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パラダイス・ロスト・シティ

作者: 青柳伝草

 街には小雨が振り続き、肌寒い日だった。

 オフィスビルが立ち並ぶ中、或るビルの一階に、小さなカフェがあった。

 若い女性が一人、暖かいカフェラテを持って、テーブル席に座った。

 宗教社会学者の本多智恵(ほんだちえ)は、出先から戻るところで、これから大学に着くまでに、資料をまとめ直さないといけなかった。テーブルにそっとノートパソコンを置いた。

 だが、いざ作業を始めようとしたところで、身を震わせた。室内は暖かいはずなのに、寒気がして作業に集中できなかった。

 視線をすっと落とした。

 頬のこけた青白い顔の男が、店の離れたところで立っていた。ボロボロのスーツを着て、じっとこちらを見ていた。

 店員も他の客も、誰もその男を気にしていなかった。

 本多には分かっていた。自分にしか見えていないことを。

 目を合わせないように、俯いたまま、男が消えるのを待っていた。

 そのとき、突然、テーブル席の目の前に、一人の女が座った。長い前髪を垂らし、コートのポケットに手を入れたまま、じっと彼女を見つめた。

「え? な? なんですか?」

 見たところ、他の席が空いていない訳でもなかった。

「あなた、やっかいなもんに憑かれてるね」

「なんのことですか?」

 なんのことを言っているのかは、すぐに分かったが、ただ恐ろしくて知らないふりをした。

「まあ、いいから。一応自己紹介」

 ポケットから名刺を取り出した。そこには、会社名も肩書も何もなく、ただ名前と携帯電話の番号だけが書いてあった。

冴木紗代(さえきさよ)。よろしくね」

「その……冴木さん……なんの用ですか?」

「困ってるんじゃなかなあ、と思って」

 そう言うと、ちらりと目線をスーツの男にやった。

「見えてるんですか?」

「頬のこけた青白い顔の中年男性。グレーのスーツを着てる」

「……」

「いつから?」

「二日前、電車が人身事故で止まったことがって……どうも、それ以来……」

「運の悪い巡り合わせね。気に入られちゃったか」

「……どうにかなりませんか?」

「実は、それが仕事なの」

 冴木は、少し微笑んだ。

「あたしは、分かり易く言えば霊媒師。報酬を貰って、ああいうのを祓う仕事。それだけ。後は何もなし。どうする? 依頼する?」

「あの……報酬と言いますと?」

「そうね。あの感じだと、まあ、十万」

「十万……」

 若い本多にとっては、痛手だった。

「これはビジネスだから。無理強いはしないよ」

「……」

 冴木は外を眺めた。厚い雲に覆われた薄暗い街。街路樹に冷たい雨が降り注いていた。

「……分かりました。お願いします」

「じゃあ、上手くいったら、後でここに振込お願い。信用してるからね」

 冴木は、もう一枚名刺を渡した。こちらには、振込先が記載されていた。

「上手くいかなかったら?」

「そのときは、お代はとらない。明瞭会計。でも、大丈夫。あたし、強いから」

「今すぐですか?」

「もちろん。早いほうがいいでしょ」

「私は何をしたらいいですか?」

「嫌だと思うけど、あいつと目を合わせて」

「え」

 激しく動揺した。視界に入るだけでおぞましいのに。体が小刻みに震えた。

「出来る?」

 冴木は、無表情で言った。

「出来なければ、他の方法を考えるけど」

「いえ、向き合います」

 正面に眼を据えた。灰色の男がいた。目が合った。全身に鳥肌が立った。灰色の男は、目が合うのを確認したように、滑るようにゆっくり近付いてきた。思わず体が逃げ腰になった。

「信じて。そのまま、そのまま」

 冴木は顔を反らし、何も気が付いていない振りをしていた。

 灰色の男は、ゆっくり近付いていたが、突然すぐ目の前まで移動してきた。血まみれの顔が初めて見えた。彼女は、あまりの衝撃に呼吸が止まった。

 と、同時に冴木がすばやく動いた。

蘇婆訶(そわか)

 と短く呟くと、何か粉を灰色の男に浴びせた。男は苦悶の表情を浮かべ、何も聞こえなかったが、大きな叫び声を上げているようだった。

 男の体が徐々に解けてきたが、それでも、這いつくばって近付いてきた。

「意外としぶといわね。蘇婆訶!」

 冴木は、再び白い粉を浴びせた。

 男の体はみるみる解け、蒸発するように消えていった。

「ふぅ」

 冴木は溜息をついた。

「あ、あの、もう大丈夫ですか? あれは幽霊ですか? 成仏したのですか?」

「ああいうのを幽霊というのか、あたしには良く分からないけど。成仏と言えるのかな。天国に昇ったのか、地獄に落ちたのか。どこに行ったのかは、正確には分からない。ただ、この世界から消えたのは間違いない」

「何を使ったんですか?」

「塩よ。一晩たっぷり念を込めた塩」

「私にも出来ますか?」

 真剣な顔で聞いてきた。

 以前から本多は視えることがあり、何度かこういった場面には悩まされてきた。

「どういうわけか、あたしには特別な力があるの。念を込めるのは難しい。誰でも出来るかどうか。でも塩を浴びせるのは、それだけで効果がある可能性がある。試してみるのはいいかも」

「……はい。ありがとうございます」

「でも駄目だったら。そのときは、いつでも、電話してね。これが仕事だから」

 冴木はそう言うと、微笑みを浮かべた。

 本多は目を丸くして頷いた。


 雨が振り続く夜、大きなエントランスのある、街中心部の立派なマンションの前に、パトカーが止まっていた。

 また別のパトカーがゆっくり停まった。中から、くすんだコートを着て、薄くなりかけた頭髪と暗い目の男が降りた。

 警部、宮崎友治(みやざきともじ)だった。

 一人の警官が気を利かせて、傘を差し出した。

「ああ。いいよ。どうも」

 そいいうと、宮崎は雨の中、マンションのエントランスに小走りで向かった。別に濡れても、どうでもよかった。

 マンションに入ると、軽く露をはらい、エレベーターに乗った。最上階、つまり、一番いい部屋というわけだ。

 自分の住んでいる安アパートとは、比べるのもバカバカしかった。

 エレベーターを降りると、何人かの警官を右往左往していた。まだ事件と決まった訳でもないのに、これだけ人がいるのは、訳があった。

「ちょっとごめんね」

 宮崎は手刀を切って、現場の部屋に向かった。

 中は、玄関を抜けると、広々としたリビングが広がり、部屋にマッチしたクールな家具や、絵画や置物など、無駄に多いとも思える装飾品が並んでいた。

 その飾られたリビングの、ほぼ中央に、ジャージ姿の男が出入口に頭を向けて倒れていた。宮崎は軽く手を合わせると、しゃがみ込み、顔を覗きこんだ。

「こういう最後になるとはな」

 苦々しい顔でゆっくり立ち上がり、辺りを見渡した。

「筒井君、ちょっと」

 パリっとしたスーツ姿の若い男、筒井に声をかけた。

「あ、警部、お疲れ様です」

「遅れてごめん。申し訳ないけど、状況を説明してくれないか」

「はい。ご遺体は、萩原……」

「それは、いい」

 宮崎も、ここにいる全員も、この男、萩原を知っていた。

 この数か月、CO2排出権投資詐欺の被害相談が数件出ていた。より調べていくと、被害は数十件に及び、被害総額は億を超え、中には全財産を無くした高齢者もいた。その詐欺グループの元締めが、この萩原だった。

 しかし、厄介な契約な為、なかなか詐欺の決定的な立証することが出来ず、証拠を固めていた。

 やがてマスコミも、この件を知ることとなり、一部のメディアが取り上げだした。そうなると一部の人々が、何もしない警察を批判した。逆に、萩原は慎重になり、証拠の隠滅に動き出していた。警察は焦らずにはいられなかった。

 その矢先のことだったのだ。

「……そうですね。まず、発見された経緯ですが、連絡が取れなくなった社員が不信に思って、こちらのマンションの大家さんと相談し、合鍵で一緒に中に入ったところ、この状況だったそうです」

「その二人は、信頼できそうか?」

「社員の方は、なんとも言えませんが、大家さんは、萩原が……萩原さんが何者かも知らないようですし、言葉を信じるなら、二人は初対面だそうです。それと……」

 筒井は慎重にジャージの袖をたくしあげた。

「死斑が濃いですよね。検視してみないと厳密には分からないですが、おそらく死後十時間以上は経ってます。二人が発見して通報したのは、およそ二時間前。そのときに何かあった、とは考えにくいです」

「そうか……どうも、いかんな。この男の顔を見てると、つい殺人だと決めつけてしまう。最初に聞くべきだったけど、死因は分かるか?」

「はっきり言って不明です。こうやって見ると、目立った外傷はありません。嘔吐の痕跡もないですから、毒物もどうだか。あとは、検視と司法解剖にお任せするしかありません」

「なるほど。まだ殺しかどうか、分からんな」

「もう一つ。部屋の状況です。窓はすべてロックしてあり、ドアには、鍵だけではなく、チェーンまでしていました。大家さんが……いざというときの為に用意しているそうですが……チェーンクリッパーを使って室内に入ったそうです。セキュリティシステムも動作中でしたが、大家さん達が入った時以外に、反応した形跡はありません。まあ、つまり、けっこうな密室なわけです」

「筒井君の見たところ、殺しではないと?」

「そうですね。例えば、心臓発作か何か、自然死では? もちろん、現段階での見解ですが」

「こうも、あっけないものかね」

「悪い事をした天罰じゃないですか」

「天からの罰なんて、あるか?」

 宮崎は遺体から離れると、部屋の中をうろうろとした。高級そうなインテリアばかり目に付いた。

 こういう生活って、楽しいもんなのかね。こんなものが楽園なんだろうか。

 そんなことを考えながら、何気なく部屋を出た。

 入るときには気付かなかったが、部屋の前の廊下の壁に、ラッカーで描かれたと思われる、大きな落書きがあった。

 WE ARE PSYCHIC PUNKS

 と描かれていた。

「筒井君、来てくれ」

「はい」

「こりゃなんだ」

「落書きですね。いつ描かれたか分からないので、事件との関連は不明です」

「そうか……」

 宮崎は、じっと見つめていた。


 冴木紗代は自宅のマンションに戻った。畳んだ傘から、水滴が滴り落ちた。

 自分の部屋のドアノブを手にすると、鍵が掛かっていなかった。

「鍵ぐらいかけときなさいよ、物騒ね」

 冴木がドアを開けながら言った。

 中では、冴木より少し若い女、黒羽優子(くろはねまさこ)がダイニングで、椅子に座ってビールを飲んでいた。冴木が買って冷やしていたビールだ。

「現役の刑事がここにいるのよ。怖がることない」

 黒羽は、そう言ってビールに口を付けた。

「ふん。まだまだ未熟者のくせに」

「もう刑事辞めたくせに、いつまでも先輩ぶらないでよ」

「そっちこそ、いつまでも後輩の顔して、たかってこないでね」

 冴木も冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。

「今日も、お仕事してきたの?」

 黒羽が聞いた。

「うん? まあ、ね。大したことないのを一人」

「怖い怖い。関わりたくないわ」

 黒羽は肩をすくめた。

「あんたが怖いものなんてないでしょ」

「だって、幽霊に弾丸打ち込んでも効かないでしょ」

「これは別だけどね」

 冴木が上着を捲ると、胸元の拳銃フォルダーにS&W M360J SAKURAが鈍く光っていた。

 まだ現役だった頃、一部の個体に亀裂が見つかり、全品回収されたが、そのどさくさに紛れて個人的に入手したものだった。弾頭に念を込めた塩を固められ、これを受けた大概の霊は、そのまま消失する。

「ところで、そっちは? 今日はもう終わり?」

 冴木が言った。

「ええ。平凡な公務が終わったところ。毎日、退屈でね。なんか、派手に銃撃戦とかやりたいわ」

 そんな黒羽の言葉に、冴木は深い溜息をついた。

「おっと、銃撃戦はトラウマで禁句だったかな」

「別に平気だけど。忌々しい思い出ではあるけどね」

 冴木は刑事時代、大きな銃撃戦に巻き込まれ、頭部を打たれる重症を負った。弾丸はこめかみから頭蓋骨を貫通。なんと、2か月もの間昏睡状態が続いた。

 今でもこめかみに傷跡が残り、長い前髪で常に隠していた。

 恐怖は克服したが、銃撃戦に至った警察の杜撰さに嫌気がさして、警察を辞めた。

 しかし、昏睡から覚めた冴木には不思議な能力にも目覚め、その能力を高め、今では仕事にしていた。

「警察に誘っといて、そっちだけ辞めるなんてずるいと思ったけど。まあ、たまには面白いこともあるから、あたしは残ったよ」

 無邪気な顔で黒羽は笑った。黒羽に警官を勧めたのは、冴木だった。

「そうそう、面白いと言えば」

 黒羽は話を続けた。

「もしかしたら、連続殺人かもしれないの」

「連続殺人?」

「そう。今のとこと管轄が違うままで、合同捜査になってないし、ニュースにもなってないけど、不審死が続いているのよ」

「不審死は、いつだってあるでしょ」

「あたしは勝手に殺人だと思ってるんだ。連続殺人。殺人の証拠は、今のところ無いけどね」

「考え過ぎでしょ」

 冴木は興味無さそうに、ビールに口をつけた。

「それでね。ちょっと仕事中に、調べてみたの。そしたら、殺されたのは、どいつもこいつも、クソ野郎ばっかり。詐欺か詐欺まがいで、弱いものから全財産を奪ったり、弱いものに暴力ふるって、少年院を出たり入ったりしてる奴だったり。いつも弱いものが犠牲になる。あたしは、弱いものには興味ないけど。とにかく、死んでるのは、クズばっかり」

「なるほど……つまり……誰かが街のクズ掃除をしてる……かもしれないと?」

「もしかしたら。完全殺人でね」

 そう言って、また黒羽は無邪気に笑った。

「まだ殺人とも決まってないんでしょ」

「そこなんだけどねえ。これ、関係あるか分からないけど、一回、是非聞いてみたかったんだ」

 黒羽は冴木に顔を近付けた。

「……例えば、幽霊は人を殺せる?」

「可能でしょう」

 冴木は即答した。

「なるほど」

 黒羽は大きく頷いた。

「いや、まあ、ほんの、参考に、ね。幽霊は逮捕もできないし」


 翌る日。時刻はもう深夜。

 繁華街の路地裏、薄暗い通りだった。ドブネズミが目の前を横切った。

 少年補導員の金沢伸(かなざわのぶ)は、先程、何人かの少年少女に声を掛けた。いつものことなので、見知った顔もいた。やることは、帰るように促すだけ。ごく一部は、しぶしぶ従うが、だいたい帰りはしない。金沢も、強制力は持っていない。

 不本意だが、これでもいいのだ。

 普段から声を掛けることにより、より大きなトラブルを未然に防ぐ、あるいは相談にのってあげることもできる。

 また、多く話をすることにより、この辺りの少年少女の状況が詳しく分かってくる。

 若い人間は、お互いに自分を大きく見せる為、ときに行動のブレーキが効かなくなる。いい大人でも、そういった人間はいるが。

 もし金沢が、事前に情報を獲得出来れば、代わりにブレーキをかけてあげることができるかもしれない。

 とはいっても、金沢自身、まだ大学を卒業して間もない青年だった。舐められて、思うようにならないことが多かった。

 早く立派な大人になりたかった。

「上手くいかないもんだ」

 誰もいない事をいいことに、金沢は一人呟いた。

 人の心を開かせるのは難しい。金沢は、いつも親身になって相手の事を考えていた。そういった金沢を慕ってくれる人も、少ないながら、いることはいた。

 ただ、その優しさに惹かれて、近寄ってくるのは、生きた人間ばかりとは限らないようだった。

 暗い路地裏を歩く金沢の後ろに、突然にゅっと影が現れた。影はずるずると、金沢の後を追った。

 金沢は全く気付かず、疲れた足で、ゆっくりと歩いていた。

 小さかった影は、やがて大きくなり、その真ん中に二つの目がぎょろっと現れた。目は最初、空を見つめていたが、徐々に影が盛り上がり、二つのじとっとした黄色い目は、金沢を見つめた。

 影は、徐々に体をもたげ、ぬっと現れた二本の手で、がちっと地面に爪を立て、ぬらぬらとした、真っ黒な全身を露わにした。

「!」

 金沢は、かつて感じたことのないような悪寒を感じた。背後に、何かいる気配を察した。とてつもなく邪悪な、何か。

 体がこわばって動かなかった。後ろから、べたべたと粘着質な足音が聞こえた。何が起こっているのか全く分からなかった。

 金沢は、こわばって言う事のきかない体を、無理やりにねじって、後ろを振り返った。

 何も無く、ただ薄暗い路が伸びていた。

「……気のせいか」

 金沢は前を振り返った。

 そこには巨大な影が立ちはだかっていた。

 全身漆黒で、街頭のわずかな光で、ぬるぬると光っていた。形は人間だが、手足の長さや立ち居姿がなんとも歪で、一目で嫌悪を感じるもだった。

 黄色く濁った目で、じっとこちらを見つめていた。やがて、涎にまみれた真っ赤な口を開いた。

「……おまえの……おまえの……おまえの、脳みそ……脳みそ、脳みそ……喰いたい」

 地の底から響くような声で呟いた。

「あ……ああ」

 金沢は声を上げることも出来ず、震える足で、後ずさりした。

 黒い影は、詰めるように、一歩踏み出した。

 突然、雪が舞った。金沢には、一瞬そう見えた。

 黒い影は、慌てるように、道路に潜っていった。金沢を庇うように、飛び出してきたのは冴木紗代だった。冴木が塩を撒いたのだ。

「あなたは?」

 動転しながらも、金沢が聞いた。

「ホントは事前に説明するんだけど、今は事後説明にさせて」

「あいつ……あの、化け物は、消えたのか?」

「塩をかけた。でも、効いてない」

 冴木は、胸のフォルダーから拳銃S&W M360J SAKURAを取り出した。金沢は唖然として見つめた。

 その金沢の背後に黒い影が浮き出た。

 素早く冴木は、影に向かって一発撃った。乾いた銃声が響いた。影は素早く地下に消えた。

「機敏なやつだ」

 どうやら外れたらしい。冴木は銃を構えた。

 二人は辺りを見回した。再び、背後に黒い影が現れた。

 素早く冴木は撃った。今度は、続けて二発。

 今度は、横の壁に消えた。

 そちらに気を取られている隙に、続けて反対側の壁から、影が現れた。

「わ!」

 虚をつかれた金沢は、へたり込んだ。冴木は素早く反応して、今度も二発続けて打ち込んだ。

 しかし、弾丸は空しく壁にめり込むのみで、黒い影は地下に消えた。

「うざいくらい素早いやつ」

 冴木が吐き捨てた。

 しばらく、静寂が続いた。

「どこに行った?」

 金沢は周囲を警戒した。冴木も銃を構えた。

「去ったのか?」

 金沢が言った。

「いや……まだ気配がする」

 冴木はコートから予備の弾丸を取り出し、補填した。そこに隙が生じた。

 冴木の背後の壁から、真っ黒で煙のような腕が現れ、道端に落ちていた鉄パイプを拾った。

 すぐに冴木は気付いたが、何も出来ず、鉄パイプで頭を殴られた。冴木は倒れた。

「あっ、やばっ!」

 金沢は叫んだ。冴木は倒れたまま、全く動かない。

 黒い影は、再び全身を現した。

「……邪魔者……いなくなった……おまえの、脳みそ……」

 金沢は全力で逃げようと、踵を返した。しかし、駈け出そうとする一瞬早く、肩を掴まれた。

 猛烈な力で振りほどくことが出来ず、逆に引き寄せられてしまった。

 ほとんど抱きかかられる形になり、抵抗も出来なかった。

「……おまえの、脳みそ……旨そう……」

 真っ赤な口を大きく開き、もう少しで金沢の頭に迫った。

 その瞬間、乾いた銃声が三発、響いた。冴木が半身を起こして、銃を構えていた。

 弾丸は全て、黒い影の大きな赤い口に命中した。一発は、金沢の肩を掠っていた。

「うわっ」

 金沢は肩を押さえて倒れた。

 黒い影は、大口を開けたまま動きが止まった。頭から煙のような靄のようなものが、湧き出た。そして、少しずつ頭が小さくなっていった。

 やがて、全身から煙が溢れだし、身体が徐々に崩れていった。

 金沢が呆気にとられていると、まさに煙のごとく、その体の全て蒸発していった。

「もう、大丈夫。消えた。食事の前って、油断するのよ」

 冴木は、もう銃をしまい、コートのポケットに手を入れ立っていた。

「……大丈夫ですか?」

 たしか、鉄パイプで頭を殴られていた。

「あたしの頭には、チタンが埋め込められてるの」

 冴木は自分の頭を、指さした。

「……今のは?」

「霊、というより悪霊。人を襲って喰らうなんて、とんでもなく質の悪い悪霊」

「霊が人を喰うなんて……ところで……あなたは、誰ですか?」

 冴木は名刺を渡した。

「こういうことを仕事にしてるの。ここら辺はよく出るから、ちょっと巡回に来たわけ。どれ、ちょっと見せて」

 冴木は、金沢の上着を脱がせ、肩に顔を近付け傷口を診た。出血は大したことは無かった。軽く指先で撫でてみた。

「痛む?」

「……いや、それほど」

「かすり傷ね」

 冴木は上着を着せた。

「とは言っても、顧客に怪我を負わせたのは、こちらの過失。それに、事前に説明も出来ず、承諾も得られなかった。ホントだったら、今ぐらいの悪霊系の場合、それなりに頂くんだけど、今回はサービスで無料にしとくわ。こっちだって死にかけたんだから、特別よ」

「え、どういうこと?」

「言ったでしょ。あたしは、これが仕事なの」

 冴木は背中を向けて歩き出した。

「何かあったら、連絡お願いね」

 そう言って、背中を向けて手を振った。


 空は厚い雲で覆われ、月の見えない夜だった。

 宮崎友治警部は、部下の筒井や他の警官と一緒に、住宅街の一角で、物陰に潜んでいた。

 事件は、つい昨日のことだった。

 セクハラの疑惑で、辞職願いを出した、是永という、区議会議員がいた。

 まだ疑惑の段階だが、是永はたちまち、極悪人のようなイメージで報道された。

 自宅マンションの地下駐車場で、是永は襲われた。

 ナイフで刺された。急所からは外れていたので、命に別条は無かった。

 すぐに本人から、通報があった。出血はあったが、意識ははっきりしていたのだ。

 だが、犯人は目だし帽子をしていたので、顔は見れなかった。

 それでも、瞳は見えていた。背格好も覚えていた。

 それだけでも捜査は出来たが、どうやら、よほど犯人はセキュリティに疎いらしかった。

 高級マンションの地下駐車場といえば、イヤになる程、防犯カメラが取り付けられていた。

 その中の一つに、目だし帽子を脱いだ、犯人が映っていた。

 犯人の顔は、すぐに鮮明に解析し、顔認証データベースで検索された。

 データベースは、見事にヒットした。犯人はまだ二十代前半だが、傷害の前科があったのだ。

 そして、犯人の住所が、宮崎が隠れて見張っているアパートだった。隣近所の聞き込みで、事件後、帰宅していないことが分かった。

 このまま逃亡を続けるか。それも考えられたが、宮崎には、そこまで計画性があるとは思えなかった。手持ちが無くなれば、のこのこ帰ってくる。そんな予感がした。

 空振りだったとしても、まあ、よくあることなので、気にはしなかった。

「この犯人、萩原と同一犯ですかね」

 筒井が言った。

「ん? どうして、そう思う」

 宮崎が面倒くさそうに言った。

「いや、そう言ってるのは、私だけじゃないですよ。悪人を対象とした事件ですから」

「分からん。議員さんともなれば、敵も多いんじゃないか。いずれにしても、犯人は違う。手口が全く違う。がばがばだ」

「模倣犯とは考えられますね」

「それはあり得るな。社会に不満を持ってる奴が、憂さ晴らしに、行き当たりばったりで、悪そうな奴を狙ったとかな。嫌な流れだ」

「悪そうな奴にならなければ、安心です」

「分からんよ。ふとした弾みで、何が起こるか分からない。明日は、わが身だ」

「いやいや、無いです。私みたいな小物が」

「そうかもな。俺もそうだよ。俺みたいな、ちんけな人間が狙われることは無いわな」

 そう言って、宮崎は苦笑いを浮かべた。

 時間は過ぎた。

 三十代にもなると、ただ立っているだけで疲れるものだ。

「どうします? まだ待ちますか?」

 筒井が伺いを立てた。

 大して出世はしていない宮崎だが、この現場の指揮を取るのは宮崎だった。

「そうだなあ。指示を仰ぐか」

 宮崎は、無線で署に連絡しようと思った。

「いや、ちょっと待て」

 街灯に照らされて、一人の若い男が、遠くから歩いてくるのが見えた。男から見つからないように、皆に合図して、身を隠した。

 この辺りは住宅街で、人通りは少なく、特に一人歩きは少なかった。

 息を殺して、近付いてくるのを待った。

 宮崎は、ポケットから被疑者の写真を取り出した。もう何回も見ているが、改めて顔を確認した。

 そして、歩いてくる男の顔を、垣根の影からじっと見つめた。街灯の真下を歩いたとき、はっきり顔が見えた。

 職業柄、人の顔を間違えることはない。髪型は全く変わっているが、同一人物だ。

「被疑者確認。配置につけ」

 宮崎が小声で言った。準備をしていた警察官が、音を立てず走り出し、アパートの裏手に回った。

「行きますか?」

 筒井が、前のめりで言った。

「まだだ。一旦、部屋に入るのを待つ」

 宮崎が制して、歩いている男を見つめた。何処に潜んでいたのか知らないが、疲れたような足取だった。

 男はアパートに到着すると、薄暗い自分の部屋の前で立ち止まり、ポケットから鍵を取り出した。

 まだ経験の浅い筒井は、息を飲んだ。

 鍵を開けて、男が部屋に入った。

「よし、行こう」

 宮崎が走り出した。筒井も続いた。

 部屋の前に着くと、宮崎は乱暴にドアをノックした。

 静まり返っていた。そっと宮崎がドアノブを握ったが、鍵がかかっていた。

「おい。警察だっ。開けろっ」

 焦っていた筒井は、声を上げた。中から、慌てて動く気配がした。

 筒井は、ドアを蹴り破ろうと、足を上げた。

「よせよ。器物破損だ」

 筒井は振り上げた足を止めた。

 ガタガタと窓を開ける音がした。

「逃げる気ですよ」

「大丈夫」

 裏手から、バタバタと取っ組み合いをしているような音がした。

 宮崎は、ドアの前に平然と突っ立って、様子を窺っていた。

 しばらくもみ合う音がした。

「被疑者確保! 被疑者確保!」

 やがて、誰かが叫んだ。

 宮崎は、ほっと溜息を付いた。

 腕時計を見て、時間を確認し、無線で確保の連絡をした。

 すぐに、近くで待機していた覆面パトカーが駆けつけた。

 閑静な夜の住宅街は、瞬く間に騒然となった。

 男が警察官に連れてこられた。虚しく抵抗を続けていたが、がっしりと取り押さえられ、パトカーに押し込められた。

 宮崎は、一瞬男と目が合った気がした。

「もう、こんなことは、続かなければいいが……」

 一人呟いた。被疑者を乗せたパトカーが発車していった。

 別のパトカーに、筒井と乗り込もうとした。

 突然、ポケットに入れたスマホからメール着信音が響いた。

「こんな時間に」

 メールの送信者を見た。宮崎は驚いた。


 翌日の午前中。

 宮崎は、緊張の面持ちだった。警察署内の普段あまり使われていない会議室。

 座って待っているのも気が引けるので、手持ち無沙汰のまま、じっと立っていた。

「俺、なんか、しくじったかな……」

 土谷(つちや)警視正から直々の呼び出しがあったのだ。

 いい成績はあげていないかもしれないが、しくじりをおかした覚えも無かった。

 規則に反することもしていなかった。そういった度胸も器量も無かった。

 警視正なぞ、会ったこともない雲の上の存在で、まあ、何度かは見かけて敬礼ぐらいはしたが、いずれにしても簡単に話せるような存在ではなかった。

 それが、直々に会いたいと連絡がきた。しかも、内密にだということだから、穏やかではなかった。

 やがて扉が開いた。そこに立っていたのは、紛れもなく土谷警視正だった。

 宮崎なりに、いろいろと気の利いた挨拶を考えていたが、なんともなく出鼻を挫かれた気になった。入ってきたのは、土谷警視正だけでなく、三人の若い男女が促されるように入室してきたのだった。

「あ、どうも。お疲れ様です」

 なんだか、冴えない言葉を発した。

 いつものことではあったが。

 土谷警視正は、恰幅の良い体格で、柔和な笑顔を見せた。宮崎のよれよれのスーツと対照的に、洗練されたスーツを着こなしていた。

「忙しいところ、申し訳ない。さ、皆も入って」

 三人の男女は、いぶかしそうな顔つきで入ってきた。

「ま、適当に座ってくれ」

 土谷警視正が促した。長方形の会議室の中、三人は距離を取ってバラバラに座った。宮崎も適当な場所に座った。土谷警視正は、普通に上座に座った。

「昨夜の逮捕、夜に大変だったな」

 土谷が宮崎を労った。

「犯人は何か言ったか?」

「はい。マスコミに叩かれているのを見て、突発的に犯行に思い至ったそうです。単独犯でして、他の事件との関連も無いようです」

「そうか……」

 土谷は一瞬、残念そうな顔をしたが、すぐに気を取り直した。

「さて、自己紹介……というのも、なんだかやりにくいだろうから、私から、簡単に皆を紹介しよう。ごく簡単に」

 土谷は全員を見回した。

「まず私は、土谷。各自には一度以上会っているので、まあ、顔ぐらいは覚えているだろう。そして、身内からいくと、あちらが宮崎警部」

 宮崎は軽く頭を下げた。男女三人は、どう見ても自分より年下で、あまり丁寧に会釈するのも憚られた。

「ここの署でも、優秀な警部だ。是非信頼してくれ。それから、そちらの男性」

 促されるように、男は軽く会釈した。無精ひげで、前髪を垂らした、不機嫌そうな顔だった。

谷本晃(たにもとあきら)さん。フリーでライターをしてらっしゃる。主にアンダーグラウンド……犯罪系を取り扱ってらっしゃる」

 谷本は苦笑いを浮かべた。

「そして、こちらが、金沢伸さん」

 金沢は、姿勢を正して、きっちり頭を下げた。

「青少年補導員をやってらっしゃる。なかなか出来ることじゃない。とても、殊勝なお方だ。そして、紅一点……そういう言い方は、もう古いかな。本多智恵さん」

 本多は、戸惑い顔で頭を下げた。

「まだ若いのに、学者さんでいらっしゃる。宗教社会学、で、合ってますかね?」

「え、ええ。そうです」

「なにか、難しそうですな。実に頼りになる。いや、皆さん、頼りになりますね」

 土谷は、一同を見回して、満足そうに微笑んだ。

「お世辞はいいから、本題に入ってもらえますか。どうして、我々が集められたのか」

 谷本がだるそうな顔で言った。

「そうだね、まず認識してほしいのは、これは、警察内部でも極秘の集まりだということ。プロジェクトといってもいいかな。決して外部に漏らさないで欲しい」

 一同は、何も言わず顔を見合わせた。

「……ことの発端は、四か月前だ。一人の男が死んだ。彼は、まあ、知っているかもしれないが、街の中小企業を乗っ取る、いわゆるハゲタカだった。私がこんな言葉使っちゃまずいかもしれんが。小さな企業を乗っ取り、自分の周りの人間を送り込み、大量に人員を解雇する。それを繰り返した。痛ましい話だが、職を失って自殺に追い込まれた方もいる。しかし、その問題の彼は、何も法律に反していない。残念ではあるけども」

 土谷は、ちらりと宮崎の顔を見た。宮崎は眠たそうな顔をしていた。

「そんな彼が死んだ。直接の死因は心室細動(しんしつさいどう)、いわゆる心臓麻痺だ。基礎疾患の無い彼が、どうして心臓麻痺を起こしたのかは、今もって分からない。しかし、詳細は後で資料を読んでもらうとして、現場は完全に密室だった。状況を鑑みて、自然死として扱われるはず……だった。ところが、その後、不可解な心臓麻痺による死亡が、この四か月で相次いだ。そのうちの一件は、宮崎警部が担当している萩原氏の死亡事故」

 宮崎は眉を動かした。

「死亡した人間は、まあ、なんというか、世間から快く思われていない方々ばかり。私が調査したところ、曖昧な案件を省いても、八件はある。繰り返すが、死んだのは、いずれも、いわゆる悪人……と思われている人達だ。これは、どういうことだろう」

 しばし、土谷は天を仰いだ。

「いずれも、密室でも心臓麻痺。しかしだ。仮にこれが殺人だとしたら。何者か、何者か達か、悪人を成敗しているということか。今風に言えば、自警団、ヴィジランテということか。ヴィジランテが正義の行いをしているということか。正義の味方の参上ということか」

 言いながら、土谷は机を軽く叩いた。少し苛立っているようだった。

「そんな存在はあってはならない。そんな殺人が許されてはいけない。社会は法律があって、我々警察がいて、秩序が保たれているのだ。そんな勝手な判断で、勝手な行動が、許されてはいかんのだ」

 土谷の言葉に熱がこもった。

「それで、我々にヴィジランテさんを探せと?」

 谷本が醒めた顔で言った。

「まあ、そういう事ですかな」

 土谷は、もう冷静だった。

「とにかく今は、何かしら、手掛かり、情報が欲しい。皆さんの得意分野を活かして、調査して欲しい。皆さんで欲しい情報があれば、都度、全て提供しよう」

「あ、あの……」

 おずおずと、本多が手を上げた。

「なんか……私だけ、場違いな気がするんですけど……」

「いや。これは、とても宗教的だと思っています。実は、先程言った八件には、まだ伝えていなかった、共通点がある。これは公表していない極秘事項なんだが、全ての現場の近く落書きが残されていた。”WE ARE PSYCHIC PUNKS”と」

 宮崎も、確かに見たことを思い出した。

「これには、何か宗教的な意味があるのかもしれない。全てが、一連の儀式ではいないか。そういう可能性を考えた。本多さんは、どう思う?」

「いや……なにも……すいません」

「……まあ、これから調べれば良い。まずは、手元の資料をよく読んで、自分の得意分野から、手掛かりを見つけてださい。これからは、ここを本部とします。皆さんには、セキュリティカードを配りますので、自由に出入りしてください。まあ、今はガランとしてますが、これから必要な機材を揃えていきますよ」

 宮崎、谷本、金沢、本多は、互いに目を合わせて、戸惑った顔をした。


「ふうん。そんな動きがあったとはね」

 冴木紗代は、自分の部屋で窓際に立ち、缶ビールを飲んでいた。

 部屋には、金沢伸と本多智恵の二人が座っていた。

 二人は、事件に、ある種の不思議な、ある種の常識を超えた、超自然的な何か、得体のしれないものを感じた。宮崎、谷本より若い二人は、そのことを話し合った。良い案などでるはずもなかったが、ふとした話の弾みで、二人には共通の知り合い、しかも、うってつけの人物がいることが分かった。

 そこで、極秘という約束を破り、冴木に相談に来たのだ。

「実は、あたしは最近まで、警察署の刑事課にいたの」

「えっ、本当ですか?」

 金沢は腰を浮かしかけた。

「気にすることないわ。土谷警視正なら大丈夫。しかし、あのオッサン、裏でそういう動きをしていたのか」

「何か心当たりはありますか?」

 浅く座りながら、本多が聞いた。

「いや、全然」

「”WE ARE PSYCHIC PUNKS”については?」

「初めて聞くわ」

 冴木は、ビールを一口飲んだ。

「私は……」

 本多が小さい声で話し始めた。

「……幼い頃から、見えないはずのものが見えていました。他人には言っていません。信じてもらえないと、子供の頃から達観していました。だけど知っていました。この世の中には、何か不可解で、不思議で、異形のものが、いることを。それも、たくさん」

「へえ、そうなんだ。僕は、冴木さんに助けてもらった、あの出来事以前、見たことも聞いたこともなかったよ」

「あたしも……まあ、最初は、あなたと同じくらいだった」

 遠くを見ながら、冴木が言い、ビールに口を付けた。

「本当ですか? どのくらい力があるんですか? なんで、この仕事を選んだのですか?」

 珍しく本多は、矢継ぎ早で言った。

 冴木はビールを口から離して、本多を見つめた。本多は少し萎縮した。

「……あ、すいません。自分と同じ能力の人間と初めてお会いして、つい、いろいろお聞きしたくて……」

「そっか。まあ、隠すことでもないし。初めて見たのは、いつだったかなあ。まだ、幼い頃。家族でテーブルを囲んでテレビを見ていた。すると、テレビの上に何か黒いものがチラチラ見えていた。なにか、濡れているように、黒光りしていた。なんとなく、それが人間の髪だと分かった。テレビの後ろに人が入る隙間なんてなかったのに。やがて、濡れた髪の顔が、少しずつ見えるようになった。もう少しで目が見える。だけど、私は目を反らさなかった。微妙にゆらゆらと、上下しながら、ゆっくりと目が見えた。黄色く濁った、虚ろな、それでいて、しっかりと私と目があった。その後の記憶はない。泣き叫んだか、気絶したか。何しろ幼子だったからね」

 ビールを一口飲んだ。本多は息を飲んだ。

「たぶん、それくらいから、そういった人やモノを見えるようになった。不思議と、それが普通の人と全く同じ姿形だとしても、違う、と、分かった。私は、ませたガキだったから、誰にも、両親にも、そのことを言わなかった。言ってもしようがない、と、幼いながらに気付いてた」

「それが現在も続いてるんですね」

 金沢が聞いた。

「確かに大人になっても、ずっと続いた。少しずつだけど、自己流で追い払うことも出来るようになった。だけど、決定的な転機があった」

 冴木は、二人に顔を向けると、前髪をかきあげた。

 額に小さいが、深い傷跡があった。

「銃弾をまともに頭に食らったわ。幸い命は助かったけど、2か月間も昏睡していたわ。それで、まあ、他にもいろいろあったんだけど、あたしは警察を辞めた。それは、どうでもいいか」

 再び前髪で額を隠すと、またビールに口をつけた」

「昏睡から醒めたら、劇的に変わった。霊能力……まあ、便宜的にそういう言葉を使うなら、それが各段に上がった。だから、それを職業にしようと思った。せっかく授かったギフトよ。利用しないともったいない」

「……たしか、私のときには塩を使って、祓ってましたね。念を込めた塩。何か言いながら……」

蘇婆訶(そわか)

「そう、それです。それは必要なんですね」

「まあ、一種の、おまじないみたいなものよ」

「僕のときは、銃を使っていた。あれは、本物?」

「S&W M360J SAKURA。亀裂が見つかって、回収されることになったのよ。その、どさくさで、ちょっと一丁。……これは喋り過ぎたかな」

 冴木は苦笑いを浮かべた。

「弾頭が塩の塊になってる、特別な弾丸をハンドメイドしているの。金沢のときみたいな、具現化出来る強力な奴に使う。当然、人間にも使えるから注意してね」

「その拳銃でも、祓えない霊とかはいないんですか?」

 興味深そうに本多が聞いた。

「いる。強力な霊。奴らには、塩は効かない。奴らは刀で直接斬るしかない。妖刀、十鬼丸(じっきまる)を使う。……とても危険な刀だから、ここには置いてない……」

 目を閉じると、冴木はビールを飲み込んだ。

「……話を戻そうか。その、極秘プロジェクトとやら」

「それなんですが」

 金沢は身を乗り出した。

「どうも、この一連の事件は不思議なんですよ。ほぼ、全部密室で、心臓麻痺で亡くなってる。不幸な事故にしか見えない。でも、明らかに連続してるし、なにより、”WE ARE PSYCHIC PUNKS”とご丁寧に署名を残してる。誰かが意図的に起こしてるとしか考えられない。そこには、何か超常現象的なものがある気がしてならないんです。あやふやではありますが、その辺りは、僕と本多さんと考えが一致しています。本当に漠然としてますが。いや、なにも、幽霊が犯人だとは言いませんよ」

「本当に、そう言い切れる?」

「え?」

「いや、なんでもない」

「とにかく、そういった超常現象に見識が深い冴木さんの力を、是非借りたいと思ったわけです」

「極秘プロジェクトなんでしょ? 土谷警視正様が怒るわよ~」

「そこは内緒で。外部アドバイザーみたいな形」

「さっき言ったけど、あたしは、これを仕事としてやってるの。報酬が出ないなら、ちょっとね」

「報酬ですか。うーん」

 金沢は困った。そこに関しては、金沢には、どうしようもなかった。

 その時、意を決したように、本多が顔を上げた。

「私の分を差し上げます。本件で、私がいただく報酬を、全て冴木さんに渡します。大して多くはないですが、それで力になってください」

 困惑したのは、金沢だった。いきなり、そのような事を言われると、黙っている訳にもいかなくなった、

「……じゃあ、僕の分も差し上げます。二人分の報酬です。これで、いかがでしょうか」

「ふむ」

 冴木はちょっと考えた。

「……悪くないわね。その誠意と熱意には、ちゃんと応えないと。こうしましょう。料金は後払い。ただし、事件解決に、あたしが確かに貢献した場合のみ。それなら、よりお互い納得できるでしょ」

「なるほど。……でも、確かに貢献したか、否かの判断は、どちらが?」

「それは、あんた達に任せるわ。この仕事、信用と信頼が第一」

 そう言って、冴木は微笑んだ。軽くビールの缶を持ち上げて。


「そういう訳で、あたしもプロジェクトに加わることになった」

 冴木は、生ビールのジョッキを片手に、言った。

 署の近くにある、安い居酒屋。平日だが、客は混みあっていて、逆に目立たなかった。

 冴木の前には、宮崎友治警部が座っていた。冴木の隣には、黒羽優子が、ニヤニヤしながら座っていた。

「困るなあ。警視正が選んだ、極秘のメンバーなんだ。勝手に追加はできんよ。それにしても、あの二人、案外軽率だな」

「そう言わないでよ。あの子達なりに、考えた末、この冴木様を頼ってくれたんだと思うよ」

「頼りになるかは知らないけどさあ、別にいいじゃん。警視正のおっさんのことなんか、そんな気にすんなって」

 黒羽が言った。

「やかましいわ。こちとら、警視正を怒らせたら、どうなることやら。……だいたい関係ないおまえが、なんでいるんだ?」

 宮崎が黒羽に向かって言った。

「まあまあ、アドバイザーのアドバイザーみたいなもんだと思って」

 三人は、それぞれ過去に仕事を共にしたことがある仲ではあった。しかし、宮崎にしてみると、冴木と黒羽は、問題ばかり起こす面倒な女、という思いが強かった。

「黒羽は大丈夫。誰にも言わないわ。署内に友達がいないんだから」

「キツイこと言うなあ。これでも、毎日、楽しく仕事してるのよ」

「拳銃撃てるときはね」

「ふふ」

 黒羽は、微笑みを浮かべた。

「それよりも、もし、事件が解決したら、出世するかもしれないわよ」

「冴木。おまえ、なにか心当たりがあるのか?」

「ないけど。でも、警察時代は、いくつも事件は解決した、優秀な刑事だったのよ」

「トラブルも起こしたがな。発砲数の記録は、黒羽が塗り替えたが。おまえら、本当に、あぶない刑事だよ」

 宮崎は、焼肉を頬張った。

「……とりあえず、その件は一回持ち帰らせてくれ。俺は、もう帰る」

「ええ? まだ飲み始めたばっかりじゃん」

 焼き鳥の串をくるくる回しながら、黒羽が言った。

「おまえらと飲んでても、楽しくない。あとは、二人で勝手に飲んでろ」

 立ち上がった宮崎は、テーブルに幾枚かの札を置くと、二人に背を向けた。

「うひょー。さすが、大人じゃん」

 黒羽は、すぐに手に取った。だが、冴木は、急に真顔になって、店を出て行こうとする宮崎を目で追った。

「今……何かが、付いて出て行った」

「ふうん。浮遊霊か、なんかじゃない」

「いや。もっとヤバイ奴かもしれない……」

 しばらく冴木は店の扉をみつめていた。

「……放っておく訳にもいかないか」

 冴木は立ち上がった。

「もう出るのー? お会計は済ませとくね」

 黒羽は、のんびり座ってビールを飲んでいた。冴木は、足早に店を出た。


 宮崎は、なんだか、モヤモヤした気持ちで夜道を歩いていた。

 プロジェクトは、始まったばかりとはいえ、全く手掛かりもなく、暗中模索状態だった。

 このプロジェクトに選ばれた中において、唯一の現役警察官であり、自然と取り纏め的な役割であり、土谷警視正との繋がり的な役割でもあった。

 全く頭の痛い状況の中で、頭痛の種が二人しゃしゃり出てきた。

「まいったな……」

 宮崎は、頭を掻いた。

 本当に邪魔なだけであったなら無視すればよい。しかし、元刑事の冴木と現役刑事の黒羽は、捜査する上で、もしかすると頼りになるかもしれなかった。

 しかししかし、この、毒薬のような二人を、自分が上手く使いこなせる自信はなかった。

 どうしたものか、考えながら歩いていると、ふと異様な感覚がして、背筋に寒気が走った。道は、まばらではあったが、何人かが、ごく普通に歩いていた。

 宮崎は考えた。こんな寒気は、今まで感じたことが無かった。だが、刑事としての勘で、誰かが付けてくるのが分かった。

 知らない顔して、このまま駅に行って電車に乗って、やり過ごすのが賢明か。しかし、宮崎は、このとき、モヤモヤした気持ちで、どうにも収まりが悪かった。

 敢えて人気の無い、薄暗い路地に入っていった。

 少しの間、宮崎は一人で歩いていた。案の定、後ろから足音が聞こえてきた。

 甲高い音は、ハイヒールのようだった。

 宮崎は振り返った。女が立っていた。黒々とした長い髪を垂らし、透き通るような白い顔に、真っ赤な口紅をさしていた。そして、切れ長の深くに憂いをおびた瞳で、じっと宮崎を見つめていた。

「誰だ?」

 静かに言った。宮崎の覚えの無い顔だった。

「……」

 女が口を開いた。か細い声で、よく聞き取れなかった。

「何? 俺に用か?」

 宮崎は一歩近寄った。

「あなた……」

 囁くような声は、よく聞こえなかった。

「なんだって?」

 さらに、ゆっくり歩み寄った。

「あなた……でしょ」

 まだ、何を言っているのか分からなかった。

 宮崎は、少し苛立った。

「あなた……でしょ」

「聞こえないんだよ」

 もう一歩近付いたところで、急に女の眼が見開いた。

「あなた、私のこと好きなんでしょ」

 言うやいなや、女の髪が突然ぞわっと伸びて、勢い良く宮崎に迫った。

「うわっ!」

 驚いたが、髪の早さは凄まじく、また際限なく伸びて、瞬く間に宮崎の体に巻き付いた。慌てて振りほどこうとしたが、あまりに強い力で、どうにも出来なかった。

「あなた、私のこと好きなんでしょ」

 そう言うと、女の髪はすうっと伸びて、宮崎の首に巻き付いた。

 宮崎は、必死に抵抗したが、その力に打ち勝つことが出来なかった。

「うぐ……うぐ……」

 首を絞める力が徐々に強くなってきた。もはや、呼吸もままならなかった。女の顔を見ると、薄っすらと笑っているように見えた。

 徐々に、頭の中の白い部分が増えていくように、意識が遠のいていくのが分かった。

 もう駄目か。

 そう思ったとき、突然、髪が解け、宮崎はその場に倒れ、激しくむせ返った。

 朦朧とした意識の中で、顔を上げた。いつの間にか、女は宮崎に背中を向けていた。その視線の先には、冴木が立っていた。

「お取込み中だったかしら」

 冴木が言った。

 女は、髪をゆらゆらと揺らしたまま、冴木を見つめた。

「……あなた、私のこと好きなんでしょ」

「ごめん、タイプじゃないわ」

 女は瞬間移動のように、素早く冴木に近付いた。

「蘇婆訶!」

 冴木は、逸速く塩を投げつけた。

 しかし、女の髪が風車のように舞い、塩を全てかわしてしまった。

「蘇婆訶!」

 すぐさま冴木は再度塩を投げた。だが、またもや、女の髪が激しく舞い、全く体には届かなかった。勢いよく舞った髪は、冴木を叩き付けた。冴木は顔面から、地面に倒れた。

「いたた……」

 冴木は口に手をやった。

「あなた、私のこと好きなんでしょ」

 女は、薄ら笑いを浮かべていた。

 冴木は、胸のフォルダーから銃を取り出そうとした。その瞬間、髪がしゅっと伸びて、冴木の腕に巻き付いた。その強い力で、腕を動かすことが出来なかった。そうしているうちに、髪は、もう片方の腕にも巻き付いた。冴木は、両腕が動かせなくなった。

 女は、相変わらず薄ら笑いを浮かべていた。

 髪が際限なく伸びて、今度は、ゆっくりと冴木の首に巻き付いた。

「こ、これは、まずい」

 宮崎が呟いた。

 首を絞めていく力が、徐々に強くなっていくのが分かった。

 無駄かもしれないが、宮崎は女に飛びかかろうとしたが、冴木と目が合った。意外にも冷静な表情で、宮崎に目配せした。

 驚いて、宮崎の足が止まった。と、同時に、素早く冴木が動いた。

 両腕は拘束されたままだったが、顔を女に向かって突き出した。一瞬、女が怯んだように見えた隙に、冴木は女の唇と唇を合わせた。

 女は驚いたようで、目を見開いた。冴木はなおも唇を重ねた。

 長い黒髪は、ゆるゆると解けていった。冴木は、やっと顔を離した。女は、真っ赤な口を大きく開けて、声にならない叫びを上げた。

 女の頭から、黒い煙が立ち昇り始めた。と同時に、顔面の一部が消えていった。蒸発するかのように。やがて、黒い煙は、全身から湧き出た。そして、徐々に体が消えていった。

 宮崎は、固唾を飲んで、見つめていた。冴木は、醒めた瞳で見つめていた。

 頭が消え、両腕が消え、胴体が消え、腰が消え、両足が消え、ただ黒い煙だけが残った。その煙も、やがて風に流され、全て消え去った。

「……まいったな。幽霊とキスしたのは初めてよ」

 冴木が呟いた。

「……な、何をした?」

「口の中に塩を含んでおいたのよ」

「……いや、というか、あいつ、なんだ?」

「質の悪い霊ね」

「初めて見た。あんなのが、ごろごろしてるもんなのか?」

「いや。力の強い霊は、そんなにはいない。不思議よね。プロジェクトの話をした直後に現れた。偶然かな。それとも……」

「それとも?」

「狙われたか」

「そんなこと、あり得るのか?」

「分からない。まあ、気を付けることね」

 その時、後ろから、ひょっこり黒羽が現れた。

「どう? 片付けたの?」

「うん、まあね。口の中がしょっぱくて、かなわない。もうちょっと飲み直しましょう」

 冴木と黒羽は、連れだって歩いた。


 古い蛍光灯が、頼りなく室内を照らしていた。

 壁は、薄汚れたコンクリートがむき出しで、床もカーペットが剥がされ、冷たいコンクリートだけだった。

 街の寂れた雑居ビルの、三階にある一室。

 窓には、カーテンもブラインドも無く、街のネオンが入り込んでいた。

 薄いであろう壁から、外の喧噪が聞こえてきた。

 急ごしらえの長テーブルで四角に囲み、パイプ椅子が並べられた。

「さあて、全員揃いましたね」

 宮崎友治が言った。

 金沢伸、本多智恵、谷本晃、そして冴木紗代が座っていた。

 署内には立派なプロジェクトルームが用意してあったが、冴木の参加は非公認だったので、急遽、別に集まれる場所を用意したのだ。

 プロジェクトルームでは、最新の情報を自由に検索し閲覧することができた。しかし、この場所には、パソコンの一台も無かった。

「随分と殺風景になりましたな」

 谷本が言った。原因である冴木は、知らん顔で座っていた。

「こちらの美人さんが、新たに加わった人? せっかくなんで、自己紹介くらいしてくださいよ」

 また、谷本が言った。

「……冴木です。……まあ、正式なメンバーじゃないんで、大人しくしてますよ」

「是非とも仲良くしたいですね」

 谷本は、薄笑いで言った。

「元刑事だ。力になると思う」

 宮崎の言葉で、谷本は軽く肩をすくめた。

「それで、皆さん、何か分かったことはありますか?」

 宮崎が言った。一同は、顔を見合わせ、しばらく黙った。

 まず、金沢が口を開いた。

「僕は、少年補導員をやってまして。この辺りの悪そうな奴はだいたい知ってるんですが、PSYCHIC PUNKSというのは、聞いたことがないです。何人か、そういった方々に聞いてみましたが、誰も知らないようです」

 金沢は申し訳そうな顔をした。

「もちろん、あれですよ、引き続き調査は続けますよ」

 反応が無かったので、慌てて付け足した。

「あの、私もなんですけど……」

 本多が軽く右手を上げ、躊躇いながら口を開いた。

「PSYCHIC PUNKSという言葉……宗教学、民俗学、史学、超自然現象、魔術、呪術、呪詛、都市伝説、どれも、最新の文献から、大昔の文献まで、海外のものも含めて、その……、時間の許す限り調べてみてたのですが……、これといったものは……あの、すいません」

 思わず頭を下げた。

「まあまあ」

 宮崎は宥めた。

「まだ、調べ始めたばかりだし。仕方ない」

 宮崎は渋い顔をした。

 一同、しばらく沈黙が続いた。

「……谷本さんは、何かありませんか?」

「いやあ。俺も、やばい連中には、そこそこ詳しいんですがね。ちょっと、分かりませんわ」

 こいつだけは、特に何も調べてないな。そう直感した宮崎は、増々渋い顔をした。

「そう言う宮崎さんは? 警察では、何か新情報があるんじゃないですか? こちとら、警察が一番の頼りだ」

「ん? まあ、新たに得た情報というか、まだ言ってなかった情報は、あるにはあるんです」

 宮崎は、鞄からA3程の封筒を取り出した。

「検死の結果、遺体には、奇妙な共通点がありました」

 宮崎は、本多の顔をチラリと見た。

「これから、遺体の写真をお見せしますが、宜しいでしょうか?」

 本多は、少しだけむくれた。

「わ、私も、こう見えて学者です」

「そうですか」

 宮崎は写真を取り出した。遺体の背中をアップで撮ったと思われる写真だった。

「どの遺体にも、体の一部に、これと似たような跡があったんです」

 奇妙な赤灰色の、細かい分枝をもつ、樹枝状の模様だった。

「今のところ、これが何を意味するのか分からない。もちろん、皆さんは専門外なので、分からなくて当然だとは思って迷ったんですが、一応見せておこうと考え直しましてね。何だと思います?」

 金沢、本多、谷本は顔を見合わせて黙った。

「だろうな」

 宮崎は、写真を封筒に仕舞いかけた。

「……それと、同じような跡、見たことがある」

 ずっと黙っていた冴木が、口を挟んだ。

「ほう。どこで」

 宮崎は、写真を再び取り出して、冴木に向けた。

「もう、だいぶ前だから、はっきり覚えている訳じゃないけど、それと同じような跡だった。落雷による死亡よ」

「落雷?」

 宮崎は首を傾げた。

「死因は落雷? 確かに、心肺停止にはなるな。しかし、被害者は、皆室内だぞ」

「例えば、人工的に、落雷のようなエネルギーを放出することは、できないでしょうか?」

 学者らしく、論理的に考えようとした本多が、身を乗り出した。

「うーん。専門的なことは分からないが、いずれも密室状態で、なんの痕跡も無かったんですよね」

「外からは? 何かエネルギー……レーザー光線みたいなものを当てるとか?」

 金沢も興味を持ったようだった。

「ばかばかしい。SF映画じゃあるまいし」

 谷本の一言で、場が鼻白んでしまった。お互い、黙って顔を見合わせた。

「……まあ、似たような現象を見たことがあった、というだけのこと」

 冴木が言った。

「いや、落雷はともかく、感電というのは、新しい視点ですね。引き続き調査しましょう」

 宮崎は、写真を封筒に納めた。

「調査もいいですけどね。ここは、ひとつ、攻めてみませんかい?」

 ドヤ顔で、谷本が言った。

「攻める?」

「先回りですよ。次のターゲットになりそうな人物に当たりをつけて、マークするってことです」

「ほう。面白いアイデアではあるね」

「実は、やばそうな人物に心当たりがあるんですよ。勝田哲夫(かつたてつお)って奴でね」

「あ、知ってる」

 少年補導員の金沢が声を上げた。

「もう少年じゃないですけど。品川スケアリー会っていう、言ってしまえば半グレ連中、その会長ですよ」

「そう。そいつ。品川スケアリー会っての、最近やけに伸びてましてね。それで、調子こいて、結構あくどい事してるらしいんですわ。だけど、噂ばっかりで、捕まったことはない。いや、噂っていったって、実際、被害者はいるんですよ。集団リンチで死んだ奴もいるって話でね。これは、正義の味方だったら、放っておかないでしょう」

「勝田哲夫……品川スケアリー会……。確かに聞いたことはある」

 宮崎は、考え込んだ。

「どうです? お目当てのPSYCHIC PUNKSが現れ無かった……いや、まだ実態は不明ですが。そうだとしても、マークしておけば、勝田の逮捕に繋がれるかもしれない。悪い手じゃないと思うな」

「それは、いい考えだと思います。いずれにしても、犯罪を防げる可能性がありますよ」

 日々、少年少女達が、犯罪に巻き込まれることに心を痛めていた金沢は、乗り気だった。

「……ですね。やってみるとしますか」

 宮崎は、そう言うと、冴木の顔をチラリと見た。

 冴木は黙って、わずかに頷いた。


 くだんのビルの最寄り駅、時計を見ると、夜の十時を少し過ぎていた。

 終電には、まだ全然早いが、帰宅ラッシュは過ぎていた。夜としては人の少ない時間帯で、ホームの人影はまばらだった。

「ああ、次の電車は通過ですね」

 掲示板を身ながら、金沢が言った。

「あの、本当に、大丈夫ですけど……」

 困った顔をして、本多が言った。全くの遠回りなのに、金沢が自宅まで送ると言って聞かないのだ。

「いやいや、おかしな輩が多いですから。気を付けないと」

「研究で帰りが遅くなることはしょっちゅうですけど、危ない目にあったことは一度もないですから」

「運が良かったのかもしません。それに、何もなければ、それにこしたことはありません」

 本多は、正直、面倒くさいなと思った。その感情を、金沢はすぐに察した。

「安心してください。家の前まで行ったら、そのまま帰ります。お手間をとらせるようなことはしませんよ。これも、パトロールの一環です」

 仕方なく、本多は黙って頷いた。

「いやあ、少年補導員って、けっこう大変でしてね……」

 時間を持て余した金沢は、自分の事を語りだした。面白くないわけでもなかったが、本多は、ぼうっと聞き流していた。

 ホームを見渡した。

 まばらに立っている人達は、老若男女、皆うなだれて、スマホを見ていた。

 スマホの先は、世界に繋がっている。だが、そこに居るのは、ただ(こうべ)を垂れた人間だけだった。

(これが世界か……)

 世界中の宗教社会学を研究している本多は、ふと思った。

 詰まらない事を考えるのはやめて、金沢の話をちゃんと聞こう。

 そう思って、顔を金沢に向けた。

「え!」

 目を見張った。

 金沢のすぐ後ろに人が立っていた。ホームは混んでいないのに、ぴったりとくっ付くように立っていた。

 半ズボンで黄色の帽子を被った、小学生低学年らしき男子だった。

(こんな遅い時間に一人?)

 保護者らしき人物が近くにいる様子も無かった。

 金沢はずっと、自分の役割がいかに大変で重要かを、淡々と話していた。金沢なりに、退屈させないように気を遣っていた。

 しかし本多には、金沢の話が頭に入ってこなかった。

 子供の顔が見えなかった。

 帽子の影になっていることもあるが、それにしても、顔が薄ぼんやりしていた。そして、金沢の背後に密着した。

 その子供が、金沢の背中に手を当てた。

「え?」

 驚いた金沢が、後ろを振り返った。しかし、何にも気付かず、ただキョロキョロしていた。

(金沢さんには見えてない!)

 自分にしか見えていない。恐ろしい事実だった。

 子供の腕に力が入るのが分かった。

 金沢はよろけそうになるのを耐えた。

 だが、子供は一層力を込めて押してきた。金沢は、訳も分からず、足を踏ん張った。

 もうすぐ電車が通過する。

(なんとかしないと……)

 本多は血の気が引いてきた。金沢は必死に耐えているが、強い力で押され、じわじわとホームの端に、にじり寄っていった。

 遠くから電車の音が聞こえてきた。もう時間が無かった。

 金沢は顔を真っ赤にして、全身に力を込めていたが、足先がホームの端まで迫っていた。

 咄嗟に、本多は冴木の言葉を思い出した。

「蘇婆訶!」

 そう発すると、無意識に子供めがけて、右手で払った。

 すると、みるみるうちに子供は黒い霧のようなもの包まれ、煙のように、流れるように消えていった。

「うわっ」

 金沢は後ろに倒れた。

 その直後、轟音を立てて電車が通過して行った。

 本多は、自分の右手を呆然とした顔で見つめた。

「い、今、な、何が起こったんだ?」

 金沢は、本多を見た。

「あの……上手く、説明出来ない……」


 翌日の夜、寂れた雑居ビルの一室に、メンバーが集まっていた。

「なんで話しちゃうんだよっ」

 谷本は机を叩いた。明らかに不機嫌だった。

「上司に報告しないわけにはいかんでしょう」

 宮崎も更に不機嫌だった。

「あんたは、上司の土谷警視正さんを信用してるのか?」

「どういう意味だ? 私の立場が分からないのか?」

 宮崎は、語気を荒げた。

「まあ、ちょっと落ち着いてください」

 金沢は、狼狽しながらも、場を落ち着かせようとした。冴木は、黙ってカフェオレを飲んでいた。

「ちょっと良く分からないので、もう一回説明していただけますか?」

 難しい話ではなかったが、金沢は、一応、再度説明を求めた。

「良く分からないことも無いだろう。私は、土谷警視正に報告した訳だ。勝田とその近辺を注視して、PSYCHIC PUNKSとかいう連中の出方を待つ、という方法をね。ところが、警視正の反応は、にべもないものだったということだ。すぐに首を横に振って、当てずっぽうに、無関係の人間にリソースを割くのは、無駄が多い。それよりも、既に起きた事件の深堀を続けよ。とのことだ。はっきり、そうとは言っていないが、まあ、これは命令だろう」

「警視正は、勝田のことを、何か言っていなかったか?」

 腑に落ちない表情の谷本が聞いた。

「いや。とくに、何も」

 宮崎と谷本は、不機嫌な顔で黙り込んだ。

「……それも言えるかもしれませんね」

 本多が控え目な声で喋りだした。

「勝田とかいう人に注意を向けるのは、少し、当てずっぽう過ぎるという気もします」

 谷本が苦虫を噛み潰したような顔をして、本多は気まずそうに顔を伏せた。

「もう、この話は終わりだ」

 宮崎が頭を抱えながら言った。

「他に、何か、新しい情報はあるか?」

 ゆっくり顔を上げながら言った。一同は、黙りこくった。

「……なら……せっかく集まって頂いて申し訳ないですが、今日は解散とします」

 鞄を乱暴に掴み、振り返りもせず、足早に、宮崎は部屋を出て行った。

 残されたメンバーは、一瞬顔を見合わせた。

「……まあ、では……」

 金沢が腰を浮かしかけた。つられて本多も、立ち上がろうとした。

「ちょい待って」

 谷本が制した。

「警部がいなくなったところで、ちょうどいいから、話を聞いて欲しいんだけどな」

 きょとんとした顔で、金沢と本多は顔を見合わせた。冴木も、無表情で谷本を見つめた。

「俺が、このプロジェクトに入ったのは、訳があるんだ。土谷警視正が捜査の為にプロジェクトを発足するかもしれないという話は、前々から耳に入っていてね。いや、こう見えて、コネクションは広いんだ。それで、そのコネクションを使って、このプロジェクトに潜りこんだ訳さ」

「驚きましたね」

 金沢はあぜんとした顔をした。

「つまり土谷に近付きたかったってことね。その理由(わけ)は?」

 冴木が言った。

「こんなに早くバラしちまうつもりは無かったんだけど、こうなったら仕方ない。ずばり、土谷と勝田の繋がりさ」

「へえ。ありそうな話ね」

 平静な顔で、冴木が言った。

「もうちょっと驚いてくれないと、話しがいがないなあ。まあ、いい。この辺りで、好き勝手やってる勝田が、何故捕まらいのか。勝田だけじゃなく、その仲間もだ。これは、何かあると思ってね、ちょっと調べてみたんだ。そうしたら、土谷警視正様の名前が浮上してきたってこと。土谷の鶴の一声で、勝田は絶対に捕まらない。その見返りに、勝田の汚ねえ金が、大量に流れてる。胸糞悪い話だ。だけど、確証がない。どうにかして、土谷に近付きたかったのさ。上手いことプロジェクトに潜り込んで、試しに勝田の名前を出した途端、この対応だ。これは、間違いないと見たね」

「ちょっと待ってください」

 本多が声を上げた。

「今、その話をするのは……その、つまり……土谷警視の汚職の調査を……私達に手伝えと?」

「ん? そうだな。そう言ってもいいかな」

「困ります。それこそ、専門外です」

「悪人をのさばらせていいのか?」

 一瞬、谷本の目が鈍く光った。本多は目を伏せた。

「……べつに、正義を振りかざすつもりはないけどね。少なくとも、俺は悪人じゃない。これをネタに土谷をゆすって金儲けしようなんて、考えてない。ただ、真実を白日の元に晒したいだけだ」

「いいですね。やりましょう。もし、それが本当なら、大変なことだ」

 身を乗り出して、金沢が言った。

「危ないよ」

 冴木が制した。

「こいつは、ちゃんと説明してないけど、警視正が関わってる悪事だとしたら、向こうも覚悟入ってる。そうとうヤバい。下手したら死人がでるかもね」

 そう言って、冷ややかな笑みを浮かべた。谷本は、少々慌てた。

「そいつは大袈裟だ。大丈夫。危ないことは、させない」

「どうだか」

「俺を信用してくれよ。正義の為だ」

 谷本が強い調子で言った。

 本多は困った。なにやら、おかしなことに巻き込まれている。出来れば外れたい。しかし、正義と言われると、どうにも逃げ出しにくい。ただ、そこに座っているしかなかった。

「それで、あんたは、どうする?」

 谷本が冴木に向かって言った。

「素人ばっかりじゃ、見てらんないよ。手伝ってあげてもいい」

「決まったな。これでチーム結成だ」

 谷本は、満足そうな顔だった。他の三人は、それぞれ複雑な表情だった。


 数日が経った。

 夜遅く、暗い住宅街の中で、じっと息を潜めるように停まっている車が一台あった。

 中には、二つの影、冴木紗代と谷本晃がいた。

「いい家に住んでるなあ」

 一つの大きめな住宅を見ながら、運転席の谷本が呟いた。

「一応、確認するけど、ここが土谷警視正の家で間違いない?」

 助手席で、冴木が言った。

「何度も言わせるな。全て調査済み。ちなみに、今停まっているここも、防犯カメラからは死角だ。部屋も調べ済み。書斎がどこかも分かってるから、俺から離れず付いてこいよ」

 部屋の灯りは、まだ灯っていた。

「今夜、奥さんと子供は実家に帰ってるんだって?」

 冴木が言った。

「ああ。ばっちり調べてある」

「なんで、帰ってるの?」

「さあ。そこまでは知らない」

「……」

 冴木は憂鬱そうに、髪をかきあげた。

「あとは、あの二人が、うまい事誘い出してくれれば……」

 谷本は、じっと家を見つめた。

 灯りは付いているが、人の動く気配がなかった。

 冴木は、眠そうな眼で、じっと見つめていた。

 やがて、一台のタクシーが家の前に停まった。

「動いたっ」

 谷本が身を乗り出した。

 家の灯りが消えた。

 暗い中、目を凝らしていると、土谷らしき人影が、玄関から出てきた。

 タクシーに乗り込むのを確認すると、冴木と谷本は身を屈めた。

「あいつら、うまいことやったな」

 タクシーが発進して行くのを確認すると、二人は素早く車を降りた。

 暗闇の中、垣根を乗り越えると、谷本は庭を横切り、予め決めておいたリビングに向かった。黙って冴木は後に続いた。

 リビングの前まで来ると、谷本はバッグから、オイル注入式のガラスカッターを取り出した。

「これがジャーナリストの仕事なのね」

「うるせえ」

 きれいな楕円形の穴を開けると、中に手を入れ、鍵を外した。そうして窓を開くと、素早く二人は屋内に滑り込んだ。

「書斎は二階だ」

 小さな懐中電灯で照らしながら、階段に向かった。

 二階の奥が書斎で、谷本は素早くドアを開けると、中に入った。

 冴木が後から続いたが、チラリとドアを見た。鍵付きのドアだった。

 室内を懐中電灯で照らすと、机の上に置いてあるノートパソコンが目に付いた。

「俺がパソコンを調べるから、部屋のどこかに、金庫か何かないか探してくれ」

 そう言うと、谷本はノートパソコンを開いた。

「パスワードは?」

「見ろよ。ここに付箋が貼ってある」

 付箋には8桁のランダムな文字が記入してあった。谷本は、その通りにキーボードを打ってみた。

 まんまとデスクトップ画面が開いた。

「ふっ。ちょろいもんだな」

 谷本は笑った。

「全て上々ね」

 口ではそう言った冴木だが、肩に吊るしたガンホルダーから、そっとS&W M360J SAKURAを取り出し、いつでも使えるよう、テーブルの上に置いた。。

 谷本は喜々として、パソコンの中を探っていた。

 証拠が出てくる可能性は低いな。冴木は、周囲に気を配りながら、谷本を見つめていた。

「おい、ちょっと、これ見てくれ」

 谷本がディスプレイを指さした。冴木は、少し身を乗り出して、覗き込んだ。

 そのとき、突然、部屋が明るくなった。


 そこは倉庫街だった。

 しかし、ほとんどが使われていない、廃墟のようだった。

 僅かに灯る街頭の中、本多智恵と金沢伸は、並んで歩いていた。

 二人の役割は、土谷を外出させることだった。出来るだけ、自宅から遠くに。

 重要な情報を手にしたので、是非会って話がしたい。そう言うと、案外簡単に乗ってくれた。しかも、先方から、おあつらえ向きの場所を指定してきた。

「よく知らないけど、ここなら自宅から遠そうだな」

 金沢が、辺りを見渡しながら言った。

「それにしても、こんな寂しい場所だなんて」

「それだけ、重要だと思い込んでるんですよ。慎重なんだな。こっちとしても都合がいい」

「気味が悪いです。本当に来るのかなあ……えっ」

 本多が突然後ろを振り返った。

「なに? どうしました?」

 金沢も後ろを振り向いた。暗闇の中、倉庫がそびえているだけだった。

「いや……今……人の気配が……」

 金沢は辺りを見回した。

「誰もいないですよ」

「そうか……気のせいです……」

 本多は俯いた。

「分かりますよ。気持ちが疲れてるんです、きっと。なにやら、訳の分からないことに、ずっと付き合わされてる感じですからね」

「ええ。そうですね。ずっと研究室と自宅に籠りっきりの毎日でしたから、その落差が。金沢さんは?」

「僕は少年補導員で、夜回りはよくやってましたから。たまには、危険な目にもあいましたからね。今の状況は、全く予想外ですが、そんなに違和感ないんですよ」

「怖くないですか?」

「僕は少し能天気なところがありましてね。あんまり怖いとか思わないんです」

「そうですか。いいですね」

 本多はそう言った後、なんだか、自分が侮蔑的な言い方をしてしまったかもと思い、恥ずかしくなり俯いた。

「大丈夫ですよ。僕が付いてます。相手は警視正一人。怖がることはありません」

 金沢は本多の肩をポンと叩いた。叩いた本人が、なんだか照れくさくなった。

「金沢さんは、なんで少年補導員をやってるんですか?」

「ん? まあ、そうですねえ。大袈裟にいえば、良い世の中を作りたい、ってことかな」

「今は、そんなに、良い世の中じゃない?」

「いや、今でも、世の中悪くない。良いところも、いっぱいあります。でも、なにか澱んでる」

「世の中を、良く変えたい?」

「出来れば。でも、すぐには無理です。だから、僕は、将来の為に、若い子達に間違った道へ進んでほしくないんですよ」

「明るい未来……なるといいですね」

「本多さんは、未来に悲観的ですか?」

「そうかもしれないですね……」

 本多は俯いた。

「……宗教を研究してると、ふと思うんですよ。私達は、もう、とっくに神に見捨てられてるんじゃないかって」

 二人は、倉庫街の中を、暗闇に向かって歩いた。

 しばし、無言が続いた。

「ああ、ここです」

 倉庫の番号を見て、金沢が足を止めた。

 待ち合わせに指定された場所だった。

 扉は開いていたが、中は暗かった。

「まだ来てないのかしら」

 二人は、ゆっくり中に入った。

 薄暗い中、三人の男が立っているのが分かった。一人はサングラスをして、ガムを噛んでいた。一人はスキンヘッドで、大きな体。もう一人は、金髪をオールバックにしていた。

「やばいっ」

 金沢は本多の手を握り、踵を返した。

 すると、いつの間にか、扉の前にも大柄な男が二人立っていた。

「ホントに土谷が来ると思ってたか? お目出たいヤツだなあ」

 サングラスの男が、薄笑いを浮かべながら言った。

「くそっ」

 金沢は扉の前に立っている男に殴りかかったが、あっさりかわされ、逆に手痛い一発をくらい、床に倒れた。

「金沢さんっ」

 本多が駆け寄ろうとしたが、すぐに取り押さえられた。

「とりあえず、縛っとけ」

 二人は、後ろ手を結束バンドで縛られ、丁寧なことに両足も結束バンドも縛られた。全く動けない状態となり、床に転がされた。

「さっさと埋めちまいましょう」

 スキンヘッドの男が、二人に近寄った。

「まあ、待て。勝田さんの指示があってからだ」

 サングラスの男が言った。相変わらずガムを噛んでいた。

 

 冴木と谷本が、暗い部屋の中で煌々と光るノートパソコンのディスプレイを覗きこんだとき、突然、部屋が明るくなった。

 慌ててドアの方を振り返った。

 そこには、土谷警視正と、冴木にとっては写真でしか見たことのなかった、勝田哲夫が並んで立っていた。

「ここは私の家だ。そう驚いた顔をするな」

 土谷が悦に入った顔で言った。

 見ると、勝田の手下らしい、強面の男が三人、後ろに立っていた。

 なにか武器を持っているのか、谷本が上着の内ポケットに手を伸ばした。

「おっと。変な動きするなよ」

 勝田の手には、拳銃M1911が握られていた。

「まさか、銃まで持ってるとはね」

 思わず冴木が呟いた。

「うるせえ。黙ってろ」

「銃って、意外と当てるの難しいのよ。出来るのかな」

「黙ってろと言っただろ。ぶち殺すぞ」

「どうせ、殺すつもりのくせに」

「分かった。今すぐ殺してやる」

 勝田が銃を構えた。

 冴木は、テーブルの上に置いた自分の銃を見た。運のいいことに、勝田達からは死角になっていた。

「まあまあ」

 土谷が、勝田の銃に手を置いた。

「聞いておきたいことがある」

「こっちも聞きたいことがある」

 冴木は、全く臆することがなかった。

「ほう。一応、聞こうか」

「最初から、このプロジェクト自体が罠だったの?」

「いや、それは違う。私は真面目な警察官だ。本気で、例の奇妙な事件を解決したいと思って、プロジェクトをスタートした。ところが、まさか鼠が潜り込んでいたとはね」

 土谷は谷本の顔を見た。

「真面目な警察官が汚職に手を出すかよ」

 谷本が苦々しく言った。

「あんまり真面目過ぎると、損をする。ちょっとお遊びも必要だ」

 土谷が笑いながら言った。

「あの二人は?」

 冴木は、本多と金沢が気になった。

「おお、そうだ。忘れてた。おい」

 土谷は勝田に目配せした。勝田はスマホを取り出し、何処かに電話をかけた。

「……ああ、俺だ。二人は? そうか、バカ正直に来たか。……そうだな」

 勝田は土谷の顔を見た。土谷は、黙って頷いた。

「殺せ」

 そう言うと、電話を切った。冴木は溜息を付いた。

「さあ、今度はこっちが質問する。どれだけ情報を持っている? 情報は何処にある? 情報の共有者は誰だ?」

 冴木の方は何も知らなかった。しかし、正直に「知らない」と言っても、「知ってるが言えない」と嘘と付いても、どうせ埒が明かない。ただ、黙っていた。

 谷本も苦い顔で黙っていた。こんな所に忍び込むぐらいなので、決定的な情報は無いのは明らかだった。しかし、土谷にとっては、些細な情報も許せなかった。

「教える訳にはいかない」

 悲痛な顔で、谷本が言った。

「分かっていると思うが、楽に死ぬか、あらゆる苦しみの果てに死ぬか、二つに一つだ」

「……」

 谷本は黙った。

「土谷さん。まず、見せしめに、この女を殺しますか」

「まあ、そうだな。それで、ちょっとは気が変わるかもしれん」

 勝田の銃口が、冴木に向いた。

「さあ、谷本さん、どうする? 話さないと、この女が死ぬぞ」

「……」

 谷本は、相変わらず黙っていた。

 谷本にとって、自分に何の感情もないことは、冴木には分かっていた。無駄なことだと思った。

「まあ、二人いても面倒だ。やってくれ」

「了解しました」

 勝田は、引き金に力を入れようとした時だった。

 冴木は、素早く身を伏せ、同時にテーブルの上の銃を手に取った。

 銃声が響き、背後のガラス窓が砕け散った。

 そのとき、突然、強烈な光が部屋を覆った。

 冴木は、あまりの光に目の前が真っ白になり、強い衝撃を感じた。

 眩しさのあまり、ほんの少しの間何も見えなかったが、ようやく周囲が見えるようになった。

 谷本がうつ伏せで倒れていた。

「谷本っ」

 小声で呼びかけても反応が無く、頸動脈に指を当てた。

 脈はあった。息もしていた。どうやら気絶しているようだった。

 改めて、辺りを見回した。

 勝田も倒れていた。だが、様子がだいぶ違った。着衣がぼろぼろに焦げて、煙が薄っすら上がっていた。こちらは、死んでいるようだった。

 その先を見ると、土谷がへたり込んでいた。普通に生きているようだが、目を見開いて、一点を見つめていた。

 土谷の目線を追った。

 男が立っていた。

 異様な男だった。全身、白だった。肌が白いのはもちろん、髪、眉毛、瞳にいたるまで真っ白だった。そして、全くの無表情で、土谷を見つめていた。

 霊感の強い冴木には、それが、生きている人間ではないことは、すぐに分かった。相当に強い力を持っているので、土谷にも、その姿が見えているのだ。

 冴木の持っている銃は、弾頭に念を込めた塩を固めてあり、霊にも効果があった。

 打つべきか。冴木は、銃を握る手に力を込めた。

 しかし、考え直した。この霊らしき男は、全く冴木には目もくれず、土谷を見つめていた。しばらく、様子を見ることにした。

「こ、こいつを、や、やれっ!」

 土谷は残りの男たちに命令した。男たちは、慌てて腰から銃を取り出し、死に物狂いのように、白い男に発砲した。しかし、弾は全てすり抜けていった。すり抜けた弾丸は、部屋のいろいろなものを破壊していった。飛び散る残骸と拳銃の硝煙が部屋に立ち込めた。

 白い男は、両腕をゆっくり上げると、両の掌から、火花が立ち上がった。

 男たちは、もう訳も分からず打ち続けていたが、もう弾はなくなって、虚しく引き金の音が響くだけだった。

 白い男の腕が振りあがった。冴木はとっさに顔を伏せた。スパークしたように、部屋が真っ白になった。

 男たちの叫び声が聞こえた。

 ゆっくり顔を上げると、男たちは皆倒れていた。

 土谷は、呆けた顔で、口をぽかんと開けていた。

 どうしようもない男だが、助けない訳にもいかないだろう。

 冴木は、素早く立ち上げって、土谷の前で銃を構えた。

「た・す・け・て……」

 背後から、土谷の掠れた声が聞こえた。

「気は乗らないけど、これも仕事よ」

 冴木は、銃を発射した。

 が、白い男は姿を消した。銃弾は、虚しく壁に掛かった鏡に命中した。ひびの入った鏡に、冴木の後ろで絶望的な顔をした土谷の顔が映っていた。

 冴木は慌てて振り返った。

 白い男は、恐怖でおののく土谷の頭を掴んでいた。

 ほんの一瞬、閃光が走った。土谷は白目を向いて、泡を吹き、そのまま、どさりと倒れた。

「駄目だったようね……」

 冴木は、銃を構えたまま、冷めた声で言った。

 部屋が静かになった。白い男は、手をだらりと下げ、ぽかんと空を見つめたまま、じっとしていた。

 突然、しかし、ゆっくりと一人の男が部屋に入ってきた。

 長い髪で、青白い顔の、若い男。まだ、十代か。若い男は、冴木をじっと見つめた。冴木も、所在なく相手を見つめた。

「戻れ」

 そう呟くと、白い男は、すぅっと若い男に吸収されるように消えていった。

 そうして、小さく呟いた。

「我々がサイキック・パンクス」

「そういうことか」

 冴木も呟いた。

 若い男は、それ以上何も言わず、じっと冴木を見つめていた。

「もっと聞きたいな。いろいろとね」

 冴木が一歩近寄ろうとした。

「来い」

 そう呟くと、再び白い男が現れた。

 とっさに冴木は身体を伏せた。

 目の前がパッと真っ白になった。だが、身体に衝撃は無かった。

 白い世界は、すぐに治まった。冴木は顔を上げた。

 そこには、もう彼はいなかった。

 冴木は、階段を駆け下りると、家を飛び出し、暗い周囲を見回した。

 誰一人いなかった。

「逃げられたか」

 冴木は、頭をポリポリ掻いた。

「まあ、いい」

 再び、冴木は室内に戻った。


 薄暗い倉庫の中で、本多と金沢は、男たちに囲まれていた。

 サングラスの男がスマホを取り出した。

「もしもし、勝田さん? ええ、ちゃんといらっしゃいましたよ、二人揃って。どうしますか?……はい、了解です」

 両手両足を縛られ、床に転がされた本多と金沢をチラリと見て、スマホを仕舞った。

「なんて言ってました?」

 しゃがんで、二人を見張っているスキンヘッドの男が言った。

「いいってよ」

「ほーい」

 スキンヘッドの男が、ジャケットの内ポケットに手をやったとき。

 パンッパンッ。

 乾いた音が二回響いた。驚いて、辺りに目をやった。

 入口に立っていた二人の男が、バタリと倒れた。頭を撃ち抜かれていた。

「誰だ!」

 サングラスの男、スキンヘッドの男、金髪の男、それぞれが銃を取り出した。

 倉庫の灯りが消えた。辺りは、真っ暗になった。

「おい、誰か、灯りを付けろっ」

 サングラスの男が大声を出した。スイッチは、入口のすぐ近くにあったはずだ。

 金髪の男が、闇雲に銃を構えながら、手探りで入口に駆け寄った。

 スイッチを入れ、部屋が明るくなった。

 本多と金沢は、変わらず横たわっており、三人の男は、てんでばらばらに銃を構えていた。

 誰かが侵入したか? 皆が感覚を研ぎ澄ましたが、倉庫は静寂に包まれていた。

 倉庫には、放置された木製のボックスが数十個、積まれてあったり、転がってあってあったりと、散乱してあった。

「お、お、おーいっ」

 スキンヘッドの男が、声を裏えして、何処かにいるかどうか分からない相手に叫んだ。

「こ、こっちには、人質がいるんだぞ。じゅ、銃を捨てて出てこい」

 本多に銃を突き付けた。

「グロック17は精密機械なの。簡単に捨てるとか言わないでよ」

 女の声が響いた。

「死ね!」

 スキンヘッドの男が、声の聞こえた方向に、出鱈目に銃を乱射した。諸々の破片が飛び散り、騒然となった。

 しかし、すぐに静かになった。

 慌てて、弾を補填しようとしたとき。

 また、パンッと乾いた音が響いた。

 スキンヘッドから血を流し、男はバタリと倒れた。

「イヤーッ!」

 本多が叫んだ。

「うるせえっ。静かにしろっ」

 サングラスの男は苛立った。また、静寂が訪れた。残りは、男二人。

 銃を持つ手が汗ばんだ。が、サングラスの男は、考え直した。

「分かった」

 引き金から指を外した。

「俺達の負けだ。降参だ」

 サングラスの男は、銃を床に置いた。

「その銃を、思いっきり蹴って」

 また、どこかから声がした。

 言われた通り、銃を遠くに蹴とばした。金髪の男にも促した。

 金髪の男も銃を置き、蹴とばした。

「いい子いい子」

 木製のボックスの山の影から、銃を構えた人影がゆっくり現れた。

 黒羽優子だった。

「すいません。助けてください」

 本多が懇願した。

「はいはい。今、助けますよ」

 黒羽は、本多と金沢に歩み寄った。サングラスの男に背を向ける状態になった。男は、背中に手を回すと、もう一丁の銃を取り出した。

 素早く、黒羽の背中に銃を向けた。

 が、それよりも遥かに早く、気付くと、黒羽は銃を発射していた。サングラスの男の頭が飛び散った。

 金髪の男は、呆然とした顔で立ち尽くしていた。

 黒羽は無表情で、もう一発撃った。金髪の男が、どさりと倒れた。

 作業を終えた黒羽は、折り畳みナイフを取り出し、結束バンドを切断した。

「あなたは?」

 本多が聞いた。

「黒羽。冴木先輩のマブダチ」

 そう行って、黒羽は笑顔を見せた。

「全員殺す必要あったのかな」

 金沢が言った。

「そう?」

 助けてもらったのに、礼より先に苦情を言う形になったが、黒羽は気にする様子もなかった。

「こうするしか出来ないから」

 そう言うと、すました顔の黒羽は、ナイフをポケットに仕舞った。

「ありがとうございます」

 本多は、深々と頭を下げた。

「呆気なかったわね。これも用意してたのに」

 黒羽が、内ポケットから、棒状のものを取り出した。金沢は、初めて見るものだが、おそらく発煙筒だと思った。自動車にあるものより、強力なものだろう。

「どうして、此処が分かったんですか?」

 本多が尋ねた。

「ああ、それはね。冴木先輩から頼まれたのよ。二人が危ないから、後をつけていくようにって」

 本多と金沢は、顔を見合わせた。

「しょうがないよ、素人だから」

 黒羽はそう言うと、服の埃を払った。


 古い蛍光灯が、頼りなく室内を照らしていた。

 壁は、薄汚れたコンクリートがむき出しで、床もカーペットが剥がされて、冷たいコンクリートだけだった。

 街の寂れた雑居ビルの三階にある一室。

 窓には、カーテンもブラインドも無く、街のネオンが入り込んでいた。

 薄いであろう壁から、外の喧噪が聞こえてきた。

 急ごしらえの長テーブルで四角に囲み、パイプ椅子が並べられた。

 という、もはや、彼らにとって馴染みの部屋だった。

 そこには、冴木紗代、宮崎友治、金沢伸、本多智恵、谷本晃、黒羽優子、と、全てのメンバーが揃っていた。

 最後、部屋に入ってきたのは、宮崎だった。

「プロジェクト復活ですか?」

 谷本は、半ばからかうように言った。

「プロジェクト自体は非公式だが……警視正が殺されたんだ」

 宮崎は頭を抱えた。

「放っておくわけにもいかないさ」

 溜息をついて、腰を下した。

「あいつは、とんでもない悪人だった」

 谷本が吐き捨てるように言った。

「分かってる……」

 事の顛末は、宮崎も聞いていた。

「……だが、世話になった上司だ……人間、一面では語れないよ」

「まあ、死んだ人の話は置いとくとして」

 冴木が立ち上がった。

「この男、見覚えある?」

 冴木は、写真を取り出した。

 あの夜、土谷の家の防犯カメラから、謎の男が映っている映像を拡大したものだった。

「……いや。ちょっと記憶にないな」

「ん?」

 横から覗き込んだ金沢が反応した。

「僕、この子、知ってますよ。確か……名前は……尾形。尾形君です」

「ふうん。金沢が知ってるってことは、不良グループの一員かなにか?」

「いやいや、むしろ逆です。不良グループから、パシリというか、イジメに近い目にあってたんで、助けたことがあるんです。気の弱そうな子でした」

「気の弱そう……まあ、そう見えなくもないか」

 冴木は、再び腰を降ろした。

「尾形ねえ。調べておこう」

 宮崎がメモ帳を取り出した。

「なあ、冴木さん」

 メモに目を落としながら、宮崎が言った。

「概要はメールで読ませてもらった。白い男が、どうたらとか」

 メールは、本多が、冴木から聞いたことを送ったものだ。宮崎に復帰してもらう為に、詳細を知ってもらう必要があった。しかし、本多にとっても、訳の分からない話で、メールにまとめることに苦労した。

「とは言っても、もう少し詳しく……というか、霊能力者、と言っていいのかな。……その君から見た、考察……のような事を、是非聞きたいんだが」

「ん? まあ、なんとなく分かったわ」

 冴木は、髪をかき上げた。

「白い男は、霊体。幽霊。オバケ。まあ、そういったもの。でも、ただの霊体じゃない。霊になることで、特殊な能力を持つことは良くあるんだけど。あいつの特殊能力は、電撃ね。強力な電気を発生させて、人を死に至らしめる。とてつもなく、強力よ。そして……こんなことは見たことなかったんだけど……あの霊は、人に操られてる。生きている人に」

「それが尾形か」

 宮崎が、メモ帳をペンでとんとんと叩いた。

「そう考えて間違いない。おおよそ、霊が人に危害を加えるときは、生前に縁のある者か、全く意味の無い無差別か、どちらか。ところが、あの霊は、その操る者の意志によって、人を攻撃する。とんでもないことを、やってくれてる。しかも、我々と言ってたわ。つまり、特殊能力を持った霊を操る人間は複数いる。全く、厄介な事」

「それが、サイキック・パンクス……」

 俯いた本多が呟いた。

「厄介ついでに、一つ、報告がある」

 宮崎は、そう言うと、上着のポケットに手を入れ、封筒を取り出した。

「私宛に手紙が届いた。……サイキック・パンクスからだ」

 皆、驚いた顔をした。

「内容は、ごく短い」

 宮崎は手紙を開いた。

「共に正義の為に戦う事を望む。賛同なら、以下に返信を。サイキック・パンクス……下にメルアドが記入してある。どうせ捨て垢だろうけどな」

「へえ。向こうからラブコールとはね」

 黒羽が茶化した。

「さあ。どう返事する?」

 すでに、宮崎はスマホを開いていた。

「悪い話ではないんじゃないかな」

 谷本が言った。

「正義の為にやってることだろ? 俺の仕事にも通じる」

「気絶してたんでしょ?」

 また、黒羽が茶化した。谷本は、無視して話を続けた。

「今の世の中、悪い奴が得をする。嫌な世の中じゃないか。正義が無いじゃないか。そんなの、うんざりだろ。良い世の中にしたいだろ」

「……」

 黙っている宮崎に、谷本は顔を向けた。

「警察は、正義の味方じゃないのか?」

「違う。我々が守っているのは、正義じゃない。我々が守るのは『法』だ」

「そうかよ」

 谷本は、失望した顔をした。

「あたしは、もう警察官じゃない」

 冴木が口を開いた。

「だから、守るべきものは何もない。嫌な世の中になろうが、知ったことじゃない。ただ、霊を祓うのが、あたしの仕事。これも例外じゃない。ただ、それだけのこと。お友達にはなれないわ」

「……僕は、良い世の中にはしたいです」

 金沢が言った。

「だから、毎日、努力して、いろんな人と会って、いろんな人と話をしています。それが、僕のやり方です。このやり方は、変えられません。お断りします。本多さんは、どう思います?」

「……ちょっと……強引過ぎる気がします」

「どうでもいいが、一応聞いとく。黒羽はどう思う?」

 宮崎が言った。

「あたしは、冴木先輩が嫌だっていうなら、それまでのことかなあ」

「じゃあ、まあ、決まりだな」

 宮崎は、スマホに指を置こうとした。

「ただし」

 冴木が遮った。

「気を付けてね。嫌だろうけど、私たちは、一つのチームになってしまったのよ。賛同しないということは、すなわち、敵となったということ。望まなくてもね。あいつらは、私たちを攻撃してくるかもしれない」

「ふっ。面白い」

 黒羽は笑った。

 しかし、本多と金沢は、真顔になって、目を見合わせた。つい先日、恐ろしい目に合ったばかりなのだ。

「……いや、でも……」

 本多が、しどろもどろに言った。

「……私なんかは、彼らに……その……脅威となる存在じゃないし……」

「相手がどう思うかは、分からないわ」

 冴木は、言い放った。

 本多は悩んだ。暗く重い空気が、皆を覆った。

「やっぱり」

 本多は顔を上げた。

「人殺しには賛同できない。これは曲げられません」

「そうか」

 冴木が笑みを浮かべた。

「まあ、あたしが守ってあげるよ」

「あとは、神のみぞ知る、だ」

 宮崎は、メールにひとこと、「否」と記入して、送信した。


 金沢は、日課の夜回りをしていた。

 当然、冴木には反対されたが、凡その場所だけ教えて、出て来てしまった。

 自分の日課を止めるのは、敵に負けたような気がして嫌だったのだ。

 もちろん、通常より、周囲を警戒していた。

 夜なお明るい街の通りを歩いた。

 コンビニの横にコインパーキングがあり、そこに数人の男女がたむろしていた。

 近付くと、まだ若い、中学生か高校生ぐらいだった。

「おい、君たち」

 金沢は近付いた。

「ああ?」

 皆、金沢の顔を見た。

「何してるの?」

 金沢は、笑顔で接した。

「メシ喰ってるだけだよ」

 一人が無愛想に応えた。

 見ると、コンビニのおでんを食べていた。

「ここはね。パーキングなんだよ。駐車したい人が困るんじゃないかなあ」

「だってさ。店入ると、金かかるじゃん」

「じゃあ、もう帰る、ってのはどうかな。また、明日も会えるだろ」

 男女は、面倒くさそうに顔を見合わせた。

「帰りたくないよ」

 女の一人が言った。

「どうしてかな」

「居心地悪い」

 吐き捨てるように言った。

「家は大事な場所なんだよ。少し我慢してみたら」

 女は、うんざりした顔をした。

「あ、こいつ知ってる」

 男の一人が言った。見ると、前にも会ったことのある顔だった。

「こいつ、しつこいんだよ」

「しつこいとか言わないでくれよ。ただ、分かってくれるまで話をしたいだけだ」

 皆は、顔を見合わせた。

「……分かったよ」

 しゃがみ込んでいた男が立ち上がった。

「帰るの?」

「帰る帰る」

「ちゃんとゴミは処分していけよ」

 男女は、無言で立ち去った。

 このまま言われた通り帰るかは、それは分からなかったが、とりあえず声を掛けるのが大事だ。

 お節介な奴がいると思ってくれれば、何かあったとき、頼ってくれるかもしれない。

 あまりにしつこくして、嫌われ過ぎてもいけなので、敢えて、逆方向に歩き出した。

 すこし歩くと、閉じたシャッターの前に座り込んでいる人が見えた。

 黒いパーカーを着て、フードをすっぽり被っていた。

 酔っ払いなら、まあいいが、薬でぐったりしているのかもしれない。

 声を掛けてみようと思った。

「こんばんは」

 歩み寄って、挨拶した。

 少し顔を上げた。フードの影から見えた顔は、まだ若い、少年だった。

「どうしたの?」

 少年は、ゆっくり俯くと、いきなり立ち上がり、駈け出した。

「おい、待てよ」

 金沢は、思わず後を追った。

 少年は、思いのほか足が早く、金沢は意地になって追いかけた。

 路地裏を駆け回り、夢中になっていた。

 途中で、はっと気付いた。そこの薄暗い路地は、潰れた店ばかりが並び、廃墟の中のような場所だった。

 まずい場所に来た。

 大通りに戻ろうと思い、きびすを返した。いつの間にか、先程の少年が立っていた。

 濁った瞳で、じっと金沢を見つめた。

「な、なんだい?」

 金沢は声を掛けた。

「来い」

 少年が呟いた。少年の背後から、何か黒い塊のようなものが飛び出した。

 大きな烏だった。バサバサっと翼を広げ、空中を舞った。

「相方も来いよ」

 また、少年が呟いた。

 すると、もう一体、背後から大きな烏が現れた。

 二体の烏は、翼を羽ばたかせて、少年の頭上を舞った。

「やれ」

 少年が呟くと、烏達は、赤く光る眼を金沢に向けた。

 一体が、真っ直ぐに金沢に向かってきた。金沢は、とっさに身を屈めた。

 烏の大きなくちばしが、背後のガラス窓にぶつかり、窓は砕け散った。

 すぐに大きな爪で、金沢を掴もうとした。

 金沢はよろけながら避けて、落ちていたビニール傘を拾い、振りかざした。

 傘は烏の頭部に、まともに当たった。普通の生き物なら、ダメージを受けるはずだったが、全く何も無いように金沢に向かってきた。

 金沢は、必死に傘を振り回した。その先で、少年が、何処かに歩き去るのが見えた。

「おい、待てよっ」

 金沢は声を上げたが、二体の烏は、絶え間なく攻撃してきた。

 つい、傘を広げて防御した。だが二体の激しいくちばしの攻撃で、あっという間に傘はボロボロになってしまった。

 金沢は、空のビールケースを投げつけた。相手の動きが一瞬だけ止まった。

 立ち上がり、駈け出した。だが、すぐに頭上で、羽ばたく音が聞こえた。

 堪らず、目の前の潰れたスナックに逃げ込もうとしたが、ドアに鍵が掛かっていた。

 慌てて逃げた。烏の大きなくちばしがドアに激突した。木製のドアに穴が開いた。

 使われなくなって放置された、金属製の工事中の大きな看板があった。それを、盾のように構えた。

 金属の看板に、二体のくちばしが、同時に追突した。

 あまりの力に、金沢は倒れた。

 金沢は仰向けの状態で、看板に隠れた。烏達は、容赦なく攻撃してきた。

 金属製の看板は、すぐに窪みだらけになった。金沢も、仰向けになったまま看板を何回も突き出した。

 烏にぶつかっているはずだが、まったく攻撃が鈍らなかった。

 くちばしは、絶え間無く看板を叩き、やがて、薄く亀裂が走った。

「ちくしょう」

 亀裂はみるみる大きくなり、四つの真っ赤な瞳が覗いた。

 もう、駄目か。

 金沢は目を閉じた。

 二発の銃声が響いた。

 そして、静かになった。

 恐るおそる目を開くと、ぽっかりと開いた穴から、夜空が見えた。

 急いで看板を跳ねのけ、立ち上がった。

 冴木と黒羽が、銃を持って立っていた。

 金沢は、二人の顔を呆然と見つめた。

「心配だから来てみたら、強い霊気を感じてね。ここに辿り着いたら、この有様よ」

「すいません」

 金沢は、素直に謝った。

「それにしても、動物霊まで操るとは」

 冴木は、言いながら銃をフォルダーに納めた。

「少年は? 少年を見ませんでしたか?」

 金沢は辺りを見回した。

「いや、見なかったわね。逃げたんじゃない? でも、もう霊体は消滅したから、とりあえず安全よ」

「そうか……彼は暗い眼をしていた」

「いまどき、珍しくもない」

 黒羽が言った。

「さあ、さっさと家にお帰り。ちゃんと結界を張ってね。子供じゃないんだから、家までは送らないけど、大通りまでは、送ってやるよ」

「本当にありがとうございます」

 金沢は、重い足取で歩き始めた。二人が、その後に続いた。

「ついでに、一杯行く」

 黒羽が笑いながら言った。

「そうね。ちょっと行こうか」

 金沢は驚いて、振り向いた。

 この状況で。

「あ、子供は、早く帰って、寝なさい」

 冴木は、金沢の顔を見て言った。


 宮崎は、一人、カウンターのある安い居酒屋で、ビールを飲んでいた。

 自宅には結界が張られてあったが、閉じ籠っていることには、うんざりだった。

 奴らに見下されているような感覚で、反発してやりたかった。後輩の冴木に守られているという感覚にも、少しだけ反発心があった。

 人が大勢いるところなら、まあ、安全だろう。

 そんな軽い気持ちだった。

 焼き鳥盛り合わせと、ポテトフライで、夕飯代わりだ。

「お隣、いいですか」

 いきなり声をかけられた。

 二十代後半と思われる女性だった。ミディアムの髪で、ほんのり茶色がかり、肌の色は白く、黒のレザージャケットを羽織っていた。

 知らない顔だった。

「はい? はい。いいですよ」

 それまで苦々しい顔だった宮崎だが、すぐに笑顔になった。

「失礼します。なんか、一人で飲むのも寂しくなってきちゃって」

「そういうこと、ありますよね」

「分かっていただけます?」

 女性も笑顔を見せた。

「いつも一人でいらっしゃるんですか?」

 女性が聞いた。

「ん? まあ、仕事帰りとかにね。最近は、付き合ってくれる奴も減ったんですよ」

「冷たい世の中ですね」

「まあ、一人も気楽でいいですよ」

「では、お邪魔でしたか?」

「とんでもない。ちょうど、一人でいることに飽きてきたとこです」

 二人は、楽しそうに会話を始めた。

「あの、お仕事は、何をなさってるんですか?

 女性が聞いた。

「仕事かあ……」

 宮崎は口ごもった。

「あ、すいません。聞かれたくなかったですか?」

「いや。別に。刑事をやってます」

「ええ、刑事。素敵ですね。カッコいいです。拳銃とか、持ってるんですか?」

「まさか。勤務時間以外は、携行してませんよ。武器は何も持っていません」

「ああ、そうですか」

 女性は笑った。

 二人の会話は弾んだ。

「刑事さんでしたら、普段から体鍛えてらっしゃるんでしょ」

「まあ、そこそこね」

「ちょっと触っていいですか?」

 女性が手を伸ばした。宮崎が身を引いた。実は、全然鍛えていなかった。

「あら、いいじゃないですか」

 女性は笑った。

「勘弁してくださいよ」

 宮崎も笑った。

「ねえ」

 女性は、すこし上目遣いになった。

「場所を変えませんか」

 そっと耳元に口を近付けた。

「二人きりになりましょ」

 宮崎は頷いた。

 女性が微笑んだ。

「そうだね……それじゃあ、会計を済ませようか」

 宮崎がポケットに手を入れた。取り出したのは、冴木から貰った塩の袋だった。

「これは俺からのおごりだ」

 宮崎は、女性に向かって塩を投げた。

「ぎゃああああああああああああっ」

 女性は、大きな悲鳴を上げた。

「こっちは三十年以上モテなかった男だ。その手に乗るかよ」

 女性は叫びながら、顔を押さえた。顔の半分が、溶けていた。

「おまえは、霊体か?」

「殺してやるっ」

 女性の爪が、突然、宮崎の喉元に向かってシュッと伸びた。宮崎は、のけぞって倒れた。

 十本の指、全ての爪が数十センチ伸びていた。空を切った爪が、ビールのジョッキに当たり、砕け散った。

 女性の目が釣りあがった。そして、腕を振り回した。

 宮崎は床を転がって避けた。

 椅子が真っ二つになって、吹っ飛んだ。

 店内が騒然となった。

 宮崎は立ち上がった。女性は爪を振りかざした。飛び上がって避けると、テーブルが割れて、陥没した。上に置いてあった食器が中を舞った。

 他の客も、事態が分からないまま、逃げ惑っていた。宮崎も、逃げた。

「死ねっ」

 女性は、再び宮崎の首元目がけて、爪を振るった。宮崎は、首を竦めて、必死に飛び逃げた。

 爪が柱に当たって、柱は砕けた。天井の板の一部が外れて、落下した。あたり一面に埃が舞った。

 店内は、客も店員も大混乱となり、調理場から煙が上がっていた。

 宮崎は逃げ回り、女性は爪を打ち振りながら、追いかけた。

 埃と煙で、店内は視界不明瞭となった。

 そんな中、脱出しようとする客が通り過ぎる出入口に立つ、二つの影があった。

「ちょっと飲みに来たつもりだけど、飲めそうな雰囲気じゃないかしら」

 冴木が言った。

「大賑わいね」

 もう一人、黒羽が言った。

 二人は、どよめく店内を眺めた。

 女性の攻撃を避けながら、宮崎は冴木と黒羽を見つけた。

「おいっ、すまんが、助けてくれっ」

「仕方ないなあ。家でじっとしていればいいのに」

 そう言って冴木は、店内に入った。

「人のこと言えないじゃん」

 黒羽は笑った。

 女性は、二人を見つけると、素早く襲い掛かってきた。

 そして、大きな爪を振りかざした。

 だが、冴木は避けなかった。爪を手の平で受け止めた。手は切られず、血の一滴も出なかった。見ると、梵字の書かれた御札が、手の平にあった。

 冴木は爪を、強く握り返した。

 女性の顔に焦りが見えた。

 勝負は一瞬だった。

 冴木は、胸のガンホルダーから、S&W M360J SAKURAを抜き、弾頭に塩を込めた弾丸を発射した。弾丸は女性のこめかみに命中した。

 女性は呆然とした顔をした。

 膝から崩れ、ばたりと横に倒れた。白い煙が立ち、足先から消えていった。

 最期は、穏やかな表情を浮かべていた。やがて、白い煙と共に消えていった。

 ほほ同時に、近くに座っていた客が、ばたりと倒れた。太って、髪がぼさぼさの、中年の男だった。

「誰だ? こいつ」

 宮崎が近付いた。

「霊を操っていた奴。霊が消滅したことで、ダメージを受けたようね」

「死んだの?」

 黒羽が顔を覗いた。

「いや。気絶してるだけ」

「成仏できない霊を操るなんて、罰当たりな奴だ」

 宮崎が、中年の男を小突いた。

「死者に対する冒涜よ」

 冴木は、そう言うと、銃をフォルダーに戻した。


 本多は、一人、研究室の中にいた。

 縦長の狭い研究室は、半分が本棚に占められ、古い本がぎっしりと詰まっていた。

 大量の本に追いやられるように、隅に机があり、机の上にも書類が山になって、さらに追いやれるように、隅にパソコンが置いてあった。

 本多は、古い文献を読んでいた。

 つい先日、近畿の古民家から発見された、江戸時代後期に書かれた古い文献だった。

 歴史的発見とまではいかないが、当時の土着宗教の有様が詳細に記述され、本多には興味深いものだった。

 紙は劣化して読みづらい箇所もあり、文字も雑で、時間もかかったが、現代語に直して、パソコンに文章を打ち続けた。

 夢中になって時間を忘れていた。

 ふと時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうという時刻だった。

 しまった、と思った。

 霊には詳しくないが、おそらく霊が活動的になる時間だ。

 自宅には、冴木の指示に従って、結界を張ってあった。どれだけ効果があるか分からないが、ある程度は安心できる。しかし、研究室に、結界は張っていなかった。

 本多は急いでタクシーを呼んだ。遅い時間の為か、少し時間が掛かるらしい。上着を手に取ると、デスクライトの灯りを消した。部屋が薄暗くなった。

 建物は静まり返り、ものすごく遠くから、水滴のような音がした気がした。

 急に恐怖を感じた。書物に没頭しているときは、何も感じなかったのに。

 早く建物の出入り口に行って、タクシーを待つことにした。たしか、警備員もいるはずだった。

 本多は、几帳面に机の上を整理し、私物をバッグに詰めた。部屋の鍵を手に取り、あとは部屋を出るだけだった。

 ドアに近付くと、先程遠くから聞こえた水滴のような音が、随分と近くで聞こえた。雨は降っていなかった。トイレの場所は、離れていた。

 本多は、気になってしまい、動きが止まった。

 よく聞いていると、音は近付いて来るようだった。

 そして、徐々に音が鮮明になると、水滴とは違うようだった。何か、ずぶ濡れのものを引きずるような、ビシャ、ビシャ、という音だった。

 訳が分からないが、本多はゾワッとした。今ドアを開けると、何かと鉢合わせになるような気がして、扉の前で息を潜めた。

 音が離れていくことを望んだが、希望に反して、ビシャ、ビシャ、という音は確実に近付いてきた。

 どうしよう。

 本多は、口に手を当てた。音は、すぐ近くまで来ていた。

 じっとしていると、音が止まった。

 再び静寂に包まれた中、本多は様子を窺った。何ともいえない、嫌な気配を感じた。

 本多は固まっていた。時間だけが過ぎた。おそらく数分も経っていないが、おそろしく長い時間に感じた。

 何もいないかもしれない。

 鳥肌が立つほどの嫌な気配は相変わらずだったが、ドアノブを握りしめた。

 おそるおそるドアを開けた。隙間から見えるのは、薄暗い廊下だけだった。

 なおも開けたが、相変わらず変化はなかった。勇気を出して、ドアからするりと身を出した。

 ドアの死角に、そいつは立っていた。

 例えるなら、大きな頭陀袋だった。びしょ濡れの頭陀袋。それが立っていた。いや、立っているように見えた。

 本多と同じくらいの高さで、もし目があるとすれば、じっと本多を見つめているようだ。

 そして、ゆっくり近付いてきた。ビシャ、ビシャ、という音が響いた。

 やがて、もし顔があるなら、口と思わしき場所が、ゆっくり開いていき、黒い穴となった。

 本多は慌てて部屋に戻ろうとした。黒い穴から、何かが飛び出した。

 慌てて手を引き込めると、ドアノブに、どろどろとした、どす黒い液体がこびりついていた。

「なにっ、これっ」

 本多は叫んで、退いた。黒い穴から、再び液が飛び出した。素早く飛び跳ね、間一髪避けた。

 黒い液体が、びちゃりと床に広がった。

 本多は恐怖のあまり、体が動かなかったが、それでも、出来る力を振り絞って踵を返し、駈け出そうとした。

 穴から、黒い紐のようなものが伸びた。それは、素早く本多の方に進み、あっという間に本多に追い付くと、足に巻き付いた。

 本多は転倒した。

 倒れた状態で振り返ると、びしょ濡れの頭陀袋が、それには顔などないのに、笑っているように感じた。

 強い力で、紐が引っ張られた。本多の体が引きずられた。黒い穴は、くわっ、と、より大きくなった。

 本多は、何かに捕まろうと、手を伸ばしたが、虚しく壁を引っ掻くだけだった。

 頭陀袋は、刻々と迫っていた。

「あっ、そうだ」

 本多は思い出した。冴木から貰った、塩の小袋があることを。急いでポケットから袋を取り出すと、歯で袋を千切って開けた。

蘇婆訶(そわか)!」

 無意識に、そう叫ぶと、塩を投げつけた。

 凄まじい咆哮が響いた。頭陀袋が身をよじった。

 本多を掴む紐の力が一瞬強くなったが、すぐに弱々しくなり、するすると解けていった。そして、黒い煙と共に、蒸発するように消えていった。

 本体からも、黒い煙が立ち上がり、激しく身を震わせていた。その体は、蒸発するように、煙と一緒に小さくなっていた。

 もし顔があるなら、その部分が最後に残り、もし眼あるなら、悲しそうな眼をしていた。やがて、それも消え、黒い煙だけが残った。

 本多は、後の事は構わず、走り去った。


 寂れたビルの、いつもの一室に、全員が集まっていた。

 深夜になり、近くの街頭の点滅した灯りが、部屋にも差し込んだ。

 部屋には結界が張られていた。

 四方に盛り塩を置いて、四方の壁に御札を貼るという古典的な方法だが、冴木によると、これで案外効果があるらしい。

 冴木、黒羽、宮崎、本多、金沢、谷本は、いつものように座っていた。

 今回、特別ゲストがいた。

 椅子にロープで縛られた、太って、髪がぼさぼさの、中年の男。居酒屋で気を失っていた男だった。

「財布に免許証があった。名前は、風間貫太(かざまかんた)。住所も分かった」

 宮崎が言った。風間は黙っていた。捕まってから、ずっと黙っていた。しかし、冷静な様子ではなく、おどおどした様子で、皆の顔をちらちら見ていた。

「なあ、なんでもいいから、喋ってくれないかなあ。サイキック・パンクスのこと」

 疲れた様子で、宮崎が言った。風間は、何も言わなかった。

 警察としては、逮捕する理由が無かった。違法な拘束を続ける事になり、気が進まなかった。

「埒が明かないわ」

 冴木は髪をかき上げた。

「拷問しようか」

 黒羽が言った。現役警察官の言葉ではなかった。

「それは駄目です」

 本多が言った。

「そうです。相手が誰であろうと、基本的人権は守らないと」

 金沢も続けて言った。

「じゃあ、どうする?」

 黒羽が金沢の顔を見ながら言った。

「説得してみましょう」

 風間は金沢の顔を見た。一瞬、助けを求めるような顔に見えたが、すぐに暗い顔に戻った。

「……無駄だよ。何も言えない……」

 風間が小さな声で言った。

「なんだ。喋れるじゃん」

 黒羽が、頬杖をつきながら言った。

「どうだろう」

 谷本が口を開いた。

「こんだけ、ズラッと取り囲まれてたら、圧で、話せるものも話せないんじゃないかな。ここは、俺と二人きりにして、じっくり話をさせてくれないか。俺は、仕事柄、話を聞き出すのは上手いほうだ」

「いい考えだけど、今は、やめたほうがいい」

 冴木が言った。

「奴らは、風間を奪還したいでしょう。どう動くか分からない。今は、全員一緒にいたほうがいい」

 全員……というか、冴木と一緒にいるほうがいい。

 宮崎は思った。

 冴木の、圧倒的な力が無いと、皆を守ることが出来ない。それが現実だ。

「とりあえず、明るくなるまで、こうしているしかないわね」

「朝までかあ。暇だなあ。やっぱり、拷問する?」

 黒羽が言った。

「ダメです」

 金沢が反対した。黒羽は、はいはいと言うように、手を振った。

 風間は、青い顔をして、キョロキョロしていた。

 皆は黙った。

 時間が経つのは遅かった。

 暇を持て余し、黒羽や谷本、本多さえも、スマホをポチポチと弄りだした。

 冴木は、腕を組んで、椅子に深く寄りかかり、起きているのか寝ているのか、目を瞑っていた。

 あまりに静かで、空調の音が響き、たまに通る車の音が外から響いた。

「すいません」

 本多が、おずおずと立ち上がった。

「ちょっと、おトイレに……」

 共有トイレは、部屋から少し離れた場所にあった。

「危ないですから、僕が一緒に行きます」

 金沢が言ったが、それは本多には、少し恥ずかしかった。もし一緒に行ってくれるなら女性がよかったが、冴木も黒羽も無反応だった。

「いえ、大丈夫です」

 本多は金沢を制した。

「でも安全の為に……」

「金沢君はデリカシーが無いなあ」

 谷本が言った。デリカシーの無さそうな男に言われたので、金沢は少しヘソを曲げた。

「分かりました。気を付けてください」

 本多は部屋を出た。冴木は、それを見つめていたが、また、目を閉じた。

 しばらく、風間を除いて、まったりしていたが、突然、女性の悲鳴が聞こえた。

「なんだ?」

 宮崎や金沢が驚いた顔をしている中、冴木は素早く立ち上がり、脱兎の如く部屋を飛び出した。

 他のメンバーも、それに続くように、急いで走り出した。

 廊下を走って、共有トイレに向かうと、出入口の前まで来た。見ると、本多が立っていた。

「今、叫び声が聞こえましたね」

 冴木の顔を見た本多が言った。

「え? あんたじゃないの?」

「違いますっ。……多分、外の方から聞こえました」

「外ね」

 冴木は走り出し、非常扉を開けた。

 何もいなかった。

 すぐさま、階段を駆け下りた。建物の入口まで来た。冴木は、辺りを見回した。

 人っ子一人、猫の小一匹居なかった。

「なんだったんだ?」

 宮崎が言った。冴木は振り返った。そこには、いつの間にか全員揃っていた。冴木は、はっとした顔をした。

「やられたわ」

 冴木は、また全力で走り出した。冴木の素早さに付いていけるのは黒羽だけだった。

 他の皆は、息を切らせながら、階段を昇った。

 一足早く冴木が部屋に付くと、半開きになっていたドアの前で、一旦止まった。

 銃を取り出すと、ゆっくりドアを開き、中を見た。構えていた銃を降ろした。

「こりゃ、思いっきり、やられたねえ」

 後から部屋に入った黒羽が言った。

 椅子に縛られた風間の足元に血だまりが出来ていた。

 口をぽかんと開け、目は空を見つめているようだった。

 ナイフが、胸、ちょうど心臓の辺りに、突き刺さっていた。

「死んでるか?」

 間を置いて入ってきた宮崎が近付いて、念の為、脈を確認した。有るはずは無かった。

「気の毒なことをしたな……」

 宮崎が呟いた。

 本多は、小さく悲鳴を上げ、顔を背けた。

 冴木は辺りを見渡した。

 盛り塩は全て無残に崩され、四方の御札も破られていた。

「攻めてくるわ」

 冴木は、改めて銃を構えた。

 背中を合わせるように立ち、黒羽も銃を構えた。黒羽自身に全く霊能力は無いが、黒羽の持つグロック17には、冴木手製の塩が固められた銃弾が装填されていた。

 宮崎も銃を取り出した。宮崎の持つグロック19の弾丸も同様だった。

 目の前の空間に、突如、つーっと線が走った。驚いて見つめていると、線にそって空間にぱくっと穴が開いて、真っ暗な闇が見えた。

 驚いた宮崎が銃を向けた。空間の穴は、すっと消えた。

「なんだ、これは?」

「分からない」

 冴木も困惑した。

 全く別の場所で、またつーっと線が走り、穴が開いた。暗闇の中に、ぎらりと目が見えた。

 今度が、黒羽が銃を発射した。乾いた銃声が響いたが、穴は瞬時に閉じ、うしろの壁に弾丸が刺さった。

「気をつけて。こいつ、空間を移動出来る」

 冴木が警告した。

 皆、訳の分からないまま、辺りを見回した。

 本多も、怯えて周囲を警戒した。しかし、冷静では無かった。真後ろの空間に穴が開き、ぬっと黒い腕が飛び出し、本多の髪を掴んだ。

「いやあっ」

 本多が叫んだ。

 すぐさま冴木が発砲した。すばやく腕は消え、またも虚しく壁に命中した。

 どこから来るか分からなかった。

「気を付けて。特に、丸腰の金沢……」

 冴木が言い終わらないうちに、金沢の側にぽかりと穴があき、真っ黒な拳が繰り出された。金沢は、かろうじて避け、床に倒れた。

 拳は空を切り、コンクリートの壁に当たると、轟音と共に大きな穴が開いた。凄まじい力だった。

 黒い拳は攻撃を止めず、金沢目がけて繰り出した。金沢は転がって、かろうじて避けた。今度は、床に大きな跡が出来上がった。

 黒羽が銃を向けると、またもや消えた。

 金沢は、腰を抜かしたように、床にへたり込んでいた。

「おいおい。いつまで寝てんのよ」

 黒羽が金沢に手を貸した。一瞬の油断が出来た。黒羽の、すぐ真後ろの空間に穴が開いた。

「危ないっ」

 冴木が黒羽を付き飛ばした。その瞬間、拳が繰り出された。冴木の頭部に、まともに激突した。大きく鈍い音が、部屋に響いた。

 目の前が真っ白になった。

 だめだ。ここで、落ちる訳にはいかない。

 冴木は気力を振り絞った。

 拳を掴んだ。そして力まかせに、穴から引きずり出した。激しく抵抗されたが、冴木は意識が遠のきそうになりながら、死力を振り絞った。

 やがて、ずるっと、真っ黒の体の上半身が、穴から引きずりだされた。

「やっと会えたね」

 そう言うと、顎の部分に銃を当てた。そして、引き金を引いた。

 真っ黒い頭が吹っ飛んだ。

 皆、呆然自失で見守った。煙と共に、真っ黒い男が消えていた。

 冴木が、バタリと倒れた。


 朝になって、寝る暇も無く、宮崎達は動き出した。

 冴木は昏睡状態のまま、病院に搬送された。

 意識がいつ戻るか分からなかった。冴木が居なくなってしまうことは、大きな痛手だった。

 何時何処で攻撃されるか分からない。昼間でも安心出来ない。霊は、昼間でも活動できるのだから。

 それでも、夜のほうが、より活動的らしい。

 ならば、夜になる前に、こちらから動くしかない。霊の存在は脅威だが、それを操るサイキック・パンクスは生身の人間だ。勝つ為には、そこを狙うしかない。

 出来ることから。

 風間の住所は分かっていた。そこに向かった。

 古いアパートの一室だった。

 谷本がピンを使って、鍵を開けた。旧式の鍵だったので、大して時間は掛からなかった。

「いつも、そういうことやってんのか?」

 宮崎が呆れたように言った。

「これも、ジャーナリズムの一環」

 谷本は笑うと、ドアを開けた。

 薄暗い部屋には、ビールの空き缶や、ゲームのソフトが散乱して、酷く散らかっていた。コンビニの袋には、食べ残しの缶詰めが無造作に詰められ、ショウジョウバエが飛び交っていた。

 本多は顔をしかめた。

「あの……」

 部屋の中をあさり始めた宮崎に、金沢が話しかけた。

「僕たちもいなくちゃ駄目ですか? こういう事は慣れてなくて」

「一緒にいた方がいいだろう。そのへんで見ててくれればいい……あれ、黒羽は?」

 途中まで一緒にいた黒羽が、いつの間にか消えていた。

「ああ。なんか、用事を思い出したとか言って、どこか行きましたよ」

「相変わらず、自分勝手な奴だ」

 宮崎が言った。一応、警察官の一人だが、彼女を制御出来るのは、冴木だけのようだった。

「パソコンがあるな」

 谷本が言った。薄汚れた炬燵の上に、無造作にノートパソコンが置いてあった。

「……どうせ、パスワードを突破することは難しいだろう。後で鑑識にでも持っていくか。まだ生きてたらな」

 宮崎は、そう言いながら、一応ノートパソコンを開いた。そこには、当然ながら、パスワードが付箋に貼ってあるようなことは無かった。諦めて、再び閉じた。

 何かサイキック・パンクスに繋がる手掛かりはないか。

 宮崎と谷本は、部屋を探した。引き出し、本棚、箪笥、果ては洗濯機の中まで探した。

 本多は、ただ立っていることしか出来なかったが、金沢は、おそるおそる、ゴミ袋の中を覗いたりした。

 なかなか有力な情報は出てこなかった。

 時間だけが過ぎた。

 宮崎は腰を降ろして、一息入れていた。

 谷本が、引き出しを探り始めた。

「そこは、何回も見たよ」

 宮崎が力無く言った。

「いや、ちょっと、待て」

 谷本は一枚の小さなメモ用紙を摘まみ上げた。

「これ、ちょっと見てくれ」

 そこには、「パジャム 尾形」と書いてあった。

「尾形、と書いてあるな。パジャム?」

 宮崎が驚いて言った。

「ああ、知ってます。街外れにある、ライブハウスですね。ただ、もう潰れましたが」

 金沢が、メモを覗きながら言った。

「ライブハウスって、地下ですか?」

 本多が聞いた。

「ええ、地下ですね」

「やっぱり。もし、まだ箱が残っているなら、防音はもちろん、光も遮断されて、彼らにとっておあつらえ向きだと思います」

 本多は推測した。谷本がニヤリと笑った。

「へえ。面白いね」

 いつの間にか、黒羽が居て、メモを覗き込んだ。黒い布で巻かれた、何か長細いものを持っていた。

「乗り込むか」

 宮崎が言った。

「行きましょう。場所は僕に任せてください。街外れですが、ここから、案外近いです」

 金沢が、そう言うと、皆黙って頷いた。

 そうして、皆部屋を出た。いつの間にか、昼になっていた。

「腹減ったなあ」

 谷本が言った。

「呑気な奴だ」

 宮崎が呆れた。

「ああ、ちょうどいいですよ。パジャムの対面に、寂れたレストランがあるんです。まだ、潰れてなければ。そこで、休憩しつつ監視しましょうか」

 金沢が言った。宮崎は、水を差されたような気分だったが、確かに腹は減っていた。

「そうするか」

 五人は、金沢を先頭に歩き始めた。

「おっと、あんたは待った」

 黒羽が本多の腕を掴んだ。本多は驚いて振り向いた。

「あんたは、これを持って、冴木先輩のところに行って」

 黒羽は黒い布に包まれたモノを渡した。本多は、少しだけ布を捲って、中を見た。

 日本刀だった。

十鬼丸(じっきまる)。最強の武器だけど、冴木先輩しか扱えない」

「え? これを、私が持っていくんですか? どうして?」

「これを持って、寝坊助の冴木先輩の目を覚まして」

「いやいや、無理です。冴木さんは、まだ昏睡状態ですよ。私がどうやって……」

「あんたなら出来る。悔しいけど、あたしじゃない」

 本多は途方に暮れた。

「まあ、とりあえず、冴木先輩の傍にいてよ。後は、なるようになるさ」

 黒羽は、本多の肩を叩いた。

「白雪姫の目を覚まして」

 そう囁くと、皆を促し、先へ行ってしまった。

 本多は、刀を抱きしめ、一人取り残された。


 一同は、金沢の言うレストランに付いた。

 チェーン系のファミリーレストランではなく、定食屋とも中華料理屋とも違う、今どき珍しい、個人経営のレストランといった雰囲気だった。

 客は少なかった。なので、窓際の席に陣取ることが出来た。

「なるほど。あれか」

 宮崎が窓の外を見た。

 道路を挟んで、反対側の雑居ビルの入口に、「パジャム」の看板があった。その上に、閉店のお知らせの紙が貼ってあった。だいぶ前に貼られたものらしく、ぼろぼろになっていた。

「あの様子だと、店も、そのままの状態で放置されてんじゃないかな」

 いよいよ来た。今回が決戦になるかもしれない。

 宮崎は、気持ちを落ち着ける為、水を一口飲んだ。

 刑事をやっている習性で、なるべく簡単に食べ終われそうなものを頼む。今回は、カレーライスを頼んだ。

 隣の黒羽もカレーライスを頼んだが、すぐに寝てしまった。

 正面に金沢が座っていた。

 宮崎には危惧があった。

 何回も危険な現場を経験してきた。最初は、緊張感を持っていても、ちょっとした間が開くと、気持ちが落ち着いていく。そうすると、急に恐怖心が湧いてくる。一度恐怖に捕らわれると、止めどもなくなる。そうして、恐怖は伝染していく。

 黒羽は問題ない。谷本も大丈夫そうだ。心配なのは、若い金沢だった。

 恐怖は、冷静さを失わせ、ときに判断力を鈍らせる。

 しかし、金沢の気持ちを冷静に保つ、その方法が分かるほど、宮崎は器用ではなかった。

「実は、俺の父親も警察官だったんだ」

 とにかく沈黙が嫌だったので、宮崎は話を切り出した。

「だった、とか言うと、死んじまったみたいだけど、まだまだ、全然元気だよ。まあ、警察は退職したけどな。優秀な刑事だったらしい。表彰もされてたなあ。子供の頃は、父親に憧れてたもんだ。刑事ってカッコいいしな。だけど、思春期になると、家庭を顧みない父親に反感を持つようになった。こっちは、母親の苦労ばっかり見てるからな。ガキだった俺は、父親が母親を労っているようには見えなかった。ちょっと、やさぐれた時期があったよ。結局、俺が母親に迷惑かけてるんだから、しょうもない話だ。だけど、父親は怒らなかった。注意ぐらいはされたかな。でも、ひどく怒られた記憶はない。あのとき、父親は何を考えていたのか、俺には分からん。その当時の俺は、父親に見捨てられると思ったよ。勝手にしろ、とも思ったし、悲しいとも思った。複雑な心境だったよな。気が付いたら、警官を目指していた。その事に関しても、父親は何も言わなかった。応援するでもなく、反対するでもなく。そして、特に念願というわけでもなく、流れのまま警官になった。そのときは、父親は喜んでいたかな」

 宮崎は、思いつくまま、話を続けた。

「それからが、大変だったよ。なにしろ、生まれつき不器用だから。出来の悪い警官だったな。でも、署内でよく言われたんだよ。今は世代も変わって、言われることは無くなったけど。俺の事を知ると『君のお父さんは優秀だったよ』ってね。『それに比べて』とは言われなかったけど、まあ、そういう目をしていた。俺の被害妄想かもしれんが。これは辛かった。辞めようかと、いつも思ってた。だけど、結局、ずっと父親の背中を見てたんだな。他の仕事が出来る気がしなかったんだ。俺にはこれしかないんだなあ、と諦めた」

 金沢は頷きながら聞いていた。

「……昔、ちょっとした事件があった。夜、通報があった。喧嘩。夫婦喧嘩だよ。あんまり激しいんで、近所が通報したんだな。駆けつけたら、もう遅かった。女房が旦那を、包丁で刺していた。旦那は生きてたよ。血を流して、呻いていた。女房は、虚ろな顔をして、座り込んでた。返り血を浴びたまま。惨状だな。……子供がいたんだよ。まだ小さい子供だ。泣きじゃくってた。パパ、ママ、と言いながら、ずっと泣いていた。俺は、どうしたらいいか、分からなかった。だけど、全く場違いな気持ちが、ふと頭をよぎった。自分の父親と母親に対する感謝の気持ちだ。……忘れられない事件の一つだなあ」

「……僕は母子家庭なんです」

 金沢が口を開いた。

「あ、それは、スマン」

「いえいえ、大丈夫です。気にしないでください。僕は、引け目とか感じてないですから」

 宮崎につられるように、金沢も話を始めた。

「母は、十代で僕を妊娠して、出産後、すぐに離婚したんです。父のことは、良く知りません。今でも、多くは語りませんから。ただ、ろくでなし、とは言ってました」

 金沢は苦笑いを浮かべた。

「母は僕を育てる為に、水商売をしていました。今は、昼間の仕事をしていますけどね。当時は、夕方に家を出て、そのまま僕は一人で寝ました。でも、朝には、ちゃんと母に起こされました。多分、あんまり寝てないと思うんですけどね。母はきちんとした人です。例えば、男と一緒に帰るようなことは一度もありませんでした。家でお酒を飲んでいるのも、見たことないです。……どうってことない出来事なんですが、何故かずっと印象に残っている事があります。まだ、小学生低学年頃だと思うんです。いつもは夜寝たら、朝まで起きないんですが、その夜は、何故か真夜中過ぎに目が覚めて、そのまま眠れなかったんです。子供ですからね。怖くて、寂しくて、泣きそうになったんですよ。といっても、もう赤ちゃんじゃないですから、ぐっと一人で堪えていました。そうしたら、母が帰ってきたんです。あんまり嬉しかったんで、思わず駆け寄ったんです。ちょっと泣いてたかもしれません。母は、起きている僕を怒ることもなく、優しく抱きしめてくれました。紙袋を持っていました。『鯛焼き食べる?』って言いました。帰りに買ってきたんですね。僕は、無言で頷きました。母は、鯛焼きを二つに割って、頭のほうを僕にくれました。焼きたてで、餡子たっぷりで、美味しかったです。二人で『美味しいねえ』と言いながら食べました。今でも、あの味は忘れられません」

「うん。美味しい」

 黒羽が寝ぼけて呟いた。

 金沢は、思わず笑った。

「おいおい、あれ見ろっ」

 谷本が、外を指さした。

 一人の若い男が、目の前の通りを歩いてきた。

「あれ、尾形じゃないか?」

「あっ。本当だ。あの人、尾形君です」

 金沢には、はっきり見覚えがった。

 尾形は目の前まで来ると、雑居ビルの地下に降りて行った。

「よし、行くぞ」

 宮崎は、涎をたらして寝ている黒羽を、肩でどついた。


 四人は雑居ビルの、地下に通じる階段に向かった。

 電灯は消えており、少し歩みを進むと真っ暗になった。

 宮崎は、携帯している小型の懐中電灯を取り出したが、とても小さな光で、足元の階段を照らすのがやっとだった。

 皆、ゆっくりと階段を降りた。

 階段が終わったのが分かった。地下フロアに着いたのだ。

 暗い中、大きな扉が目に入った。

 宮崎と黒羽は、銃を取り出した。

「俺にも銃をくれよ」

 谷本が呟いた。

「悪いな。予備は無いんだ」

 宮崎も小声で言った。黒羽も、首を横に振った。谷本は肩をすくめた。

「開けるぞ」

 宮崎が扉に手をかけた。ライブハウスの扉は、分厚く重かった。

 ゆっくり扉が開いて、真っ暗な室内を覗かせた。

 黒羽が銃をかまえたまま、素早く中に入った。何も反応が無く、他も、後から続いた。

 さほど広くないライブハウス。暗い中、黒羽が銃を構えてじっとしていた。

 がらんとした空間で、舞台と思しき場所に、古い機材が放置されていた。

「誰かいるようですか?」

 懐中電灯を持っている宮崎に、金沢が聞いた。

「さあ。誰もいる気配は無い。尾形は、確かに地下に行ったよな……。地下には、他に何かあるか?」

「いや。僕の知る限り、このライブハウスだけです」

「そうか……」

 宮崎は、がらんとした室内を照らした。徐々に、暗闇に目が慣れてきた、その時。

 突然、灯りが点いた。

 皆は、眩しさで、思わず目に手をかざした。

「皆さん、ようこそ」

 スピーカーから声が聞こえた。

 皆は、慌てて辺りを見渡しが、姿は無かった。

「お待ちしてましたよ。ちゃんと話をしましょう」

「よしてよ。照れるわ」

 黒羽が言ったが、銃は構えたままだった。

「皆さんは、正義感があると思ってます」

 尾形、と思われる声は、話を続けた。

「今の、悪人がのさばる。我が物顔で振る舞う。この世界。おかしいと思いませんか」

「……確かに、嫌な世の中だ」

 宮崎が応えた。

「ですよね。良くしたいと思いませんか。もっと、理想の世界を作りたいと思いませんか」

「理想、ってなんだろうね。俺には分からん」

「そうやって、皆、理想を追求しようとしない。自分の周りの狭い事しか考えてない。汚い事からは目を逸らしてばかりだ」

「皆、自分のことで、精一杯だからだ」

 スピーカー越しに、宮崎と尾形の会話が続いた。

「愚かなことだ。社会が良くならなければ、生活も良くならないのに」

「じゃあ、次は、選挙に行くといい」

「馬鹿々々しい。政治家は利権まみれだ。奴らには、何も出来ないし、やろうともしない。だから、我々が世の中を良くするんです」

「それが人殺しか」

「そういう言い方は心外です。世の中の掃除ですよ。まずは、身近な街の掃除から」

「掃除って、それは、酷いだろっ」

 思わず、金沢が叫んだ。

「人の命をなんだと思ってるんだっ……僕を覚えているか」

「もちろん。金沢さん。クズみたいな連中に絡まれてるとき、助けてくれました。だけどね、金沢さん。あなたは、いいことをしたと思って、その日は、さぞかし気分が良かったでしょうが、こっちは、暗黒のような毎日の、ほんのちょっとした出来事に過ぎないんです。また、暗黒の日々が続くだけ」

「そんな事言うな。いつでも、相談に来てくれればよかったんだ」

「なぜ、あなたを信用出来るのですか。僕の暗黒の日々を知りもしないのに。……でも、まあ、いいです。僕は、力を手に入れた。もう、昔の僕じゃない。光に包まれた毎日、そんな気分です」

「光、ってのは、適当だからなあ」

 黒羽が呟いた。

「それで、どうしますか。我々の仲間になりませんか。僕の元で働きませんか」

「人殺しの手助けは出来ない」

 金沢が力を込めて言った。

「……法の番人……それしか、脳の無い男だ」

 宮崎も言った。

「そうですか。少し期待していたんですけどね。仕方ありません」

 ブツっと、スイッチの切れるような音がして、声が途切れた。

 辺りを窺ったが、音一つしなくなった。ホール内は、静まり返った。

「お、俺は、ちょっと、隠れるよ」

 突然、谷本が逃げようとした。

 怖気づいたのだろうか。宮崎は、慌てて、谷本の腕を掴んだ。

「待てっ。一緒にいたほうがいい」

 四人は、ホールの真ん中で、それぞれ背中を向け、周囲に目をこらした。

「あそこっ」

 金沢が、壁の一方を指さした。

 白い煙のようなものが、ぼんやり浮かんでいた。そして、徐々に、煙のようなものが塊になり、やがて形になり、くっきりと姿が見えるようになった。

 白い男だった。


 本多は、病室で立っていた。黒い布に包まれた、日本刀、十鬼丸を握りしめて。

 目の前に、冴木が機械に繋がれ、眠っていた。

 心電図の音が、規則正しく響いていた。

 二人きりになったところで、どうしたらいいか分からなかった。

 軽くて冴木に手を当て、少しゆすってみた。

 そんなことで、起きる訳もなく、冴木は穏やかな寝顔を見せていた。

 あんまり揺するのは、身体に良くないかも。

 本多は手を引っ込めた。

 自分には、何か力があるのか? 少なくとも、黒羽は、そう思っているようだった。

 霊感……というものだろうか。それは、確かに人より強いのかもしれない。昔から、他人には見えないものが見えていた。

 しかし、昏睡している人間を、どうしたらいいのだろうか。

 自分の力を信じるか。

 本多は、冴木に右手をかざした。そして、念を込めた。

 目覚めて。目覚めて。

 右手に力を込めて、神経を集中した。

 目覚めて。目覚めて。目覚めて。

 何か右手が熱くなったような気がして、より力を込めて念じた。

 精一杯の力を込めた。

 ……何も起こらなかった。

「バカバカしい」

 本多は、すっと力が抜けて、椅子に座った。溜息をついて、冴木の顔を見つめた。

「どうしよう……」

 このまま夜までいるか。

 本多は、他の四人が何処に行ったかは知っている。だが、何が起きているか知る由もなかった。

 案外、何も起きていないかもしれない、とも思った。

 また、皆で集まって、冴木の回復を待てば。

 頭に埋められたチタンのおかげで、脳に損傷は無かった。命に別条はないのは分かっていた。しかし、昏睡からは覚めない。

 本多は、そっと冴木の手を握って、寝顔を見つめた。

 今、目覚めさせることが、冴木の為に良いことなのだろうか。

 冴木自身、目覚めることを望んでいるのだろうか。

 このまま、静かに眠っているほうが、幸せなのではないか。何も聞かず、何も見ず、ただ眠っていることが、幸せではないか。

 なんだか、本多も眠くなってきた。

 本多は、冴木の脇に顔をうずめた。病院の個室は、とても静かで、心地良かった。

「……そういえば、黒羽さん、なんか言ってたな。……たしか……白雪姫とか……」

 本多は、はっと体を起こした。

「白雪姫……」

 それは、黒羽が、なんともなく思い付きで言っただけの言葉だった。

 だが、白雪姫は、王子様のキスで目覚める。

「もしかしたら……」

 本多は、冴木に顔を近付けた。

 そして、ゆっくりと唇を……

「いやいやいや。無い無い」

 本多は思いとどまった。

「だいたい、王子様じゃないし」

 本多はへたり込んだ。

 しばらくぼうっとしていたが、ふと思い出した。白雪姫の別ヴァージョンを。

 白雪姫の背中を叩くと、喉に詰まっていたリンゴが喉から飛び出し、息を吹き返す、という話だ。

 背中を叩いてみるか。

 いや、喉には何も詰まっていない。

 本多は考えた。

 何かが詰まっているとしたら、頭か。頭の何処かに、見えない何かが詰まっているのだ。それが、目覚めを妨げている。

 ふと、ずっと握っていた刀を思い出した。

 この刀には力があると聞いた。

 自分の力と、刀の持つ力を合わせれば。本多は、布を捲った。黒い鞘を纏った刀が姿を現した。

 柄を握ると、何か不思議な、強い意志のようなものを感じた。後は、この刀に任せればいい。そう思えた。

 そっと、刀のこじりを寄せ、導かれるように、冴木の頭部に近付けた。

 そして、こつんと軽く当てた。

 突然、冴木の目が開いた。

 がばっと起き上がると、周囲を見渡した。

 本多に気付いた。

「どれくらい寝てた?」

「いや、半日か、そこらです」

「寝坊したわあ」

 冴木は髪をかき上げた。

「皆は、どうした」

 本多は、経緯を簡単に説明した。

「すぐに行こう」

 冴木は、本多から刀を奪うと、ベッドから飛び起きた。

「あの、体は大丈夫なんですか?」

「昏睡には慣れてる」

 冴木は笑った。


 宮崎、黒羽、金沢、谷本の前に、白い男が現れた。

 宮崎のグロック19と黒羽のグロック17が、同時に発砲した。

 だが白い男は、姿を消した。

「命中したかな?」

「分からん」

 周囲を見回した。

 どこにも姿は見えず、再び静寂が訪れた。

「やっぱり、やったんじゃない?」

 黒羽は言ったが、注意は怠らなかった。

「だといいが」

 宮崎は、左右に注意を向けた。

「あっ、出たっ」

 金沢が、一方の壁を指さした。

 壁の前に、おぼろげな白い男が浮かび上がっていた。

 黒羽は振り向きざま、金沢の目の前で発砲した。

 金沢は、思わず仰け反った。

 白い男は、一瞬で消えた。

「こっちだ」

 今度は、反対側の壁に姿を現した。

 宮崎が発砲した。

 が、すぐに消えた。

「これ、もぐら叩きね。きりがないわ」

 黒羽が言った。

「そう言っても、止める訳にもいかないだろ。話だと、奴の電撃を食らうと、お終いだ」

 宮崎は、焦燥した顔で言った。言っているうちに、今度は、舞台上に現れた。

 黒羽が銃を連射した。

 機材が砕け、飛び散った。しかし、白い男の姿は無かった。

「ちっ」

 黒羽は、素早く弾倉をチェンジした。

「さあ次は、どちらかな」

 黒羽が言ったが、反応は無く、静かだった。

 四人は、四方を見渡した。しばらく、動きが無かった。

「いませんね」

 金沢が言った。

「そうだな……」

 言いながら、宮崎は、ふと上を見た。

 いた。

 白い男は、天井に張り付いていた。

「逃げろっ」

 宮崎が叫んだ。

 四人は、四方に散った。

 直後、稲妻が走った。床を直撃し、黒い跡が出来た。

 初めてみたが、凄まじい威力だ。

 宮崎は慄いた。しかし、黒羽は逆のことを思っていた。

 もっと、大きな力を想像していた。確かに、直撃すればダメージは大きいかもしれないが、複数人を一度に一瞬で絶命させるほどの威力には見えなかった。

「もしかして、手加減してる? まさかね……」

 黒羽は呟いた。

 金沢も考えていた。

 もし、あの白い男が、尾形によって操られているとしたら、尾形は、どこかで見ている。

「黒羽さん」

 金沢が声を掛けた。

「あん?」

「ないとは思いますが、発煙筒持ってますか?」

「あるよ」

 準備がいい人だ。

「点けちゃってください」

「え? なんで?」

「お願いします」

「そう? ま、いいよ」

 黒羽は、内ポケットから発煙筒を取り出し、スイッチを押すと、部屋の中央に投げた。

 たちまち煙が噴射され、あっという間に部屋中に充満した。

 視界が無くなった。

「なんだっ。どうしたっ」

 宮崎が叫んだ。

 金沢は走り出した。金沢も視界が遮られていたが、見当はつけていた。

 舞台に向かって、一直線に走った。

 そして、舞台袖に向かい、バックステージに潜り込んだ。

 小さなライブハウスのバックステージは、楽屋、トイレ等々で、迷路のようになっている。

 金沢は、焦り、走った。向こうに先に気付かれたら、簡単にやられる。

 ドアかと思って開けたら、消化ホースが入っていた。また、ドアかと思って開けたら、電気配電盤だった。

 発煙筒の煙も、いつまで持つか分からない。

 とにかく早くしないと。

 階段を駆け上がると、「PA」と書かれた部屋が見えた。

 ここだ。

 金沢は勢いよくドアを開けた。

 ミキシングテーブルの前に立つ尾形がいた。尾形は、驚いて振り返った。

 金沢は飛びかかった。

 廃棄された機材の山に、二人が転がった。金沢が、尾形に覆いかぶさった。

 尾形が、金沢を思い切り蹴り上げた。

 金沢はよろけ、倒れた。

 今度は、尾形が金沢に覆いかぶさった。転がっていたマイナスドライバーを手に取った。

 金沢の顔に向かってマイナスドライバーを振りかぶった。

「やめろっ」

 金沢は尾形の腕を掴んだ。尾形は両手でマイナスドライバーを掴んだ。この状態では上にいる方が有利だった。金沢の手が振るえた。マイナスドライバーの先が金沢の目の前まで迫った。

 しかし、力勝負では、尾形は強くは無かった。渾身の力を振り絞り、腕をはらった。

 尾形は横に倒れた。が、素早く起き上がった。

「来い」

 尾形が呟いた。

 金沢に向かって言ったのではない。

 白い男がこっちに来る。それは、まずい。

「悪いなっ」

 そう言うと、金沢は尾形の側面を、全身全霊で殴った。

 尾形の体はすっ飛び、そのまま失神した。


 フロアでは煙が立ち込めていた。

「何してくれるんだ」

 宮崎が口を手で押さえ、手で煙を振り払いながら言った。

「いや、金沢がやってくれって言ったから」

 黒羽が、他人事のように言った。

 谷本も、口を押さえ、無暗に辺りを見回していた。

 しばらく、うろうろしていたが、徐々に煙が晴れてきた。

「うわっ、いたっ」

 宮崎が叫んだ。

 舞台の上に白い男がいた。

 しかし、何か様子が違った。

 両の腕は、だらりと下がり、頭も俯いたまま、全く動く様子が無かった。

「どうしたんだ? 攻撃してこないぞ」

「とりあえず撃っとく」

 黒羽はそう言うと、銃を構えた。パンパンと乾いた銃声が二回響いた。

 弾丸は、眉間と胸部に命中した。

 全く何も反応が無かった。

「何だ? 人形か?」

 黒羽が言った。

「いや。見ろ」

 宮崎が指さすと、手足の先から、うっすら白い煙が立っていた。

「効果はあった」

 煙は時間をかけ、ゆっくりと全身に広がり、また、同じようにゆっくりと手足の先から消えていった。

 一同は呆然と見つめていた。

 手足が消えて、胴体が消えて、頭だけが残り、それも、やがて消えていった。

「こうやって消滅するのか」

 谷本が驚いたように言った。

 どたどたと足音が聞こえて、皆、舞台袖を見た。金沢が尾形を負ぶって歩いてきた。

「死んだのか」

 宮崎が聞いた。

「いえ。気絶しているだけです」

 そう言うと、尾形を降ろして、床に横たえた。

「……なるほど。操ってる者が意識を無くすと、霊体も動きを止めるのか」

 宮崎は納得した。

「どうしますか?」

 へたり込んだ金沢が言った。

「……仲間がいるかもしれない。一旦、引き上げよう」

 宮崎が、そう言った。一同は頷いた。

 へたり込んでいた金沢が、重い腰を上げた。代わりに、谷本が尾形を背負った。そのまま、すたすたと歩いていたが、ドアの前でぴたりと足を止めた。

「どうした?」

「分かってくれると思ったんだけどなあ」

 尾形を床に降ろすと、谷本が呟いた。

 宮崎は訝しんだ。

「どうしても、相容れないものかな。人はいつか死ぬ。悪い奴は、それが少し早くなるだけだ。殺人とか、大袈裟に考えることじゃない」

「何を言ってるんだ?」

「実は、俺もなんだよね。サイキック・パンクス」

 慌てて、宮崎と黒羽は銃を構えた。

「おっと」

 谷本は、気を失っている尾形の喉元に、ナイフを突き付けた。

「仲間を殺るのは心苦しいが、志は同じだ。分かってくれるはず。躊躇なく殺るよ。それが嫌なら、銃を床に置け」

 宮崎と黒羽は、顔を見合わせた。

「早く」

 谷本が急かした。

 宮崎は、諦めて銃を床に置いた。黒羽も、宮崎に従い、ゆっくり銃を置いた。

「考えてもみろよ」

 谷本が言った。

「我々は、この力を悪用することなど、いくらでも出来る。自分たちの為にだけに動くこともできる。だが、誰も私利私欲の為に、この力を使わない。何故か? 高い志があるからだ。この世の中を良くする。今は、この街だけだが、いずれ勢力を拡大して、日本中、世界中に仲間を増やす。そうすれば、世界の犯罪者はいなくなる。世界の陰謀もなくなる。世界の独裁者もいなくなる。我々は、理想の世界を築くことが出来る」

「悪は……法が裁く」

 宮崎が呟いた。虚しい言葉なのは、自分でも分かっていたが、自分の言える言葉はそれだけだ。

「本気か?」

 谷本が嘲笑った。

「なんか分かんないけどさあ。どうするの、この状況」

 黒羽が言った。谷本は人質をとっているが、持っているのはナイフだけ。一方、黒羽側には、三人いた。それに、谷本の甘さか、まだ床に銃が置いてあった。

「理想を求めるには、少々の犠牲も必要だ。言っておくと、何回もチャンスを与えたぞ。これは、君達が招いたことだ。気の毒だが、君達には死んでもらう」

「ふーん」

 黒羽は、そっぽを向いた。宮崎も、無言で力無く俯いた。

 二人の様子に、谷本は油断した。

 一瞬のことだった。

 黒羽が素早く銃を拾い、発砲した。弾丸は谷本の肩に命中した。谷本は、後ろに倒れた。すかさず、宮崎が尾形を引き寄せた。

「ぐっ……」

 谷本が、流血した肩を押さえ、半身を起こした。

 宮崎と黒羽が、銃を向けていた。

「観念しろよ」

 宮崎が言った。

「……さっき言っただろ。俺は、サイキック・パンクスだ」

 谷本が言い終わらないうちに、黒い霧が湧き上がり、谷本を包んだ。

 宮崎と黒羽が、即座に発砲した。

 だが、弾丸がはじかれた。

 気付くと、巨大な黒い蛇が、谷本の周りにとぐろを巻いていた。

「無駄だよ。鋼のような皮膚を持っているんだ」

 谷本が言った。黒い大蛇は、ぬっと頭を持ち上げた。黄色の瞳が、異様に光っていた。

 するすると首を伸ばすと、黒羽に向かって来た。

 黒羽は、何回も発砲したが、大蛇の勢いは止まらなかった。黒羽は飛び避けた。

 大蛇の頭が、壁にぶち当たった。大きな音がして、壁にひびが入った。

 しかし、大蛇はダメージを受けた様子もなく、再び鎌首をもたげ、今度は黄色の瞳は宮崎を睨んだ。そして、勢いよく突進してきた。

 宮崎も、銃を連射した。やはり、効果は無く、大蛇の頭が目の前まで迫った。宮崎は、転がるように逃げた。

 大蛇は床に激突し、床は穴があき、大蛇の頭が突っ込んだ。

「だめだ。効かない」

 宮崎と黒羽は目を見合わせた。

 大蛇は、すぐに頭を引き抜き、大きくもたげ、黄色の瞳で見下ろした。

 突然、爆音が外から聞こえてきた。

 谷本が首を向けた。連動するように、大蛇も首を向けた。

 バイクがエンジン音を響かせ、階段を降りてきた。

 呆気にとられていると、そのままバイクは、ライブハウスに突入してきた。

 バイクには、冴木が乗っていた。後ろに本多を乗せていた。

「さあ、仕事の時間よ」

 冴木が、バイクを飛び降りた。大蛇は、黄色の瞳を向けると、ぐわっと襲い掛かった。

 冴木は銃を抜き、すかさず発砲した。

 宮崎と黒羽は、冴木の念を込めた塩の弾丸を使っているだけだったが、今度は霊能力者冴木本人による射撃だ。

 効果はあった。

 大蛇は、嫌がるように、首を引っ込めた。

 しかし、致命傷にはならなかった。

 首を引っ込めたまま、黄色の瞳は鈍く輝き、じっと冴木を見つめた。

 冴木は二発目を発砲したが、直前に驚くべき速さで大蛇は首を下げ、弾は反れてしまった。

 下げた首のまま、冴木に向かって突進してきた。冴木は飛び上がり、僅差で避けた。

 避けると同時に、大蛇の後頭部に一発食らわせた。

 大蛇の頭部が、どすんと着地した。

「まだだ」

 谷本は、冴木に集中した。その為、背後に宮崎が素早く忍び寄っていたことに気付かなかった。

 宮崎は谷本に銃を向けた。素早く、谷本もナイフを向けた。

 宮崎の銃が谷本の眉間に、谷本のナイフが宮崎の胸部に、それぞれ当てた状態で固まった。

「銃に勝てると思うか」

「やれるもんなら、やってみろよ」

 二人は、膠着状態に入った。

「正義は我々にある」

 谷本が言った。

「正義なんて、ここにはないさ」

 宮崎が返した。

 二人は睨み合った。

 谷本が腕に力を入れ、ナイフが胸に突き刺さった。堪らずトリガーを引いた。

 乾いた銃声が響いた。

 谷本の頭から血が飛び散り、バタリと倒れた。

「宮崎さん!」

 金沢が叫んだ。

「大丈夫ですか!」

「ああ……先が、少し刺さっただけだ」

 胸を押さえながら、宮崎が言った。

「死んだ?」

 黒羽が駆け寄った。

「うん。死んでるね」

 黒羽は谷本を見下ろした。

 皆、大蛇に目をやった。するすると首を戻し、とぐろを巻いた。

「どうなる?」

 しばらくじっとしていたが、黄色の瞳が燃えるように赤く輝いた。

「まずいかも」

 冴木は身構えた。

 大蛇から発するエネギーを肌で感じることが出来た。

 ぐわんと衝撃が走ると、大蛇の体が一回り大きくなった。

 そして、がばっと首をもたげると、それは瞬く間に分裂し、三つ首になった。

「なんか、パワーアップしてない?」

 黒羽も身構えながら言った。

「ええ。操る人間が死んだので、霊体が暴走を始めたんだわ」

 三つの首を、そびえるように高々と持ち上げると、凄まじい勢いで襲い掛かった。

 金沢は無我夢中で逃げた。

 宮崎は、胸を押さえながら、飛び退いた。

 黒羽は逃げながらも、銃を乱射したが、全く効果は無かった。

 本多は隅で小さくなっていた。

「本多っ、刀!」

 冴木が叫んだ。

 本多は、自分が十鬼丸を握っていることを思い出した。慌てて、冴木に向かって投げた。

 冴木は刀を受け取ると、素早く鞘を抜いた。刀が鋭く光った。

 三つ首が、うねるように冴木に襲い掛かった。冴木は飛び上がった。

 そして、大きく刀を振るった。

 大蛇の首が飛んだ。

「やったか」

 宮崎が言った。落ちた首は、煙のように消えていった。

 だが、すぐに新しい首は生えてきたのだ。

 冴木は素早く飛び退ききつつ、別の首を落とした。

 同じように、新しい首が生えてきた。

「これはキリがない」

 冴木が言った。

 そうしてる間にも、三つの首は、それぞれ意志を持ち、四人に襲い掛かった。

 冴木以外は、ちりぢりになって逃げた。

 冴木は、必死に刀を振るった。何回か、頭を落としたが、新たな首が生えた。

「三つ同時に落とさないと駄目なんだ」

 冴木が理解した。

 すぐにフォルダーから銃を取り出した。

「本多」

 そう言うと、銃を投げた。本多は、慌てて、銃を受け取った。

「全弾、こいつに撃ち込んで」

 本多は呆然と銃を見つめた。銃など使ったことがない。

「いい? ただ撃つんじゃなくて、念を込めてね」

 冴木の注文が続いた。

 本多は困惑した。

 念を込める、って、どうやって?

 大蛇の攻撃は絶え間なかった。冴木と黒羽が、飛び跳ねながら、ぎりぎりで身をかわした。

 本多に攻撃が向かないように、わざと微妙な距離をとって、引き付けているのだ。

 早くなんとかしないと。

 ふと、自分の体の芯で、何かぼっと火が点くような感覚があった。

 暖かくて強いエネルギーが身体に充満している、奇妙な感覚だ。

 こんな感覚は初めてだ……いや違う。自分は、このエネルギーを知っている。自分は、このエネルギーを持っているのだ。

 本多は目を瞑り、気持ちを集中した。

 異常な気配を察したのか、大蛇の三つ首が本多の方を向いた。そして、鎌首をもたげ、真っ赤な瞳で本多を睨むと、突進していった。

 本多は目を瞑ったままだった。

 三つ首の攻撃が、すぐ直前まで迫った。

 本多は目を開けた。と同時に、大蛇の首を避け、真下に潜り込んだ。

 そして、大蛇の腹に銃を向けると、銃を連発した。あまり夢中だったので、弾が切れても、しばらくトリガーを引き続けた。

 大蛇の動きが止まった。

 すぐさま冴木が跳んだ。そして、三つの首の間を舞った。舞うように、刀を振るった。

 三つの首が、ほぼ同時に飛んだ。

 着地すると、冴木は肩で息をした。

 皆黙っていた。静寂が訪れた。

 やがて、大蛇から黒い煙が舞った。

「今度こそ、やったな」

 宮崎が言った。

 どんどんと煙が大きくなり、大蛇の身体がゆっくりと見えなくなった。

 完全に大蛇は消えた。

 真の静寂が訪れた。平穏な静寂だ。

「まあ、こんなもんか」

 そう言う黒羽も、珍しく肩で息をしていた。

「頑張ったわね。信じてたよ」

 冴木が本多の肩を叩いた。本多は呆然としていたが、わずかに頷くと、その場にへたり込んだ。冴木は鞘を拾った。

「……冴木さんのおかげです。……ありがとうございます」

 金沢が、疲れ切った顔で言った。

「うん? まあ、これが仕事だから」

 そう言うと、冴木は刀を鞘に納めた。

 今日の仕事は、これで終わりだ。早く帰ってビールを飲もう。


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