第11章。 『漂う記憶の欠片。』
目覚めるたびに、何かを忘れてしまった気がする――
だが、失くしたはずの想いが、ある朝、波打ち際で再び姿を現す。
ひとつの写真。ひとつの出会い。そして、風に溶ける鈴の音。
崩れた街の片隅で、過去と未来が交差するその瞬間、
『思い出せない記憶』が静かに揺らぎ始める。
――それは、偶然だったのか。それとも、運命だったのか。
荒川レン 雪 依姫栞 春樹 坂上空
呉市 ― 広島県。
夜明けはまだ、地平線の上にその輪郭を描ききれていなかった。
それでも、俺の目はすでに覚めていた。
この場所――いや、この時代に目覚めてからというもの、眠ることが難しくなっていた。
悪夢のせいでもなければ、日に日に強まる寒さのせいでもない。
目を覚ました瞬間に何か大切なものが待っているような、そんな得体の知れない感覚が、俺を落ち着かせてくれなかったのだ。
避難所は静まり返っていた。
他の人たちはまだ眠っているか、あるいは眠っているふりをしているのだろう。
俺は、昨日の午後に拾ったジャケットを羽織り、音を立てずに外へ出た。
湿気、錆び、そして焼けた油の匂いが染みついたその場所を、そっとあとにした。
外には、濃い霧が壊れた街のあいだを覆うように漂っていた。
空気は鋭く冷たかったが、避難所の中よりもずっと澄んでいた。
俺は歩き出した。
どこに行くというわけでもない。ただ――海が見たかった。
寝室の窓から遠くに見えていた、あの灰色の海。
でも、それだけじゃ足りなかった。音が聞きたかった。匂いを感じたかった。肌で触れたかった。
それができれば、失ったはずの何かを取り戻せるような気がした。
壊れた大通りのあいだにできた、即席の小道を進んでいく。
倒れた電柱、歪んだ標識、転がる鉄筋の棒――
数日前から始まった復旧作業によって、瓦礫は少しずつ片付けられつつあったが、まだ道のりは遠かった。
《……でも、それでも、街が動き出したというだけで、希望は生まれる》
その工事の始まりだけで、ここに残った人々は少しだけ前を向けるようになったのだ。
潰れたバス停の横を通り、焼け焦げたようなヤシの木が並ぶ通りを抜け――
ようやく、海辺へと辿り着いた。
海は、そこにあった。いつものように――
広大で、静かだった。
空と溶け合うように続く、果てしない灰色の線。
カモメの姿はなかった。
水平線の向こうに見えるのは、再建が始まった頃からこの港に停泊している、アメリカ軍やイギリス軍の艦船ばかりだった。
街では、少しずつ外国人の姿を見るのも当たり前になってきている。
俺は岸辺まで歩き、砂と灰と砕けた貝殻が混じる場所まで近づいた。
そこにあった塩で磨かれた平たい岩に腰を下ろし、しばらく黙って海を見つめた。
波は、ゆっくりと寄せては返していた。
音も立てず、まるでこの静けさを壊すのを恐れているかのように。
「ふぅ……足でも海に入れてバシャバシャしたいとこだけど、そんなことしたら確実に低体温症で死ぬな……」
すべてが止まっているように思えた。
まるで世界が、今まさに息を止めているかのように――
そのときだった。
視界の端に、何かが見えた。
砂の中から、わずかに金属の角が覗いている。
錆びた蓋――小箱か、古いロケットペンダントのようにも見えた。
俺はその場所に近づき、湿った砂をそっと指で払いのけた。
それは手のひらほどの小さなものだった。
壊れた鎖がついており、潮の結晶があちこちにこびりついていた。
まるで、誰かがこの海に残していった記憶のかけら――そんな風に感じられた。
ゆっくりと蓋を開ける。
中には、一枚の写真――というより、その残骸が入っていた。
焦げ跡のある古びた写真。
そこには、海を背にして立つ、ある少女の姿が映っていた。
髪を垂らし、白っぽい着物……たぶん、浴衣のようなものを着ていた。
顔は見えなかった。
だが、その後ろ姿を見た瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
「……この輪郭、この髪型、この一瞬……前にも見たことがある……」
それが夢だったのか、前世の記憶なのか、もしくは、もう区別のつかなくなった幻のひとつだったのか――
分からない。
だが、その『何か』は、確かに俺の奥深くに刻まれていた。
そのとき、海から吹いた風が冷たさを増し、首筋にぞくりとした震えが走った。目を閉じた。
――聞こえる。あの音。
チリン……チリン……
目を見開いた。
だが、そこには誰もいなかった。
あるのはただ、ゆっくりと波を返す海の音だけ。
もう一度、手のひらの中の写真を見つめた。
湿気でインクが滲んでいたが、今になってようやく気づいたことがある。
その隅に、何かの文字が――手書きで書かれていた。
日本語でも、英語でもなかった。
それなのに――なぜか意味だけは分かった。
読めるわけではない。でも、確かに『理解できた』。
それは、心ではなく、もっと深い、まだ思い出されていない何かで受け取った意味だった。
『約束……そして、別れ――』
海と、写真と、あの鈴の音――
それらすべてが、心の中で絡まり合い、まだ形をなさないパズルのピースとして重なっていく。
俺は、ただ静かに海を見つめながら座っていた。
メダルの表面を指でなぞりながら、まるで、砂の下から思い出までも掘り起こそうとするように。
「……これを持ち帰ってもいいんだろうか。誰かの大事なものかもしれない。本当は、別の誰かが見つけるべきだったのかもしれない――」
そんな迷いが心に浮かんだ。
だがその時の俺は、ただそれを見つめていた。
まだ帰りたくはなかった。
秋の海から吹く冷たい風を頬に受けながら、もう少しだけ、この水平線を眺めていたかった。
この場所の時間も――
まるで、前に進むのではなく、円を描いて巡っているかのようだった。
記憶とは、過去からやってくるものではなく、未来から近づいてくるもののように――
***
その時だった。
メダルを握ったままの手の近くに、石が落ちて、冷たい水しぶきが靴にかかった。
俺は驚いて顔を上げた。
「――あ、ごめん」
少し離れた場所から、若い声が聞こえた。
男の子だった。
風に乱れた黒髪、体格に合わない古びた服。
年齢は――十二か、十三か、せいぜい十四歳くらいに見えた。
敵意はなかったが、その瞳の奥には不思議な諦めがあった。
本来、そんな若さにあるはずのない、静かな成熟。
数秒間、彼は俺を見つめていた。
近づくべきかどうか、判断しているかのように。
そして、やがて裸足のまま、湿った砂の上に淡く足跡を残しながら歩いてきた。
「――それ、俺のだよ」
彼はそう言った。
押しつけるわけでもなく、ただ静かに。
まるで、長く失っていた記憶を自然に思い出したように。
俺は彼を見つめ返しながら、尋ねた。
「……どこで失くしたか、覚えてるの?」
「ここ。ずっと前に……砂に埋まって、見つからなくなった」
彼の視線は、ずっと俺の手の中にあるメダルに向けられていた。
俺はそっとそれを差し出した。
彼は両手を伸ばし、驚くほど優しい手つきで受け取った。
まるで宝物のように。
目を閉じた彼は、しばらく何も言わなかった。
ただ、波の音だけが俺たちの間に広がっていた。
彼の指が、錆びた表面をゆっくりとなぞる。
「――これは、姉ちゃんの形見なんだ。両親は前に亡くなって、姉ちゃんも……最近、死んじゃった」
それは淡々とした口調だった。
悲しみというより、涙を流し尽くした者の声。
俺は何か言いかけたが、やめた。
言葉は無力に思えた。
《……写真の女の子――雪さんに、あまりにも似ていた。これは偶然か? それとも……》
彼はもう一度、小さな石を手にして、波打ち際へと投げた。
だが、今回は力なく、すぐに水面に落ちた。
「……どこに住んでるの?」と、俺は訊いた。
彼は答えた。
「――どこにも。でも、どこにでも」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
雲の隙間から太陽が顔をのぞかせ始めていたにもかかわらず、風は一層鋭くなっていた。
彼の足は濡れ、着ているもの――それを上着と呼べるなら――は、破れたフランネルのシャツ一枚だけだった。
このまま彼をここに置いておくわけにはいかなかった。
……だが、避難所は限界に近い。
人が一人増えるだけで、水も、食料も、寝る場所も減る。
俺は海を見た。
遠くに停泊する軍艦、崩れた岸壁……そして、岩の上を旋回し始めたカモメたちの影。
再び彼を見た。
彼の瞳は深い闇のような色をしていたが、その奥には――どこか不穏で、でもどこか懐かしい――小さな光が宿っていた。
「……一人でここにいるわけにはいかないよ」
気づけば、そう口にしていた。
彼は俺を見上げ、かすかに笑ったような表情を見せた。
「……僕のこと、荷物になるって思ってる?」
その一言が、胸に刺さった。
そんなこと、子どもが考えるべきじゃない。
その年齢なら、本来なら……遊ぶことや、学校のことを心配しているべきなのに。
《――そんなことを気にせずに生きていける世界であってほしい。
……そう願いながら行動してきたのが、栞さんだった。ならば、俺も――》
「違うよ。それは問題じゃない。俺だって……いろんなことを乗り越えてきた。でも、今ここにいる。だから君も……前に進めばいい」
俺の言葉に、少年は静かにうなずいた。
そして俺たちは、言葉もなく並んで歩き出した。避難所の方角へ。
しばらくして、彼はふと足を止め、再び海の方を振り返った。
「……ねえ、知ってる? 海ってさ、いろんなものを飲み込むけど、忘れたりはしないんだよ」
俺も足を止めた。
「どういう意味だ?」と訊ねたが――
彼はすぐには答えなかった。
ただ目線を下げて、手の中のメダルをそっと閉じた。
小さな『カチッ』という音が、潮風の中に消えていった。
「人も……そういう存在なのかもしれないね。どんなに失っても、その一部はいつか戻ってくる。
……って、お母さんがよく言ってたんだ」
そう言って、少年はふっと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間――
喉の奥がきゅっと締めつけられた。
思い出したのは――
ある親友の姿だった。
もちろん、もっと背が高くて、よれたスーツを着ていて、肩にリュックを背負っていたけど――
……春樹。
瞬きを一つ。
……違う。彼じゃない。
でも、その佇まい。その笑い方。
すべてが、あの春樹の記憶と重なった。
むしろ――
この少年のほうが、春樹よりも大人びて見える気さえした。
俺たちはそのまま歩き続けた。
壊れた街に、少しずつ朝の気配が満ち始めていた。
鍋の音、瓦礫を運ぶ声、兵士たちの号令……
静寂は、いつの間にか日常のざわめきに変わっていた。
避難所の裏門に着くと、少年は俺を見上げた。
「ねえ……君の名前は?」
「レン……荒川レン……たぶん」
「僕は空……坂上空。……たぶんね」
くすっと笑いながら、俺の言い方を真似てみせた。
俺もつられて笑い、門を開けながら彼を先に通した。
その背中を見送りながら、ふと思った。
――きっと、今朝あの海辺に行ったのは、偶然なんかじゃなかった。
***
いつの間にか日が傾き始めていた。
太陽は雲の向こうでゆっくりと水平線へと沈んでいく。
通りは相変わらず賑やかだったが、俺の耳にはもう馴染みの音となっていた。
金属のぶつかる音、遠くから聞こえる呼び声、潮と錆の匂いを含んだ風。
避難所の脇のスペースでは、補修されたシートが干されていた。
そのそばで、栞さんが座っていた。
足を組み、小さな金属の箱を膝の上にのせて――
静かに、風の中に佇んでいた。
俺たちが戻ると、栞さんは顔を上げ、いつもの落ち着いた口調で、少しだけ皮肉っぽく言った。
「お客さん連れてきたのね」
空は少し身を縮めた。誰かに注目されることに慣れていないようだった。
俺は疲れたように笑った。
「海の近くで見つけたんだ。砂浜で寝てたみたいで…行くあてもないって。だから……」
「……正解よ。そういうのは、考える前にやるもの」
言葉は淡々としていたが、その声には確かな強さがあった。
そう言って栞さんは立ち上がり、ふと思い出したように、膝の上の箱を差し出した。
「湿った本の山の中にあったの。誰かが薪代わりに置いたものみたいだけど……見たら、あんたが気にすると思って」
受け取ってみると、思ったよりも軽かった。
蓋は歪んでいて、ところどころ錆びついている。
そっと開けると、まず鼻をついたのは古紙とカビの匂い、そしてどこか懐かしい、昔の線香のような香りだった。
中には、少し焦げたような、角が丸まった写真が一枚入っていた。
裏には、水に滲んだ文字がかすかに残っている。
慎重に取り出したその写真を見た瞬間、心臓がぎゅっと締めつけられた。
――あの寺だ。
図書館で見た本の中にあった写真と同じ場所。
そして、俺が奥多摩で死ぬ直前に見た、あの寺だ。
……だが、今回は違った。
入り口には、ぼんやりとした小さな人影が立っていた。
浴衣を着た、後ろ姿の少女――雪さん、なのか?
胸にまたあの鈍い痛みが走る。
見覚えのある、あの姿――
「それ、なに?」
空が近づき、興味深そうに尋ねた。
俺が答える前に、彼は栞さんの方を向いた。
「お姉さん、名前は?」
彼女は少し驚いたように瞬きし、それからやさしく微笑んで、彼の目線までしゃがんだ。
「栞っていうの。依姫栞よ。あなたは?」
その名字――依姫――
はっきりと耳に響いた。
どこかで聞いたような……
いや、ずっと前から、俺の中にあった名前のような気がした。
それは不思議ではなかった。
だけど、その名字には、どこか柔らかい響きがあった。
胸の奥の、触れたことのない場所に、そっと触れるような感覚だった。
――なぜ今まで気にしなかったんだろう?
一緒に時間を過ごし、作業を手伝い合い、同じ屋根の下で眠ったこともあったのに、彼女の名字について考えたことがなかった。
いや、もしかしたら以前に聞いていたのかもしれない。
でも、その時は大したことではないと思って、聞き流してしまったのか……あるいは、忘れてしまったのかもしれない。
「綺麗な名前だね。ぼくは坂上空っていうんだ」
空は、そんなことに気づかずに、さらりと言った。
その自然な言葉が、小さな沈黙を包み込んだ。
俺は数歩離れて、まだその写真を手に持ったまま、崩れかけた壁のそばにあった椅子に腰を下ろした。
夕暮れの光を集めるように、写真を傾けてじっと見つめた。
「……何かあったの?」
気がつくと、空がすぐそばまで来ていた。
俺は写真を見せながら言った。
「この寺……たぶん、行ったことがある。いや、夢かもしれない。でも……すごく大事な場所なんだ」
空は写真をじっと見つめた。
「……ママが言ってた。人の心の中には眠ってる場所があるんだって。で、それが目を覚ますときは、すごい力で目を覚ますんだって」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
まるで忘れられた歌の一節を聞いたような、懐かしさと切なさが交ざった感覚だった。
「……それを信じてるのか?」
空は肩をすくめた。表情は変わらないが、その瞳の奥には年齢に見合わない深さがあった。
「……もしかすると、場所の方が人のことを忘れてくれないのかも。たとえ人がその場所を忘れてしまっても」
その時、壁にもたれかかる気配を感じた。
「何の話?」
栞さんが、何も知らないふりをして、こちらに声をかけてきた。
けれど、きっと彼女は、ずっと俺たちを見ていたに違いない。
「……いや、ただ少し思い出そうとしてただけ」
そう言って、写真を下ろした。
「その場所のこと?」
彼女は、写真を直接見ることなく、そう尋ねた。
「……わからない。でも……何か大切なことを忘れてしまった気がする」
俺がそう答えると、空はくるりと栞さんの方へ向き直った。
「お姉さんは……前にもこんなことがあったような気がしたこと、ある?」
彼女は視線を伏せてしばらく黙ったあと、ゆっくりと空を見上げた。
夕暮れの色が空を染めはじめ、雲の端が朱く燃え出していた。
「壊れたものは、時々、余韻を残す……。そして、時には、思い出してくれる人のもとに、物が戻ってくるの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。
冗談なのか、本気なのか――彼女の言葉はいつもどこか不思議で、その意味を測りかねることが多い。
でもその一言は、風に舞う紙片のように、俺の心に引っかかって離れなかった。
「……お腹すいたー。夕飯、あるかな?」
空が大きなあくびをしながら言った。
「海に投げた石みたいに料理まで台無しにしなければ、あるかもね」
俺が言うと、栞さんが小さく笑った。
その一瞬、空気がふわりとやわらいだ気がした。
夜と冷たい風が、静かにこの壊れた街を包み込んでいく中、俺たちは静かに避難所へと戻っていった。
***
一人になってから、俺は割れた窓のそばに腰を下ろした。
沈みゆく太陽が、廃墟となったビルの影の向こうに溶けていく。
潮と金属の匂いを運ぶ冷たい風が、ガラスの隙間から勝手に部屋に入り込んでくる。
膝の上には、あの写真があった。
もう一度だけ、じっとそれを見つめた。
紙の端はまだ焦げている。でも――
もしかしたら、それはもう古い紙には見えなくなっていたのかもしれない。
変わったのは写真じゃない。
俺の方だ。
世界は壊れてしまったけれど――
それでも、いくつかのものは……帰る場所を知っている。