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如是我聞(にょぜがもん)

作者: 三雲倫之助

   如是我聞にょぜがもん

作・三雲倫之助


 夏の雲一つない日であった、 光もなく音もなく雷は私を直撃した。

 大学三年だった。学生の行き交うキャンパスを歩いていると、あるカップルの女が男に言った。

「あの人を見てよ」

 千人に近い学生の中から私に向かって言われた言葉だと直感した。すると体が震えだし、今まで分からなかった、聞こえなかった周りの声が一斉に耳に跳び込んできた、それにも拘わらず一言一句はっきりと聞こえてきた。

「あの人、おかしいんじゃないの」

《お前はおかしいぞ、分からんのか》

「右を見てごらん」

《私を見ろと言っている》

「そのジャケット、素敵」

《その恰好はなんだ、浮いているぞ》

「見ないでよ」

《こんなに離れているのになぜ私が見ているのが分かるんだ》

「金曜日の夜はどうする」

《私がアパートでビデオを見ていることを分かっていての質問で、そんな私を軽蔑し見下している》

「映画見、に行こうか」

《私がレポートを書かねばならず、暇がないのを見透かしての嫌がらせだ、どうしてレポートがあるのが分かったんだ、壁に耳あり障子に目あり》

「そのTシャツ、どこで買ったの」

《私の着ているTシャツがぜんぜん似合わないとあざ笑った》

「明日は晴れだといいね」

《私は雨降りが好きなのを知っていての、罵りだ》

「もう付き合って何ヶ月かしら」

《間違っても、あなたじゃないわよ、勘違いするなと言っている》

「今何時だ」

《お前には聞いてないんだよ。他人の会話に入ってくるんじゃないよ、お前、薄気味悪いよ、あっちへ行け、不幸が伝染するから》

 蜂の巣をつついたように学生の群れが散ってゆく、だが一匹の羊が断崖絶壁に突進していく、異風な気持ちが私の胸に充満した。するとフィルムを逆回転したかのように黒い人間の蟻が蝟集し、蠢き、私は吐いた。

 その瞬間、私は自分が怯えているのに気付いた、止めようがなかった、ひたすら怖い、今までの風景が崩れて、全く違う世界に変わった。

 学生が怖い、聲が耳に迫り出してきた、彼らは私を見張り、蔑み、唾棄すべき人間だと思っている。なぜだ、私が何をしたというのだ、思い当たる節もなかった、一体何が彼らの憎悪を剥き出しにさせるのか分からなかった。

 今、その憎悪を満身で受け止め怯え、キャンパスの上で私だけが金縛りに遭い動けない、それでも怯えの嵩は止まる兆しもなく高くなる。

「恐ろしい、このキャンパスにいる人間が一人一人が恐ろしい、こんなに一心に憎悪を受けた人が、犯罪者がいたであろうか。一体私はどんな罪を犯したというのだろうか、知らぬ間に人を酷く傷つけた、どういう風に償えば、謝ればいいのか、原因が相手が分からないのだ」

 この怯えは私を震えさせ、凍り付かせた。


 幼馴染みで小中高と一緒だった(よし)(ひこ)に居酒屋に誘われて飲みに行った。

 ほんとは人で混む居酒屋などに行きたくはなかったが、嫌と言えない。言えば、なんと言われるかが怖い、高校を卒業するまでいつも一緒に遊んだ親友の一人だが怖かった。いつからか最も親しい最も怖い他人になっていた、うまく表現できないが何か言われるのが怖い。罵られるのが怖い、それが私の耳には聞こえてくる。

 居酒屋の座敷で向かい合って坐った。好彦がジョニーウォーカーの赤のボトルと刺身の盛り合わせと天ぷらを注文した。

 満席の客の話し声が一斉に私の耳に雪崩れ込んできて居酒屋に溢れ出した。

『ここは沖縄だ、泡盛を飲めよ』

『何を死にそうな顔をしているんだよ、笑えよ、楽しい酒の席だ』

『東京の大学で中退だ、学費に生活費、無駄金、死に金、勿体ないよな』

『何か匂わないか、陰気な気がどこからか流れている』

『昨日、あいつの葬式に行ってきた』

『仕事を辞めたいよ』

『明日は晴れるだろう』

『人身事故を見たよ、それで宝くじを買ったけど外れ、期待したけど無駄だった』

『辛気臭い顔をするな、いいこともあるさ、飲め、飲め。その内にいいことあるさ』

『奥さんが焼き餅焼きで大変らしいぞ、あいつのスマホは振動しっぱなしで、飲み会も興ざめだと』

 好彦は笑顔で酒を飲んでいる。私を罵倒しているこの声が聞こえないのだろうか、立ち上がって、「俺の友人を罵倒するのは止めろ」となぜ言わないのか。すると「お前は噂されるほど有名人じゃないよ、アイドルじゃないんだから」と一蹴されて私がいい笑いものになるだけだ。しかし、こんなにもなぜ私は皆に憎まれないといけないのだろうか、何も悪いことをした覚えはない。大学中退が罵倒の理由か、高校中退、大学中退、たくさんいるだろう、なぜ私が蔑みの対象となったのか。

 集団に依る虐め、ここにいる全員が私を虐めていることを知らない、一緒に楽しんでいるのだと思い込んでいる。道で擦れ違う人、バスの乗客も知らずに虐めているのか。沖縄の人全員が虐めと知らずに楽しんでいるだけだ。だから家を、否、密閉した部屋を出たくないのだ。

 それでも隣の何軒ものバーの入居するビルから吐き出される酔っ払いやホステスの嬌声が私を罵倒する、すると四面の壁から人々の囁き声が、叫びが部屋に木霊して、私はベッドに横たわり毛布を頭から被り体を丸くして避難する、だが声は遮断されることはなく耳元で響き私は堅く目を閉じて硬直し怯えるばかりである。

 雷が打たれて、死ねばいい、脳梗塞、心臓発作で死ねばいいと願う。

 だが自殺はしない。東京での発作的な未遂で終わった。それからは自殺はしないと決めた。それだけが臆病者のしがみついた支えであった。皆の陰に隠れ得て直接手を下さず、私を自殺へと追い詰める卑怯者には譲歩しない。

 声だけでは自殺しない、不十分だ。殺しに来い、そしたら殺されてやる。

 眠ったら、朝だ、目を瞑ったら朝、明日が来ていた、死んではない、眠った気がせず、いつも起きてもいられず寝てもいられず、だるくて、すっきりしたことがない。


 ネットで知り合った東京に住む真由子からメールが届く、掲載されていた写真が私の好みで紹介文も控えめだったからだ。それに会う必要がないからだ。

 こんな状態でも女性には興味があった、性欲と好み、美学は胸に低周波で鳴り響いていたのだ。恋人に浮気をされて失恋して、嘆いているばかりのメールだ、私は真由子が傷つかないように慰めの言葉を書き続ける。傷つけたと思った瞬間から怯えは異様に膨らんでいくからだ。

 私は全ての人に嫌と言えないイエスマンだ、とにかく卑屈な私である。

 それでも一瞬メールが届くとほっとするのだ。それが二年ほど続いて、「私はあなたと同じ姓の人と結婚します」とのメールが届いた。私と同じ姓、何が言いたいのだろうか、私が好き、だがとてもじゃないが怖くて付き合いきれない、犬や猫じゃない、人間だ、それも異性だ、重荷になるだけだ、私は文句の付けようのない祝福のメールを送った。

 それから半年ほど不通で、葉書が送られてきた。そこにはケーキ入刀の新郎新婦の写真が印刷されて、下には中村和也・真由子とあった。同じ姓でなかったのかと大きな溜息が出て、終わったのだとの安堵感を覚えた。

 すると誰が言ったか忘れたが、「さよならだけが人生だ」と口を吐いた。さよならできないのは最もさよならしたい自分だけだと再び溜息を吐いた。


「ぼけっとしないで食って、飲めよ」と好彦は言った。

 至上命令のように、私は魚に箸をつけ、酒を飲む、料理も不味く、酒も不味い、というより味が分からない上に期待は全くしないが楽しくない。好彦が何を言い出すのか、不安が脳裏に浮かんでくる、そうしながら相手の出方を怯えながら待ち続ける。だが外部からの声が聞こえてくる。

『二人のこれからに乾杯、飲もう、飲もう』

『お前何やってんだよ、巫山戯んなよ、こっちは真面目に話しているんだから』

 酔っ払った女性客が私を見て、「あら仲村渠(なかんだかり)さんじゃないの」覗き込み、「失礼、人違い」とトイレへと向かった。

 私は一瞬凍り付いた。馬鹿にしたのだと思った、それも選りに選ってあんな厚化粧のオバサンにだ。

『お前に人を貶すことができるのか、この馬鹿が』

『いい皮の面をしているな』

『馬鹿が阿呆を笑う、お前はそこのところのけじめは付けろよ』

『彼女より、誰よりも役立たずはお前なんだよ、自分のことを棚に上げるなよ』

『尻尾巻いて、あっちへ行け、この負け犬』

『いつから他人に文句が言えるようになったんだ、この無職が』

『施設にでも閉じ込めたらいいんだよ、娑婆で何をするか分からないぞ、こいつは』

『君みたいな者が日本を腐らせるんだ、結婚はしているのか、子供はいるのか』

『俺はもう孫もいるぞ、少子高齢化に何をしているんだ』


「中学校の頃、野球部でお前が部室の壁を外し隣の物置場から女子の更衣室を覗きに皆を連れて行ったときは驚いたな」

 私は一応苦笑いをしたが、顔が引きつっただけかもしれない。あの時は怖いものなどなかった、我が世の春だったのだろう、もうあのような溌剌とした気分は戻ってこないだろう、その皺寄せが今になって来たのだろうか。

 その栄華は夢のまた夢、今は怯えだけだ。こうなることなどつゆほども考えもしなかった。

「皆が生唾を飲み込んで釘付けで部活を終えた女子の下着姿を見ていた。なんと言っても知っている女子だからな」

 右斜めの会社制服を着たOLと目が合った。

『馬鹿な真似して、痴漢じゃないの、いい年こいてそれを自慢話にするか、死ね』

『あー言うのが一番怖い、真面目そうな顔で強姦するタイプだ」

『金曜の夜は楽しいな、こうして明日を気にせず酒が飲めて』

『あいつ、午前十二時ジャストに家に帰るんだ』

『夜は長い』

『気に障ること言った、ずっと黙り込んで』

『河岸を変えて、女がいるとこに行こうか』

『昨日のニュース見た』

『葬式みたいな酒だ』

『ムラムラしてきた』

『夜は酒だ、女だ』

『素人の女と酒を飲んだことはあるのか』

『社長、社長、もう一杯』


 沖縄に帰ってから精神病院に通院していたが働かされた。嫌とは言えない。両親が怖いからだ。

 父の石材工場の従業員の声に怯え、いつも極端に緊張し眠たくなった、それを打ち消すかのようにひたすら研磨機で大理石や御影石を磨いた。

『学がありすぎて、俺たちとは口も聞かない』

『社長の息子だぞ』

『弁当を一緒に食べても黙って食ってばかり』

『社会人失格』

『俺たちと同じ平社員だろう、ここでは学はお荷物なんだ』

『工場は体力、力仕事だ』

 清水の舞台から飛び降りて、六年目で止めた、私の神経の限界だった。もうそれ以上続ければ病院に入院するか、自殺するかの二択しかなかった。

 その日から二階の閉め切った部屋にリビングでの父と母の私への怒りと蔑みの声が非道くなった。階下からの声は止むことがない。そのような時はヘッドフォンをしてラジオの雑音を聞く、すると歪でおどろおどろしい呪いの声も緩和する。ラジオ放送では駄目だ、電波を通して他人には分からないように罵ってくるからだ。

 だが働かされることへの恐怖は消えなかった。電話が家にかかってきて、工場が忙しいから手伝わせろと母に言い、母は壁を叩き大声で「工場を手伝え、それぐらいできないのなら家を出てどこにでも行け」と怒鳴った。私は抵抗することを止め作業着に換え、工場の従業員の冷たい視線と嘲りのまっただ中に行く、それも途中で逃げ出すことができない。生身の人間との接触は怯えを倍増させる。

 それは会社が潰れる十五年後まで続いた。潰れた時にはこれからどうなるのだろうかと思ったがどうにか耐えて以前と変わらぬ生活に戻り、働かされることへの恐怖はやっと消え、解放された。


『信仰の自由、あなたは信じている。私と同じ無宗教でしょう』

『信じれば楽でしょう』

『死んでもあの世があるのだから』

『自転車のモルモン教の二人組に、神を信じますか聞かれて、面食らった』

『永久の愛を誓いますか。結婚式はキリスト教がいい。どうせホテルの牧師は役者さんでしょう。いい加減なところが好きなの』


 私は天国は信じないが、地獄は信じる、今私が生きている怯えの世界が地獄だ、地獄はこの世にある。手首を切った時痛みなど全く感じなかった、地獄の釜茹でさえも苦しいとは思わない、怯えで全く感じないだろう。地獄地獄地獄、今がその地獄だ。

 私は忌まわしい声が消えるように二年写経し経を唱えたが効果は全くなかった。そこで仏教の高僧が書いた「祈りについて」を購入した。

「あなたは祈ったつもりだが、人間であることを顧みず神様に願いを叶えろと命令しただけのことだ。それが叶えられないからと怒るのはお門違いだ、云々」

 余裕もなくひたすら声に怯えて、生き続ける者に虚心坦懐などと脳天気なことができるものか、ただただ縋るしかない、それを成就してもしなくても結構と言うのは肉食妻帯、葬式仏教の生臭坊主ぐらいだろう。

『一人前の口をきく、この減らず口が。医者がお前を救ったか、薬を飲んでも効果はない、そうだろう、あの世に行けば楽になるぞ』

「何を言うんだ、あの世から戻ってきた人から聞いたのか、それは戯言だ」

『それなら聞くが、お前はなぜ生きているんだ、苦しむだけで何もしてなければ、役にも立ってない、いるのかいないのかも分からない人間だ、よくもおめおめと生きていられるな。町立図書館の本を借りて読むのが生きる理由なのか。そんなのはあり得ない話だ、妄想妄言だ、死ぬまでのただの暇潰しだろうが』

「何にでも縋ってみるが、本が一番いい、それでも少しも楽しくない、怯えのせいだ。本の言葉にも傷つくが、それは確実に本に書いてあることだ。訳の分からぬ、出所のはっきりしない声とは違う、だからこうして長く読み続けていられる、この本の怯えには耐えられるのだ」

『頭のいかれた本の虫か、人間を捨てたのか』

「蓼食う虫も好き好きだ」


 笑い声が響いた、誰だろうと確かめようとしたが、見つけられなかった。誰かがくすりと笑った、するとウエイブのように笑い声が私の耳を通過して店内を回り続ける、するとのっぺらぼうのような笑い声に変わり呟きだした。

『じろじろ見るんじゃないよ』

『挙動不審だ、下着泥棒』

『あそこの店に行くか』

『中学校を卒業してから会ってないが、あいつは今何をしているんだろうな』

『詰まらないジョーク、笑えないな、十点満点の減点五、へたくそ』

『最近、金城と会った、離婚したらしいぞ。あいつの浮気じゃなくて』

『何が』

『そうだよな』

『悪いけど』

『昨日』

『彼』

『あのね』

 当て擦りはどんどん速くなって、満場に毒を吐かれ、目眩がして吐きそうになった。それでも好彦は笑いながら魚を口に運んだ、こんな大きな罵声が聞こえないはずはない、こんな目に遭わせるために私を飲みに誘ったのか、頭が変になりそうだ。

 四面楚歌とはよくできた四文字熟語だ、一層、全員で私を殴り殺せ、それならすぐに死んで、解放されるのに、もうびくびく暮らすのは嫌だ、十分だ、真綿で首を絞めるようにして自殺させようと企んでいる。

 だがうまく行かせはしない、殺したいなら正々堂々と名乗り出て、直接、刺すなり、首を絞めるなりして殺せ、そしたら私は抵抗もせず感謝しながら喜んで死ぬだろう、そんなにいたぶるのが好きなのか、生殺しだ、得体が知れず、薄気味悪い、徹底的にいびり苛む、それがお前らの望みだ、それでも私は反撃せずにただ黙ってそれを甘受する臆病者だ。


 客が一斉に笑い出した。

 好彦、お前はここの客を敵に回すのが怖いのか、そうだろうな、こうして私はブルブル震え蹲っているだけだ、自分ができないことを他人に望むのはお門違いも甚だしい、それでもお前が怯まず私を擁護したのなら嬉しいだろうか、そうではない、騒ぎが大きくなって私は萎縮して呆然と立ち尽くし後悔するだろう、どちらにしても彼らの悪意を抑え込むことはできない、ぐずる子供の無い物ねだりと同じだだ。

 私はよく居酒屋で酒を飲む、友達の誘いを断り切れないから、返事はいつもイエスだ。だからいつも誘うのだろうか、負の連鎖だ。

 その度に客に友人に圧倒されて神経だけが敏感に反応し私は点になるまで収縮する、ちょっとした仕草、言葉で吹き飛ばされそうになるが、やっとの事で踏み留まり、短い言葉で友人と受け答えをする、親友さえ信じ切れない私はどんな人間だろうと嘆き、更に萎縮する、生来の嘘つきだ。

 できることなら「私は全ての人が怖い、私を何の脈絡もなく罵倒するからだ」と全ての人に叫びたいが、できるのは多くて居酒屋客の人数だけだろう、世界は人で溢れ、蔑む者たちが次から次へと現れる、会ったこともないのに、全く知らない人なのにだ、世の中が何らか変だ、異風なのだ、触感がなく、水槽の中にいるように透明なガラス越しに人間と応対している感じだ、違う世界と私は接触している、そこに温もりなどない、冷たく干からびている、私は生きながら死んでいる、そうだ生き長らえながら死んでいるのだ。だから異形の者に出くわしたかのよう罵るのだ、お前は私たちの世界に現れることを許されてない化け物だ、惨めったらしい妖怪だ、エイリアンだ。

 彼らは怒りを発散させてほくそ笑む、それでいいのだ、日頃の生活の鬱憤を晴らす生き物なのだ。それで私を生かさず殺さずの状態で養っている、社会の娯楽、晒し者だ、全員参加型のエンターテイメント、結局は私が、人間が怖い、叫んで何か変わるだろうか、きっと余計に落ち込むことになるだろう、所詮、何をしても落ちてゆく蟻地獄の一匹の蟻に過ぎない。


 グラスが床に落ちて割れる音がした、奴らの宣戦布告の合図か、なにやら辺りが騒がしく忙しくなった。

「すみません、すぐ片付けますのでお席に戻って下さい」と店員が言った。

『よそ見をしていて落としました』

『見ていたんだよ』

『笑うな、何が楽しいんだ』

『あの慌てぶり』

『そろそろ時間か』

 なぜ攻撃してこない、フェイントで効果を倍増させ、二度と立ち上がれないように叩きのめす、手を換え品を変え甚振(いたぶ)る、精神の七転八倒を手を叩きはしゃぎながら眺めている。

 好彦は平然と酒を飲んでいる。

 中学高校とびびりだったのに、この落ち着きはどうなっているんだ。そう言えば好彦は土木の現場監督をしているらしい、荒くれ者をあしらうには度胸がいる、鳶の親方のような者だ、好彦はポジティブに変わった、私はネガティブに激変した。私は人生の落伍者だ、誰とも心を交わすことができない落伍者だ、箸にも棒にもかからぬ厄介者だ、世間のお荷物だ、好彦のように振る舞えたらどんなに幸せだろうか、好彦が眩しかった、普通に生きている全ての人が眩しいのだ。

「どうしたんだ、俺の顔に何か付いているのか、おかしな奴だな」

 確かに私はおかしい、それも当然だろう、罵詈雑言を浴びせかけられても何ともないような振りをする、だが極端に無口になる、自分から話しかけることはない、ちびちび酒を飲むだけだ。こんな私をなぜ誘う、哀れみなら放っておいてくれ、だがこんなことを告げる日は来ないだろう、そんな勇気はない。

 部屋に籠もっても父と母の憤りと侮蔑が聞こえてくる、隣は騒がしいバーのビル、罵りは私を粉々にする、息をするのも躊躇(ためら)われる。

 絶海孤島の無人島では暮らせない、コンビニが図書館がない、そう言えばコンビニの店員はいやに私に親切だ、取り扱い要注意人物に指定されているのだ、割れ物を扱うように接客する、図書館司書もそうだ、いつも笑顔だ、騒ぎを起こさないように気を使っての笑顔だ、実は私だけが知らぬが仏で気にもしていなかった、世の中の全員が精神病院に通院していることを知っている、「私は異常だ」どこから漏れたのだろうか。

 きっと病院の前で客待ちをしているタクシーの乗務員からに違いない、暇を持て余して、こんな病院に来る人間とはどんなものなのかを涎を垂らしながら見張っている。今からは裏口から病院に入ることにしよう、それなら乗務員に見られなくてすむ、壁に耳あり障子に目あり、どこで見られているか分からない、噂はすぐに広まるものだ、どこでも気が抜けないということだ。

 部屋が盗聴されている、バスに乗った時、運転手があそこに通っている人ねと目配せした、帰ったら部屋を徹底的に調べてやる、だが私は絶対に声を出さない、誰かに勘ぐられたくないからだ、カメラ、それなら一目で分かる、いくら何でもマイクロスコープを使って覗きはしないだろう、人質を取って銀行に立て籠もった犯人に対して使うものだ、大人しい一般市民にここまで金をかけることはないだろう、そこまで行けば単独犯のストーカーだ、しかし町を歩いていると何のためには知らないが、いつも覗かれているような気がするのは確かなことだ。敵には私が見えるが、私には敵が見えない、一人に多勢では勝負にならない、私の敗北だ。

 いつも見ているぞ、聞いているぞ、気をつけろ、最大の脅しだ、演技をする、何も感じてないぞと無表情になる、怯えを隠す、それを見抜かれたら、他人に、私を除いた人たちにどんな悪態を吐かれるか分からない、ぐったりする、疲れる、あいつらの思う壺だ、今日は目が冴えて眠れず、一晩中、責め立てられる、そして翌日は寝不足で神経がますます過敏に体は重くだるくなる、長い苦しい一日が続く。


「少しも飲んでないぞ、飲めよ」

 ……飲め、この罵倒だけの人生を飲め、どういう気持ちで私が生きているのか、分からないのか、煮え湯を飲め、ドブ水を飲めというのか、私はお前の親友だぞ、それは好彦を信じてないと言うことか、誰も信じられない、それで生きる価値、否、生きる意味はあるのか、来る日も来る日も怯えるばかり。

 そう言えば薬の作用でめったに見ない夢を見た、バーで見知らぬ人と飲んでいるだけだが、幸福感に満ちていた、はっと起きて反芻すると砂を噛むような気分で吐き気がした、私は怯えて他人と楽しい会話をすることができないと暗に告げたのだ、誰がこんな人生を望むだろうか。

 通り魔が現れて私を刺し殺してくれないだろうか、私が一般の人同等に扱われている、つまり私が怯えているから、挙動不審だから刺した訳ではない、蛇の生殺しから逃れることができる、だがそんなに人生はうまくは行かない。

 私のケースは特にそうだ、喜ばせて落胆させる、逆はこれまでに一度もなかった、(やまい)(こう)(こう)に入るだ、生きる、私が生きる、怯えだけの人生、痛みだけの癌患者、安楽死、それを私は選ばない、心のどこかで回復するかも知れないという一縷の望みを持っているのだろう、揺れ動く私を他人は高みの見物だ、人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ、喜怒哀楽、感情のない凍えた不幸の極みの私の人生をどうすればいいのだろうか。



 悪夢から目覚めたら五十八になっていた。怯えは驚くほど緩慢に減退していたのだ。

 子供が生まれ社会人になり家庭を持つ子供がいてもおかしくない年月だ。実際、姉の子供、甥と姪はすでに結婚して家庭を持ち子供もいる。

 いざ寛解になり喜んだものの、三十数年の年月に圧倒され、ため息を吐くばかりか鬱になりそうである。

 怯えが消えたかと思えば鬱病ではいい笑いものだ。治ったのを素直に喜べない三十数年という怯えの長さがあった。

 せめて二十年前に寛解に至っていたなら、働いて結婚して子供を持って普通の家庭を築き、一家団欒を享受していただろう。

 三十数年、病さえなければ自分が歩んだであろう日常が去来し、どうすればいいのだろうかと考えても答えは見つからなかった。ただ虚しくなるばかりであった。

 現実を顧みると、手に職もなく、家族も子供もいない、今からでは人生をリセットするには全てが遅すぎる、嘆くしかない自分を不甲斐なく思うものの、それを再び嘆き、現実に踏み出せない自分が又不甲斐ない。

 怯えが消えた寛解の今の自分が現実と向き合うのに、リハビリに、モラトリアムがいる。

 ただのできないことへの言い訳に過ぎない、「もしも」という言葉は無慈悲の響きがするばかりである。

 最低限の年金が六十五から完全支給される。両親が私に代わって年金の費用を払い続けていたらしい。贅沢を望まなければ死なずに済む、喰うだけの額はある。生き延びて天寿を全うする。

 読書を続ける、それだけか、依然と変わらないが、そこには大きな違いがある、読書が楽しいと言うことだ。

 私は何をすればいいのだろうか、考えれば考えるほど無力さが湧き起こり、虚しさが増すばかりだ。

 生き甲斐、ゲートボール、カラオケ、老人会、長生きの喜寿、米寿、白寿、一〇五歳まで生きたら、私は幸福な人として一生を終えたことになるのか。

 何のために生まれてきたのだろうかという疑問が胸中に木霊する、人生をやり直せ、悔やんでいる暇などない、もう五十八歳だ、そう思いながら、六十になった。

 あっという間に、驚くほどのスピードで時間は過ぎた。怯えの淀んで動かない時間を恨んだ、遅々として進まない日々と今では真逆となった。

 もしこの病気にならなかったら人生がどうのこうのと思い煩う。一つだけ変わったことがある、他人に対して、ノーと言えるようになったことだ。それはノーと言っても怯えが生じないからだ。

 飲み会の誘いを断られた友人が笑いながら言った。

「付き合いが悪くなったな、それでも笑うようになった、よかった、ほんとによかった」




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