夜の影
短めのお話。
夜の8時すぎくらいかな......?
インターホンの音がテレビ番組の笑い声を引き裂いた。
もう、寝なきゃいけない時間だし、わたしの友達じゃないと思うけど......わたしのお家に訪ねてくる人なんて、他に居たかな?
親を訪ねてくる人も、もう居ないはずだ。
不審に思ったけど、肝心の大人はインターホンの音が聞こえてないんじゃないかと思う程動き出す気配が無い。もしかしたら、寝ちゃってるのかもしれない。
いつまでも、お客さんを待たせるのは、シツレーなので自分の部屋のベッドに行くのは後回しにして、突然のお客さんに「おうちのひとはもうねちゃってます。ごめんなさい」と一言だけ伝えるために、リビングを抜けて玄関に向かうことにした。
真っ暗だと怖いから、通路と、それと玄関の電気を点けてから、木製の床を鳴らして玄関に向かった。
子供の足には大き過ぎるサンダルを踏んで、ドアにはめ込まれたガラスから、外の様子をじーっと見つめてみると......。
「アユちゃん......?」
夏の夜の密度の薄い闇の中に、友達の姿がそこだけ闇から切り抜いたみたいに佇んでいた。
全然予想してなかったから、びっくりしてドアを勢いよく開いてしまった。
しっかりアユちゃんにドアがぶつかった感触があったので、ちょっと申し訳ないと思いながら、外に飛び出す。
クリーム色のタイルの上には、尻餅をついて、おでこをさすっているアユちゃんの姿があった。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ......って、もう......」
アユちゃんは、少し呆れてる風に肩を落とした。そのあとすぐに体を起こして、わたしに話しかける。
「アヤは、もうねるの?」
「......え?」
アユちゃんは、ふりょーってやつなのかもしれない。そういえばわたしの親が、2人とも生きていた頃にも、アユちゃんはわたしを夜の街に連れ出そうとしてたっけ......。
「また、おそといくの?」
「うん。こんどはさ、よるのまちであそぼうよ。わたし、このまえのできづいたの!よるのまちってさ、ほんとにだれもいなくて......だから、わたしたちをしかるひともいなくて、きっと、たのしいはず!」
そう語るアユちゃんは、興奮してるみたいで、鼻息が荒い。
でも、わたしは夜の街は嫌いだ。怖いし、誰もいないから、すごく寂しい。誰もいないからこそ、わたしは夜を怖れる。
そんな風に考えてるのが、表情に出ていたのか、アユちゃんの熱が少し冷める。
「やだ?」
「ちょっと......」
「アヤ、むかしからこわがりだもんね......」
確かにそうだけど、今は尚更......。
瞼の裏側に、安っぽい鈍色がちらつく。
「わたしがいても、こわい?」
そう言うアユちゃんの顔は、なんだか寂しそうで、そんな顔をされちゃったらもう......。
「わかった。でも、ちょっとだけ、ちょっとだけね」
やっぱり、大切な友達の悲しそうな顔は見たくない。
「じゃ、いこっか」
「......うん」
玄関の前から駆け出したアユちゃんの後を追って、夜の街に踏み出すとやっぱり不安で、それを紛らわすために、アユちゃんの手を握りしめる。
「ふへへ」
アユちゃんは少し照れ臭そうに笑って、繋いでない方の右手で頬をかく。
それだけで、わたしは夜に立ち向かう勇気で満たされる。
握った手に、さらに力を込めて、強すぎたと思って、またすぐ緩めた。
「いこう。いっしょに」
夜の匂いを濃く感じる。蒸し暑い昼とは違って、程よく冷たい空気が肌を撫でる。夜の闇は、提灯の灯りに似た、暖かな光を内側に秘めている気がして、少し綺麗だと思った。
わたしたちは今、いつもの遊び場である公園に来ている。いつもの公園も、夜だと茂みに何かが隠れている様な気がしてくる。繋いだ手も、お互いの汗まみれだけど、決して離さない。
鼓動もアユちゃんに聞こえているんじゃ......と思う程、激しい。
「これ、てつぼう。うんどうかいのまえに、いっしょにさかあがりのれんしゅうしたやつ」
アユちゃんが指差して笑う。
結局、さかあがりは二人とも、出来ないままだし、運動会ではそもそも鉄棒を使う競技が無かった。
「そうだね」
顔を見合わせて、お互いにやにや。
いつもの公園。でも、いつもと違う。でもでも、やっぱり思い出が詰まってる。
「そういえば、なんでアユちゃんはあのとき、わたしをつれだしたの?」
思い出。あの夜。怖かったけど、ちゃんと記憶に焼き付いてるアユちゃんの手の温もり。
「......アヤがかわいそうだったから......かなぁ?」
自信なさげに言うアユちゃんの顔に、ちっちゃい虫がとまる。
それを手で払い除けて、アユちゃんに言う。
「アユちゃんといるのはたのしい......けど、やっぱりもうかえらない?」
懐中電灯も無いし、街明かりも少し減ってきた。
そう言うと、アユちゃんは少し焦ったのか「じゃあ、さいごにいっかしょだけ、いっかしょだけだから、ね?いいでしょ?」と言ってくる。
来た道を振り返って、確認。一ヶ所くらいなら......。
「わかった」
脚を動かす度に揺れる、街明かり。脚を動かす度に流れていく、景色。その闇の中には、何が潜んでいるのかな。
手を強く、強く握る。
「アヤ......ちょっといたいよ」
困り顔のアユちゃんは気にしないで、ぎゅーっとし続ける。
やがて、街明かりは遠のき、遠くで人魂が揺れているようにしか見えなくなる。暗闇の手のひらが、わたしたちの目を覆って、不安な気持ちは膨らむ。
そんなわたしたちの前にあるのは、さらに濃い闇。そこには、暖かさなんて全然無くて、冷たさだけが、漂ってる。
「アユちゃん、ほんとにいくの?」
目の前の道は、雰囲気が違う。匂いも、温度も。ただ、握った手のひらの暖かさだけを感じる。
「いくよ」
「ほんとに?」
「......うん」
だんだん、アユちゃんの声が、湿り気を帯びてくる。その小さな声で、何か言った気がしたけど、よく分からなかった。
「うん、うん......。やめよっか」
そう言って、くるりと向きを変える。来た道とも、目の前の道とも、違う方向を向く。
「そっちはちがうよ」って言おうとしたけど、何故だかアユちゃんが泣いてるみたいだったから、話しかけなかった。
辿り着いたお墓の前で、アユちゃんが手を離す。
「じゃあね。ここで、おわかれ」
「じゃあね。また、あし......」
また、明日って言おうとしたけど、なんでか言えなかった。
握っていた手を、開いたり閉じたり。そうすると、手のひらに雫がぽたりと落ちた。
なんで、わたし、泣いてるのかな?
「あれ?アユちゃん?......どこ?」
居たはずのアユちゃんが見つからない。
「どこ?ねぇ、アユちゃん?ねぇ......」
言葉の途中で後ろから抱きしめられる。それは、男の人の大きい手。
「こんな所に居たのか、アヤ......」
その声には、聞き覚えがあって......。
「おとうさん......?」
私に、体の向きを変えさせたお父さんは、視線を持ち上げて、少し表情を変える。
「......こんな所まで......」
「アヤ......帰ろう」
変な表情のままお父さんが言う。
「......うん」
今度は、硬くて、大きな手を握って来た道を戻る。後ろから小さな足音が聞こえる気がして、その手に両手を絡める。
そのまま来た道を戻り、そしてさっきの、真っ暗な道の前で、お父さんが足を止める。
「おとうさん?」
返事は無い。そのまま、ズンズン闇の中へ。
「......おとうさん?」
返事は無い。闇の底に。
「おとうさん......!」
世界が真っ黒に変わる。闇が這い上がる。辺りの冷たい闇を払い除けて......。
暗い。怖い。でもあったかい。
それは、アユちゃんがわたしの家に来る時まで、ずっと欲しかった暖かさだった。
家のドアを開けると、お母さんが床を鳴らして走って来た。
「アヤ!......どこに、行ってたの⁉︎」
「わたし......わたし......」
何が起きたのか分からない。
「アユちゃんがいて......おとうさんが......」
気づいたら家に居て、そして......そして。
わたしは、手を離しちゃったんだ......。
朝日が照らす「津田沼」と書かれた表札を眺める。とても、拙い字で書かれたそれは、アユと言う、私の大切な友人が書いてくれたものだ。
今はもう、カビだらけのそれを手で撫でる。
ほのかに、懐かしい闇の匂いがした。
「行ってきまーす」
傷だらけの私を連れ出したアユ。
振り上げられた刃から私を守ったアユ。
ひとりぼっちの私のてを握ってくれたアユ。
その優しさがなければ、私はこの日を迎えられなかっただろう。
今日から中学生。アユの分の青春も握りしめて、入学式に向かった。
アユって入力するたびに、予測変換で「の塩焼き」って出てきて、不覚にも笑った。




