悪役令嬢に転生したのですが、処刑される運命を回避するため筋トレをします
「ま、まさか…… この顔は……!!」
衣装室に置かれた鏡に、天使のように可愛らしい自分の顔が映った瞬間、この先に待ち構える悲惨な運命を悟った。
私には前世の記憶がある。それには様々な知識や経験があるが、何よりも重要になったのは、とある漫画の情報だ。
その漫画には、名前や顔、何もかもが、今世の私と同じキャラクターが登場するのだ。
彼女の名前は、ユア・バウフ。
ユアは作中一の美女という設定ではあるが、そのせいで悲惨な運命を辿ることになる。
諸外国の王やら王子やらが、こぞってユアに一目惚れし、結婚を申し込む。しかし、ユアを妻に迎えたいがあまり、彼らは暴走し、遂には戦争を起こしてしまうのだ。
ユアは必死に戦争を止めようとしたけれど、それでも戦火は広がるばかり。
誰もが疲弊し、どうにか終戦を迎えた矢先、ユアは戦争が起きた責任を一身に押し付けられ、処刑されてしまう。最低最悪の悪女と、罵られながら。
公式サイトの登場人物紹介で、ユアの欄に「戦争が起きる原因となった悪役令嬢」と書いているのを見つけたときは、作者に人の心がないと確信した。
そんなキャラクターに、私は転生してしまったのだ。
「このままじゃ私…… 処刑される……!?」
鏡に映る私の顔が、恐怖と絶望で歪む。皮肉なことに、そんな表情でも私の顔は可愛らしかった。
このままだと私は、漫画と同じ運命を辿ってしまう。
どうにかして…… どうにかして、この悲惨な運命を変えなくては……!
次の瞬間、電撃のような閃きが脳裏をよぎった。
「そうだ、筋トレをしよう」
それはまさに、天啓だった。
死ぬ気で筋トレをして、ゴリラみたいにムッキムキになればいいのだ。
そうなれば、ニッチな好みの人以外は、私と結婚しようとは思わないだろう。
筋トレする時間なら、膨大にある。貴族は案外暇なのだ。
こうして、命を賭けた肉体改造計画がスタートした。
†
天使のように可憐な少女として、ユア・バウフの名前は国内に轟いていた。
その評判を聞きつけ、ユアを一目見ようとする者は、後を絶えない。そのために、わざわざ遠方から人が訪れることも珍しくない。
実際にユアの容姿を目にした者は、話に聞く以上のユアの美しさに、圧倒される。
しかし、日を追うにつれ、ある違和感を覚える者が増えていく。
「あれ? なんか思ったよりゴツくね?」と……。
その日、とある国の王子が、ユアの噂を聞きつけ、バウフ家に訪れた。
ソファーに腰かけた王子は、期待で頬を緩ませながらユアを待つ。
「フフ…… バウフ家の令嬢は、絶世の美女と聞いている。どれだけ美しいのか、楽しみじゃないか」
もう少しで、バウフ家の当主がユアを連れてくる頃だ。
「王子、ユアをお連れしました」
ドアが開き、バウフ家の当主が部屋に入る。
いよいよ、絶世の美女と名高いユアに会える。胸の期待が、最高潮に達する。
だからだろうか、バウフ家の当主が気の毒そうな表情を浮かべているのに、王子は気づけなかった。
「…………え?」
それが部屋に足を踏み入れた途端、空気が一気に重くなる。
それは、部屋の天井に頭がつきそうなほど巨体な人間だった。しかも、余すところなく筋肉がついており、その姿は岩石を彷彿とさせる。
バウフ家の当主と、彼が連れて来た筋肉の化物は、向かいのソファーに座る。みしりと、ソファーから悲鳴のような音が上がる。
(──殺られるッ……!?)
対峙して、直感的に理解した。これとは、生物としての格が違う。
これがその気になれば、いとも容易く、それこそ呼吸をするように、こちらの首の骨を折れるだろう。
石をも握り潰せそうな、その強大な手によって、現在進行形で命を握られているのだ。
何者なのだ、こいつは。バウフ家の用心棒か何かなのか。
「はじめまして、私がユア・バウフです。本日はお会いできて、光栄ですわ」
目の前の化物は、自らをユアと名乗った。
耳を疑いたくなったが、その筋肉質な声は、鼓膜までよく響いた。
何だこれは。噂と全然違う。これでは乙女というより、漢女ではないか。
偽物の可能性が一瞬浮かんだが、偽物を用意する意味がないし、そもそもこれを本物と言い張るのは無理がある。
本物なのだろう。よくよく見れば、絶世の美女らしき面影があるような、ないような。
絶世の美女と称された彼女が、どうして筋肉の化物になってしまったのか。そのことついて、言及してもいいのだろうか。
「えっと…… 噂で聞くよりも、随分と……」
「──随分と?」
悟った。言葉を間違えれば、死ぬ。
「あっいえ、噂よりも随分と凛々しくあらせられると思いまして!」
「ありがとうございます」
王子の口調が無意識のうちに敬語になっているが、この圧倒的な筋肉の迫力を前にしたら無理もない。
その後も、地雷を回避するように、当たり障りのない会話を続ける。すぐにでもこの場を立ち去りたいが、あまりにも露骨だと、不興を買う恐れがある。
「おっと、もうこんな時間だ! 申し訳ない、この後も予定が立て込んでいるので、ここで失礼します! 機会があればまたお会いしましょう!」
頃合いを見て、王子は逃げるように帰ってしまった。
部屋に残されたのは、ユアと、彼女の父親だけである。
「帰ってしまわれましたね、お父様」
ユアは両手にそれぞれダンベルを握り、スプーンでも持っているかのような軽やかさで上下させている。
ちなみにユアの父親は、ダンベルを持つことさえ叶わなかった。
「ユア、その…… やめた方がいいんじゃないか、こんなときまで身体を鍛えるのは」
「ご心配なく。私の筋肉はそんなに柔ではありませんわ。むしろ、まだまだ追い込みが足りないくらいですわ」
「……」
そういう意味ではないのだが、たとえ父親だとしても、ユアの筋肉の迫力に負けて何も言えないのであった。
†
ある日を境に、私は絶世の美女から、マッスルモンスターと呼ばれるようになった。
どうやら陰口らしいが、私は気にしていない。むしろ、マッスルモンスターという称号を気に入っているくらいだ。強そうな響きが、とても良い。
私に結婚を申し込む人間は、見事に一人もいない。この体型を維持すれば、私を巡って戦争は起きないし、処刑されずに済むだろう。
だけど、それ以上に、筋肉を育てるのが楽しくて堪らないのだ。
だから私は、今日も明日も明後日も、一生筋トレを続けるつもりだ。
私に会いに来る人が途絶えてから、しばらくして。その日、本当に久しぶりに、私に会いたいと申し出る貴族が現れた。
今はその人を客室に案内し、向かい合うようにお互いソファーに座っている。
私の隣には、一応お父様もいる。私があまりにも会う人会う人に怖がられるので、フォローするためにいるのだ。あまり効果はないけれど。
「はじめまして、僕はキーン・ニックスと申します。お会いできて光栄です」
「ユア・バウフです。こちらこそ、遥々お越しいただきありがとうございますわ」
キーンさんは、この国でそれなりに地位のある貴族、ニックス家の嫡男らしい。一見すると、爽やかな雰囲気の男性だ。
私の記憶が正しければ、キーンさんは漫画には登場しなかった。
「ユアさん、よろしくお願いします」
キーンさんは握手するため、私に向かって手を差し伸べた。
この身体になって、握手を求められたのは初めての経験だ。
何故かみんな、私のことを力の制御ができないバーサーカーだと誤解しているのだ。筋肉の制御を誤って、人を傷つけたことは一度もないのに。
誤解しないでくれたことに嬉しく思いつつ、握手に応じる。
それに、だ。私の見立てが間違っていなければ、キーンさんは──
「!」
握手した瞬間、改めて確信した。
キーンさんも鍛えている。手の筋肉のつき方で、大体分かる。
「これは…… 予想以上の……!」
そして、握手によって何かを感じ取ったのは、キーンさんも同じらしい。
にこやかだったキーンさんの目が、真剣なそれに変わる。
「──脱いで、くれませんか?」
「!」
「は!?!? な、何を言っているんだ君は!?」
私はその、時代が時代ならセクハラで訴えれるであろう言葉を、心ではなく筋肉で理解した。
「む゛んッ!!」
上着を脱ぎ捨て、サイドチェストを決める。
恥ずかしさはない。サラシを巻いているし、何より、鍛え上げた筋肉をお披露目するのに、誇らしさ以外の感情はない。
「素晴らしいッ! なんて美しい三角筋から上腕三頭筋へのラインだッ! 神が創り出した芸術としか思えないッ!」
「ひぇぇ……」
キーンさんはやはり、私の筋肉に熱い視線を送る。
思ったとおり、キーンさんは筋肉の魅力に気づいている人だ。
私の容姿ではなく、私の筋肉を見に来たのだろう。
なんだかそれが、無性に嬉しかった。
「よろしければこの後、一緒に筋トレをいたしませんか?」
「ええ、喜んで! 是非あなたのトレーニング方法を参考にさせてください!」
この世界で初めて、筋肉以外の友人を手に入れたのであった。
†
筋トレを始めてから、私が食べる料理はいつも決まっている。玄米に、十分な栄養を摂れる分の野菜、そして茹でた鶏肉である。味気ない料理と言われたら、何も言い返せない。
確かに、毎日好きなものを、好きなだけ食べる生活は幸せだろう。しかし、それでは過剰に脂質を摂取してしまい、脂肪が付く原因となる。
家族にはそう説明したけれど、誰も理解してくれなかった。家族にとって食事とは、娯楽のようなものであり、味を楽しむことが最優先らしかった。
私だけ料理が違うせいか、家族とは別に、私一人だけで食事をすることが多くなった。最初こそ寂しさはあったけれど、今はもうすっかり慣れてしまった。
だけど最近は、私と一緒に食事をしてくれる人がいる。
まさに今、バウフ家の食堂で、その人と食事をしようとする最中だった。
「いつ見ても、すごい量ですね……」
山盛りの鶏肉を見て、その人── キーンさんは圧倒されたような表情を浮かべる。
「恥ずかしながら、こんなに食べないと、この筋肉を維持できませんの」
「いやいや、恥ずかしいだなんてそんな! こんなに食べれるなんて、尊敬しますよ!」
向かいの席に座るキーンさんの前にも、私と同じ料理が並んでいる。量に関しては、私の方がちょっと多いけれど。
私が毎日同じ料理を食べる理由を知って、キーンさんは理解を示してくれた。それだけではなく、私に倣って、同じ料理を食べるようになったのだ。
キーンさんとは、もう何度も一緒に食事をしている。いや、食事だけではない。筋トレだって、一緒にやっている。
キーンさんの筋肉に良い刺激を受けて、私の筋肉はより成長している。
そして何より、キーンさんと一緒にいることで、安らいだ気分になるのだ。
「「いただきます」」
私の筋肉になってくれる命と、この料理を作ってくれた人に感謝を込める。
鶏肉を口にする。自分でこの料理を頼んでおいて、こんなこと思いたくないけれど、茹でただけの鶏肉はやっぱり味気ない。
「ユアさん。今日僕は、ベンチプレスの自己ベスト更新に挑戦します」
「……そうですか、いよいよ挑戦なさるのですね」
意を決したように、キーンさんは告げる。
私の部屋には、一通りの筋トレ器具が揃っている。当然、そこにはベンチプレス用のダンベルもある。
時折、私たちは筋トレの成果を披露する場として、ベンチプレスの自己ベストに挑戦したりする。現時点のキーンさんのベンチプレスの自己ベストは280キロ。今日挑戦するのは、なんと300キロだ。
ここ最近のキーンさんの筋トレは、並々ならぬ覚悟を感じるほど、凄まじいものだった。
「と言っても、600キロオーバーのダンベルを上げるユアさんと比べたら、僕なんてまだまだですが……」
キーンさんは自虐っぽく笑う。
一人の筋トレ愛好家として、その発言を聞き流すわけにはいかなかった。
「私たちが筋トレをするのは、己の筋肉を育てるため。いわば、過去の自分よりも成長するためです。私が何百キロのダンベルを持ち上げられようと、キーンさんが成長することの価値は決して損ないませんわ」
「……そうでしたね、大切なことを忘れていました。思い出させてくれて、ありがとうございます」
キーンさんの自虐っぽい笑みは、もう消えていた。
つい説教してしまった気恥ずかしさを誤魔化すために、咳払いをする。
私の説教よりも、今から言うことの方がずっと重要だ。
「キーンさんが自己ベストを更新できたのなら、今日は素晴らしい日となりますわ。チートデイを解禁して、盛大にお祝いいたしましょう!」
私の言葉に、キーンさんは大きく反応する。
いくら筋肉ためでも、この味気ない料理しか食べられない人生は辛すぎる。
そこで、好きなものを、好きなだけ食べてもいい日を設定した。それがチートデイだ。
チートデイの前日は地獄、チートデイの当日は天国だ。
「それは絶対に、成功させなければいけませんね。脂っぽいお肉、なんとしても食べたいですし」
成功のご褒美がチートデイ解禁なら、キーンさんのやる気も爆上がりだろう。
食事を終えた私たちは、次に私の部屋に向かった。
いよいよ、キーンさんがベンチプレスに挑戦する。
「フゥー……」
キーンさんはベンチに仰向けになり、支柱に支えられたバーベルを掴む。
集中…… だけではない。その筋肉の強張りから、緊張が伝ってくる。
ベンチプレスの自己ベストを更新するのは、容易ではない。しかも、1キロや2キロではなく、20キロも重くなるのだ。
普通に考えれば、無謀な挑戦だ。キーンさん自身も、それを理解している。理解している上で、挑戦しているのだ。
「キーンさん、貴方の努力は私が誰よりも近くで見てきました。私と私の筋肉が保証いたします。絶対にバーベルを上げられますわ!」
それでも私は、キーンさんなら成し遂げられると信じている。
私の言葉を聞き、キーンさんは笑みを浮かべながら頷いた。
キーンさんの全身の筋肉が、臨戦態勢に入るのを感じる。
「ふぐぅ……!!!」
バーベルが支柱から離れる。
問題はここから。今、キーンさんの腕には、とんでもない負荷がかかっているはずだ。
「ぬ゛、ゔぅぅ……!!??」
キーンさんの顔が赤くなり、表情が苦痛で歪む。
バーベルが完全に上がるまで、もう一息。だけど、腕の動きが止まってしまっている。
この状態からバーベルを上げるのは、正直かなり厳しい。
だけど、まだ助けには行かない。その理由は、キーンさん自身がよく理解しているはずだ。
──キーンさんの筋肉は、まだ諦めていないッ!
「頑張って、キーンさん!」
「うううぅぅぅおおおおおおおおお!!!」
……上がった。バーベルが、上がった!
「やった! やりましたわ、キーンさん!」
バーベルを支柱に戻し、ベンチから起き上がるキーンさん。
その表情は、達成感で晴れやかだった。
「……ありがとうございました、ユアさん。僕のことを信じてくれて。応援、ちゃんと聞こえていましたよ」
「お礼を言うのは、私の方ですわ。良いものを見させていただきました。筋トレの成果が現れる瞬間は、いつ見ても素晴らしいですわ」
キーンさんは地面に片膝を着くと、私に向かって手を差し出した。
「……ベンチプレスの自己ベストを更新できたら、告白しようと決めていました。ユアさん、どうか僕の伴侶となり、共に愛と筋肉を育んでくれませんか?」
それは愛の告白だった。
どうしてこんなタイミングで…… とは、全く思わなかった。
キーンさんはこのために、キーンさんは厳しい追い込みに耐え、ベンチプレスの自己ベストを更新したのだ。
その事実は、どんな綺麗な言葉を並べられるよりもずっと、私の心に響いた。
筋トレをする前の自分だったら、この情緒は理解できなかっただろう。
「はい、喜んで!」
キーンさんの手を取る。
私にとってキーンさんは、理解者であり、友人であり、ライバルであり、同好の士であり、そして意中の人でもある。
断る理由なんて、どこにもなかった。
「ありがとう、ございます……!」
キーンさんは喜びを噛み締めるように、静かに呟いた。
†
キーンは婚約者のユアを連れて、ニックス家の屋敷に来ていた。
正確に言うと、ユアはまだ婚約者ではない。現ニックス家当主であり、父親であるゼイン・ニックスに認められなければ、婚約者にはなれないのだ。
ユアとの婚約を報告したとき、ゼインは一瞬だけ強張った表情を浮かべた後、「ユア君を連れて来なさい」と言った。
つまり今日、ゼインは実際にユアの人柄に触れて、婚約を認めるか否かを決めるつもりなのだろう。
健全な肉体にこそ、健全な精神が宿ることを信条としているキーンにとって、そこまで心配することではなかった。
ユアは淑やかで、優しく、そして強い女性だ。その人柄は、きっとゼインに伝わるだろう。
「さあ、行きましょう。父上が待っています」
「……ハイ」
客室に着くと、そこにはソファーに座るゼインがいた。
「父上、ユアさんをお連れしました」
「はじめまして、ユア・バウフ君。私はゼイン・ニックス。君に会えるのを楽しみにしていたよ。今日はよろしく頼む」
口ではそう言っているが、ゼインの眼は、ユアを鋭く観察していた。
マッスルモンスター、マッスルデストロイヤーなど、ユアの噂は世間に溢れかえっている。
ゼインは何も言わないが、噂の真偽と、ユアの人柄が気にかかるのだろう。婚約を報告したとき、表情が一瞬強張ったのが、その根拠だ。
キーンとしては、噂が眉唾でしかないことを証明する、良い機会だと思っていたのだが……
「ヨ、ヨロシクオネガイシマスワ!」
ユアの声は、明らかに上擦っている。それだけではなく、視線もあちこち泳ぎ、挙動がぎこちない。
ソファーに腰かけ、ようやく気づく。
(あれ? もしかしてユアさん、ものすごく緊張している?)
今日の対面次第で、婚約を許されるか否かが決まるかもしれないことを、ユアに伝えていた。
ユアも薄々勘付いていただろうし、何も言わないよりは良いと判断したのだ。
だが、まさかここまで緊張するとは。
余計なことを言ってしまったが、後悔している暇はない。無事に婚約を認めてもらうためにも、上手くフォローしなくては。
「失礼します」
ニックス家専属のメイドであるベルダが、ティーセットの乗ったカートを押して客室に入る。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
目の前に置かれたティーカップに、ベルダが手際よく紅茶を注ぐ。
爽やかな香りが鼻をくすぐり、焦っていた気持ちが幾分か落ち着く。
香りだけでも、最高級の紅茶だと分かる。
「外国から取り寄せた、私のお気に入りの紅茶だよ。是非飲んでみてくれ」
ベルダは静かに一礼をすると、客室から立ち去った。
もしかしたらこの紅茶で、ユアも落ち着きを取り戻してくれるかもしれない。
「イタダキマスワ!」
ユアは紅茶を飲もうとし──
「あっ……」
ティーカップの取手が、砂糖細工のように粉々になって潰れた。
ユアの指の圧力に、ティーカップの取手が耐えられなかったのだ。とんでもない指筋である。
それを見たゼインは、口をあんぐりとさせて驚いている。世界広しといえど、こんなことができる人間はユアだけだろう。
「ももももも、申し訳ございません! 弁償いたしますわ!」
「怪我はないですかユアさん!?」
「傷一つありませんわ!」
今のユアは極度の緊張により、筋肉の制御がバグっている。これでは噂どおりの、マッスルモンスターそのものだ。
(ユアさん、落ち着いてください! いつもどおりのユアさんなら、何も問題ありませんから!)
(い、いつもどおり……?)
ユアはうわ言のように「いつもどおり、いつもどおり……」と呟くと、突然ソファーから立ち上がり──
「許してくだサイドチェスト!」
「「!?」」
見事なサイドチェストを繰り出した。
場を和ませるジョークのつもりなのだろうか。いつもどおりどころか、いつもなら絶対にしないことをしている。
このままでは何をするのか分からないと判断したキーンは、ユアの肩を掴んでポージングを止めようとする。
「ちょっ、ユアさ──」
「弁償させていただきモストマスキャラー!」
モストマスキュラーを繰り出そうとするユアの肉体は、まさに凶器と化していた。
砲弾のように勢いのついたユアの肩が、キーンに衝突する。
「グハァッ!?」
キーンはそのまま派手に吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられる。
床にずり落ちるも、震える手でユアにサムズアップを送る。
極度の緊張に蝕まれているにもかかわらず、ユアのポージングの美しさは微塵も損なわれていなかった。
朦朧とした意識の中でも、賛辞を送らずにはいられなかったのだ。
「ナ、ナイスバルク……」
「キーンさぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
その後、キーンはどうにかソファーに戻ったが、地獄のように気まずい空気だった。体に残る鈍痛が、ちっとも気にならなくなるくらいには。
今にも死にそうなほど顔を青白くするユアとは対照的に、ゼインの表情はほとんど変わらない。
ゼインは今、何を考えているのだろうか。その表情からは、何も読み取れない。ただ、ユアに対する印象は、間違いなく変わっただろう。それも、おそらくは悪い方向に。
いずれにせよ、愛する人との婚約が許されるか否かは、キーンのフォローにかかっている。
しかし、この最悪な状況で、何を言うのが正解なのだろうか。そもそも、正解は存在するのだろうか。
だとしても、諦めるわけにはいかない。こうなったら、頭に浮かんだ言葉を真っ直ぐ伝えて、信じてもらうしかない。
「──父上! ユアさんは噂と違って、心優しい女性なんです! 今日はちょっと緊張してしまっただけで、誰かを傷つけるような女性ではありません!」
信じてもらいたい一心で言い放った言葉に、ゼインは目を丸くした。
「すまない、どうやら勘違いさせてしまったようだ。私は初めから、ユア君との婚約を反対するつもりはないよ」
「えっ!?」
まさかの言葉に、思わず声を上げて驚いてしまう。隣に座るユアも、呆然としている。
思い返してみれば、確かにゼインは一度も、婚約を認めないとは言っていなかった。
「でしたら何故、ユアさんと婚約することを報告したとき、あのような表情を……」
「それは…… そうだな。何も言わないでいるのは不誠実か。少し待っていなさい、すぐに戻る」
ゼインは立ち上がり、客室の外に出る。
ユアと顔を見合わせて、首を傾げる。ゼインが婚約に反対する気がないことには安心したが、どこへ、何をしに行ったのだろうか。
「待たせたね」
客室に戻ったゼインの手にあるのは、一着の青いドレスだ。まるで晴れた日の大空のように、美しい。
初めて見るドレス…… ではない。ずっと昔に、誰かが着ているのを見た覚えがある。
「このドレスは、私の妻…… スージーの形見なんだ」
「!」
そう語るゼインの口調は、寂しそうではあるが、宝物を取り出して懐かしむような雰囲気があった。
曖昧だった記憶が蘇る。何故忘れていたのだろう。特別な日に、母であるスージーがよく着ていたドレスだ。
キーンがまだ10歳にも満たない頃、スージーは流行病に罹ってしまい、そのまま亡くなってしまった。
スージーと最後に交わした言葉は、今でも鮮明に覚えている。
「どんな困難や、悲しみにも負けない、強い子になってください」という言葉を胸に、毎日体を鍛えるようになったのだ。
「二人の婚約を祝うパーティーで、キーンの婚約者に…… ユア君にこのドレスを着ることを、妻は望んでいた。自分の代わりに、このドレスに二人の晴れ姿を見届けてほしかったんだ」
ゼインの表情が強張った理由を、やっと理解した。
年代を感じさせない、美しいドレスではあるのだが…… ユアが着るには、あまりにも小さい。それこそ、無理に着ようとすれば、一瞬で破れるだろう。
ユアが筋肉を落とせば、あるいは着れる可能性があるかもしれないが、どれほど減量すればいいのか想像もつかない。
それに、キーンにとって筋肉は、幾多もの苦難を乗り越えた先で手に入れた、かけがえのない財産なのだ。ユアにとっても、それは同じはずだ。
死んだ母の願いなのは、分かっている。叶えてあげたい気持ちも、当然ある。
それでも、着れる保証もないのに「筋肉を落としてほしい」だなんて、口が裂けても言えない。
「ただ、その…… サイズ的に、ユア君がこのドレスを着るのは難しいだろ? 妻の願いを叶えられないのは残念だが、誰が悪いわけでもない。仕方のないことだ。だから、この話は忘れて──」
「構いませんわ」
隣に座るユアの横顔を見る。
これは、何かを絶対に成し遂げることを決意したときの顔だ。厳しい筋トレの終盤に、よくこんな顔をするのだから間違いない。
「そのドレスを着れるまで、筋肉を落としますわ」
†
バウフ家に向かう馬車の中で、私は今日の出来事を思い返す。
……うん、恥ずかしい。穴があったら入りたい。いくら緊張していたとはいえ、どうして私は、あんな奇行に走ってしまったのか。
それでも、お義父様にキーンさんとの婚約を許してもらえた。この喜びと安心は、生涯忘れないだろう。
私の隣には、キーンさんが座っている。私を家まで見送るため、同乗してくれたのだけれど、ずっと俯いていて元気がない。
キーンさんが私に向かって、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ユアさん。母上の…… いえ、僕たちのために、筋肉を落とす決断をしてくれて」
その言葉や所作からは、目一杯の感謝と、同じくらいの申し訳なさを感じた。
「ですが、そのために、ユアさんが犠牲になる必要はありません。母上の願いを叶えようとしてくれた、その気持ちだけで十分に嬉しいです」
私が返す言葉は、既に決まっていた。
「筋肉なら、また付ければいいだけですわ。それに、犠牲になるだなんて、私は少しも思っておりませんわ。あの素敵なドレスを着て、私たちの婚約を祝うパーティーに参加したいんですの」
この言葉は、紛れもない私の本心だ。
私の巨体で着れるドレスは、数少ない。ましてや、綺麗なドレスとなると、その数は更に限られる。
私だって、綺麗なドレスを着て、パーティーに参加したい気持ちは人並みにある。
それに、私がドレスを着ることによって、お義母様の願いを叶えられるなら、一度くらい筋肉を落としてもいい。
それは本心、なのだけれど──
「それよりも、私…… キーンさんに聞きたいことがあるんです」
「聞きたいこと…… ですか?」
私は今、筋肉を落とすこととは全く別物の悩みというか…… ある不安を抱えている。ダンベルよりも重い不安だ。キーンさんの目には、筋肉を落とすことに思い悩んでいるように映ったのだろう。
こんなメンタルでは、これから始まる過酷な減量に耐えられない。
だから、決着をつける必要がある。
恐怖を押し殺しながら、胸の中に渦巻く不安を言葉にする。
「正直に答えていただいて構いません。私が筋肉を落としたら、キーンさんはどう思いますか? 筋肉のない私でも、好きでいてくれますか?」
キーンさんは、私の何に一番の魅力を感じているのか。
それは間違いなく、筋肉だろう。事実、キーンさんが初めて私に会いに来たのは、私の筋肉が見たかったからだ。
では、筋肉がなくなってしまったら、キーンさんは私のことをどう思うのか。今までどおり、好きでいてくれるのだろうか。
知りたくもないし、考えたくもない。だけど今、それを確認しなければならない。
もしもキーンさんが、筋肉をなくした私と婚約するのが嫌なら、ドレスを着るのは諦める。
私の言葉を聞いたキーンさんは、私の目を真っ直ぐに見据えた。
「ユアさんが、その素晴らしい筋肉を維持するため、どれほど多大な努力を払ったのか、少しは理解できるつもりです。僕以上に筋トレをしている人間はいないと思っていたけれど、ユアさんは僕以上の筋トレを軽々とこなしていました」
思い出すのは、筋トレを始めたての頃。毎日が辛くて、苦しかった。
命が懸かっていなければ、途中で挫けていたに違いない。
だから私は、そんな事情もなしに筋トレを続けているキーンさんを尊敬しているのだ。
「並大抵の人間では、そんな筋トレを続けているうちに、きっと途中で挫けてしまうでしょう。ですが、ユアさんは見事にやり遂げました。僕は、ユアさんの精神的マッチョな部分に惹かれたんです。筋肉を落としたからといって、僕がユアさんを好きじゃなくなることは絶対に有り得ません!」
その言葉は、私の心の中に巣食う靄を晴らしてくれた。
「やりますわ、私。あのドレスを着て、キーンさんの隣に立ってみせます」
「ユアさんが可愛いドレスを着た姿を、僕も見たいです。なりたい自分になってください。微力ながら、僕もお手伝いします!」
もう、何も恐れることはない。その日から私は、ドレスを着るための減量を始めた。
だけど、ただの減量じゃない。悩みから解放された私は、新たな選択肢を見い出した。
何かの漫画で、見た記憶がある。常人と比べて、筋肉の密度が何倍もあるため、細身ながらも筋肉量が凄まじい設定のキャラクターを。
その体質を再現できれば、筋肉の量を保ちながら、ドレスを着れるくらい細身になれる。
第二の人生の中で、私は学んだ。筋肉は裏切らない。筋肉は全てを解決する。筋肉を信じ、鍛え続ければ、必ず成果は出るのだ。
全身の筋肉に意識を集中し、瞑想するように座る。何本もの筋繊維を束ね、より強靭な一本の筋繊維を作るよう、筋肉に呼びかける。
それを毎日、何度も何度も繰り返す。
そして。そして、私の肉体は──
†
その日、ニックス家の屋敷の大広間では、キーンの婚約を記念するパーティーが開かれた。
パーティー会場となった大広間では、パーティーに招待された客人たちが雑談に興じている。
しかしそこに、キーンの姿はない。彼の婚約者である、ユア・バウフの姿も。
ユアの衣装の調整が済んでから、パーティー会場に入場する手筈となっている。そして、その調整もそろそろ終わる頃だ。
「いやはや、今日は実にめでたい。まさかこうして、キーン殿の婚約を祝えるとは。体を鍛えてばかりで、女性と全く縁がないことを、ゼイン殿も心配していましたからな」
「そう考えると、キーン殿はこれ以上ないくらい、お似合いの相手に恵まれましたね」
「……あとは、このパーティーが無事に終わることを祈るばかりです」
「……ええ」
一見、パーティーは賑やかに進んでいるが、どこか怯えた雰囲気が漂っている。
客人たちは既に、キーンの婚約者がユア・バウフであることを知っている。ユアが絶世の美女と認識されていたのは、遠い昔のこと。今では完全に、筋肉の化物として認識されている。
パーティー会場が破壊されないか心配する者、五体満足で帰れることを願う者、ユアの筋肉を間近で見るのを楽しみにする者など、その心情は様々だ。
「皆様、大変長らくお待たせいたしました。キーン様、そしてユア様のご来場です」
ニックス家専属メイドのベルダが、大広間の扉を開ける。
次の瞬間、大広間にどよめきが起きる。
扉の開いた先に、絶世の美女と腕を組むキーンがいたのだ。
極一部の例外を除き、この場にいる誰もが疑問を抱く。キーンの隣にいる美女は、何者なのかと。
集まる疑問の視線を意に介さず、キーンは謎の美女と共に、壇上に立つ。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。ニックス家跡取り、キーン・ニックスです」
キーンは周囲の反応を見渡すと、無理もないと言わんばかりに苦笑いを浮かべた。
「僕の隣にいる女性が誰なのか、気になっている方が多いと思いますので、改めて紹介させてください」
ざわついていた空気が、一瞬にして静まり返る。誰もがキーンの言葉を、心待ちにする。
「彼女は僕の婚約者、ユア・バウフです」
「「「!!!!!?????」」」
誰もが驚きすぎて、一周回って声が出なかった。
そう、常識的に考えればわかるはずだ。キーンの婚約を記念したパーティーなのに、婚約者であるユア以外の女性と腕を組んで登場するなんてありえない。
だとしても、こんな美しい女性がユアだなんて、信じられない。信じられるはずがない。
顔はともかく、体格からまるで違う。ユアは、キーン以上に身体が大きかったはずだ。それが今では、キーンの胸元辺りまでしか身長がない。非現実的だ。
「信じられない方も多くいらっしゃると思いますが、私は正真正銘、本物のユア・バウフですわ。今日のために、減量いたしましたの」
やはりと言うべきか、疑いの目は消えない。
「……分かりました。それでは今から、私がユア・バウフである証拠をお見せしますわ」
ユアは大きく息を吸った。静かな音だったが、何かが起きるのを予感するには、十分な迫力があった。
「──覇ッ!!!!!」
ボンッ! と何かが膨れ上がる音がした。
ユアの肉体が、まるで一気に空気を入れた風船のように、キーンと同じくらいの高さまで膨れ上がったのだ。
鎧のような筋肉が顕になり、美女の面影をそこはかとなく匂わせつつも、世紀末の武将のように厳つい顔に変わる。
ただ、その顔こそが、世間一般に広く知れ渡っているゆいの顔である。
「このように、私は筋肉の密度を自由自在に操れます。今の姿は、本来の姿の50%程度に留めています。これ以上力を解放すると、ドレスが破けてしまうので」
言ってる内容は半分も理解できないが、もしもユアが敵だとしたら、これ以上なく絶望感のある言葉なのは分かる。
「そして、ちょっと筋肉を引き締めれば……」
今度は萎えた風船のように、ユアの筋肉は縮み、美女の形態に戻った。
「身体を縮めることも可能ですわ!」
絶世の美女と、世紀末の武将の境界線を反復横跳びをするユア。何かしらの練習の成果を披露する幼子のように、無邪気に楽しんでいるようだが、第三者からすれば、風邪の日に見る悪夢さながらである。
キーンにこの悪夢を止めてほしいが、「ビューティフォー! これぞ人類が到達した新たなる領域、筋肉の夜明けだ!」と騒ぐばかりである。
ならばと思い、キーンの父親であるゼインに視線を向けると、ゼインは静かに感動の涙を流している。
ユアの着ているドレスが、ゼインの妻であるスージーの形見だと知らない周囲からすれば、何故感動の涙を流しているのか全然理解できない。
ツッコミ不在の空気の中で、誰かが思わず口にした。
「マ、マッスルモンスター……」
こんな「変身」を目の当たりにしたら、信じるしかなかった。正真正銘、本物のユア・バウフだ。
それからというものの、ユアはちょくちょく美女の形態に戻り、同じドレスを着てパーティー等に参加するようになったのだが、男に言い寄られることは一度もなかったという。