第0章 『あの交差点の彼女』
東京 — 新宿区 11月18日 22時08分
雨が降っていた――
嵐ではない。静かに、じわじわと染み込んでくる、あのしつこい小雨。
ネオンの光が濡れたアスファルトに滲んで、汚れた水たまりに溶けていくようだった。
靖国通りの交差点にいた。新宿駅の東口、ちょうどその正面だ。交差点はいつものように人であふれかえっていた。足早に歩く人々、アイドリング状態のタクシーが列をなし、赤信号の灯りが透明なビニール傘に反射して、まるで血の雫のようだった。
どうしてそこにいたのか、自分でもわからなかった。
頭が痛かった。耳鳴りがして、遠くで絶え間なく響いているようだった。
手が震え、指先は冷たくなっていた。
そして――何かが起きる、そんな予感があった。まるで、死がすぐそこまで来ているかのように。
そして、彼女が見えた――
横断歩道の向こう側。歩行者用信号の下、人混みの中に立っていた。
動かずに、まるでこの世界に属していないかのように。
ひとりの少女が。
年は、たぶん僕と同じくらい。十七か、二十か――はっきりとはわからなかった。
髪は長く、雨に濡れて肌に貼りついていた。
光の下では青みがかって見えるほど、深い黒。
その顔は青白く、瞳は暗くて、底が見えない。まるで何百年もの冬を閉じ込めているかのようだった。
膝まである白いコートを着ていて、厚手のウールに金色のボタンが首元まできちんと留められていた。
傘はさしていなかったが、濡れることを気にしている様子もなかった。
それに――彼女は、僕を見つめていた。
まるで僕のことを知っているかのように。僕が何者なのか、すべてわかっているかのように――
……なのに、僕自身ですら、自分のことがわからなかった。
彼女は微笑んだ――
ほんのわずかに唇が動いただけ。けれど、それは確かに僕に向けられたものだった。
その微笑みを言葉にするなら、「悲しくて、美しい」。
まるで、何かが起こる前に……僕に別れを告げているかのようだった。
信号が青に変わっても、視線は彼女から離れなかった。足は勝手に動き、僕はそのまま横断歩道を渡った。
群衆は僕と一緒に歩いていた。けれど、時間の流れはゆっくりになっていく。
一歩一歩が、まるで濁った水の中を進むように重たくて――
音はすべて歪んで聞こえた。遠くの笑い声、街のざわめき、ネオンの軋むような音。
そして――鋭い音が鳴った。
赤信号を無視して、トラックが曲がってきた――速すぎる……。
あの音は、濡れた路面をタイヤが滑る摩擦音だった。あのスピードでは、避けられるはずがなかった。
目の前が、真っ白な光に包まれた―― そのあと、すべてが静かになった。
そして――目を覚ました。喉の奥に、かすれた叫びが引っかかっていた。
真っ白な天井が、まるで白紙のノートのように目に映った。
全身が汗で濡れ、シーツは濡れた包帯のように肌に張りついていた。
喉元で、自分の鼓動が脈打っているのがわかった。
時計の針は、午前七時四十二分を静かに示していた。
雨はもう止んでいて、窓から射し込む朝日が、磨かれた木の床を淡いオレンジ色に染めていた。
窓の外の東京は、まるで何事もなかったかのように静かだった。
ベッドの端に腰を下ろした。
体はいつも通りだった。でも――部屋は、違っていた。
デザイン家具に、整頓された机。ハンガーにはスーツがかかっていて、ノートパソコンはスリープ状態のまま静かに光っていた。
そして壁には、カレンダーが一枚――十一月十八日。……去年の、日付だった。
「まさか……時間を遡ったのか?」
新宿は――まだそこにあった。でも、どこか違っていた。
新しい広告、改装されたビル、そして住友ビルの巨大スクリーンには、上品な女性が情熱的に語っていた。
「国境という考えは時代遅れです。日本こそが、完全統合の時代を牽引すべきなのです。未来は、すでに始まっています」
天岸ケイコ――画面の文字がそう示していた。
«日韓連合・初代首相»という肩書きとともに。
「うーん… 誰だ、それ…? 日韓連合? は? 何それ、マジで……」
住友ビルの巨大スクリーンに映った映像を見て、半ば呆れたように笑ったその瞬間—— 何気なくビルの下の通りに視線を落とすと、見えたんだ。
朝の淡い光の中、通りの角に静かに立っていた。
昨夜、交差点で見た——あの少女だった。
髪はそのまま、白いコートも変わらず。
まるであの時から、一秒たりとも世界が動いていないかのように——
彼女はまた、そこに立っていた。
そして僕を見ていた。昨夜と同じ微笑みで。
あの悲しさと優しさが、胸に刺さるような笑顔で。