第12章。 『月夜に芽吹く願い。』
――秋の夜、月は何を見ているのか。
崩壊した街、焼け焦げた空、沈黙の中に立ち尽くす人々。
それでも、月だけは変わらず空に昇り、すべてを静かに照らす。
生き残るだけで精一杯の避難所で、『月見』をしようと言い出した老婆。
焼き芋の代わりに手作りの小さなパン。
灯りも供物もない、けれど温もりだけはそこにあった。
月が昇る夜、空くんは眠りにつき、栞は沈黙の中で隣に座る。
そしてまた、あの音が聞こえる――チリン、チリン……
過去と未来が交差する静かな夜に、レンは思う。
「言葉にできない願いは、本当に届くのだろうか」
終わりの見えない時間の迷路に囚われたレンと、彼を導くように現れる少女。
断片的な記憶、重なる偶然、そして一瞬のぬくもり。
今宵、欠けた記憶の『ひとひら』が、月の光の下でそっと揺れる。
雪 依姫栞 荒川レン 坂上空
呉市 ― 広島県。
夜明けの光が、ほころびのある布越しに静かに差し込んでいた。
高くたなびく雲は、まるで乱雑に描かれた筆跡のようで、空気には濡れた木の微かな香りが混じっていた。
目を覚ました瞬間、いつもとは違う感覚が胸に残った。
不安でもなければ、安堵でもない。
ただ、どこか――
世界全体が、今朝だけは少しゆっくりと息をしているような、そんな気配があった。
周囲の避難所は、すでに眠りから覚めていた。人々の動きはどこか軽く、まるで昨日よりも深く眠れたかのようだった。
あるいは、何かを――待っているような。
いつもなら、朝から文句を言いながら火を起こすおばさんは、今日は一言もこぼしていなかった。
そして、五歩ごとに咳をしていた老人が、今は古びた新聞を広げて、静かに目を通している。
俺はゆっくりと身を起こし、目をこすった。
窓のそばには、空が立っていた。ぼんやりと、曇り空を見つめている。
「……何かあったのか?」
上着を羽織りながら尋ねると、彼は首を横に振った。
だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「今日は特別な夜なんだって。……お団子作ってるおばあちゃんが言ってた」
「特別? どうして?」
俺がそう聞いたその時だった。
ちょうど、共有スペースの奥から、例の老婆が現れた。
手には、枯れ葉や竹の枝が入った箱を抱えている。
「団子もなけりゃ、酒もない。お供えも何もできないけどね……それでも、月はちゃんと昇ってくるさ。変わらずに、美しく…」
その声は小さく震えていたが、不思議と晴れやかだった。話すたびに、言葉の奥から、静かな喜びが滲み出ていた。
「今日はね、月見だよ……廃墟の中でも」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが柔らかく響いた。
「――月見…」
秋の月を仰ぎ見る、祈りと記憶の夜。
失われたものを想い、今あるものに感謝する夜。
栞さんが裏手から現れた。
手には、まだ水滴の残るバケツを抱えていた。袖をまくり上げ、髪は少し乱れていた。それはいつものことで、彼女が何かに集中している時の姿だった。
俺の横を通り過ぎるとき、彼女は何気なく言った。
「今日は月見の日よ。今夜、裏の公園でちょっとした集まりをしようって話してるの……もし月が顔を出してくれるなら、ね」
「……お祝いか?」
そう尋ねると、彼女はバケツを持ち直しながら、少しだけ首を傾けた。
「お祝いっていうより……立ち止まる時間かしら。続いていることに感謝して、ただそこにいることを確かめるような……そんな夜」
その言い方には、特別な重みもなく、かといって軽さもなかった。
まるで日常の会話のなかに、ふと紛れ込んだ思考のかけらのようだった。
ふと横を見ると、空が毛布を取り出し、勢いよく叩いていた。
まるでそれが、今夜のための特別な衣装でもあるかのように。
「……月見の日に何するか、あんまり覚えてないけど……ママが言ってた。月はね、口に出せない願いを聞いてくれるんだって」
そう言って、空は毛布を丁寧にたたみ、俺を見た。
その表情には、少し照れくさそうな、けれど真っ直ぐな笑みが浮かんでいた。
「……本当だと思う?」
すぐには答えられなかった。
月――
もし、願いを受けとめられるのなら、きっと傷跡も受けとめてきたはずだ。
言葉にできない想いを聞けるなら……
誰かの、あるいは自分のものさえ知らなかった記憶も、あの光の奥に刻まれているのかもしれない。
その時、また栞さんが通りかかった。今度は空になったカゴを持っていた。
「……あまり期待はしないで。でも――
たまには、空を見上げるのも、悪くないわよ」
それだけ言って、彼女はまた静かに去っていった。
まるで、言葉の断片だけを風に残していくように。
俺はしばらくその場に立ち尽くしながら、裏手へと視線を向けた。
避難所の裏庭――そこから繋がる小さな公園では、誰かが黙々と掃除をしていた。壊れたベンチを縄で補強している人。木箱の上に毛布を敷いている人。そして、即席の焚き火の準備をしている人もいた。
ボロボロのシートの隙間から見えたのは、錆びついたブランコ。
その隣に立っている、葉の落ちた木――
それでもなお、倒れることを拒むかのように、まっすぐ空を睨んでいた。
厳かな雰囲気はなかった。
ただ、かすかに響くざわめきがあった。それは――たった一晩でも、生きていることを思い出し、感謝する人々のささやきだった。
そして、俺も……
この時代に目覚めて以来、初めて『ここにいてもいいのかもしれない』と思った。
***
空は一日中曇っていたが、雨は一滴も降らなかった。
空気には、湿った木と乾いた落ち葉の匂いが混ざり合い、さらに遠くの海から吹く風が、灰のような香りとともに、避難所の壁の隙間から忍び込んできていた。
誰に言われるでもなく、準備は自然と始まっていた。まるで、体が魂より先に覚えていたかのように。
俺は裏庭に吊るされたシートの補強を手伝っていた。
空が横で端を押さえ、俺は古い縄でたるんだ部分をしっかり結び直す。
「ちゃんと押さえてろよ」
「わかってるって……」
ぶつぶつ言いながらも、空は笑っていた。
二人でタイミングを合わせて引っ張ると、風がシートの下から入り込み、
それは風をはらんだ帆のように膨らんだ。
そのとき、空がぽつりと呟いた。
「……笑うと、別人みたいだよ」
思わず彼の方を見た。戸惑いと好奇心が混じった視線で。
「別人……?」
「うん。まるで……ここにちゃんと存在してる人みたい。遠くから来た誰か、じゃなくて」
言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。代わりに、小さく笑った。それはきっと照れ隠しのようなものだったと思う。
彼は視線をそらしながらも、口元に微かな笑みを残していた。
その表情――もう、少しずつ分かってきた気がする。
彼には年齢に似合わぬ深さがあり、どこか懐かしい気配があった。
そしてまた、心のどこかで思ってしまう。
「……君は一体、何者なんだ?」
論理的な問いとしてではなく――
それは、記憶と心がうまく噛み合わないときに、胸の奥でじわりと湧き上がる、そんな曖昧な不安だった。
午前中の残りの時間は、焚き火を予定している場所の近くに、古い木材を積み重ねて過ごした。
大人たちは枝で作ったほうきで落ち葉を掃き、小さな子どもたちは、あとで座るための毛布を布で丁寧に拭いていた。
その中で、避難所はやわらかなざわめきに包まれていた。
それは、抑えた笑い声だったり、気配を忍ばせるような足音だったり――
まるで、喜びさえも「ここにいていいか」と許可を求めているような、そんな音の重なりだった。
昼が近づくころ、避難所の匂いが少し変わった。台所の方から、素朴で甘い香りが漂ってきた。
煮込まれた根菜、粗末な粉の焼ける匂い、そしてかすかに漂う古い米の発酵した香り。
気になって、そっと近づいた。
栞さんが、即席の石窯の前でしゃがみ込みながら、丸くて小さなパンを黒ずんだトレーに並べていた。
袖には粉がつき、頬にはいつの間にか灰が一本すっと線のようについていた。本人は気づいていないようだった。
「……それ、パン?」
そう訊くと、彼女は手を止めずに答えた。
「まあ、そんなところかな。今週見つけたもので作ったの。甘い根、少しの粉、古いお米を挽いたもの……あと、運まかせ」
スチール缶を潰して作ったようなヘラで器用に形を整えながら、彼女はようやくこちらを見た。
「団子はないけど……これでもないよりは、ね。生きてるだけで、感謝するには十分でしょ?」
その瞳には悲しみはなかった。
あるのは静かな決意、そして……どこか、時間さえも拒めないような穏やかな温かさだった。
「……確かに。食べるものがあるだけでもありがたい。火があるなら、それを分け合える……そうじゃなきゃ、凍えちゃうしな」
そう返すと、最後に自分でも少しだけ笑ってみた。
彼女は、小さめの丸パンを一つ、手に取って差し出した。
まだほんのりと温かさが残っていた。
その丸いパンを両手で包み込むように持った。
その形が壊れやすいからではなく、それが何を意味するかが、あまりに繊細だったから。
そっと一口、かじってみた。
「……ありがとう。おいしいよ」
小さくつぶやくと、栞さんはうなずいた。それ以上、何も言わなかった。
ふたりの間に、しばしの沈黙が流れた。
石窯から昇る薄い煙がゆっくりと空に溶けていき、入り口のほころびたカーテンを風がやさしく揺らしていた。
――ただの一瞬。
それは、日常のなかの小さな間だった。すべてが過不足なく存在していて、外の現実を忘れられる、そんな刹那の静けさ。
***
夜は、ためらいがちに――まるで舞台の幕が閉じるべきか迷うように――ゆっくりと降りてきた。
避難所では、灯油ランプがひとつ、またひとつと消され、残されたのは、いくつかの蝋燭がぽつぽつと灯るだけの、やわらかな暗がり。
誰に促されたわけでもなく、人々は静かに外へと歩き出した。まるで骨の奥に刻まれた何かに従っているようだった。
空には、まだ厚い雲がたれ込めていた。けれど、その中に、何か微かな願いのようなものが漂っていた。
不思議と、どこか期待めいた空気が広がっていた。
裏庭は、すっかり別の空間になっていた。
敷かれた毛布は、壊れかけのコンクリートと土の上にそっと馴染んでいて、その中心には、湿った枝を燃やす小さな焚き火がパチパチと音を立てていた。
焚き火を囲む人影たちは、毛布や上着に身を包み、
あるいは腕を胸に抱えて、静かに炎の温もりを受け取っていた。
ぼくは空の隣に座った。
彼は大きすぎる毛布にすっぽりと包まれていて、
その目は、焚き火の光と……それ以上の、何かで輝いていた。
「……来ると思う?」
彼は雲に覆われた空を見上げながら、小さな声で訊いた。
「……わからない」
ぼくは、ゆっくりと動く雲を眺めながら答えた。
まるで空を渡る川のように、雲は静かに流れていた。
「母さんが言ってた。月は、誰にでも姿を見せるわけじゃない。でも、どうしても会いたいって、強く願えば……出てきてくれるって」
そう言って、彼は自分の膝を抱き、そっと目を閉じた。
その瞬間、風がひときわ冷たくなった。
何人かの大人たちは、古い祈りの言葉を小さく口にしていた…月が見えるように。
それ以外の人々は、ただ空を見上げていた。沈黙さえも祈りのかたちであるかのように。
そして――
風が、雲のあいだにすき間を作った。
最初はほんのわずかな穴だった。けれど、その穴は次第に広がっていき、
やがて――
やわらかく澄んだ、白い光が裏庭を包みこんだ。
満月だった。
あまりにも眩しくて、目に焼きつくほど。壊れた空のうえで、その姿は完璧に見えた。
まるで、誰かの呼びかけに応えるように――
長い旅を終えて帰ってきた母のように、静かに、そしてやさしく、そこにあった。
隣にいた空は、もう眠っていた。
深く、穏やかに息をしていて、毛布の下の顔には、小さな笑みが浮かんでいた。
「……起こさないよ。気持ちよさそうに眠ってるから」
そのとき、栞さんが静かに近づいてきて、ぼくの隣に腰を下ろし、ふたりのあいだに湯気の立つカップを置いた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、それだけ。
ふたりはところで、焚き火の音を背に、無言のまま月を見上げていた。
月の光に照らされた栞さんの横顔は、いつもより柔らかく見えた。光が、その美しさを二重にしたかのようだった。
焚き火の煙が首筋に淡い影を描き、風に揺れる秋の夜、その髪――この夜に限って結ばれていなかった髪――が月の下で、静かに踊っていた。
ぼくらの手は、同じ毛布の上に近く置かれていた。そして、不意に、ほんの一瞬、指先が触れ合った。
そのとき、胸の奥に何かが走った。
この時代でも、以前の人生でも、栞さんと過ごすなかで感じたことのない何か。
優しくて、熱をもっていて、けれど傷つけることはなく、ただ、静かに心を満たしていくような――
魂の奥にまで染みわたるような、安らぎだった。
言葉は交わさなかった。必要なかった。
触れ合っていた手を離すこともなく、その静けさの中で、ぼくらはただ月を見ていた。
その瞬間は、壊してはいけない沈黙でできていた。
月は変わらず空にあり、まるで、ぼくらを守るように輝いていた。
そのとき――
胸の奥にかすかな引きつれのような感覚が走り、ぼくはふと顔をそらした。
壊れた壁の向こう、木々の間に――
人影が立っていた。
裸足で、ただ静かに立っていた。
風に揺れる白いワンピース。髪は黒い紐でまとめられていた。
月明かりに照らされたその姿は、間違いようがなかった。
――雪さん。
彼女は動かなかった。ただ、こちらを見つめていた。
悲しげな様子はなかった。
むしろ、微かな微笑みが顔に浮かんでいた。
そこに、ただいた。夜そのもののように。
その存在は、月と同じくらい自然で、まるでずっと前からそこにいたかのようだった。
ぼくは目を合わせた。
けれど、彼女は手を振ることもなく、何も言わなかった。
そして――
チリン… チリン…
あの音。
彼女が現れるたびに、どこからともなく聞こえてくる――
鈴の音。
柔らかく、震えるように、永遠のように響いた。
ぼくは目を閉じ、そして再び開けると、公園の霧が静かに流れていた。
霧が完全に晴れたとき――
彼女の姿は、もうどこにもなかった。
何も残していなかった。痕跡も、足音も、気配さえもなく。
ただ、月の光と静けさ、そして、耳の奥に残るあの鈴の音だけがあった。
ぼくは立ち尽くして、彼女がいた場所を見つめた。
胸の中にあったのは、悲しみではなかった。
それは――懐かしさだった。
まるで、あの出会いが驚きではなく、終わらぬ巡りのひとつの場面であるように。
きっと、まだ伝えなければならないことが、あるのだろう。口にできない想いが、そこにあった。
栞さんは、何も言わなかった。彼女の目には、雪さんの姿は映っていなかったようだった。
ぼくはなにか声をかけようとした。どんな言葉でもよかった。
この静けさを破るために――
けれど、彼女はまだ月を見ていた。
その表情には、届かないほど深いものがあった。
言葉にできない何かを、思い出そうとしているような――
でも、確かにそれは、少しずつ形をとり始めていた。
ぼくは静かに横になった。
焚き火のぬくもり。
空の小さな体の重み。そして、夜の草と遠くの海風が運んでくる香り。
月は、まだ曇り空のすき間から、静かに昇っていた。
《言葉はいらない。ただ、あたたかい存在がそばにいてくれるだけで――
この冷たくて苦しい世界を、生きていける気がするんだ》
その夜遅く――
ぼくが目を閉じるころになっても、あの鈴の音はまだ心の中で響いていた。
人々はすでに、穏やかな眠りの中にいた。
今日という日、わずかな時間でも、喜びと感謝を分かち合えたことで――
避難所全体が、やさしさに包まれていた。
明日、何が起こるかは分からなかった。
けれど今は――
ぼくは、過去から逃げているのではなく、その過去に向かって、少しずつ歩き始めている気がしていた。
「人生の祝い方を思い出そうとしていた、この静かな夜。ぼくは気づいた――
月にだって傷がある。それでも、あれほど美しく、変わらず輝き続けるんだ」