【短編版】大嫌いな幼馴染の皇太子殿下と婚姻させられたので、白い結婚をお願いいたしました
「これは白い結婚ということにいたしましょう」
月の光が差し込む夫婦の寝室にて、柔らかなベッドに腰を下ろしたわたくしは、これから夫となる方にお願いしていた。
結婚初夜。本当であれば夫婦が身を重ね合わなければならない時間。
わたくしの衣装は完全にそれのためのものだし、周囲が期待していることも知っているけれど。
――彼に抱かれるのだけは御免ですわ。
そしてそれはきっと、彼もわたくしに対して思っているはずで。
わたくしの正面、部屋の中央で棒立ちになっているその青年は、しばらく悩んだ後に頷いた。
「……ああ、お前の好きにしろ」
「ありがとう存じます、皇太子殿下」
「私のことはヒューパートと呼べ。白い結婚であれ何であれ、私たちはこれから夫婦になるのだからな」
「承知いたしました」
どこまでも事務的で冷たい会話。色気など微塵もなく、夫となる彼は最後までわたくしと目を合わそうとさえしない。
やはりこれはなるべく速やかに離婚した方がよろしいようですわね、とわたくしは改めて思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ハパリン帝国の名門貴族、スタンナード公爵家の長女であるわたくし――ジェシカ・スタンナードには、十歳になる頃にはすでに政略的な思惑で定められた婚約者がいた。
それは隣国フロディの王弟、ナサニエル様。わたくしより五歳以上年上で、フロディ王国との友好関係を円滑に築くため結ばれた婚約だった。
ナサニエル様は物腰柔らかでレディに対して優しい、まさに理想の殿方。
とはいえわたくしは歳上である彼を恋愛的な意味では好きにならなかったけれど、それでも彼の妻となり、支えていく気でいた。
――でも。
「ジェシカ嬢。僕の兄である国王が先日崩御したのは知っているね?」
フロディ王国国王が病に侵され没したことで、状況は一変した。
「はい。存じ上げておりますわ。お悔やみ申し上げます」
「本来王太子が継ぐはずだったが、まだ彼は幼くてね。ひとまずは僕が王位継承せざるを得なくなった。
そして他国の出の者に王妃は任せられないと宰相や貴族たちが口々に言い出したんだ。僕はそう思っていないが、ジェシカ嬢を悪意に晒したくはない。だから、婚約解消をしてほしいと思っている」
ナサニエル様は慰謝料、そして我が帝国への謝罪文や婚約解消の書面などを事前にきっちりと用意していた。
わたくしとの婚約解消後も両国の関係に歪みが生じないように。
そこまでされてしまっては、わたくしに婚約解消を拒む理由も権利も何もない。
「今までありがとうございました」と頭を下げ、わたくしは隣国のナサニエル様のお屋敷から馬車でスタンナード公爵領へ戻った。
それが十七歳の時の話。
急な婚約解消をされたわたくしは、代わりの嫁ぎ先に困った。
スタンナード公爵家の家格に釣り合う者は皆、婚約あるいは婚姻してしまっている。かといって弟がいるので公爵家を継ぐわけにもいかず、このままではわたくしは行き遅れと呼ばれてしまう。
焦った父は皇帝陛下に相談したらしい。そして王命が下された。
――ハパリン帝国皇太子ヒューパート・レンゼ・ハパリンと婚約するように、と。
わたくしはそれを知らされた瞬間、思わず天を仰いだ。
貴族家の娘としてどんな相手に嫁がされても文句は言わないつもりだった。
だが、ヒューパート皇太子殿下だけは話が違う。
容姿だけで言えば、彼は乙女なら誰もが頬を染める美丈夫だ。
煌めく銀髪に燃え盛る炎のような真紅の瞳。顔は非常に整っているし、そこそこ引き締まった長身。彼の両腕に抱かれたいと夢見る者も少なくない。
わたくしも初めての出会いでは思わずうっとりと見惚れてしまったほどだった。
彼とは同い歳だったし皇家と公爵家の付き合い上顔を合わせることが多く、いわゆる幼馴染という関係ではあったが、その仲は決して良くなかった。
いいや、むしろ最悪だった。
「どうしてお前はそれほど美しいのだ! 私より目立つなど不敬だぞ」
「お前を見ているだけで虫唾が走る。早く私の視界から消えろ!」
五歳の頃、出会って最初に言われたのがこれである。
公爵家の中で蝶よ花よと育てられていたわたくしが初めて真っ向から浴びせられた容赦のない罵倒。当時は相当戸惑った。
それ以来、会う度に「お前など顔も見たくない」やら「偶然暇だったから、父上に言われて仕方なく会ってやっているだけだからな」などと、端正な顔を赤く染め、激怒しながら言ってきた。
相手が格上の皇太子殿下なので言い返せはしなかったが、わたくしは彼のことをひどく嫌った。
十歳の頃にナサニエル様と婚約し、皇太子殿下と距離を置けるようになってようやく安心できていたというのに。
彼に嫁いでしまったら、毎日そのような悪意を浴びせられなければならないではないか。
しかしこれは皇帝陛下直々の命令。公爵家の娘でしかないわたくしが逆らうなどできるはずもなくて。
わたくしは一年間の妃教育を受けた後、皇太子妃としてハパリン皇家へと嫁がされることになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ヒューパート皇太子殿下はわたくしと同年齢なので、もうじき婚姻しなければならない年頃だ。
なのにどうして十七歳になっていた一年前まで未婚約だったかといえば、昔から想い続ける令嬢がおり、初恋を拗らせたからだと噂されている。
相手の女性は、第二皇子ハミルトン殿下の婚約者であり、近く皇子妃となる予定のサラ・ヘズレット伯爵令嬢。ダークブラウンの髪に桃色の瞳の愛らしい少女で、皇太子殿下は彼女へ叶わぬ恋心を抱いているというのだ。
実際、第二皇子殿下が公務でパーティーに出席できない時は必ず皇太子殿下が彼女をエスコートしている姿が見られ、非常に仲良さげだった。
今でも皇太子殿下は彼女を想っているに違いない。なのに昔から顔も見たくないと言っていたわたくしなどを娶らざるを得なくなった彼はさぞ苛立っているだろうとわたくしは考え、憂鬱で仕方なかった。
ヒューパート殿下が皇太子である以上、多くの王子や王女をもうけることが必要不可欠だ。
皇帝陛下が妃となるわたくしに対し子作りを期待していることは理解している。
だが、他の誰かとならともかく彼に抱かれるのは怖かった。
彼は無理矢理婚姻させられた腹いせにわたくしをいたぶるかも知れない。そうでなくても優しくはしてくださらないだろう。可憐なサラ嬢と、どちらかと言えば鋭い美貌のわたくしは似ても似つかないのだから。
――どうにか離縁する手立てはございませんかしら。
結婚式に向かうための馬車の道中、わたくしは思案していた。
婚姻前に逃げることについては諦めている。問題はその後、いかにして離縁するかだ。
この先何十年も皇太子殿下と共に生きるのはきっと、わたくしも彼も耐えられない。
しかし貴族ならともかく、皇族、しかも皇太子夫妻ともなれば自分たちの意思のみで決めるわけにはいかないだろう。誰もに認めさせる理由を作らなくては。
そこまで考え、閃いた。
婚姻させられたのは子を成すため。ならば、それを逆手に取ればいいのでは?と。
「そうですわ、わたくしが子をもうけられないことにすれば――」
貴族界では政略結婚が当たり前だが、その中には白い結婚というものが存在する。
お互い子を成す必要がない際、社交の場でのみ仲の良い夫婦であるふりをして、屋敷の中で別居するような状態で過ごす場合があるらしいのだ。
そして夫妻は好き勝手に愛人を作り、それぞれ自由な生活を送る。
もっとも、わたくしに愛人はいないが、この手は非常に有用であるように思えた。
当たり前だがそういう行為をしないと子は生まれない。そうすればわたくしは皇太子妃として相応しくないと判断されるだろう。
毎夜同じ寝室で眠れば周囲に怪しまれないでいいし、皇太子殿下もわたくしと寝ないでいいと聞けば頷いてくださるはず。二年もあれば離縁を迫られることは間違いない。
その後の身の振り方は問題になるだろうが、皇太子殿下と別れられればなんでも良かった。
婚姻を結び次第、早速皇太子殿下にこの話を伝えようとわたくしは決めた。
「これなら皇太子殿下に見劣りしないでしょう」
鏡に映る己の姿を見つめ、わたくしは小さく呟いた。
美しい金髪は頭の上で大きく盛られ、おびただしい数の装飾品で彩られている。白い花嫁ドレスはフリルが施された最高級品だ。
着付け係に礼を言うと、わたくしは結婚式場となる城の小ホールへ入った。
皇太子とその妃の結婚となるわけだが、式の参列者は使用人たちを除けば皇帝陛下と皇妃陛下、わたくしの両親である公爵夫妻の四人のみ。
結婚披露宴は後日大々的に行われることになっており、式はとても小さなものなのだ。
そして式場の中央、皇太子殿下はいた。
わたくしの夫となる彼は美しく着飾り、輝いて見える。
「やっと来たか」
「お待たせして申し訳ございません。では早速始めましょう」
彼は何も答えなかった。
フロディ王国では教会関係者が執り行うらしいが、ハパリン帝国にはそもそも教会がないため、婚姻の誓いは皇帝陛下に捧げると決まっている。
本当はわたくしと皇太子殿下は想いを通わせているどころかその真逆であることを皇帝陛下とて知らないわけではないだろうに、形式的に問うてきた。
「新婦ジェシカよ。汝は夫ヒューパートを支え、妻として、そして皇太子妃として尽くすことを誓うか」
「誓いますわ」
「新郎ヒューパートよ。汝は妻ジェシカを守り、夫として彼女を愛することを誓うか」
「……誓おう」
内心憤っているからなのか何なのか、殿下の声は震えていたし顔もやはり赤かった。
そしてそっと抱き合い、静かに顔を寄せる。
目前に迫る皇太子殿下の麗しい顔。しかし互いの唇は触れ合う直前に離れていった。
わかっていたことだが、きっと彼は今も愛するサラ嬢以外に唇を許したくはないのだろう。それがわかった以上、白い結婚を提案することへの躊躇いは完全になくなった。
やがて形だけの結婚式は終わり、わたくしは、初夜の衣装に着替えさせられ夜を迎えた。
そして夫婦の寝室で殿下を待ち、彼がやって来るなり言ったのだ。
「これは白い結婚ということにいたしましょう」と。
彼は、わたくしの最終的な目的――離縁を望んでいることを察しているのかはわからないけれど。
「お前の好きにしろ」なんてぶっきらぼうに返事をしたところを見るに、わたくしのことなど端からどうでも良かったに違いない。
わたくしと皇太子殿下改めヒューパート様は、それ以降互いに口をきくことなく眠りについた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから数日は特に何事もなかった。
わたくしとヒューパート様の寝室は初夜以降も同じ。でも一度もベッドを共にせず、大して言葉も交わさない。
白い結婚とはいえど、妃としての公務はこなしている。
と言ってもヒューパート様の仕事の書類をできる範囲で手伝う程度で、たった一年間の簡易的なものとはいえ厳しい妃教育を受けたわたくしにとっては何の問題もない。
「ただ、これを他の方が行うとなると大変ですわね。わたくしが離縁した後のヒューパート様が新しい妃を娶ることにでもなれば苦労することは必至でしょう。耐えられるのかしら」
それともヒューパート様が皇太子から降ろされて、第二皇子ハミルトン殿下が皇太子になるのか。
その可能性の方が高そうだと思い、ヒューパート様のその後に思いを馳せそうになったが、すぐに辞めた。
――あんな方、どうなったって知るものですか。
けれど、婚姻期間中はそうも言っていられない。
結婚披露宴が開かれる日程が決まり、わたくしとヒューパート様は再び結婚式の際の衣装に身を包んで二人で披露宴に出ることになった。
披露宴の場所は王城の大ホール。結婚式場に使った小ホールの三倍ほどの大きさがある。
夫妻別々に行って関係を怪しまれたりしたら困るので、その場所までヒューパート様はわたくしをエスコートしなければならず、ヒューパート様は渋々といった様子で言った。
「表向き、仲の良い夫婦を演じるだけだぞ。今日は特別に私と手を繋ぐのも身を寄せるのも許してやろう!」
これはあくまで演技なのだから情があると思うなと釘を刺されているわけだ。
わたくしが勘違いなどするわけがないのに。
「もちろんですわ。それから演技で構いませんのでわたくしの頬に口付けてくださいませ。わたくしどもの仲の険悪さは知れ渡っておりますから、それを払拭する必要がございますわ」
「……っ、く、口付けは」
「ですから演技で構いません。結婚式の時のように」
わずかに皮肉を滲ませれば、ヒューパート様は「仕方のないやつだな」と苛立たしげながらも了承してくださった。
あとは彼にエスコートされながら披露宴へ向かうだけ。そっと手を重ね合わせた。
「……何だこの手は。生白いし細過ぎるぞ」
文句を言ってきたヒューパート様を、わたくしは笑顔で無視した。
披露宴はあの簡素な結婚式とはまるで違い、上級貴族から下級貴族まで、参加者は千名以上。
令嬢たちのドレスが輝き煌めいて、妃教育に忙しかった故にここしばらくパーティーとは縁遠かったわたくしには眩しく感じられた。
「皇太子殿下、ご成婚おめでとうございます」
「とてもお似合いのお二人ですね」
「ありがとう。ジェシカは私の……さ、最愛の妻だ」
きっといくら嘘とはいえ、こんなことを言うのは恥なのだろう。
ヒューパート様の頬は羞恥にほんのり赤くなっていた。
だがその場面を除いては披露宴の最中は常ににこやかだったし、事前の打ち合わせ通りしっかりわたくしの頬に口付けてくださった。
そしてわたくしも、妃という役に徹し常に笑顔で居続けた。
この一年の婚約期間中に関係が改善し、すっかりおしどり夫婦と思わせることができたなら幸いだが、その狙いがうまくいっているかはわからない。
そんな風に考えながら、すぐ傍のヒューパート様の存在を意識しまいと務める。
ヒューパート様の笑みを長く見ていると、なんだか目が離せなくなってしまいそうな気がしたから。
しかし、そんな時間はすぐに終わってくれた。
結婚祝いをしに、第二皇子殿下が現れたのだ。婚約者を伴わず、たった一人で。
「サラ嬢はどうした」
そしてそれを見たヒューパート様は真っ先に尋ねた。
その声音になんら含むところは感じられないが、きっと内心ではサラ嬢が不在であるらしいことへの苛立ち、そして同時に彼女にわたくしとこうして並んで歩いている姿を見られなかったことへの安堵があるのだろう。
いくら演技をしていても、彼は相変わらずだった。
「サラもサラで婚姻準備が大詰めで忙しいんです。代わりに彼女からの祝辞を僕が預かってきたんですけど。これです」
第二皇子殿下に手渡されたそれをチラリと流し読みすると、ヒューパート様はわたくしに見せることすらなくすぐ懐へ隠してしまった。
あとでゆっくり読むつもりに違いない。彼の行動の一つ一つからサラ嬢への恋情が伝わってきてしまって、なんだか申し訳なくなってしまう。
――そもそも、不本意とはいえわたくしを娶っておきながらあからさまな態度を示すヒューパート様がいけないのですけれど。
などと考えていると、第二皇子殿下がわたくしに声をかけてきた。
「ジェシカ様。しばしの間兄上をお借りしたいのですが、よろしいですか」
「ええ、もちろん」
何の話をするつもりかは知らないが、ひとときでもヒューパート様と離れられるなら幸いだ。
わたくしは何か言いたげな顔のヒューパート様を残し、この機会を有効利用して久々に友人の令嬢たちと会いに行くことにした。
「そんな調子じゃ誤解されますよ」
「……余計な口を挟むな」
「後悔しても知りませんからね」
第二皇子殿下とヒューパート様が意味深な言葉を交わしていたが、どうせサラ嬢についてのことだろうと思い気にも留めなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
披露宴の後はしばらく公の場に出る機会はない。
妃としての務め――と言っても夜については例外だが――を果たしながら、比較的穏やかな生活を送っていた。
しかし結婚一ヶ月目になる頃から、少しばかり異変が起き始めた。
城の中では仲の良さを取り繕っていなかったために、使用人数人がわたくしが愛されていないのではと気づき、それならばとわたくしへの扱いを雑にするようになったのだ。
幸い専属侍女がまともだったので危害を加えられるまでには至らなかったが、二ヶ月三ヶ月、そして半年も経つとわたくしに関する噂は城中に広がっていき、陰で笑い者になっていた。
「……くだらない。ですが愛されない妃であることは事実ですわね。いちいち処遇を下すのも面倒くさいですからこのままにしておきましょうか」
どうせわたくしは、あと二年もすればこの城からいなくなるのだし。
そう考えて見て見ぬふりをすることに決めたわたくしだったが、ある夜、寝室にずしずし乗り込んできたヒューパート様の一言で状況は一変した。
「ジェシカ。お前、私に黙っていたな!」
いつになく怒気を孕んだ声で言われ、わたくしは首を傾げる。
彼が激昂する理由が見当たらなかったからだ。
「いかがなさいましたでしょうか、ヒューパート様。わたくしに何か粗相がございましたかしら」
「嫌がらせの件に決まっている! どうして私にもっと早く言わなかった」
「あら、そのことですの。ヒューパート様に申し上げるまでもない些事だと考え、無視しておりましたのよ。不快な思いをさせてしまいましたら申し訳ございません」
仮にも妃であるくせに使用人風情に馬鹿にされているわたくしの不甲斐なさに対し、ヒューパート様は怒っているのだろう。
わたくしはそう考えたのだけれど。
「お前は何もわかっていない。仕方ない、私が直接愚か者どもに処罰を与える!」
そう宣言するなり数時間後には城の半分以上の使用人が彼によって解雇されることになった。皆、一度でもわたくしの陰口を叩いたりそれに同調した者だ。
その徹底ぶりにわたくしは震えた。
「どうしてですの……」
「奥様が愛されているからだと思いますよ。奥様から口止めされて言えなかったわたしもめちゃくちゃ怒られたくらいなんですから」
専属侍女はそう言うが、それは絶対にあり得ない。
彼はわたくしのことをろくに見つめもしないくらいだし、わたくしも彼を嫌っている。幼馴染同士だからと恋仲になるのはせいぜい男爵家や子爵家といった下級貴族の次男次女、政略的な婚姻をする意味のない立場の者くらいだ。
そもそも愛されていたとすれば、白い結婚などする必要がない。
ならなぜ、ああまでしたのか。
理解できないまま、その大事件の翌日からヒューパート様の態度が豹変した。
「別に、お前が大切とかは思っていない。……だが、ただ、私の妃が貶められるのが耐えられなかっただけだ」
「私と共に行動しろ。どこに害意が潜んでるかわかったものじゃない」
「妃を失ったら困る。これは私のためだ。本当だからな。疑うなよ」
などと言いつつ、城の中でさえわたくしをエスコートするようになったのである。
新しく入れた使用人たちにも目を光らせ、少しでも不穏な噂が立とうものなら即解雇。
おかしい。これは絶対におかしい。
「わたくしのことなど気遣ってくださらなくて結構ですわ」
「妃を蔑ろにしたとなれば悪評が立つだろう」
「それは確かにそうですけれど、無理なさらなくてよろしいのですよ」
だって――。
「ヒューパート様はわたくしの顔など見ていたくないのでしょう?」
オプラートに包むことなく放ってしまった嫌味に、慌てて口をつぐむがもう遅い。
ヒューパート様は顔を歪め、わたくしを軽蔑するような目で見た。
「お前は、幼少の頃の言葉なんかを持ち出すのか」
ヒューパート様に直接嫌味を言ってしまったのは、失言だった。
だがわたくしはこうも思った。そもそも、先にわたくしを罵ってきたのはそちらでしょうに――と。
幼少の頃の言葉なんか。
そんな風に言うが、あれにわたくしがどれほど傷つけられたか、彼はわかっていない。
まるで天から遣わされたかのような美しい少年に一目惚れをし。
直後、その純粋無垢な初恋を暴言によって一瞬で粉々に砕かれたわたくしの気持ちなど。
「ともかく、わたくしへ余計な配慮をなさらないでくださいませ。己の身くらい守れますわ」
直接な言葉で告げなかったが、それはわたくしからの紛れもない拒絶。
それを感じ取ったのであろうヒューパート様は、わたくしをギロリと睨みつけ、言った。
「……わかった。お前の好きにしろ」
「ありがとう存じます。それでは」
ドレスの裾を摘んで頭を下げると、わたくしは踵を返し、その場を静かに後にした。
――これがわたくしとヒューパート様の冷戦の始まりとなったのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
朝から晩までお互いの顔をまともに見ることさえなく毎日が過ぎていった。
外面を保つためには急に関係が悪化したと気づかれないようにしなければならないのはわかっているのに、どうしてもヒューパート様と言葉を交わしたくないと思ってしまう。
「わたくしのことが嫌いなのに、まるで溺愛しているかのような態度を取るヒューパート様が悪いのですわ」
ヒューパート様の想い人はたった一人。わたくしではない。
それなら、適切な距離を取ればいいのだ。
あまりに近過ぎるのは不快だった。心の中では顔も見たくないと思っているくせに、優しいように振る舞われるのは。
――だって、誤解しそうになるではありませんの。
わたくしはヒューパート様のことが大嫌い。
想い人の彼女はもちろん、他の令嬢に対しても貴公子然としているのに、なぜか唯一わたくしに横暴な態度を取ってくるのが気に入らない。
そんなにわたくしを嫌っているなら会いに来なければ良いのに、と腹が立つ。
なのに、近頃のヒューパート様はその真逆で。
暴言を吐き続けているけれど、わたくしに対してなんだか優しいように感じてしまう。
守られているような気がしてしまう。
妃としての公務に勤しむことで常に渦巻く考えを紛らわそうとしたけれど、まるで身が入らなくなってしまった。
わたくしは一体、どうすれば。
その答えを得られぬままに数ヶ月を無駄にして、離縁まではあと一年となった。
一年。一年だ。短いようだが、それまでこの状況に耐え続けられる気がしない。
もういっそのこと、体調を崩したから静養したいとでも言い訳をして、一度公爵家に戻りましょうかしら。
そんな風に考え、思い詰めていたある日のことだった。
「ジェシカ様、お茶会へのお誘いが」
専属侍女が一枚の手紙をわたくしへ渡して来た。
「……あら、どなた?」
「第二皇子妃サラ殿下からでございます」
「まあっ」
この一年の間に第二皇子殿下と結婚し、皇子妃となったサラ嬢――いえ、サラ様と呼ぶべき彼女直々にお茶会に招かれるなんて。
手紙を見ると、本日がお暇なら一緒にお茶をいたしませんかと少し可愛らしい丸文字で書かれている。
わたくしはそれを読み終えると、侍女に命じた。
「日程は本日ですのね。すぐに参りますわと、サラ様専属侍女にそう伝えなさい」
花のように可憐なその少女は、白薔薇の咲き乱れる庭園にてわたくしを待っていた。
そしてこちらの姿をその目で捉えるなり、桜色の頬を柔らかく緩める。明るい空色の涼やかなドレスの裾を掴み、頭を下げた。
「お忙しい中お越しいただきありがとうございます、ジェシカ様」
「こちらこそお招きくださいまして感謝いたしますわ」
わたくしは彼女より格上である皇太子妃なので頭は下げず、代わりに目礼した。
「掛けてもよろしくて?」
「もちろん。お茶は爽やかなハーブティーと紅茶、どちらがお好みですか」
「紅茶でお願いいたしますわ」
「承知しました」
彼女がわたくしを招いた意図を探り、それとなく観察してみる。
しかしそのにこやかな表情からは読み取れない。身分こそ伯爵家の出ではあるけれど、皇子妃教育を受けた年数でいえば彼女の方がずっと上。さすがですわね、とわたくしはこっそり感心した。
紅茶はサラ様の生家ヘズレット伯爵家が治める領地で作られたものだとか。
侍女がカップにお茶を注ぎ、お茶会が始まってしばらくは相手の動向を伺いつつ雑談を交わすことにした。
「第二皇子殿下とのご成婚パーティー以来でございますわね」
「あの時はありがとうございました。私、ヒューパート様とジェシカ様の結婚披露宴に出席できていませんでしたのに」
「お気になさらないでくださいませ。ヒューパート様はあなたと久々に顔を合わせられたことを喜んでいらっしゃったと思いますわ」
「……そうなのですか? それなら良かったですが」
サラ様がわずかに眉を顰めた気がした。ということは、彼女はヒューパート様に想いを寄せられていることを知らないのか、それとも知っていてとぼけているのか。
わたくしが思考を巡らせる一方、サラ様は嬉々とした様子で第二皇子殿下との新婚生活を語る。
「ハミルトン様ったら素敵なんですよ。城を出て帰ってくると、私の大好きなお菓子を買って来てくださるんです。
そして私を膝に乗せて、甘やかに口付けてくださって……」
彼女と第二皇子殿下の仲睦まじさは聞き及んでいたが、耳が痒くなるほど甘く、そしてほんの少し羨ましかった。
わたくしも彼女のように幸せな結婚ができれば良かったのに、と。
しかしわたくしはその内心を見せることなく微笑んだ。
「素晴らしいですわね。まさに理想の旦那様でしょう」
「ええ。ジェシカ様は、いかがなんです?」
「――わたくし?」
思わずひゅっと息を呑んでしまったことは、サラ様に悟られただろうか。
爛々と輝くサラ様の瞳を見てわかった。彼女がわたくしをお茶会に招いたのはこの話がしたかったからなのだ。
サラ様とわたくしは過去に何度もパーティーなどで顔を合わせたし、複数人で開かれたお茶会などでも同席した経験もある。
だがこうして一対一で向かい合うのは初めてで、だからこそ怪しんでいたのだが、こういう話をしたいがためなら納得がいく。
「わたくしは……」
愛されておりますわ、と噓を吐くべきなのだろう。
けれどわたくしの口からは思うように言葉が出ず、淑女の笑みのままで表情が固まってしまう。
そんなわたくしの迷いを悟ったのか否か。
それはわからないが、わたくしより先に再び口を開いたのはサラ様だった。
「差し出がましいようですが、一つアドバイスをさせていただいてよろしいでしょうか?」
「……はい」
「夫婦の仲を保つためには、ただ待っているだけではいけません。自ら歩み寄り合ってこそ、支えられるのです」
「そう、ですわね」
「今でこそ私とハミルトン様はラブラブな夫婦ですけど、最初からそうだったわけじゃありません。何しろ婚約当初はお互い幼かったものですから、些細なことで口喧嘩することも多くて」
どこか優しい目をして微笑みながら、サラ様は話し続ける。
「でも、それは全部相手のことを知るきっかけになって、心から愛し合えるようになったんですよ。ですからジェシカ様も――」
彼女の言わんとしていることはわかった。
ヒューパート様に寄り添い、彼の心を理解し、関係を改善する。
しかしわたくしにそんなことができるだろうか?
そもそも、わたくしたちのこれは白い結婚。関係改善などする必要はないはずだ。たとえ居心地の悪い冷戦状態が続いていたとしても。
だというのに、その時ちらりと脳裏にヒューパート様の笑顔が浮かんでしまった。他の令嬢に、そして特にサラ様へ向ける美しい笑顔を。
あの顔をわたくしに向けてくださるわけがない。
彼にとってわたくしはどこまでも嫌な女。しかも、本心に反すると言うのに溺愛を装っていたその好意を跳ね除けてしまった愚か者だ。
だけれど、もしもあの笑顔が見られる可能性がわずかにでもあるとするのなら。
離縁する前の思い出にするため、少しは努力してみるのも損ではないかも知れませんわね。
わたくしはサラ様に微笑み返した。
「ご助言、今後に活かさせていただきますわね」
「ご健闘をお祈りしています」
それからしばらくまた雑談を交わし、お茶を飲み干すと、二人きりのお茶会はお開きとなった。
とても実りのあるお茶会だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夫の想い人から彼との関係改善を提案され、それを元に行動すると言うのは少し複雑な気分だったが、わたくしはできる限りのことを頑張った。
仲違いして以降別々だった食事時間を一緒にしてみたり。
少なくはあるが言葉をかけるようにするなどしたのだ。
「……周囲の目を気にしているのか? それなら今更、同じことだろう」
「好いてくださいとは申しませんわ。だってわたくしも、好きではありませんもの。ですが嫌い合う必要はないと考えるようになりましたの」
ヒューパート様は「ふざけたことを!」と赤面していたが、あの謎の溺愛期間ほどではないにせよ、視線を交えることが増えた。
これは善き変化だ。
冷戦状態も少しずつ緩和されていったし、結婚から一年半を迎える頃にはお忍びデートを行うまでになったほどである。
――と言っても口付けをすることもなければ、愛を囁き合うようなこともない形ばかりのものではあったけれど、それでも楽しかった。
楽しかったのだ。
「お前は眩し過ぎる。手加減しろ!」だとか、「お前とこうしていてやっているのは理由があってのことだ。誤解するなよ」など。
相変わらず暴言を吐き続けられていたけれど、いつしか何も思わなくなっていた。
不思議なものだと思う。だってあれほど嫌悪していた気持ちが、今はすっかり薄れてしまっているのだから。
そしてとうとう、その日が訪れる。
それはある何気ない日のことだった。
「……もうじきお前と暮らして二年になる。長いのだか短いのだかよくわからない日々だったな」
「その通りでございますわね」
「美し過ぎるお前は目に毒だ。だがそれにも近頃慣れて……ではなく、許せるようになった」
城の庭園にて、ベンチに腰を下ろし、そよ風に銀の髪を揺らすヒューパート様。
隣に座るわたくしに目を向け、ほんの少し口角を上げた。
「こ、このままそばに置いてやってもいいぞ。お前が……いいのならな」
それは非常に穏やかな笑みだった。
サラ様に向けていたのとは違う。それでも紛れない、わたくしに対する初めての笑みで。
わたくしはそれだけで充分だった。
――まさか本気で見られるなんて。サラ様のご助言のおかげですわね。
ヒューパート様は顔がいい。
わたくしには赤面したり怒鳴ってばかりいたけれど、やはり笑顔がよく似合う。
その笑顔を脳裏に焼き付け、目を閉じる。
もはや悔いはなかった。
「この身に余る光栄でございます」
「嫌なら嫌と言えばいいんだぞ」
わたくしは首を振った。
「いいえ、不満はございませんわ」
答えなかったのは、彼がわたくしを傍に置き続けるなどということがあり得るはずがない故だということは、彼にはわからなかったのかも知れない。
もうじき結婚二年目になる。
そんな中で、わたくしとヒューパート様は共に皇帝陛下に呼び出しを受けた。
落ち着いた色合いの薄緑のドレスに身を包んだわたくしは、陛下の御前で深く頭を下げ、カーテシーをした。
「ジェシカでございます。皇帝陛下にご挨拶申し上げますわ」
「……父上、急な話とは何なのですか。もしかして何か私たちに問題でも」
一方、挨拶もなしに皇帝陛下に詰め寄るヒューパート様。皇帝陛下は手を掲げることで彼の言葉を制し、口を開いた。
「今回貴様たちを余の前に招いたのは他でもない、貴様らの子についての話があるからだ。
貴様らはすでに婚姻してから二年経つ。その間、妃ジェシカは一度も孕っていないと王宮医師から聞き及んでいる。――これは、帝国の未来にとって甚大な問題である」
第二皇子ハミルトン殿下とサラ様の間にも子はいず、たとえ生まれたとしても皇太子の甥であると継承問題上あまり好ましくはない。
陛下はそう言って、続けた。
「この際、やむを得ない。ヒューパート、新たな妃を娶れ」
ひゅっと息を呑む音がすぐ近くで聞こえた。
顔を向けずともわかる。ヒューパート様だ。
わたくしに対し今まで露骨に嫌がることはなかったのは初夜で白い結婚を求めたからこそ。新しい妃を娶るとなれば、そうはいかない。
ヒューパート様はわずかに声を震わせた。
「冗談じゃない。他の妃、だなんて。じゃあジェシカはどうなるんです。彼女とはすでに」
「離縁することになる。ハパリン帝国において側妃などというものは認められておらぬことは知っているであろう?」
周辺国は、子が生まれない場合のみならず、側妃や妾を公認する国も多い。
しかしこの国は本来愛人など作るべきはないし、特に皇族は厳禁とされている。つまりわたくしと離縁した上でヒューパート様は妃を娶る必要があるのだ。
「そんな……」
「余は時間を与えたはずだ。その間に子を儲けられなかったのは貴様の責であるぞ、ヒューパート」
ヒューパート様は何かを言おうとしている様子だったが、結局何も言えぬままだった。
「すまない、ジェシカ嬢。慰謝料と次の縁談は責任を持って用意する」
「承知いたしました、皇帝陛下。ご配慮感謝いたしますわ」
最初からこうなるのはわかっていたから、わたくしは動揺しなかった。
むしろ、ヒューパート様がこのことを予想していなかったらしいことに驚きを禁じ得ない。
これでようやく、ヒューパート様との婚姻期間が終わる。
当初の目的をこれで果たせた。あとは荷造りをして、後腐れなく別れるだけだ。縁談も用意されてるということならこの先の身の振り方に何ら問題はないだろう。
――肩の荷が降りたような開放感は、不思議となかったけれど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「そういうわけで、わたくしはまもなく皇太子妃ではなくなりますわ。あなたにはお世話になりましたわね」
わたくしが離縁することになった経緯を話すと、専属侍女は悲しげな顔をした。
だが、口出しすべきことではないと判断したのだろう、何も言ってはこなかった。
「こちらこそ、仕えさせていただき光栄でした。……お支度を、手伝わせていただきます」
公爵家から持ち込んだ所持品はほんのわずかで、鞄一つもあれば全て詰め込めてしまうほどだった。
本当に、呆気ないものだ。二年間ここで過ごした記憶はわたくしの中に山ほど残ってしまっているというのに。
サラ様を筆頭に城の人たちに最後の挨拶をすべきかどうか迷った。
けれどなんだかバツが悪く、もう一度赴く気にはなれなくて。静かにひっそり立ち去ろうと決意するのに二、三時間を要してしまった。
「もう夜ですし、出発は明日の朝がよろしいかと」
「ええ、そうさせていただきますわ」
せめて最後に、きちんとヒューパート様と話をしよう。
白い結婚といえ、約二年も共に暮らしてきた相手なのだ。皇帝に離縁を命じられた後の彼はずっとぼんやりとしていて、まともに話せる状態になかった。
それほどわたくしという都合のいいお飾りを失うことが嫌なのだろうか。
つい先日見たばかりの彼の穏やかな笑みを思い出し、胸が苦しくなる。
わたくしはその理由に気付かないふりをして、ベッドに腰掛けながら彼を待った。
――そして深夜。
「ジェシカ、いるか」
「はい」
「入るぞ」
答えるなり、扉を開けて彼が入室する。
美しい銀髪を揺らす美丈夫。この姿を見るのも今日で最後になるのだと思うと、なんだか感慨深かった。
「遅くなった。許せ」
「お気になさらず。……それでは話をいたしましょう、皇太子殿下」
わたくしは彼をあえてそう呼んだ。
これからは赤の他人になるのだからという意味を込めて。
しかし。
「やめろ」
彼は不満げに唇を歪めて言った。
「私のことは名前で呼べと言っただろう」
「離縁するわたくしたちにとって、もはや必要のないことですわ」
「お前はそれを望むのか」
「皇帝陛下に従うのが務めですもの」
そう答えれば、彼は無言でわたくしの方へ歩み寄ってきた。
そしてそのまま、ぼふん、と乱暴にわたくしの隣へ座り込む。
一体何を言われるだろう。つまらない女だと罵られるだろうか。せいせいしたと笑われるか、反対にお前がいなくなっては別の女を抱かなければならなくなると泣きつかれるか。
どれでも良かった。どうせ結果は、変わらない。
けれど次の瞬間、彼が口にしたのは想像もしていない言葉で。
「私は……無理だ。今更、お前を失うなんて耐えられるわけない!」
「――っ」
悲鳴を上げる暇もなかった。
気づけばわたくしはベッドに押し倒され、彼の顔をすぐそばで見上げていた。
わけがわからず、ただ呆然とするわたくしに覆い被さり、ヒューパート様は息を荒げながら続ける。
「お前は私のことが嫌いだ……そんなのわかってた! 嫌われる原因を作ったのは私だ。お前の美しさに惚れて、でも惚れたことを認めたくなかった」
「殿下っ」
「成長するにつれお前は美しくなっていった。でも私はお前に嫌われるばかりで、嫌だった。悔しかった! でもどうしても自分から言い出せなかった。そんなことをすれば、私はお前に負けたことになる! お前にだけは、負けたくなくて……」
抵抗しようと足掻くわたくしはしかし、まるで力が及ばない。
彼の喉に噛み付くことはできたが、相手は皇太子殿下。このような意味不明な状況でも、さすがにやっていいことと悪いことの判別くらいはついてしまった。
――それともただ、本心から抵抗する気が起きなかっただけなのかも知れない。
「白い結婚なんて、しなければ良かった」
なぜ、とわたくしは思った。
ヒューパート様はサラ様へ片想いをしていた。これは公然の秘密で、誰もが噂していたこと。
何より当人が、何度もサラ様を気にかけるような姿を見せていたではないか。
「サラ様は、どうなさいましたの」
自分でも信じられないくらい冷たい声が出た。
「ハミルトンの妃のことか? お前は何を言っている」
「ふざけないでくださいませ。サラ様を想っていらっしゃったからこそ、十七年も婚約を結ばないでおいでだったのでしょう。わたくしに惚れていたなんて話、虫が良過ぎですわ」
ヒューパート様の赤い瞳は、困惑したように揺れている。
しかし困惑しているのはこちらだ。突然ベッドに押し倒され、ありもしない愛を囁かれたのだから。
「それほどまでにサラ様以外の女性と体を重ねたくないのであれば、皇太子を降りられてはいかがです。彼女は第二皇子殿下にぞっこんのようですから、奪えはしないでしょう。それとも彼女の子を次の皇太子とした上で、それでもなお自らが皇帝になるおつもりですか」
「彼女は何の関係もないだろう! 彼女へ横恋慕など絶対にあり得ない。これは私とお前の、ジェシカの問題だっ!
この際だから言うが、私はお前を想って、今までずっと黙っていただけだ! お前に不本意な子作りを強いたくはない。お前の寝着を見ながら私が毎日どれほど悶えていたことか……!」
そんなの、知らない。
信じられるわけがない。わたくしに逃げられたくないヒューパート様が口から出まかせを言っただけ。
わたくしが、ヒューパート様に愛されているはずがない。
誤解をするなと何度もわたくしに彼は言ったのだ。そしてわたくしは誤解をしないように務めた。大嫌いで仕方がなかったのに、惹かれそうになるのを堪えて。
「あなたに抱かれるのだけは、御免です。それは殿下も同じ。ですからわたくしたちは白い結婚をした。そうでしょう?」
「察しろ! お前のような美しい令嬢を嫌う馬鹿がどこにいる! ともかく美人だ。お前はものすごく美人だ。憎たらしいほどにな!」
「やはり憎いのではないですか」
「違う。……憎たらしいのは、お前を直視できない私の甲斐のなさだ」
――ああ。
わたくしとて、憎たらしかった。
幼い頃に言われた悪口のことばかりを考えて、ヒューパート様の優しさを受け入れられなかった自分が。
貴族令嬢が好む恋愛小説のヒーローの一つに、ツンデレという属性がある。
ヒロインのことを想っていながら、素直にそれを口に出せない性質。恋愛小説好きの友人などは「ツンデレヒーロー最高なのよ!!」と力説していたりしたものだが。
まさか彼が、それだというのか。
「父を説得して、もう一年だけ猶予をもらってきた。だから……その……わかれ」
「わかりませんわ、殿下」
「なら」
そう言ったと同時に彼の顔面がわたくしへと急接近し、互いの唇が重ね合わせられた。
そっと触れるだけの柔らかな口付け。けれど一瞬でヒューパート様はこれでもかというほど顔を赤くしたし、わたくしも高揚した。
その時ふと、遅過ぎる気づきを得た。
ヒューパート様が今まで赤面していたのは、照れていただけなのだと。
――可愛いですわね。
わたくしは不覚にも、そう思ってしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「離縁を取りやめるのですか。それは良うございましたね、ジェシカ様」
「……そうかしら」
「そうですよ。だってお二人は、どこからどう見ても両想いでいらっしゃいましたもの。……ではお荷物を戻しておきましょう。ジェシカ様は皇太子殿下とごゆっくりお過ごしください」
侍女を筆頭に、この話をどこからか耳に入れたらしいサラ様、そしてその他使用人にまで離縁の取りやめは想像以上に喜ばれた。
と言ってもあくまでこれは一時的なもの。一年以内に子を身籠らなければ今度こそ離縁となると皇帝陛下はおっしゃった。
でもおそらくそうはならないのではないかとわたくしは考えている。
口付けだけに留まり、結局あの後それ以上の行為には及ばなかったが、それでもわかってしまった。
ヒューパート様はわたくしのことを好いている。そしてわたくしも、もはや彼のことなど、一欠片も嫌っていないのだと。
「私はお前のこと、好きでも嫌いでも、もちろん大嫌いでもないからな。誤解するなよ」
「ふふっ。ありがとうございます、ヒューパート様」
好きでも嫌いでもない。これすなわち、大好きということらしい。
ツンデレなヒューパート様は素直になれず、なかなか真正面から愛を告げられないようだ。
かくいうわたくしも、愛しているとはまだ自信を持って言えないでいた。
だが、ツンデレという皇太子殿下の本性を知って以降、その言動一つ一つがたまらなく愛らしく思えてしまい、笑みを隠せない。
一方でヒューパート様はポッと頬を赤め、わかりやすく視線を逸らせる。
そんなわたくしたちを、城を行き交う使用人たちが微笑ましげに眺めていた。
出会いは最悪、始まりは白い結婚、仮初の夫婦生活を過ごしたり冷戦状態に陥ったりなどしたわたくしたちだけれど。
本当の夫婦になる日は近い――そんな気がしてならないのだった。
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