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エピローグ①:『目覚めの、その向こうで――』

荒川レン(あらかわレン)  (しおり) 呉市(くれ・し)  広島(ひろしま)


1945年・秋。

広島県呉市。

目を開けるだけのことが、こんなにも難しいとは思わなかった。

最初に見えたのは、光ではなかった。

煙だった。

ひび割れた天井、折れた梁――その隙間から見える、どこまでも沈んだ秋の空。

空気は、古い埃と薬の匂い、そしてもうひとつ……

灰? 酸化した鉄の匂い?

ここは、僕の知っている世界じゃない。

この街も、この時代も、すべてが異質だった。

まばたきをする。

指を動かそうとするが、全身が泥の中を何キロも引きずられたように痛んだ。

腕には包帯。唇はひび割れ、喉は焼けた紙のように乾いている。

混乱の中、誰かの影が入口を横切った。

「――ああ……目が覚めたのね」

柔らかくて、でも聞き覚えのある声だった。

顔を向けると、そこにいたのは――

《……栞さん?》

信じられなかった。彼女だった。

だけど、どこか違う。

彼女は骨の色をした質素なワンピースに、つぎはぎのあるエプロンを身に着けていた。

髪は実用的にまとめられていて、前に見たあの洗練された印象とは異なる。

でも、その懐かしさに胸が詰まるような面差し――それだけは、間違いなかった。

手にはインクの跡や、小さな火傷の跡があった。

まるで、本と炭の世界にずっといたように。

僕は彼女を見つめるしかなかった。

「……栞さん」

その言葉に、彼女は眉をひそめた。

「……私たち、どこかで会ったかしら?」

息が詰まりそうになった。

「君は……栞さん、でしょ?」

彼女は少し首を傾げ、警戒するように答えた。

「どうして、私の名前を知ってるの? 誰かに聞いたの? 避難所で?」

言葉が出なかった。

何を言っても、馬鹿げているように思えた。

たとえば――

『君と、いろんな時代、いろんな場所で一緒にいた記憶があるんだ』とか、

そんなことを言えば、どう思われるだろうか。

「……夢で見たのかもしれない」

そう呟くと、彼女はしばらく黙ったまま、僕が嘘をついているのか、それともただ混乱しているだけなのかを見極めるような目でこちらを見つめた。

「この二日間、ずっと高熱があったのよ。名前をいくつも口走っていたわ。その中に『栞さん』ってのがあったの。だから、頭の中で聞いただけかもしれない。正直、私にも分からないわ」

その口調には笑みも同情もなかった。ただ静かだった。

「……ここは、どこ?」と尋ねると、

彼女は少しだけ視線を逸らし、それから答えた。

「呉市。郊外よ。もともとは小学校だったけど、今は住む場所のない人たちのための即席の避難所になってるわ。君は川のそばで倒れていたの。漁師さんが見つけて、ここまで運んできてくれたのよ。その人の話だと、君は『東京』という言葉を何度も口にしていたらしいわ。でも、意識が戻らなかったから、本当にそこから来たのかどうか、まだ誰にも分からないの」

「……どこから来たのか、覚えていない」

そう言うと、彼女はどこか懐かしいほど穏やかな表情で僕を見つめ返した。

「……頭を打ってるから、記憶喪失なのかもしれないわね。時が経てば思い出せるかもしれないし……でも、もし思い出せなければ――

『自由の中に閉じ込められた鳥』のようなものになるわね」

まただ。

栞さんは、時々こうして、よく分からない言葉を選ぶ。

でも、それが不思議と胸に響く。

僕は、思わず笑ってしまった。

「……ふふ。笑えるなんて、いい兆しね。この状況で微笑める人なんて、そうそういないもの」

「呉市、か……」

僕の頭は、まだ混乱の霧の中にあったが、その名前に反応するように、脳裏にいくつかの記憶が閃いた。

――空を覆う戦闘機。

――爆撃で崩れる建物。

――兵士たちの悲鳴。

――焼け焦げた街並み。

「……ちょっと待って。今は……何年?」

その問いに、彼女は静かに答えた。

「――1945年」

「まさか……戦時中……? 一体どういうことなんだ……?」

頭の中は混乱でいっぱいだった。

理解が追いつかず、恐怖が胸を締めつけた。

戦争が終わったのは、ほんの数週間前のこと。

この街は、まだ焼け跡の煙をくすぶらせたままだった。

僕は、右手側の小さな窓に目をやった。

葉を失った木々、雑草に覆われた乾いた地面、黒く焦げた廃墟、錆びた煙突、崩れた屋根……

その向こうには――

海があった。

暗く、静かで、どこまでも広がっていた。

まるで、すべてを忘れようとしているかのように。

秋風が、湿った土と煤、そして早すぎる冬の匂いを運んできた。

ここにどうやって来たのか、なぜ来たのかは分からなかった。

だが――

これが初めてではないような気がした。

「……デジャヴか?」

僕がそう呟いたとき、

彼女がふいに尋ねた。

「君の名前は?」

答えるのに少し時間がかかった。

「荒川……レン、レン……たぶん」

「荒川……レン……」

その名を、彼女は小さく繰り返した。

まるで音の重さを確かめるように。

そして、ゆっくりとうなずいた。

それ以上は、何も言わなかった。

僕は彼女をじっと見つめていた。

《どこで出会ったか分からない。だけど、君のことを覚えてる。君の声に、何度も救われた気がする。でも、今の君はあの時の君じゃない。この時代も、場所も、きっと違う。》

そんな想いが喉元までこみ上げた。

けれど、言葉にはならなかった。

彼女は、取っ手のない素焼きのカップを手に取り、それを僕に差し出した。

その手の動き――

カップをくるりと回す仕草――

まるで、『あの栞さん』とまったく同じだった。

「乾燥した根を煮出しただけの白湯よ。美味しくはないけれど……温まるわ」

僕は一口ずつ、ゆっくりと飲んだ。

コーヒーじゃなかった。

けれど、喉を通るその温もりに――

失くしたはずの何かを取り戻したような気がした。

そして、思考の奥深くに、ひとつの考えが浮かんだ。

《――僕は、また死んだのか。それなのに、ここにいる。違う場所、違う時代に。これは、終わりなきループなのか……それとも……やっと始まった『道』なのか。》


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