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第10章 『崩壊した記憶の中。』

崩れた街。記憶の底に眠る風景。

静かな足音と、言葉少なな少女の隣で、彼は『何か』を思い出しかけていた。

それは、夢か、幻か、それとも――忘れてはならない『約束』かもしれない。

静寂の中に響く鈴の音が、彼を『始まりの場所』へと導く。

荒川レン(あらかわレン)  (ゆき)  (しおり)


広島県・呉市。

灰色の雲が空を覆い、太陽の光は古びた布のように鈍く地上へと漏れていた。

昨夜は小雨が降ったらしく、空気にはまだ湿った土と灰の匂いが漂っていた。

冷気は容赦なく骨に染み、特に夜になると、皮膚のすき間から迷い込んでくるようだった。

避難所の廊下を歩くたびに、床の板がきしんだ。

その音を背に、俺は栞さんのあとを黙ってついて行った。

彼女は肩にかけた古い袋と、首に巻いた布切れを揺らしながら歩いていた。

俺はというと、借り物のくたびれた上着に、少しサイズの合わない靴を履いていた。

だが、それでも贅沢は言えない。この時代で生きていて、雨露をしのげる場所があるだけでも、ありがたいことだった。

誰も俺たちに『どこへ行くのか』などとは尋ねなかった。

皆、生き延びることに精一杯で、破れた毛布を繕ったり、赤茶けた湯を温めたりしていた。

「西側の倉庫に包帯と缶詰が残ってる。取りに行く」

栞さんは前を向いたまま、ぽつりと呟いた。

「そんな遠くまで?」

「街が壊れたら、何もかもが遠くなる。でも、生きるためには、歩くしかない」

それが冗談なのか、諦めの言葉なのか、俺には分からなかった。

再び沈黙が戻る。

けれど、それは不思議と居心地の悪いものではなかった。

彼女の言葉の端々、歩き方、風を切る背中――

どんなに時代や顔が変わっても、その奥に宿る『何か』は同じだった。

だから俺は確信していた。

目の前を歩くこの人は、間違いなく、あの栞さんなのだと。

外に出ると、緑色のシートが風に揺れていた。

そして、視界に広がった景色は――

痛々しいほどの現実だった。

焼け落ちた建物の骨格、半分崩れた壁、黒く焦げた柱。

垂れ下がる電線は、まるで生き物の神経のように揺れていた。

横倒しになったバスは、すでにその役目を終えた廃墟の一部でしかなかった。まるで誰かが捨てた骸のように。

地面からは枯れた木々が突き出ていた。葉も鳥の声もなく、ただそこに『在る』だけだった。

すべてが灰と埃に覆われ、まるで世界そのものが時間を止めたかのように静かだった。

街を吹き抜ける風は冷たく、そして重かった。

それは空気というより、記憶を引きずっているようなものだった。

唯一、遠くの海が打ち寄せる音だけが、この世界に『今』があることを証明していた。

俺の足取りは、いつの間にか遅くなっていた。

この風景――この空気――どこかで、知っている気がした。

いや、違う。覚えている。理由はわからないが、体の奥がそれに反応していた。

崩れかけた壁の横を通りかかったとき、視界に何かが引っかかった。

壁の片隅――

炭で描かれた、簡素な絵がそこにあった。

少女の後ろ姿。

髪に結ばれたリボン。

そして、手首にぶら下がる――小さな鈴。

俺は思わず立ち止まった。

「……どうかしたの?」

栞さんが振り返らずにそう訊ねてきた。

だが、俺は答えなかった。

その絵に近づき、指先でそっとなぞった。

乾いた粉が指に付いたが、線はまだしっかり残っていた。

まるで、つい最近描かれたかのように。

この輪郭――この後ろ姿――

夢の中で、何度も見た気がする。

もしかすると、それは夢ではなく、どこか遠い記憶なのかもしれない。

胸の奥が苦しくなった。喉が詰まるような感覚。

「……この絵、誰が描いたの?」

俺はようやく口を開き、振り返って栞さんに問いかけた。

「ここに来たときからあったよ。時々…少しずつ変わってるように見える時がある」

「変わるって……どういうこと?」

「ただの気のせいかもしれない。でも、ここでは毎日が同じようでいて、微妙に違う。繰り返しの中に歪みがあって、それが少しずつ形を変えるような……」

その言葉が、心に鋭く刺さった。

栞さんも――

もしかしたら、何かを感じ取っているのかもしれない。

それが言葉にならなくても。

俺たちは再び歩き出した。

道の先、壊れた石畳のあいだから、小さな緑の芽が顔を出していた。

それは、この世界に残されたわずかな希望のようで――

あるいは、過去と未来をつなぐ細い糸のように見えた。

その矛盾――『廃墟にしがみつく命』――

俺は、思わず拳を握りしめていた。

理由はわからない。ただ、あの芽に…自分を重ねていたのかもしれない。

少し先には、傾いた電柱があり、その先にぼろぼろになった広告の垂れ幕がかかっていた。

色褪せた布には、消えかけた文字がこう綴られていた。

『ようこそ、ここは―』

その先の言葉は、もはや読めなかった。

だが、意味なんてもうなかったのかもしれない。

この世界は、すでに火と沈黙によって書き換えられていた。

ようやく、かつて工具店だったと思われる建物の前に辿り着いた。

栞さんは肩の鞄から小さな鍵を取り出し、錆びた鉄の扉に差し込んだ。

ガタン、と重たい音を立てながら、扉がゆっくりと開いた。

中には、古い油と埃と…閉じ込められた記憶の匂いが充満していた。

栞さんが棚の奥をごそごそと探る間、俺は一枚の紙に引き寄せられた。

窓を覆っていた新聞の切れ端のひとつが剥がれかけていた。

そっと指先でそれを外し、外の景色を覗いた。

そこに見えたのは――

いつも夜に見上げていた、あの海。

けれど今日の海は、まるで息を潜めているようだった。

灰色の霧がすべてを包み込み、水平線すらほとんど見えない。

海面に波はなく、ただ沈黙の中に浮かぶアメリカの軍艦だけが、ゆっくりと揺れていた。

それを見つめながら、俺は確かに感じていた。

あの先に、何かがある――

いや、『何かが俺を待っている』という確信。

それが何なのかは、まだ言葉にならなかった。

でも胸の奥で、確かに何かが熱を持っていた。

悲しみでもない。恐怖でもない。

それは――懐かしさ。

まるでこの場所が、俺の記憶よりも先に、俺を知っていたかのような感覚。

ふと気づくと、栞さんが荷物をまとめ終え、こちらを一瞬だけ見た。

「……感じたでしょ?」

唐突に、そう言われた。

「え…何を?」

俺が戸惑って訊き返すと、彼女はほんの僅かに口元を緩めた。

「――ううん、何でもない」

それだけ言うと、彼女は再び視線を荷物に戻し、背を向けた。

でも俺の中で、あの言葉はずっと残っていた。

『感じたでしょ?』

何を――俺は、感じたんだろう?

栞さんはわずかに微笑んだ。

「ううん、なんでもないよ……時々、人より場所のほうが、記憶をよく覚えているものなの」

どう返せばいいのかわからなかった。

彼女はいつも、どこか謎めいた調子で話す。

ドアを閉めたあと、僕はもう一度だけ、あの鈴の絵を振り返って見た。

歩き出したが、その絵は脳裏から消えることはなかった。

***

帰り道は同じはずだった。

でも、同じには感じられなかった。

雲の切れ間から差し込む昼の光が、ひび割れたコンクリートに細長い影を落としていたせいか。

それとも、肌にまとわりつくような、古びた埃のような沈黙のせいか。

記憶を抱えた沈黙――そう感じた。

栞さんは僕の隣を歩いていた。今回は急ぐ様子もなく、肩から古い布の鞄を下げ、反対の手には錆びた小さな金属の箱を持っていた。

行きとは違って、言葉はなかった。

ただ、僕らの足音だけが、この静寂を切り裂いていた。

途中、アスファルトがめくれあがり、傷口のようになっている路地を通った。

崩れた壁の隙間に、オレンジ色の菊の花がいくつか咲いていた。

まだ小さく、咲ききっていなかったが、あの荒れた土地で懸命に根を張っていた。

栞さんは足を止めた。

「……花は、自分が生まれた場所を覚えてるっていうよ。だから、全部失われても、また咲こうとするんだって」

ほとんど独り言のようだった。

横目で彼女を見た。

それが花の話だったのか、他の何かの比喩だったのかはわからない。

だけど、その言葉は僕の胸を強く締めつけた。

「場所も……覚えてると思う?」

自分でもなぜそんなことを聞いたのか、よくわからなかった。

彼女は歩き出しながら、答えた。

「うん。壁は、人よりも多くの秘密を抱えてる。時々、人よりもよく聞いてくれることもあるよ」

古びた自転車が、半壊した修理工場の屋根からぶら下がっていた。

まるで、時間に忘れ去られたように。

そして海から、塩の匂いを含んだ風が、僕らを包み込んだ。

「……この場所、見覚えがある気がする」

思わず、そう口にしていた。

「来たことがあるの?」

栞さんが尋ねた。

「わからない……でも、どこかでこの通りを歩いた気がする。違う形で、違う時代で」

栞さんはすぐには答えず、ただ遠くの灰色の地平線を見つめていた。

そして少し間を置いてから、静かに聞いた。

「他に、何か思い出した?」

僕は少し迷ったが、うなずいた。

「ある女の子が……いつも現れる。夢の中とか、目覚める直前とか。彼女はいつも、何かを待ってるみたいな顔をしてる。誰かを待ってるのかもしれない」

自分の言葉が重く感じた。

なぜそれを彼女に話しているのか、自分でもよくわからなかった。

ただ、彼女の存在が、僕を一人に感じさせなかったからだと思う。

栞さんは歩くペースを変えることなく、そのまま尋ねた。

「その女の子は……どんな子?」

「顔は変わる。だけど、必ずわかるんだ。雨に濡れている時もあれば、灰にまみれている時もある。でも、その目だけは……毎回、僕を呼んでる気がする」

栞さんは何も言わなかった。

「手を伸ばせば届きそうなのに……いつも消えてしまう。何も残さずに。たまに、自分の妄想なんじゃないかって思うけど、そうじゃないって信じてる。

……僕は、狂ってるわけじゃない」

すると彼女は初めて――僕がこの時代に目覚めて以来、初めて少しだけ……悲しそうな目をした。

そして、低く静かな声でこう言った。

「人ってね、時々……出会う前に、記憶の中に現れることがあるの。それと同じで、理由もわからないまま去ってしまうことも」

僕は何かを言いかけたが、言葉が喉で詰まった。

その時、風が瓦礫の間を吹き抜けて、一枚の新聞紙が足元に絡まり、それから空へと舞い上がった。

栞さんは、崩れかけの門の下をくぐりながら、ふと足を止めた。

そして、背中を向けたまま、静かに言った。

「……もしまた彼女に会えたら、何を待っているのか聞いてみて」

「もし、答えられなかったら……?」

「……だったら、聞いて。沈黙も、時には語るのよ」

その言葉のあと、僕たちは再び歩き出した。

遠くに、かすんだ灰と埃の向こうに、避難所の輪郭が見えてきた。

だが、さっきとは何かが違った。

まるでこの街が、僕だけに秘密を打ち明けてくれたような……

あるいは、この廃墟が、少しずつ僕自身の姿と重なり始めたような気がした。

*****


空が赤く染まり始めた頃、僕たちは避難所の裏手に出た。

栞さんは、かつて町内の公園だった場所を通る近道を指差した。

錆びたベンチ、歪んだブランコ、草に覆われた噴水。

すべてが灰と埃に覆われていた――あの爆撃で焼け落ちた街から降った灰だった。

「昔は、ここで子どもたちが遊んでたのよ」

栞さんは僕を見ずに、ぽつりとつぶやいた。

「そうだろうね……」僕も、誰に言うでもなくそう返した。

その一角の空気は、他の場所よりも重く感じられた。

倒れた木々や壊れた遊具が、まだどこかに残る笑い声の記憶を抱えているようだった。

僕はふと栞さんから離れ、公園の中央に残された鉄の柱に近づいた。

かつてブランコを支えていたものらしい。

そして、その柱に手を触れた瞬間――

世界が、止まった。

栞さんの足音も、風の音も、瓦礫の軋む音も……何も聞こえなくなった。

まるで、時間そのものが息を吸い込んだまま、吐くのを忘れてしまったような沈黙だった。

背筋に冷たいものが走る。

ゆっくりと振り向いた僕の視界に、彼女の姿があった。

――雪さん。

朽ちた遊具のアーチの下、裸足のまま、ひび割れた地面に立っていた。

今度は、あの灰まみれの幼い少女ではなかった。

髪は高い位置で編まれ、青いリボンで結ばれている。

身にまとっていたのは薄手の浴衣。裾は所々が汚れていたが、それでもどこか美しく見えた。

その表情は穏やかで静かだった。

だが――その瞳は……

その瞳には、まるで――

大切な何かを忘れようとしている者に向けるような、静かな哀しみが宿っていた。

「……お待ちしています」

彼女はそう言った。声を張ることもなく――なのに、まるですぐ目の前で囁かれたかのようにはっきりと聞こえた。

「……あの場所で。すべてが始まる、あの寺で」

その瞬間、風を切るように、鈴の音が響いた。

チリン……チリン……

前へ進もうとした。けれど、身体はまるで他人のもののように動かなかった。

言葉をかける前に、強い風が吹いた。

落ち葉が舞い上がり、埃が渦を巻いた。

――そして、風が収まった時には、雪さんの姿は消えていた。

まばたきを一つ。

すると、世界は何事もなかったように動き出した。

古びた鉄のきしみ、遠くで鳴く鳥の声、そして背後から近づいてくる栞さんの足音――

「……大丈夫?」

いつも通りの声。

ゆっくりと振り返った。

「……見えなかったの? そこに、女の子が……彼女が、『寺で待ってる』って……」

栞さんは少しだけ眉を上げたが、どこかとぼけた表情を見せただけだった。

「何の話?」

「さっきまで、ここにいたんだ。青いリボンの……彼女は……」

視線を瓦礫の隙間に向けながら、栞さんは小さく息をついた。

「この辺には寺がたくさんあるし……幽霊もね。廃墟に見えるものが、すべて真実とは限らない。それに、今はお寺巡りをする時間なんて、ないわ」

それだけを言って、栞さんは黙った。

僕はそれ以上、何も言えなかった。

ひび割れたベンチに腰を下ろし、顔を両手で覆った。

冷たい手のひら。その中に――何か、触れた。

そっと開くと、そこにあったのは――白い菊の花びら。小さくて繊細な、ひとひら。

埃も灰もついていない、まるで誰かが手の中に置いていったかのような純白。

――かつて見た、あの百合の花を思い出させる色だった。

僕はその花びらをそっと握りしめた。

胸の奥に、かすかなデジャヴが忍び込んできた。

現実だったのか、疲れからくる幻だったのかはわからない。

けれど、耳の奥ではまだ――

チリン……チリン……

あの鈴の音が鳴り続けていた。

そして沈みゆく太陽が壊れた屋根の向こうへ隠れていくのを見つめながら、僕は心の中でつぶやいた。

《あと何回、『真実のかけら』だけを見せられるんだろう……。なぜ、すべてを教えてくれないんだ……?》


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