理由はわからないが、外に出ようと思った。

適当な上着を引っかけて、部屋を出る。

金属製の階段を降りるとき、昨夜と同じ――いや、それ以上にあの鈴のような音が耳の奥で鳴っていた。

一歩、一歩、まるでそれが俺の足音の一部であるかのように、ついてくる。

地上に出ると、街は平然と動き続けていた。

何も変わらない日常――だが、俺だけがそこから外れてしまったような感覚があった。

……そして、目的もなく、ただ歩き始めた。

「新宿──」

その名を呟きながら歩く。

この街の通りを歩くたびに、奇妙な感覚が胸に湧いた。懐かしさと違和感が、まるで同時に存在しているかのように。

この地区には二年ほど住んでいた。

長い距離を歩くのが好きで、街の地図は頭の中に完全に刻まれているはずだった。

西口の出口、歌舞伎町の迷路のような店々、静けさを求めて足を運んだ新宿御苑――

すべて、覚えている。はずだった。

……だが、何もかもが、記憶と微妙に違っていた。

空気は同じだった。通りすがる人の雰囲気も。

だが、看板の文字が違う言語に変わっていたり、馴染みのカフェが別の店になっていたり、そもそも存在しなかったりする。

靖国通りを渡った先、かつて一年間暮らしていた古いマンションの場所には、見たこともない商業ビルが建っていた。

まるで都市そのものが、土台から設計し直されたかのようだった。

俺はなおも歩き続ける。

青梅街道沿いに、電車の軌道を右手に見ながら。

目指していたのは新宿中央公園だった。

そこは、思考を整理したいときによく訪れる場所だった。

自分の部屋から、都庁を横切って、公園の中の木々と小道の間をふらふらと歩く――そのルートを、体が覚えている。

あとは、西新宿の大きな交差点を左に曲がればいいだけのはずだった。

あの場所にたどり着いたとき、目の前に広がっていたのは、見覚えのない近代的なオフィスビルだった。

ガラス張りの壁、エスカレーター、入り口には装飾的な噴水――。

そこに、あの公園はなかった。

僕は足を止め、何度か瞬きをした。

もしかしたら、視界が間違っているだけかもしれないと期待して。

振り返ると、金融街を囲む高層ビル群が見えた。

すべて、見慣れた景色のはずなのに、どこか違っていた。

「公園を潰して、こんなビルを建てたのか……?」

誰に聞くでもなく、僕はぽつりと呟いた。

胸の奥に重苦しい何かがのしかかる。

不安と困惑が入り混じった、名前のない感情。

まるで、これまで知っていた世界が、目の前で静かに崩れていくような感覚だった。

近くの自販機でミネラルウォーターを一本買い、ほとんど一息で飲み干した。

冷たい水が喉を通るたびに、ほんの少しだけ現実に引き戻される気がした。

そのとき、交差点の角に、交通課の制服を着た警察官が立っているのが見えた。

横にはパトロール用の自転車がある。

「――声をかけるべきだろうか?」

迷った。

迷子になった人間が警察官に尋ねるのは、ごく自然なことのはずなのに、頭の中にはこんな疑問が浮かび続けた。

『変なことを言われたらどうしよう』

『公園なんて最初からなかったと言われたら?』

だが、それでも気になって仕方がなかった。

確かめなければいけないという衝動が勝った。

「すみません……」

緊張した声で声をかけると、その警察官――四十代くらいの男性が、デジタル手帳から顔を上げた。

「はい、どうかしましたか?」

「公園を探してるんです。新宿中央公園っていう……都庁の近くにあったはずの場所で、閉鎖されたのか、それとも……」

警官は眉をひそめ、少しだけ首をかしげた。

「新宿中央公園? それって、新宿御苑の東にあるやつのことか?」

ごくりと唾を飲み込む。

――違う。僕の知っている公園は、いつだって西側、都庁の裏にあったはずだ。

「いえ、あの……都庁の裏側にあったはずの……」

「うーん……そこには昔からショッピングセンターがあるぞ、坊や。多分、もっと南の千駄ヶ谷あたりの大きな公園と勘違いしてるんじゃないかな? ……もしかして、君は最近こっちに引っ越してきたのかい?」

まるで僕が何か勘違いしているかのように、警官はそう言ってきた。

これ以上食い下がれば、面倒なことになりそうだと察した。

そうだ、街に馴染んでいないのは僕の方だった。

「ええ、数日前に引っ越してきたばかりで……まだ道がよく分からなくて」

そう答える声が少し震えていたのを、自分でも感じた。

「そうか、なら心配いらない。困った人を助けるのが警察の役目だからな」

誇らしげにそう言う警官に、僕は軽く頭を下げた。

「それじゃあ、新宿中央までの道を教えていただけますか?」

「もちろん。明治通りをまっすぐ進んで、十五分ほど歩けば大きな公園があるよ。名前も似てるし……きっと、君が探してるのはそこだよ」

「ありがとうございます……」

そう言ってその場を離れた。

耳の奥では、あの鈴のようなかすかな音が、さっきよりも強く響いていた。

警官はまるでそれが当たり前であるかのように、自然な口調で話していた。

まるで、世界はずっとこうだったと言わんばかりに。

間違っているのは僕の方――そんなふうに、当然のように。

「……道に迷ってるのは、僕じゃない。おかしいのはこの街の方だろ」

誰に聞かせるでもなく、そう呟きながら、公園を目指して歩き出した。

明治通りを左に曲がり、足取りはどこか頼りなかった。

高層ビル群が無言の証人のように僕を見下ろしていた。

見慣れたはずの景色は、まるで誰かが裏側から塗り直したようだった。

「変わってない」と思いたかった。

けれど、「変わってしまった」と認めざるを得なかった。

まるで、かつて自分の居場所だったはずの街が、もう僕のことを知らないと言わんばかりに――。

それでも歩いた。

この『違う』としか言いようのない公園の中に、何かの答えがある気がして。

それが何なのかは分からなかったけれど、向き合う準備もできていなかったけれど、足を止めるわけにはいかなかった。

一歩、一歩と、足を前に出すたびに重くなる身体を、無理やり引きずるようにして前に進んだ。

道は空いていた。

空を覆っていた雲が少しずつ晴れてきて、陽の光がビルの隙間から差し込んでくる。

窓ガラスに反射した光は鏡のように僕を映し返した。

けれどそこに映っていたのは、どこか歪んだ、知らない誰かのような僕だった。

やがて、目的の公園が視界に入ってきた。

確かに大きな公園だった。

木々が並び、遊歩道が整備され、ベンチが点在していた。

子どもたちが駆け回り、噴水のそばにはカップルが座っている。

すべてが整っていて、美しかった。

だが、それは――あの公園ではなかった。

あの木製の古い橋は消えていた。

石畳の道は広く、舗装も新しい。

かつて夜道に触れたことのある、あの錆びついた街灯も見当たらなかった。

空気すら違った。

どこか人工的な、花壇にまかれたばかりの新品の香りが漂っていた。

池のそばで足を止めると、そこにいたのは――

変わらず泳いでいた、数羽のカモだけだった。

ただ、それだけが同じだった。

ベンチに腰掛け、目を閉じた。

思い出そうとした。

本当にあったはずの、僕の居場所だったあの公園を。

静かに思考を巡らせる時のために通った、あの静かな空間。

心の避難所のようだった、あの場所のことを。

だがその記憶は、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、徐々に、確実に、薄れていった。

まるで目覚めと共に消えていく夢のように――。

ベンチから立ち上がり、遊歩道の一つを歩き始めた。

遠く、木々の間に――何かが見えた。

人影。

一本の桜の木の後ろに、誰かが立っていた。

この季節にはもう花が咲いていないその木は、濃い緑色の葉をたくわえ、初夏の陽光に静かに揺れていた。

僕は思わず足を止めた。

――彼女だ。

今回は髪が少し短くなっていた。白いキャップをかぶっていて、顔の半分が隠れていた。覚えている制服とは違うものを着ていた。薄いリネンのジャケットに、紺色のプリーツスカート。

「雪……」

見間違えるはずがなかった。たとえ木陰に隠れていても、あの瞳だけは忘れられない。

僕を見つめているのが分かった。

まるで僕がここに来ると知っていたかのように、まるで、ずっと待っていたかのように。

だが、彼女は何も言わなかった。一歩も動かなかった。

そして、まばたきをした、その一瞬で――

もうそこにはいなかった。

慌てて彼女がいたはずの場所に駆け寄ったが、そこには何の痕跡も残っていなかった。

あるのは、一本の桜の木と、その根元に設置された植物名のプレートだけだった。

風が葉を揺らしながら地面に舞わせ、ほんのかすかに、桜の花のような甘い香りを運んでいた。

春はもう過ぎ、夏が始まろうとしているというのに――。

周囲を見回した。

誰も騒ぐ様子はなかった。池のほとりで太極拳をしている老人。ボールで遊ぶ子供たちの笑い声。

誰も、彼女の存在に気づいていない。

まるで最初から、そこには誰もいなかったように。

「……見間違いだったのか?」

胸に手を当てた。

心臓が激しく脈打っていた。まるで長い距離を走った後のように。

「なぜ、現れては消えるんだ……? 僕を試してるのか? それとも、どこかに導こうとしているのか?」

その時だった。

不意に、聞こえた気がした。

女性の声。

かすかな囁き。

――僕の名前。

「レン……」

その声に、思わず振り向いた。

……だが、そこには誰もいなかった。

目の前にあるのは、ただの砂利道。

木々の間を縫うように続いていて、奥へ奥へと、僕を導くように伸びていた。

――知らないはずの公園。僕の記憶にある場所とは違う。けれど、その道はなぜか僕を惹きつけていた。

まるで誰かが、そこで待っているかのように。

まるで、その奥に答えがあるとでもいうように。

僕は静かに息をのんだ。

そして、ゆっくりと、その道を歩き出した。

。。。

どれくらい歩いたのか、自分でもわからなかった。

ただ、足取りが徐々に重くなり、次第に引きずるようになっていったことだけは覚えている。まるで、目的地もなく歩き続けることに体が耐えきれなくなったかのように。

大きな木のそばで、ふと足が止まった。

樹皮はごつごつしていて、根が地面からほんの少し顔を出している。

その枝が作る濃い影は、夏の暑さから逃れるにはちょうどよかった。

僕は木の根元に身を預け、背中を幹にもたれかけるようにして座り込んだ。

視線は上へと向き、風に揺れる葉の間から見える空をぼんやりと見つめていた。

――見たものを、いや、見たと思っているものを考えないようにしていた。

「ふぅ……ダメだな、やっぱり……」

あの目。

そこに立っていた、いや、『存在していた』あの姿。

ほんの一瞬だったのに、この世界よりもずっと現実味を帯びていた。

残されたのは――疑問だけだった。

「俺……頭がおかしくなったのかな」

おでこに手を当て、目を閉じた。

公園のざわめきが、静かに耳を包み込む。遠くで跳ねるボールの音。葉擦れの音。少し早く鳴き始めたセミの声。

近くを通り過ぎる人の気配。

その中で――

僕の呼吸だけが、やけに孤独に感じられた。

「幽霊でも見たみたいな顔してるじゃん」

背後から、ふいに声がした。

驚いて、思わず肩が跳ねた。

座ったまま振り返ると――そこに、彼女はいた。

最初は、誰だか分からなかった。あのカフェの制服を着ていなかったから。

……でもすぐに気づいた。

――栞だった。

彼女の髪は無造作なポニーテールにまとめられていた。

まるで、深く考えずに結んだだけのような――そんなラフさがあった。

ボルドー色のリネンのスカートに、淡い色合いのゆったりとしたブラウス。手には、日差しを避けるためか、あるいは乱れた髪を隠すためか、麦わら帽子を持っていた。

昨日カフェで見たときと同じ目をしていた。

あの、どこか遠くを見つめるような、静かなまなざし。

「栞さん……? こんな場所で会うなんて思わなかった」

僕は、彼女が目の前にいるという現実をまだ飲み込めずにいた。

彼女はすぐには返事をしなかった。

代わりに、少し身をかがめて、僕の隣にあるスペースを指差した。

「……座ってもいい?」

その問いに、僕は黙ってうなずいた。

栞は何も言わずに腰を下ろした。

僕を見ようともしないし、僕も彼女を見なかった。

しばらくの間、ふたりとも言葉を交わさなかった。

聞こえてくるのは、公園の音だけだった。人の足音に踏まれる落ち葉の音、小道を通り過ぎる自転車の音、枝葉を揺らす、穏やかな風の音。

彼女は両膝の上で手を組み、指を静かに絡めていた。

僕は木にもたれたまま、葉の隙間から見える空を見上げていた。

――それは、不思議と居心地のいい沈黙だった。

あえて言葉を交わさなくてもいい、そんな空気があった。

まるで、お互い、もうとっくに会話を始めていたかのように。

沈黙を破ったのは、彼女のほうだった。

「今日はカフェに来なかったね」

僕は横目で彼女を見た。

それが非難なのか、ただの観察なのか、あるいは話を始めるための言い訳なのか――分からなかった。

「そんな気分じゃなくてさ。少し歩いて、考えたかったんだ」

肩をすくめながらそう答えた。

彼女はゆっくりとうなずいた。まだ僕を見ようとはしなかった。

「それで、考えはまとまった?」

「どうだろう……前よりもっと混乱してる気がするよ」

思わず苦笑いしながら言った。

再び沈黙。けれど、今度は短かった。

「君は? どうしてここに? ずっと働いてると思ってたけど……」

僕は気になって尋ねた。

栞は少しだけ首をかしげた。

「たまにカフェは開かないの。今日はそういう日だった」

「……開かない? そんなのあり得る? お店って、そんな自由に決められるもの?」

僕は眉をひそめながら問い返した。

彼女はようやく僕の方を見た。

その目は細められていて、微笑んでいるようでいて、でも決して楽しげではなかった。

「すべてが自分で決められるわけじゃないよ。私たちは、ただ灯りをともす人。いつスイッチが入るかは、別の何かが決めるのかもしれない」

その言葉に、僕は何も返せなかった。

「……カフェの話? それとも、他の何か?」

そう尋ねると。

「どっちでもいいよ。そう思いたいように受け取れば」

そう言って、彼女はまた視線を前に戻した。

僕も黙り込んだ。

彼女の言葉にはいつも、何かが隠れている気がしてならなかった。

まるで、当たり障りのない会話の中に、謎かけが紛れているみたいに。

「……今日、何か変なものを見た?」

突然の質問に、僕は息をのんだ。

そして、少し迷った。

「……わからない。誰かを見た気がする。昨日カフェで、幽霊を見たって言ったの覚えてる?」

「うん。覚えてるよ」

「今日も、それに似たことがあった。ほんの一時間くらい前。この公園で――誰かが僕を待ってるような気がした。でも……気がついたら消えてた」

栞はそっと目を伏せた。

彼女の指は、まるで儀式のように、ゆっくりと絡まれていた。

「人は、消えるわけじゃない。ただ、今いる時間から離れていくだけ」

僕は彼女を見た。

「……それ、どういう意味?」

彼女はすぐには答えなかった。

その目は空を見上げるように木々の間をさまよっていた。そこには、悲しみでも、不安でもない。ただ、何かを受け入れてしまった人だけが持つ、深すぎる静けさがあった。

まるで、変わりゆく世界を、黙って見届けるしかできなかった者のような――そんな目だった。

「みんなが同じ道を歩いてるわけじゃない。留まる人もいれば、後ろに戻る人もいる。そして――どこかへ行って、そのまま迷ってしまう人も」

僕は眉をひそめながら彼女を見た。

「じゃあ……君は? どの位置にいるの?」

今度、彼女は微笑んだ。けれどその笑みは短くて、どこか寂しげだった。まるでその問いが重要じゃないかのように。あるいは、何度も同じ質問を受けてきた人のように。

「私は……ただ『見てるだけの人』」

「ふーん……そういう人って、どのグループに入るんだろうね?」

ここまで話してきて、僕はいつの間にか彼女の言葉に引き込まれていた。

わからないなりに、少しずつ、彼女の言っていることが理解できるような気がしていた。

「うーん、そうね……『あるべき場所にいるだけ』って言えばいいかな」

その答えを聞いた瞬間、なぜか背筋が少しぞくっとした。

けれど、それと同時に、どこか納得している自分がいた。

彼女の言葉は、はっきりしていない。けれどその曖昧さの中に、僕がずっと探していた何かが隠れている気がしてならなかった。

僕は再び前を向いた。

公園は、相変わらず穏やかな時間を流していた。子供たちの声、ブランコのきしむ音、蝉の鳴き声――

すべてが、変わらないように見える。

でも、僕の中では何かが変わっていた。

いや、見ているものが少しだけ違って見えた。

それは、僕の世界が変わったのか、僕の『視点』が変わったのか……

自分でも、まだはっきりとはわからなかった。

栞も、何も言わなかった。

風が吹いて、彼女のスカートをそっと揺らした。

気づけば、彼女はさっきとは反対の手に帽子を持っていた。その指は、最初と同じように静かに絡められたままだった。

静けさが、また僕たちの間に流れた。

そして――

会話はもう終わったのだろうと思った、その時。

公園のざわめきに溶けるように、彼女の声が、ふわりと落ちてきた。

「見えているものが、必ずしも本当とは限らないの……時々、それは『居場所』を探しているだけかもしれないわ」

僕は驚いて彼女の方を振り返った。けれど、彼女はすでに立ち上がっていた。

「じゃあね、レンくん」

そう言って、こちらを見ずにスカートの埃を軽く払った。

そう言って彼女は、何も言わずに歩き出した。

砂利道の上を、急ぐ様子もなく、ゆっくりと――まるで目的地などないかのように。

僕はその背中を見つめていた。

木々の間からこぼれる木漏れ日の中に、彼女の姿が少しずつ溶けていく。

やがて、その姿は見えなくなった。

僕はしばらく動けなかった。

最後に聞いた言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。

――「時々、それは『居場所』を探しているだけかもしれないわ」

その意味が分かったわけじゃない。けれど、なぜかとても大事なことを言われたような気がした。

やがて、僕も腰を上げた。

気がつけば、何時間もこの公園にいたようだ。木陰も少しずつ動いていて、太陽は空の高みに近づいていた。

僕はゆっくりと砂利道を歩き出した。

心の中には、まだあの言葉が残っていた。

――「見えているものが、本当とは限らない。時々、それは『居場所』を探しているだけかもしれない」

それがどういう意味なのか。

本当はわかっていない。けれど、何かが指の間からすり抜けていくような、そんな感覚だけが僕の中に残っていた。

公園を出ようとしたその時。目の前の交差点の角に、小さな屋台が出ているのが目に入った。

色褪せた赤いパラソル。簡素なテーブルの上には、キーホルダーやマグネット、小物類、そして観光用のポストカードがぎっしりと並んでいた。

なぜか、足が止まった。

たぶん太陽の反射でポストカードの一枚が光ったからかもしれない。

いや、それだけじゃない気がする。

とにかく、僕は自然とその場所に引き寄せられていた。

ポストカードの回転スタンドに指を添え、ゆっくりと回してみる。

桜。

山々。

渋谷のスクランブル交差点。

そして――

それが目に入った時、息が止まりそうになった。

セピア色の写真。

石段。

両側には灯籠が立ち並び、高い木々に囲まれている。

その奥、薄い霧の中に――

――あの寺があった。

昨日、雪を追いかけて辿り着いた、あの寺とそっくりだった。

背筋に冷たいものが走った。

風景こそ違えど、構造は同じだった。見間違えるはずがない。

あの場所のことは、ずっと頭から離れなかったから。

「このポストカード……いくらですか?」

目を離せないまま、店主にそう尋ねた。

「二百円だよ」

僕はそのポストカードを、壊れやすいもののようにそっと手に取った。

強く触れたら、あの場所と自分をつなぐ細い糸が切れてしまいそうで。

言葉もなく代金を支払い、それをジャケットの内ポケットにしまった。

そこにあるだけで、妙に重く感じる。

小さいのに、どうしてこんなに存在感があるのだろう。

「やっぱり、僕はおかしくなってるわけじゃない…」

「この場所で、何かが起きてるんだ。もしかして…栞さんの言ってたことと関係があるのか?」

そう呟きながら、僕はまた歩き出した。

横断歩道を渡るとき、ふと空を見上げた。淡くて、少し灰色がかった空。まるで、夕暮れになるかどうかを迷っているような色だった。

そして歩くたびに、誰かが遠くから僕を見ているような――そんな感覚が、どこかにあった。

どこから来るのかは分からない。けれど、その気配は、僕が自宅のドアを開けるまで、ずっと消えなかった。


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