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第2章 『懐かしさの香るコーヒー。』

荒川(あらかわ)(ゆき)(しおり)


午前8時20分。

エレベーターはいつも五階で立ち往生する古びた代物だったから、俺はそれを無視して階段を上った。

俺の息は乱れていた。努力のせいではなく、もっと深く、奇妙なもののせいだった…扉を開けた先に何があるのか恐れているかのように。

廊下の偽の格子の裏に予備の鍵が隠されていた。しゃがみ込んで、不器用な指でそれを掴み、鍵穴に差し込んだ…そしてドアを開けた。

アパートの匂いはいつもと変わらなかった。湿った木と古びた埃が混じり合い、そこにインスタントコーヒーの匂いが微かに漂っていた。――それでも、どこかしら違和感があった。

数歩、足を進めた。

玄関は以前とまったく同じだった。淡いグレーの壁に、傾いたコート掛け。

――でも、玄関マットが違っていた。

俺の記憶にあるのは、縁が擦り切れたワインレッドのやつ。けれど今そこに敷かれているのは、まるで新品のような、無地の濃紺のマットだった。

「おかしいな……新しいマットなんて買った覚えはないんだけど」そう呟いて、眉をひそめながら慎重に足を進めた。

壁に掛けてあったはずの時計がない。その代わりに、猫が眠っているシルエットを描いたミニマルなイラストが飾られていた。

キッチンの横にある棚へと足を運んだ。

俺の本はそこにあった。だが順番が変わっていた。

失くしたはずの何冊かが戻ってきたかのように並んでいて、逆に、何度も読んだはずの本は、影も形もなくなっていた。

冷蔵庫を開けると、中には自分で作った記憶のないカレーのタッパーが置かれていた。

その隣には、賞味期限が二日後の未開封の牛乳パックもあった。

「ふぅ……まあ、一応は問題なさそうだな……」

部屋へ向かった。ベッドは相変わらず整っていなかったが、シーツがやけにきれいに見えた。

いつもならプリントやケーブル、本で散らかっているはずの机は、すっきり片付いていた。

その上には、閉じられたノートパソコンが一台――見た目は自分のものと同じだったが、置かれ方が、俺のやり方とはどこか違っていた。

タンスの横にしゃがみ込み、上の引き出しを開けた――そこにあった。

俺の財布。震える手でそれを取り出し、すぐに開いて身分証を確認する。

名前は「荒川レン」。生年月日は2003年10月24日。

すべて、間違いなく俺のものだった。

それを何秒も見つめた。角度を変えたり、じっと凝視したりすれば、何か間違いが見つかるかもしれない——そう思って。でも、何もなかった。

名前も、顔写真も、生年月日も……全部、俺のままだった。

「じゃあ、どうして他のすべてが違って見えるんだ?」そう呟いて、整っていないベッドにそのまま倒れ込んだ。

マットレスが体をゆっくりと受け止める。

目を閉じて、次に開けたときにはすべてが元通りになっていることを願った——

……だが、何も変わらなかった。

数分後、ゆっくりと上体を起こした。

「……少し、外の空気を吸わないと」

少し開いた窓から、大通りの車のざわめきが再び聞こえてきた。まるで、外へ出るように誘っているかのようだった。

その空気に従うように、ベッドから立ち上がり、外へ出る前にシャワーを浴びることにした。

洗面所の明かりをつけると、鏡に映った自分の姿に思わず息を呑んだ。

薄茶色の髪はぐちゃぐちゃで、顔色は青白く、そして目は…虚ろで、ひどいクマができていた。まるで何日も眠っていないようだった。

パジャマを脱いで洗濯かごに放り込み、そのまま、ほとんど反射的にシャワーを浴びる。お湯が温まるのを待つ余裕なんてなかった。

最初に水が背中に触れた瞬間、その冷たさに思わず息を詰めた。だが、動かなかった。

水が体を伝って流れていく感覚だけが、今朝目にしたすべての霧を洗い流してくれるような気がした。

目を閉じ、水の落ちる音だけがこの世界のすべてになるように願った。

体を洗う動きは無意識のうちだった。何の意味もない。ただ、何か――確かなもの、現実を感じたかっただけだ。

水滴がタイルに当たる音の中に、あの遠くから響くかすかな音――朝から聞こえていた鈴のような音が、まだどこかに残っている気がした。

ほんの一瞬、確かに聞こえた気がした。水音の隙間に、微かに。

そのまま数分間、動かずにいた。

やがて水は温かくなり、鏡は曇り、浴室の空気が重くなっていくのを感じた。

シャワーを止め、タオルを手に取り、急いで体を拭いた。

なぜか、立ち止まってはいけないような気がした。ただ前へ進まなければならない、そんな焦燥感に突き動かされていた。

クローゼットから目についた服を適当に取り出して着替えた。

ジーンズに黒いTシャツ、それから――見覚えのない薄いグレーのジャケット。だが、それはまるで自分のために作られたかのようにぴったりだった。

濡れた手のまま靴紐を結び、壁際に置いてあった財布を手に取ってジャケットの内ポケットにしまう。

玄関の前に立ち、ドアノブに手をかけた瞬間、一瞬だけ躊躇った。

「閉じこもってる場合じゃない」そう小さく呟いて、自分に言い聞かせた。

ポケットに手を突っ込んだまま建物を出ると、ひんやりとした風が街を通り抜けていった。

もうすぐ夏だというのに、その風はどこか秋の始まりのような気配を運んでいた。

空は灰色に染まりつつあったが、まだ雨は降っていない。

それでもアスファルトはうっすらと濡れていて、まるで街全体が遠い記憶に包まれているような、そんな懐かしさがあった。

どうやら俺が部屋にいた間に、さっと小雨が降ったらしい。

向かう先は、もう決まっていた。

新宿駅の近く、オフィスビルの間にひっそりと佇む、小さなカフェ。いつもトーストと淹れたてのコーヒーの香りが漂っていて、考えごとをしたい時や、ただぼんやりと時間を過ごしたい時によく通っていた場所だ。

足は自然と慣れ親しんだ道をたどっていた。

けれど、見慣れたはずの通りが、どこか違って見える。街灯、看板、窓――すべてが微妙に位置を変えたような、言葉にできない違和感があった。

横断歩道を渡りながら、人々の流れを見つめる。

黒いスーツ、学生のリュック、イヤホン。毎日のように繰り返される動き、日常の一部。

そんな中で、まるで自分だけが、初めてこの街を歩いているような感覚だった。

角を曲がると、新宿駅が現れた。

巨大で、生きているかのように、コンクリートとガラスでできた怪物が毎秒、人を飲み込み、吐き出しているようだった。

何も変わっていないはずなのに、すべてが違って見える。

そして――見た。

また、彼女を。

ほんの一瞬だった。

駅の側面にある出入口から流れ出る人波の中に、ひとりの女性の姿があった。

暗い髪を高い位置で一つに結んでいて、首筋がはっきり見えた。白いパフスリーブのブラウスに、膝までのグレーのスカート、ぺたんこの靴。

とてもシンプルなのに、どこか現実離れした雰囲気を纏っていた。

心臓が、一瞬止まった気がした。

思わず顔を向けて、もう一度よく見ようとしたが、

すぐに人の波にその姿は隠れてしまった。

再び目を凝らしたときには、もう彼女はいなかった。

「えっ……」思わず、そう呟いた。

呼吸も止まったまま、その場に立ち尽くす。まるで時間が止まったかのように。

ほんの一瞬だけ交わった視線――それすらも幻だったのかもしれない。

「今の……彼女だったのか? いや、俺……幻覚まで見始めたのか……」呆然と、声にならない声でつぶやいた。

考えるより先に体が動いていた。

遅延した電車について話しているサラリーマンの集団を押し分けて進み、彼女が出ていったように見えた横道を覗き込む。

……だが、そこにいたのは、ゲームの話に夢中な高校生二人と、

買い物カートを引く老婦人だけだった。

「……いないか」濡れた髪をかき上げながら、ため息をついた。

遠くから聞こえるあの微かな鈴の音が、頭の奥でまた響き始める。

まるで足音の隙間を縫って、存在を思い出させてくるように。

歩き出した。

カフェまではもう数分の距離のはずだった。なのに、胸の奥では、足元の世界が少しずつずれていくような、そんな感覚がしていた。

ついにカフェにたどり着いた。

『段ボールの猫』

入り口の上に吊るされた木製の看板には、あの懐かしい筆記体で店の名前が書かれている。

モダンなガラス張りのビルに挟まれ、押し潰されそうになりながらも、そこにちゃんと存在していることが、どこかほっとする光景だった。

まるで、消されまいと必死にしがみついている記憶の断片のように。

「やっと、知ってるものを見つけた…」

安堵の息をつきながらそう呟いた。

――だが、ドアをくぐった瞬間、その安堵は裏切られた。

店内はまるで別の場所になっていた。

以前は素朴な木のテーブルが並んでいたはずなのに、今は銀色の金属製テーブルが整然と並び、まるで手術室のように無機質で完璧に磨かれていた。

そして、あの心地よくて少し薄暗い温かみのある照明も、今はすべて冷たい白い光に取って代わられていた。

かつて人々がイラストやメッセージを書いたポストイットを貼っていた、あのレンガの壁の跡形もなかった。

代わりに、大きなスクリーンが数秒ごとに風景の映像を映し出していた。

桜の並木、雪をかぶった山々、湖に沈む夕日。どれも完璧すぎるほど美しくて…でもどこか人工的だった。

あの居心地のよかった空間は、もう存在しなかった。

いや、存在はしている…だが、それは現代の流行に合わせて変貌してしまっただけだった。

店の入り口に立ち尽くした。まるで、間違って別の店に入ってしまったような気がした。

――でも、そうじゃなかった。

そこには、あの香りがあった。焙煎されたコーヒーの香り。以前ほど強くはなかったが、確かに漂っていた。

この匂いだけは、俺を騙せなかった。

カウンターに近づいた。

以前よく接客してくれていた、あの小柄で優しいおばさん――いつも違うウールのセーターを着ていた――の姿はなかった。

代わりに、黒い制服を着た若い女性が、少し無表情な顔で完璧に練習されたような笑顔を浮かべて出迎えた。

「段ボールの猫へようこそ。お持ち帰りですか?店内でお召し上がりですか?」

無機質な声だった。

一瞬、言葉の意味を昔の言語に翻訳しなければならないかのように、戸惑った。

「店内で……」

思っていたよりも、声が弱く聞こえた。

メニューはタブレットで渡された。だが目を通さなかった。もう決めていた。というより、いつも頼んでいたものがあった。

「まだ、ハウスブレンドってありますか?」

繋がりを探すように、過去の記憶にすがるように尋ねた。

バリスタは瞬きをした。

「はい、ございます。ご注文されますか?」

うなずいて、彼女がコーヒーを淹れている間に、窓際のテーブルへ向かった。

座って、光の角度や外の景色が以前と同じように感じられるように工夫してみた。

でも――ダメだった。

すべてが綺麗すぎて、整いすぎていて、記憶の中にある空間とはまるで違った。

過去は、まるで精巧に作られた模型にすり替えられてしまったかのようだった。

テーブルの上に肘をつき、指を組んだまま、外を行き交う人々を眺めた。

誰かの顔が、何かの手がかりを返してくれることを期待していたのに――返ってこなかった。

まるで、その顔さえも、記憶の中から切り離されてしまったかのように。

バリスタがコーヒーを用意するのに数分かかった。

数えてはいなかったが、それは実際よりも遥かに長く感じられた。

ただ黙って、目の前のガラスに映る自分と、その向こうで無関心に動き続ける街を見つめていた。それぞれの人間が、目的や行き先を持っているように見えた。

でも――今の僕には、それがなかった。

「こちらになります……」

柔らかい声が、思考を中断させた。

コーヒーを運んできたのは、さっきのバリスタだった。

だが、近くで見ると何かが違っていた。

その瞳は、ほとんど透明に近い明るい灰色をしていた。表情こそ無機質だったが、動きには奇妙な正確さがあり、一つ一つの所作がまるで計算されているかのようで――それでも、意図がこもっているようにも思えた。

彼女は、過剰とも言えるほど丁寧に、僕の前にカップを置いた。

「ハウスブレンドです。ごゆっくりどうぞ……」

僕はうなずいたが、声にはならなかった。

彼女はすぐに立ち去ることはなく、何かを待っているかのように、あるいはただ観察しているかのように、しばらくその場に立っていた。

そして、何事もなかったようにくるりと背を向け、カウンターへと戻っていった。

僕は視線をカップへと落とした。

それは白くて、シンプルなデザインだった。

記憶の中のカフェでは、年配のバリスタが趣味で集めた古いアンティークのカップを使っていたから、少し違和感があった。

それでも――その中に満たされたコーヒーの色は変わっていなかった。

深く、濃く、どこまでも沈んでいきそうな黒。何度夜を越えても、答えに辿り着けない思考の海を思わせる色だった。

僕は、唇にカップを近づけ、そっと息を吹きかけた。かつて、そうしていたように。

そして――ひと口、飲んだ。

その味は、すぐに僕の心を打った。

強さではなく、記憶の重みによって。

変わっていなかった。まさに僕が覚えていた味だった。

柔らかな香り、少しスパイスの効いた風味、そして最後にほんのり甘さが残る——まるで魂に染み込むような味。

目を閉じる。

もうそこにはいなかった。いや、そこ「だけ」にはいなかった。

僕は…すべての場所にいた。

断片、途切れた感覚。自分のものではない笑い声。

別の世界でカップを持つ手。別の時代の窓を打つ雨。時の彼方に消えた声。

夢の中で誰かが囁いた名前。破られ、また別のループで交わされた約束。

——そのすべてが、ひと口のコーヒーに詰まっていた。

小さく震えるため息と共に、目を開いた。

わからない。いつから眠っていたのか、いつから閉じ込められていたのか。

でも確かに、何かが僕の中で目を覚ました。

鼓動のように、それは静かに、でも確かに生きていた。

なぜか、この場所に戻らなければならない気がした。

理由はわからない。

でも、このカフェ……この味……それは、僕の中の何かを覚えていた。

もしかしたら、今の僕に起きていることへの答えが、そこにあるのかもしれない。

僕はカップをソーサーに戻し、再び窓の外へと顔を向けた。

——そして、また彼女がいた。

「雪……」

ガラス越しに見えたのは、湿った外気と店内の温かさのせいで曇った景色の中に立つ女性の姿。

髪は今回は下ろしていた。湿気でほんの少しだけ波打っている。

紺色のコートを羽織り、手には閉じたままの透明な傘を持っていた。

彼女は僕を見ていた。でも、今度は微笑まなかった。何も言わなかった。ただ、そこに立っていた。

僕が瞬きをすると——彼女はいなかった。

目の前の席は空っぽのままだった。

窓に映る自分の姿が、ぼやけた街の輪郭と重なっていく。

「君はいつも、そこにいるんだ……」

そう思ったときには、もう僕の胸の中に、静かに、しかし確かに「何か」が根を張り始めていた。

。。。

数分が過ぎて、コーヒーはすでに少し冷めていた。

でも、気にならなかった。

僕はその一口一口を、まるで時間を少しでも引き延ばすかのように、ゆっくりと飲んでいた。

バリスタが再び近づいてきた。今度はトレイも、あの作られた笑顔もなかった。

彼女は手に小さく折りたたまれた紙ナプキンを持っていて、無言でテーブルの上に置いた。

「よかったら、どうぞ」

そう言って、視線でカップを示した。

僕は軽く微笑んでうなずいた。感謝の気持ちを込めて。

彼女はそのまま席の前に立っていた。去ろうとする様子もなく、僕も彼女を追い払う理由はなかった。

「ひとつ、聞いてもいい?」

それは決意というより、衝動に近かった。

彼女はうなずいた。

「もちろん」

「変に聞こえるかもしれないけど……」

「場所が、記憶を持ってるって思ったこと、ある? 自分が忘れたものを、そこが代わりに覚えていてくれるような……そんな感じ」

僕の声はどこか不安げだった。

だけど、馬鹿げたことを言ったつもりはなかった……少なくとも、そう信じたかった。

バリスタは驚くことも、笑うこともなかった。

ただ、少し視線を落とし、言葉を探すように沈黙した。

自動的ではない、どこか内側から引き出そうとするような返答を。

「場所って、変わっていくものですけど……でも、何かが残ることもあると思います」

「名前のつけようがない“何か”。まるで、余韻というか……“エコー”のようなもの」

その言葉には、慰めの意図は感じられなかった。むしろ、正直な気持ちのようだった。

「今日……ある人を見かけたんだ」

僕は話を続けた。

彼女は動かず、じっと耳を傾けていた。

「この店の外で。二回も。いつも僕を見てる……でも、まばたきした瞬間に消えてるんだ。自分の頭がおかしくなったのか、それとも……幽霊か、何かの存在なのか……もう分からなくて」

僕は少し笑ってみせた。重さを和らげようとしたつもりだったけど、うまくはいかなかった。

「どうして分かるんですか?」

彼女は何の非難も込めずに聞いた。

「……何が?」

「それが幽霊だってこと。戻ってくるものが、死んでいるとは限りませんよ。ただ……置き去りにされただけかもしれない」

彼女の灰色の瞳は瞬きもしなかった。静かだった。でも、決して冷たくはなかった。

僕は返す言葉を失って、沈黙した。

その一言は、思っていた以上に胸に刺さった。

数秒後、彼女は片手で空になったカップを取った。

「大丈夫……。幽霊ってね、ただ誰かに聞いてほしいだけのこともあるんです」

そう言って、彼女は背を向けてカウンターへと戻っていった。

。。。

カップは空になっていた。

最後の一口を飲んだ瞬間は思い出せなかった。ただ、あのコーヒーの温もりがもう消えていたことだけは、はっきりと分かった。

さっきまで近くにいたバリスタの姿も、いつの間にかカウンターの向こうへ戻っていた。

残されたのは、さっきよりも深い沈黙だけだった。

僕は、テーブルに置かれたままの折りたたまれたナプキンをじっと見つめた。何も書かれていない。香りもしない。特別な価値なんて、どこにもなかった。

でも、なぜかそれが、今の僕の部屋全体よりも温かく感じられた。

「幽霊ってね、ただ誰かに聞いてほしいだけのこともあるんです」

彼女の言葉が、何度も頭の中を巡っていた。

飾り気のない一言だった。けれど、それはまるで僕のために彫られた言葉のようだった。

彼女はきっと、今日僕と話すためにここにいたんだ——そう思えてしまうほどに。

僕は肘をテーブルに乗せて、指を組み、顔を両手の中に埋めた。

泣きたいわけでも、笑いたいわけでもなかった。

ただ……このままでいたかった。

思考の海に沈みながら、何も決めずに。

カップは空になっていた。

最後の一口を飲んだ瞬間は思い出せなかった。ただ、あのコーヒーの温もりがもう消えていたことだけは、はっきりと分かった。

さっきまで近くにいたバリスタの姿も、いつの間にかカウンターの向こうへ戻っていた。

残されたのは、さっきよりも深い沈黙だけだった。

僕は、テーブルに置かれたままの折りたたまれたナプキンをじっと見つめた。

何も書かれていない。香りもしない。特別な価値なんて、どこにもなかった。

でも、なぜかそれが、今の僕の部屋全体よりも温かく感じられた。

「俺は…おかしくなってきてるのか? それとも、逆に、世界の方が少しずつほどけてきてるんじゃないか……糸が一本ずつ、静かに」

そう思いながら、ぼんやりと宙を見つめていた。

見た目は現代的なのに、この場所には確かに残っていた——木の香り、雨の匂い、そしてほんのりとしたバニラの甘さ。

それは芳香剤のせいだったのか、それとも俺の記憶の中にあった匂いが現実に染み出してきたのか。

もう、その境界さえ曖昧だった。

広くはない。特別美しいわけでもない。

けれど、今はっきりしていることが一つだけある。

それは——今朝目を覚ましてから、初めて「帰ってきた」と思えたのは、この店の中だったということ。

「『段ボールの猫』って……今は、こんな風になってるんだな……」

エスプレッソマシンの低く響く音が、店内に心地よいリズムを刻んでいた。

その音に、スピーカーから流れるインストゥルメンタルの曲が溶け込んでいく。

俺以外の客は、まだ一人も入ってこないままだった。

ゆっくりと腰を上げて、長い息を吐いた。

テーブルに置かれていたナプキンを手に取り、指の間でくるくると回してから、また元の位置にそっと戻した。

その仕草には、どこか儀式めいたものがあった。まるで、何も変えたくない——そんな気持ちが指先に宿っていた。

ゆっくりと歩いてカウンターへ向かった。急ぐ必要はなかった。

バリスタは背を向けたまま、蛇口の下で一つのカップを丁寧にすすいでいた。

その姿勢には静けさがあって、その瞬間以外に世界が存在しないようだった。

その静寂を壊したくはなかったが、現実には時間が過ぎていて、俺はもう行かなくてはならなかった。

「すみません……お会計、お願いします」俺は静かに声をかけた。

彼女はゆっくりと振り返った。まるで、俺が今ここに来ることを知っていたかのように。

もう、あの無難な笑顔はなかった。

そこにあったのは、落ち着いた、けれども真摯な表情だった。

「こちらでお支払いになりますか? それとも、テーブルまでお持ちしましょうか?」

その口調は柔らかく、形式ばっていなかった。

「ここで大丈夫です、気にしないでください」

そう言って、俺は財布を取り出した。

「それと……ありがとう」

代金を払っている間、無意識に彼女の顔をじっと見つめていた。

一瞬の沈黙のあと、口を開いた。

「話を聞いてくれて、ありがとう。それと……ごめん、君の名前をまだ知らなくて」

その言葉のあと、少しの間だけ空気が止まったような沈黙が流れた。気まずさすら感じる、そんな沈黙だった。

「ごめん、変なことを言うつもりはなかったんだ。ただ、俺……よくこの店に来るから。だから、ここで働いてる人の名前くらいは、知っておきたくて」慌てて補足すると、自分でも少し緊張していたのが分かった。

彼女は紙幣をそっと受け取り、それを半分に折って、見もせずにレジの中へ入れた。

俺の言葉には、特に反応を示さなかった。

「栞……そう呼んでいいよ」視線を合わせることなく、彼女はそう言った。

その名前は、空気の中にふわりと浮かんだまま、しばらく消えなかった。

シンプルで綺麗な名前だと思った。

本当の名前かどうかは分からない。でも、それはもう重要じゃなかった。

「……明日も来たら、迷惑かな?」

栞はわずかに顔を上げた。

彼女の灰色の瞳は、カウンターの上に灯るやわらかなライトを映して、まるで光を返す鏡のようだった。

「それは――」彼女の声は、波のように静かに広がった。「コーヒーを求めて来るのか、それとも…誰かを求めて来るのかによるわ」

その問いには、責めるような調子はなかった。

むしろ、ささやかな助けを差し出すような、そんな響きだった。

きっとさっきまで交わした会話の続きなのだろう。

「……まだ分からない」

素直にそう答えた。

彼女はゆっくりと頷いた。まるで、それが一番正直で、正しい答えだとでも言うように。

「じゃあ…ここで待ってる」

その言葉には、彼女一人の意思だけでなく、もっと大きな何かの声が重なっているような気がした。けれど、深く考えるのはやめた。

軽く頭を下げて別れを告げ、店を出た。

『段ボールの猫』の匂い――木の温もりと雨と、かすかなバニラの香りが、服や手、そして記憶に染みついていた。

外は、ちょうど夜の帳が降りようとしていた。

カフェの大きな窓越しに、ビルの隙間から見える夕暮れが、美しく空を染めていた。

以前の俺なら、そんな風景に目を留めることはなかっただろう。

だけど今は、すべてを見つめるようにしている。

何かの答えが、その中にある気がして――。

『段ボールの猫』を出た瞬間、空気が肌を包んだ。

まるで、俺が来る少し前に雨が降っていたかのような、湿った感触だった。

寒くはなかった。けれどその風は、ぴたりと肌に張りつくほど重く、どこか温かいアスファルトと濡れた落ち葉の匂いを運んできた。

扉の横で立ち止まり、空を見上げた。

雲はどこか鈍い青に染まり、縁には紫が混ざっていた。

沈みかけた太陽が、ビルの間からわずかに橙の光を押し出している。

「さて……帰るか」そう小さく呟いたとき――

あの音が、また聞こえた。

かすかに響く鈴の音。どこからともなく現れては、耳の奥で囁くように震えている。

特定の方向から聞こえるわけじゃない。

だけど、信号機のリズムの中に。遠くを走る電車の警笛に。

そして、足元の地面から伝わる微かな振動の中に――確かに感じた。

まるで、世界が何かを伝えようとしていて、

その言葉を俺は、あと少しで理解できるような気がした。

急がずに、歩道を歩き始めた。

店の看板やビルのネオンが、一つ、また一つと灯り始め、濡れた路面に映り込んでいく。

角を曲がった先、一本の街灯がチカチカと揺れながら、

点くのか、消えるのかを迷っているようだった。

それは、ちょうど横断歩道を渡ろうとした時だった。

黒髪の少女が、母親の手をぎゅっと握りしめて、信号が変わるのを待っていた。

白いリボンが髪に揺れていた。

そして、彼女が空を見上げるその視線――まるで天から何かの合図を待っているかのような仕草に、心臓が一瞬止まりそうになった。

……でも、それは彼女じゃなかった。

母親が呼んだ名前が違っていて、少女が答えたその高くて可愛らしい声は、俺の知っている声じゃなかった。

それでも――何かがあった。

残響のようなもの。まるで雪がほんの少し前までそこにいたような、そんな気配。

その場所には、彼女の足音の余韻だけがまだ残っている気がした。

俺は彼女たちの後ろを渡った。

もう一度見ることはなかったけど、その感覚だけが胸に残った。

「雪は…近くにいる」

無意識に、口からこぼれた。

たぶん、目に見える形ではない。けれど、彼女は何かに――この世界の裏側で、息づく“何か”に――繋がれている。

あるいは、俺の心が壊れかけているだけかもしれない。

そんなことを考えながら、見慣れない自分のアパートへと足を進めた。

足取りは確かだったのに、どこかをぐるぐる回っているような感覚があった。

「……もしかして、俺は雪を追いかけてるんじゃなくて、

自分自身を追いかけてるんじゃないか?」

その考えが頭から離れなかった。

そして、アパートの入口にたどり着くまで、ずっと心の中でこだましていた。

部屋に入ると、俺は玄関の小さなテーブルの上に鍵を無造作に置いた。

室内は静まり返っていて、冷蔵庫のかすかな唸りと、いつ買ったのか覚えていない卓上時計の、チクタクという微かな音だけが空間を埋めていた。

靴を脱ぎ、窓の方へと歩いていく。

外の空はすっかり暗くなっていたが、完全な闇ではなかった。高い位置にちぎれ雲が浮かび、その隙間から深い青の夜空が覗いていた。

遠くの都市の光が、眠るべきかどうかを迷っているかのように、ちらちらと瞬いていた。

額を窓ガラスにそっと預けた。

「今日は何日だったか。それすらも思い出せない」

世界全体が、わずかに傾いているような、そんな違和感だけが残っていた。

でも、彼女はそこにいた。

いや、少なくとも――その姿は、俺の心のどこかに今もぶら下がっていた。

まるで、風に散りそうで散らない、一枚の葉のように。

「雪…」名前を口にした。

祈りのように、誰にも届かないことを分かっていながら、それでも声に出しておきたかった。

カーテンは閉めずに、その場を離れた。部屋の明かりを消して、ベッドに横になる。

目は空に向いたまま。あの微かな鈴の音が、呼吸のように当たり前の存在になっていた。

そして、眠りに沈んでいくその瞬間――

ふと、理解できない感情が頭をかすめた。

「もしかして、あの子は俺を待っているのか…?

そうだとしたら――いったいどれくらいの時間、そうしてきたんだろう」

その問いは、答えのないまま胸の奥に残った。

そして、俺は眠りに落ちた。



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