第13話。 『届かない列車の残響。』
かつて多くの人々が行き交い、別れを告げたはずの駅。
戦後の広島・呉。
小さな避難所に身を寄せるレンは、ある朝、年老いた男の言葉をきっかけに『阿賀駅』【※現在の名称は『安芸阿賀駅』】へ向かうことになる。
目的は、かつて使われていたという一本の鍬。
しかし、彼の胸の奥には、別の理由が確かに芽生えていた。
まるでそこに、何かを思い出すための欠片が隠れているかのように──。
朽ちたレール。ねじれた標識。
そして、駅の片隅に咲いたまま、誰にも気づかれなかった一輪の彼岸花。
その先に、彼女は立っていた。
いつものように、静かに。何も語らずに。
これは、誰にも届かない列車を待ち続ける物語。
そして、失われた記憶のかけらが、少しずつ形を取り始める物語。
「遠ざかるたびに、何かを置き去りにしている気がする...でも、それはきっと、始まりに近づいているという証なのかもしれない」
荒川レン 依姫栞 坂上空
雪
広島県・呉市。
1945年10月。
朝は、まだ眠たげな霧に包まれていた。
まるで空が、本当に目覚めたいのかどうか、迷っているようだった。
避難所の空気には、湿気と、近すぎる距離に干された衣類のにおい、そして、具よりも水のほうが多い薄い煮汁の湯気が漂っていた。
古びた床板がきしむ音。すでに起きている人たちの足音。
そんな繰り返される音たちが、静かに朝の旋律を奏でていた。
――心地よいとは言えない。でも、もう異質とも言えなかった。
ぼくは、灯油ストーブの前で身を縮めながら、どうにかそのかすかな熱を頼りに眠気を追い払っていた。
そのとき、薪をまとめる手伝いをしている、あのしゃがれ声の老人のつぶやきが耳に入った。
「阿賀駅……あそこにはな、倉庫があったんだ。数か月前、補給所として使われてたんだよ」
彼は、厚手の上着の上から手を擦り合わせながら、誰に話すでもなくそう呟いた。
「まだ残ってるのか?」と、台所の奥から誰かが尋ねる。
「さあな……けど、誰も行ってないなら、まだ使えるもんがあるかもしれねぇ」
一拍おいて、彼は記憶をたどるように目を細めた。
「たしか、くわがあった。鉄製で、木の柄がしっかりしてるやつだ。排水のために溝を掘るのに重宝してた。これから秋の雨が増えるし、あると助かるな」
ぼくは黙ってその話を聞いていた。
朝食の準備はもう始まっていて、あちこちから湯気と人の気配が立ち上っていた。
子どもたちは熱を出し、咳が止まらず、時折、泣き声が布団の中から漏れていた。
栞さんが、そのひとりの額に冷たい布を何度も当てながら看病していた。
その動きは、疲れた体にはあまりにも重く、けれど、確かで。眠れていない目は、うっすらと濁っていた。
たくさんの責任を抱えすぎた人だけが持つ、あの色だった。
老人は、ふとぼくの方を向いた。
名前は呼ばなかったが、その視線には明確な意図があった。
「……お前、足元には気をつける方だろ?あの駅はもう使われちゃいねえがな、瓦礫の下にまだ何かあるかもしれねえ。ちょいと掘り起こせば、役に立つもんが残ってるかもな」
そう言って、彼はそれ以上何も言わなかった。
ただ、その言葉だけを残して、空気の中に溶かした。
行かなければならない理由なんて、特になかった。
けれど……なぜか、その提案が妙に頭から離れなかった。
――たぶん、少し離れたかったのだ。
同じ空気でも、違う場所で吸いたかった。
同じ風景でも、壊れた駅の中なら、何かが違う気がした。
いや、それよりも……
この時代に来てからというもの、行く先々で、なぜか心の奥がざわつくのだ。
まだ知らないはずの場所が、どこか懐かしく感じられる――
そんな感覚が、確かに、ぼくの中にはあった。
ぼくはゆっくりと立ち上がり、うなずいた。
壊れた扉の枠に掛けていた上着を手に取り、急ぐことなく袖を通した。
栞さんは、隅で子どもたちのためにお茶を用意していたが、濡れた布を絞りながら、こちらに近づいてきた。
「……遠くまで行くの?」
声を張らず、そっと尋ねるように。
「いや……ちょっと歩くだけさ」
嘘だったのか、それとも本当だったのか。
――でも、時に歩くという行為には、それだけで十分すぎる意味がある。
彼女はしばし黙ってぼくを見つめた。その目には、問いも詮索もなかった。
ただ静かな理解。言葉になる前の想いを、そっと受け止めるような眼差し。
「これ、持って行って。もし、何か見つけたときのために」
そう言って、彼女は二つ折りにした手ぬぐいを差し出した。中には、小さな硬貨がいくつか包まれていた。
「……ありがとう」
そう返しながら、何かもっと言いたい気がした…でも、その静けさを壊すような言葉は、ひとつも見つからなかった。
「……あまり遅くならないように。気をつけて」
そう言って、栞さんはまた背を向け、子どもたちの元へと戻っていった。
ぼくは振り返ることなく、ぼろぼろのシートをくぐり抜け、
かすかなぬくもりとやわらかなざわめきが漂う避難所をあとにした。
外の空気は、錆びた金属と濡れた土のにおいが混じっていた。まだ冬ではないのに、風はもう失われたものの匂いを運んでいた。
世界が、ゆっくりと自分自身を忘れていくような――そんな匂い。
それでも、ぼくは歩き続けた。
この壊れた街のどこかに、ぼくを待つ誰かが、あるいは何かが――
……記憶の奥に沈んでいた何かが、存在している気がした。
***
足元を確かめながら、ぼくはゆっくりと歩いた。舗装も剥がれ、土に還りかけたかつての道をたどって。
斜めに傾いた電柱。風に揺れる、切れたままの電線。
すっかり色褪せた標識には、かろうじてひらがなが残っていた。
それらすべてが、この街の傷跡のように、風景に刻まれていた。
朽ちた木の枝を揺らす風が、一枚の枯葉を舞い上げた。
それが頬をかすめたとき、歓迎されたのか、警告されたのか――わからなかった。
阿賀駅へ向かうには、かつての踏切跡を越える必要があった。
草に覆われた線路。錆びついたレール。
まるで、もはや血の流れを失った動脈のように、そこに横たわっていた。
曲がった標識には、今ではもう存在しない地名が消えかけて残っていた。
風が吹くたび、金属の破片が軋み、街がまだ何かを語ろうとしているように思えた。
それでも、この街は今日も、生きようとしていた。
誰もが、目の前の崩れた日常の中に、もう一度を積み上げていた。
人の気配が消えてゆくにつれ、砂利を踏む足音と、自分の呼吸音だけが耳に残り、孤独の輪郭が濃くなっていく。
けれど、その静けさに、なぜか安らぎを感じた。
――目に見えるものではなく、記憶の奥に触れるような、なつかしさ。
途中、ひび割れた小さな橋をくぐった。
下には、かつて用水路だったと思われる溝があり、今は干上がって泥だけが残っていた。
橋を渡った瞬間、不意に胸を衝く感覚に襲われた。
それは、はっきりとした映像ではなく――匂い、あるいは音のような――
重なりあうデジャヴ。
「……前にもここに来たことがある……?」
思わずそうつぶやきそうになり、飲み込んだ。
もう少し歩いた先。
雑草に覆われた地面の中から、かすかにコンクリートの基礎が顔を覗かせていた。
うっすらと赤い線が引かれていた跡。
――倉庫だったのだろうか。
あるいは、昔の鉄道の補給所かもしれない。
そして、ついにそれを見つけた。
錆びつき、半ば棘に埋もれながらも、その文字は、確かにそこにあった。
『阿賀駅』【※現在の名称は『安芸阿賀駅』】
ぼくは、その場に立ち尽くした。動けなかった。
その錆びついた看板が重く感じたのは、書かれた文字のせいじゃない。
そこに何かを思い出しそうになる――そんな気配が漂っていたからだ。
駅舎は、すでにその役目を終えていた。屋根は崩れ、瓦は砕け、骨のように地面に散らばっている。
ベンチも割れ、陽と雨に焼かれて朽ちていた。
けれど――
ホームだけは、そこにあった。
誰にも見つけられずに、ただ黙って、傷のように……
それでも、確かに残っていた。
ぼくはそっと上がった。踏みしめるたびに、古びた木がきしむ。
静けさには、どこか神聖なものがあった。
ホームの端まで歩いて、視線を遠くへ向けた。
そこには何もなかった。
ただ、時が止まったような景色が広がっていた。
もう列車は来ない。
もう誰も旅立たない…誰も戻ってこない。
――そのとき、目に入った。
崩れた柱のそば、コンクリートの割れ目から――
一輪の花。
彼岸花だった。枯れていたのに、そこに立っていた。
誰かが、ついさっき置いていったかのように、風に揺れていた。
ぼくはしゃがみ込んだ。
触れはしなかった。
どうしてだろう……その姿を見るだけで、胸が締めつけられた。
ただの花のはずなのに。
心臓が速く打つ。
痛みじゃない。もっと深い、もっと古い何か。
まるで……忘れていた名前を聞いた瞬間のような、
大切だった誰かを思い出しそうになる感覚。
「なぜ……君を見ると、彼女を思い出すんだろう」
風が吹いた。
壊れかけたランプが、かすかに金属音を鳴らす。
そのときだった。
何かが――
ぼくの中で開きかけた。
***
ホームから見える景色は、ますます孤独に見えた。
足元の木材は、霧と時間に湿らされて軋んだ。
ぼくは、割れかけたベンチに腰を下ろした。
錆びた釘と、かすかな意思だけで、どうにか支えられている。
この場所は、何かが無くなった跡でできている。
破壊ではない。
そこにかつてあったものの記憶。
だからこそ、痛みを感じるのかもしれない。
肘を膝につけて、視線を空の下に落とした。
――もう走らない線路。
――時を刻まない時計。
――交わされなかった言葉。
この場所には、きっと数えきれない別れがあったのだろう。
扉が閉まる直前に飲み込まれた言葉、遠ざかる背中に届かなかった声――
そういうものが、この空気の中にまだ残っている気がした。
喉が詰まった。
悲しみではない。
懐かしさだった。
失ったことすら知らなかった場所に、たどり着いてしまったような感覚。
そして――
その姿が、視界に入った。
霧の中。
ホームの端。
灰色の空を背にして、誰かが立っていた。
背を向けたまま、一歩も動かずに。
まるで――
列車を待っているかのように。
彼女は――
学生服を着ていた。風に揺れる柔らかな布。
どこか古びた生地の、その皺の一つひとつが、まるで時間の重みを語っているようだった。
髪は肩まで下ろされ、風にそっと揺れていた。
顔を見なくても分かった。
いや――目に入るより先に、ぼくの身体が反応していた。
雪さんだ。
彼女は振り向かない。
声も発さない。
ただそこに、記憶でできた彫像のように佇んでいた。
ぼくは、一歩だけ足を踏み出した。鼓動が耳に響く。
その瞬間――
彼女の手から、何かが落ちた。
小さな長方形の紙片が、ふわりと空中を舞いながら、静かに地面へと落ちた。
――絵葉書だった。
縁が擦れて、裏面の文字もほとんど読めないほどに色褪せていた。
ぼくは、息を呑みながらそれに近づいた。
拾い上げる指先は慎重だった。
触れた瞬間に、すべてが消えてしまいそうで。
そこには――
あの寺が描かれていた。
図書館で見た、あの古い本の中の一枚。
ねじれた木々と深い霧の中に浮かぶ、墨の線だけで描かれた風景。
夢の中で幾度となく現れ、そして、訪れようとするたびに姿を消してしまったあの場所。
まるで存在しなかったかのように、跡形も残さず消えてしまう――あの寺だった。
絵葉書の裏には、言葉はなかった。
ただ――
記号がひとつだけ、墨で描かれていた。途切れた円の中に、斜めに走る一本の線。
あの時、図書館の『特別収蔵』印のある本の背表紙に刻まれていたもの。
解読できなかったその印。
けれど、今なら分かる。
思い出せないのではなく――
あれは、ずっとぼくの中にあったものだ。
その時——静寂が破れた。
チリン…
耳に馴染んだ、澄んだ鈴の音。
チリン…
チリン……
音は水晶のように空気を漂い——顔を上げた時には、もう彼女の姿はなかった。
残されたのは、風と、夢の名残のように濃くなっていく霧だけ。
彼女が立っていた場所を見つめた。
足跡も、痕跡も、何も残されていなかった。
ただ、彼女がいつもそうするように——静けさと、どこかに属していたという感覚だけが残っていた。
まるで、彼女は最初から存在しなかったかのように。
いや、むしろ、この瞬間のためにずっとそこにいたかのように。
僕はその場に立ち尽くしていた。手の中には、あの葉書。
そっと握りしめると、紙は思った以上に冷たかった。そして胸の奥で、何かが静かに崩れた。
それは悲しみではなく——
確かな確信だった。あれは幻じゃない。
雪さんは、言葉ではなく、記憶で僕に語りかけていたのだ。
***
空は深く濁った赤に染まり、まるで昼が名残惜しくて死にたくないとでも言うようだった。
風に引き延ばされた雲は、廃墟の屋根の上に浮かぶ消えかけた炭火のように見えた。
同じ道を戻っていたが、すでに全てが違って感じられた。
肩には、あの老人が言っていた古い鍬がぶら下がっていた。
金属は錆び、柄はささくれていたが、まだ使えそうだった。丁寧に扱えば、役に立つだろう。
大したものではない。でも——少なくとも、出かけた理由にはなった。
本当に大切なものは、ポケットの中にあった。
あの葉書。あの記憶の花。
過去の記憶の残響。
避難所の灯りが、遠くでゆらゆらと灯り始めていた。
少し離れたところで、入り口のそばに座っている栞さんの姿が見えた。手には湯気を立てる椀。
僕に気づくと、目を少しだけ上げたが、言葉はなかった。
ただ、そっとその椀を差し出してくれた。まるで、言葉は必要ないと知っているかのように。
その隣に座り、しばらくの間、僕たちが分かち合ったのは、椀のぬくもりだけだった。
すぐ近くでは、空が本を胸に開いたまま眠っていた。
唇をわずかに開き、夢の中の誰かに語りかけるように何かを呟いていた。
栞さんがようやく口を開いた。囁くような声で、静寂を壊したくないという気持ちが伝わってきた。
「探していたものは……見つかった?」
椀の中を見つめた。次に、隣に置いた鍬。それからポケットに手を入れ、葉書をそっと握った。
「いや……でも、多分、必要だったものを見つけた気がする」と答えた。
彼女はそれ以上何も聞かずに、静かにうなずいた。
——沈黙を答えとして受け入れてくれる、あの栞さんらしい優しさ。
風が濡れた薪と出来たてのスープの匂いを運んできた。
周りはまだ瓦礫だらけで、世界は壊れたままだったが、その一瞬だけ、全てが——
静かだった。
解決されたわけじゃない。でも、どこかで時が止まったような静けさがあった。
自分の手を見つめた。
スープの湯気が空気に溶け、葉書のにじんだインクが夕暮れの光に揺れていた。
その時、ふと思った。
《遠く離れるたびに、何かを置いてくる…でもそのたびに、あの場所——すべてが始まった場所に、少しずつ近づいているのかもしれない》
気づけば、胸の奥に確かな感覚があった。
優しくて、でも確固たる思い。
歩き続ける限り——
あの響きに耳を傾け続ける限り——
僕は、まだ——完全には迷っていない。