君がショタか、私がロリか
「ちいちゃい」
小さなむっちりとした両手を見つめ、呆然と呟いた。
明らかに今までより身近な存在になった地面を見下ろすと、重心の問題か、僅かに体がよろめき、慌てて踏みとどまる。いくら身近になったからって気軽にちゅっちゅするような関係になる気はないのである。
中身とのサイズに大きな誤差が生まれたシャツがずり、と右肩から落ちた。部屋着の短パンはとうに足元に落ちているので、このどうにか左肩に引っ掛かっているよれよれのシャツが頼りだ。
視界の端に鏡を見つけ、ハッとして駆け出す。ぽてぽてと間抜けな効果音が鳴りそうな間抜けな走りでどうにかその前に立ち、そこに映る小さな女の子を目の当たりにした。
頭を抱えると、その女の子も頭を抱えた。わあ、気が合うじゃーん。
「そんなばかな!」
天に向かって叫んだ。
「タロ! タロ! どうしよう! ちぢんだ! 二十年かけてあそこまでそだてたのにっ!」
鏡の女の子と二人で仲良く絶望するのをやめると、私は今まで居た倉庫から飛び出し、隣に住む幼馴染の元に駆け込んでいた。サイズが合わない靴は脱いで倉庫に置いてきたので、地面を直に踏みつけた両足が痛み、なんだか泣きそうになる。
あんなに近いと思っていたご近所さんのお宅にどうにかこうにか到着すると、勝手知ったる足取りで上がり込んだ。
二階に上がってすぐの部屋に半ば転がり込むようにして入れば、部屋の主は机上のノートパソコンに向かっていた。なんてことだ、あれだけ大騒ぎしながら入ってきたのに振り返りもしない。
「こらタロ! きいてんのかー!」
普段よりやや舌足らずな口調で、地団駄を踏む。ここがマンションなら下の階の住人に怒られること請け合いだ。
「どったんどったん煩いなあ。二十年かけても大して育ってないくせに何言ってんのさ」
平坦な調子で話しながらもタイピングの音は途切れない。レポートでも書いているのだろうか。何の授業かは知らないが、もし私も受けているもので同じ課題が出ていたとしても、彼が今やっているということは締切はまだ先だろう。よし。
「だからタロ、ちぢんだんだってば! ふしぎげんしょうなの! オカルトなの! のろいなの!」
「幼児体型の言い訳を呪いに求めるなよ、同情しそうになるだろ」
私がこんなにも焦っているというのにまともに取り合う気配はなく、憐れみを含んだ口調でパソコンに話しかける彼。堪えきれず、その背に飛びついた。
「人とはなすときはその人の方を見ろってならわなかったのかこらー!」
「痛い。人の背後から襲いかかるなって習わなかったのか、って……あ? …………どしたのハナ、縮んだ?」
ようやく振り向いたタロは怪訝そうに顔を顰めた。
だからそう言ってんだろ。
不審げに猫目を眇めるタロの足元で身振り手振り、必死になって状況を説明した。椅子に座ったまま話を聞いていたと思ったら黙り込んでしまったので、その膝に手を置いて彼の反応を待つ。
「……つまり、家の倉庫の片付けをしていたら変な石が出てきて、それを持っていたら突然光り出して、」
「そうなの! ぱーって! ぱあああって、すっごくひかってね!」
「……うん。それで、光が消えたと思ったら、ハナの体が縮んでいた、と」
「なの!」
流石タロだ。私が何分もかけた説明を十秒でまとめやがった。理解してもらえた興奮に、大きく頷きながら彼の膝をぺちぺち叩く。と、両手を取り上げられた。調子に乗り過ぎたようだ。ドラマーの血が騒いだ、とか言い訳すればいいのかな。ドラムに触ったこともないけど。
そのまま掴まれた手首をぐっと引かれ、持ち上がった身体は彼の膝に下ろされた。思わずパチパチリ、目を瞬かせる。
「タロ?」
「ああ、気にしないで」
気になるわ。
向かい合う形で座りながら、手慰みにタロの腕をべしべし叩いた。
「とりあえずまあ、胡散臭いけど信じるよ。実際、小さくなったハナがここにいるわけだし」
「ひゃくぶんはいっけんになんたらってやつな! ところでなんでひざにのっけたの?」
「その原因と思われる光った石は、どこにある?」
「む、そうこにおいてきたとおもう」
百聞は一見に如かずパートツー、ということで、タロを倉庫に連れていくことになった。
タロ家を出る前に、彼は酷い服装の私にパーカーを着せてくれた。意外と保護者力が高い彼がジッパーをきっちり上まで閉め、余りに余った袖を捲りあげてくれるのをふてぶてしく眺めていたら、流れるような動作で抱っこされた。戸惑う私を一切気にかけない彼の腕の中で、こっそり息をつく。
やーいロリコン、とか今からかったら落とされそうだからやめておこう。
彼は親切で子どもにとても優しいです。和訳かよ。
我が家の倉庫は狭い割に沢山の物が詰まっている。由緒正しそうだが正直家族の誰もよくわかっていないなんとなく凄そうな骨董品もあれば、毎年夏季と冬季に使う扇風機とストーブもしまいこんであり、とりあえず家の中の収納に困ったら突っ込んでおく場所、という認識になっているのだ。ごっちゃりしているくせに利用率が高いものだから、数年に一度整理している。
その数年に一度の整理を今日、お小遣い付きで請け負ったのが私なのだ。魔法の道具とかもあるから気をつけるんだぞ、という胡散臭い笑顔付きの胡散臭い父の胡散臭い言葉を信じればよかったのか、今の私にはわからない。しかし父がそういった事態を本当に予測していたかは不明だが、せめて真顔で警告してくれたなら私は縮まずに済んだのではないだろうか。
「これよこれ」
タロに下ろしてもらい、先程脱ぎ置いた私の靴の近くにその石を見つけ、拾いあげる。見る角度によって色が変わるものだから、物の山から発見したときは夢中になって眺めた。その結果がこれである。石をタロに手渡し諸々の調査や判断を任せ、私にそっくりで私と気が合う女の子がいると私の中でだけ噂の鏡の前に走り寄り、まじまじと見つめる。
うーん何歳くらいかな。五歳とか六歳くらい?
縮んだことに落ち込んではいたが、まだ、歩けて走れて喋れる年齢でよかったのかもしれない。もし赤ん坊くらいになっていたら、この狭い倉庫で一人、動くことも出来ず喋ることも出来ず、ただおぎゃあするしかなかったのではないだろうか。おぎゃあエンドを想像してぞっとした。
鏡を睨むと、その子からも睨まれた。ふてぶてしいクソガキである。にへ、と笑いかけたら、その子も笑う。うん、なかなか可愛いクソガキである。
遊びながらふと思い出す。そういえば、タロに初めて会ったのはこのくらいのサイズの頃だったんじゃないだろうか。幼いタロは素直で可愛かった。どうせ縮むなら私じゃなくてタロだったらよかったのに。
なんて、そんなことを考えてしまったのがいけなかったのだろうか。
「あ」
石を観察していたはずのタロが戸惑うような声をあげたと思ったら、倉庫内が一瞬光った。覚えのある、あまり目に優しくない眩い光だ。
慌てて振り返ると、今の今までタロがいた位置には小さな男の子が呆然と立ち竦んでいた。
見覚えのある顔立ちと、ぶかぶかの服。戸惑う表情。
あわあわと目の前の状況を理解しようとして、気がつく。小さな彼を、高い位置から見下ろす自分に。
……高い位置?
鏡にぐりんと勢いよく顔を向ければ、ここ何年かですっかり見慣れた成長済みの私が泣きそうで笑いそうな中途半端な顔をしていた。それにしても太ももが剥き出しである。タロが着せてくれたパーカーが辛うじて尻を覆ってくれているので助かった。
「なんでおれまで……」
しょんぼりするチビタロは、不覚にも悶えそうになるくらい可愛かった。
私が倉庫に落とした短パンを履き直している間にタロがしょんぼりタイムを終えたので、二人で彼の部屋に戻った。抱っこしようかと尋ねたら、断固とした拒否を受けた。
そして現在、椅子に座る彼は二十歳の彼とは姿が大違いのはずなのに、その纏う威圧的なオーラは私の精神をいつも通り圧迫した。わかりやすくお怒りである。彼の前に正座し、冷たい視線を甘んじて受け止める。傍から見たらきっと子どもに怯える大人の図なのだろう。この部屋に大きな鏡がなくてよかった!
「えーっと、お陰様で私は戻れました! ありがとう! それじゃ!」
「ハナは、もどれたからね。よかったね。ハナはね」
「ごめんなさい」
立ち上がろうとしていた体は主人を裏切り、速やかに床に額をついた。危機意識が高いあたり、なかなか見所がある。
「この石がげんいんなのはたしかだとおもう。これはそうこのどこにあったの?」
彼は件の石を指先で摘まむようにして顔の前に持ち上げ、眺めている。聞き覚えはあるが聞き慣れない、声変わり前でやや高めの声に気をとられそうになるも、慌てて思考を巡らせた。
「んーと、ストーブの近くの箱の上にあった」
「……そう」
低姿勢のまま頷くと、彼は顎に手を当てて考え込んだ。なんか探偵みたい。むしろ探偵なのでは? 見た目は子どもで中身は大人のリアル名探偵が今ここに爆誕したのでは? 誕生日おめでとう。
「はぁ、さすがにじょうほうがなさすぎる。ハナのりょうしん、今はでかけてるんだっけ。ゆうはん前にはかえるらしいから夜になったらきいてみよう」
「あい」
そういえば朝からいないと思ったら出掛けていたのか。なんで娘の私より把握しているんだこいつ。
机に石を置き肩を落とすタロが再びしょんぼりと落ち込んでいるのかと思い、ついその顔を覗き込むも、彼はむすりと不満げにしているだけだった。
どちらかというと成人男性にしては童顔だった彼だが、いざ本当に幼くなってしまうと二十歳の彼は確かに成長を重ねていたのだなあと思い知る。
「じろじろ見んなよ」
露骨に見つめ過ぎた私をタロが冷たい目付きで睨みつけるも、なんだか子猫が威嚇でもしているように見えてきた。ふっくらした頬をつついてみたい。成長してからはすっかり癖がとれてしまった彼の猫っ毛を撫でまわしたい。先程までは堪えていた欲望がぷくぷくと浮かび上がってきた。
「だってチビタロめちゃ可愛い……」
「こっち来んなへんたい」
「一回ぎゅうってさせてよ」
「ぜってーやだ」
座っている椅子から降りて私から逃げようとしたのだろうが、体の小さなチビタロが慎重に降りようと奮闘している間に取っ捕まえた。はなせばか、と暴れるタロを強引に抱き締めて腕の中に拘束する。うわあちいちゃくて可愛いなあ。パタパタと小さな手足が振り回される。
「う、ちょ、暴れないでよ。タロもちいちゃい私にしたじゃん」
「してない!」
「嘘つけ! ロリコン疑惑マン!」
「おまえさいあく」
ショタコン扱いで反撃されるのを覚悟した上でのロリコン呼ばわりだったのだが、タロは最後に悪態をつくと口も腕も足も動かなくなった。無理矢理過ぎただろうか。それかロリコン扱いしたから怒った?
でも悪いのはタロをチビタロにした不思議な石のせいだよね! 猫っ毛をゆるゆると撫でながら、こんな事態を引き起こした石に視線をやると。
「ね、ねえタロ」
「……なに」
「石、どこにやった?」
「は? どこって、さっきつくえの上に……、」
硬直する私の腕の中で彼が確認しようともぞ、と動いて、それから同じく硬直した。
机の上に置かれていた筈の石が消えていた。
貴重な手がかりが忽然と姿を消したことで、私たちは顔色をなくしながら部屋中を探し回った。
「ない」
「うるさいちゃんとさがせばか」
几帳面で綺麗好きなタロの部屋は、私の部屋と違って物が消えるような空間ではない。とても見つけられる気がしない私は早々にリタイアし、床のど真ん中に大の字で寝そべった。
「じゃまなんだけど」
「辛辣」
初めて出会った頃の姿をした幼馴染みは、しかし初めて出会った頃の無垢さをもう備えてはいないらしい。私の脚や腕を踏みつけて部屋の中を歩き回っている。ちょっと避けて歩くくらいの手間かけようよ。
「そもそも本当にあの石のせいなのかなあ」
「たぶん。あの石の中心に、文字みたいなへんなもようが見えた。あれがなにかかんけいしてるとおもう」
「そんなんあったっけ」
「……」
きらきらで綺麗な石! としか認識していなかった私を、心底呆れ返ったような表情でタロは上から見下ろした。下を向いたことで彼の前髪が僅かに揺れる。
「……石にあった模様ってどんなん?」
「アルファベットに少しにてたけど、見たことないもようだった」
「それって……」
私の顔を覗き込んでいたタロが、突然伸ばされた手にぎょっとしたように身を硬直させた。やや長めの前髪をそっと指先で掻き分け、先程見えた気がするものを探す。
「なに」
「うーんとね」
戸惑ったように目付きを尖らせる彼に構わず、額の端に小さな模様を見つけて、上半身を起こす。アルファベットに似た、見たことのない模様。ああ、成る程。
「ねえタロ、これ」
「っ!」
「お」
今度は光らなかった。しかし双方、自身の身体の変化とその衝撃に言葉をなくした。
スイッチは、タロの額に浮かび上がっていた不思議な模様に私が触れたこと。
私と入れ替わるように元に戻ったタロは呆けたまま瞬きを繰り返し、小さくなった私と目を合わせると無言でわしゃわしゃと頭を撫でまわしてきた。ご乱心。
模様なのか文字なのか紋様なのか記号なのか、よくわからない例のあれは、今度は私のうなじに浮かんでいた。タロの額からはすっかり消えていて、少しずつだが私たちはその仕組みの理解を深めつつある。
互いにその行為の結果を同じように予想しながら、タロが私のうなじの模様に触れると、小さかった私は元のサイズに戻り、代わりにタロが小さくなる。それは複数回繰り返しても、同様の場所に模様が浮かび、同様にチビとデカを交換し合うことがわかった。
「条件はわかった、けど、困ったな……」
「おたがいあのもようが出るのが体のきわどいところじゃなくてよかったよね!」
「うるさい」
浮き上がる模様はあの石と同じように見る角度によって色を変え、どこの国の文字でもない。
小さくなった側にその模様は浮かび、もう一方がその模様に直接触れることで立場が反転する。その際、最初にこの現象が起きたときのような光は放たない。
と、まあ、模様を観察したり実際に触れて小さくなったり大きくなったりを繰り返すことで、少しずつ情報を集めているタロは、空腹で駄々をこねた私にカステラを食べさせながら眉を寄せていた。
「とりあえず小さくなってももどれることがわかったんだから、いいじゃん」
「ハナのその馬鹿みたいな呑気さは小さくなってしまったから?」
「えっ…………うん」
「カステラ美味しい?」
「うん!」
「中身との年齢が釣り合うその姿こそがハナの本当の姿なんじゃないかな。元に戻れて良かったねおめでとう」
流石に馬鹿にされていることに気がつき、カステラを食べ終えたあかつきにはタロの脛を蹴りにいこうと決意を固めていると、彼は大きすぎる溜め息を吐きながら乾いた声で呟いた。
「明日は月曜日だよ。俺ら授業あるでしょ。一方しか元に戻れないこの状況で、どうするのさ」
「……あれま!」
甲高い声でおどけたら私のカステラは無表情のタロの口に消えた。
「そりゃ妖精の悪戯だな」
「魔女の魔法じゃない?」
「宇宙人の実験かも」
「幽霊の呪いってのもありよ」
帰宅した私の両親の元に、タロは小さな私を抱っこして赴いた。抱っこは不要だと思う。暴れてやろうかと考えたが、あくまで無表情のまま私を抱えるタロがなんだか怖いので一旦諦めた。
彼らは、タロの腕の中でじっと大人しくしている私を見ると目を丸くし、「おいおい、いつの間にうちの子と拵えちゃったんだよ」とにまにま笑った。言うと思ったよ。タロは一瞬きょとんとした後、やがてその意味を理解すると嫌そうに顔を背けた。苦しいほどに私の腹部を締め付ける彼の腕がその動揺を示し、私は声をあげる間もなく死を垣間見た。
私が脳裏を一瞬で駆け巡った走馬灯について思いを馳せている間に、タロは私たちの現状を私の両親に伝えた。それに対する反応が前述の会話である。
妖精。魔女。宇宙人。幽霊。いずれも私としては胡散臭いとしか言いようがないが、自分に起きている不思議現象を思うと否定もしきれない。しかし、せめてどれか一つに定めてほしい。節操なしかよ。
「どれでもいいんだよ。どうせわからん。これこれこういうことが起きた、って、それで十分。俺らにゃ届かん領域だ」
「は、いや、でもどうすれば解決するのか……」
からからと笑う父に、タロは困ったように眉を下げながら、腕の中の私を抱え直した。実の両親の前で幼馴染みに抱っこされる成人の気持ちを察することが出来ないタロには解決なんて出来ないと思います。
「その、模様? ってやつは、どのくらいのサイズだ?」
なんとびっくり。現在私のうなじに浮かんでいる例の模様は、両親には見えないらしい。当事者以外に見えないようになっているのかもしれない。謎配慮。
「ええと、……五百円玉より少し大きいくらいですね」
「うひょあ」
確認しようとするタロにうなじにかかる髪の毛をそっとどかされ、模様を避けながら首をなぞる指先のくすぐったさに飛び上がった。飛び上がりついでに彼の腕の中から抜け出し、母の元に避難する。
「あらあら、小さなハナちゃん、可愛いわね~」
「えへ。ちいちゃいタロもかわいかったよ」
「…………」
つい報告していると、タロは無言で私を睨んでいた。
「その程度の大きさなら、数日もしないうちに全部元通りだろうな」
父は自信満々に言い切った。詳しく尋ねても「だから妖精か魔女か宇宙人か幽霊の仕業なんじゃねえの? 俺は知らんて」としか答えてくれず、母は小さなタロを見たがってそわそわしている。うちの親どうなってんの、と顔をしかめていたら、お前の親どうなってんの、と言いたげな顔のタロと目が合った。
倉庫の片付けの続きは謹んで辞退した。
翌日の朝、私はタロに手を引かれながら大学内を歩いていた。幼い子どもを連れて歩くタロに、周囲の視線が刺さる。あまりに堂々としているからか咎められはしなかったものの、居心地の悪さに小さな身体をさらに縮こませた。
「なぜこんなことに……」
「だって俺一限あるし」
「わたしないのに……」
「二限はあるんだろ。一応すぐに戻れるようにしておかないと。出席数で成績稼いでおかないと単位危ないんじゃないの?」
「ふぬぬ」
月曜日の時間割は幸い二人とも被ってはいない。タロが一限と三限、私が二限と四限に授業をいれており、どうにか欠席はしないで済みそうなのである。
しかし子ども連れで登校して授業を受けるって、どうなのそれ。偉い人に怒られたりしないのだろうか。
「あっ、礼くんおはよう!」
「礼くんも一限、二号館の授業だよね。一緒に行こ!」
追い出されたらどうしよう。戦々恐々とタロの横を歩いていると、二人の女性が近寄ってきた。私は見覚えないが、その親しげな様子からすると同期の学生なのだろう。
声をかけられたタロが無愛想に言葉を返している。
そう、何を隠そう、タロの名前は礼太郎なのである。つまり礼くんはタロで、タロは礼くんなのだ。多くの人が礼、礼くん、礼さん、と呼ぶので、知り合いにはよく私の使う呼び名について疑問を持たれるが、気づいたらそう呼んでいたから知らない。
以前、試しに礼くんと呼び掛けてみたら、神妙な顔をしたタロに数日は警戒された。
「え、この子どもどうしたの?」
「迷子とか?」
近づいてきたことでタロの陰にいた私に気が付いたのだろう。二人が目をぱちくりさせている。学校に着くまでに、お前は余計なことを言うな話すな喋るな、と言い含められている私は、素直にお口にチャックをしたままタロの手を握っていた。
どう説明するんだろうか。タロは私にちらりと視線を向けると、面倒そうに口を開いた。
「俺が産んだ」
雑過ぎる。
タロから産まれたらしい私は、空き教室で、持参してきたスカートを手にしていた。
周囲の好奇心にまみれた視線に構うことなく一限の授業を受け終えた出産疑惑持ちのタロは、平然とした態度で校舎内を闊歩したのである。その心の強さは何処で手に入るのかしら。
「ではどうぞわたしのうなじにさわってくれ」
「言い回し最悪か」
文句を言いながらタロの指先が模様に触れる。光りもしなければ痛みもないのだが、ついぎゅっと目を閉じた。浮遊感に似た感覚に一瞬襲われ、身体が元に戻ったことを悟り、目を開ける。
ワンピース代わりに着ていたシャツはもう下半身まで覆ってくれない。手に構えていたスカートをよいせと身につけた。仕上げにカーディガンを羽織ったところで、同じく身なりを整え終えたタロを連れて二限の授業が行われる教室に向かう。
「……ハナにははじらいが足りないよね」
「? 恥じらってるからちゃんとスカート履いたんじゃん」
「いや、うん」
言葉を濁しそっぽを向いてしまったタロに首を傾げつつ、はて、変な服装だろうかと自分を見下ろした。特におかしな箇所は見つからない。おかしいといえば隣を歩く小さな少年のみである。
私までタロを連れ歩く必要はあるのだろうか。どうせ二限の後は昼休みだし、さっきの空き教室で待っていてもらった方がよかったのでは。
一限前よりも学内の生徒は数が多い。注目され慣れておらず、さらに先程のようにタロの陰に身を隠すことも出来ないサイズの私はなるべく早足で歩いた。
しかし小走りで追ってくるタロの忙しない足音に気がついてそっと速度を緩める。自身の紳士力の欠如を感じた。
「あれ、みっちゃん?」
廊下で出くわした友人に声をかけられ、足を止める。今登校してきたらしい彼女はにこにこと表情を明るくさせていたが、チビタロを見て息を呑んだ。
「……礼くんが女の子産んだって噂を聞いたんだけど、みっちゃんもなの……? それともまさか、その子って二人の……」
ところで何を隠そう、みっちゃんとは私のことである。未華、という名前を両親から授かり、家族とタロ以外の知り合いの多くからみっちゃんやみーちゃんと呼ばれる。周囲に唆されたらしいタロから一度だけみーちゃんと呼びかけられたことがあるが、その際私は一週間タロへの警戒を解かなかった。
「えーと、この子はそういうんじゃないから。変な誤解しないでね」
それにしてもなんだか恐ろしい噂が存在することを知ってしまったが、慌てて首を横に振り否定した。タロのいる方には怖くて振り返れない。
「え、でもその男の子、礼くんに似てる、よね……? 誰の子どもなの?」
「…………タロが、産んだ」
タロ多産疑惑が浮上した瞬間である。タロのいる方には怖くて振り返れない。
タロから産まれたらしいチビタロを横に添えて受けた授業は、微塵も集中出来なかった。
机の下でこっそりツイッターのタイムラインを見ていたら、同じ大学の誰かが呟いた多産タロの情報が恐ろしい勢いでリツイートされていた。タイムライン上ではタロは四人産んだことになっていた。今日中にタロの家族は何人増えるのだろう。皆ネタとして盛り上がっているのはわかるけれど、情報化社会こええ。
周囲の視線があまりに鬱陶しいので、三限は別行動をとることにした。昼休み、再び小さくなった私が学食のうどんを啜りながらそう主張すると、ラーメンを食べていたタロは珍しく心配そうに顔を歪めていた。
そして三限が終わる五分前にはタロのいる教室に戻ってくることを約束し、意気揚々、私は小さな歩幅で探検の一歩を踏み出し、二歩目で見知らぬ学生に捕獲された。せめて二メートルくらい進みたかった。
「この子が噂の礼くんの子ども?」
近くの教室に連れられ、理解し難い状況にキョロキョロと落ち着きなく視線をさ迷わせていると、恐らく先輩であろう女性に髪を掴まれる。そう乱暴な仕草ではないものの、タロの手つきより雑なそれに思わず身体が強張った。うむ、大人しくしておこう。
「あんた本当に礼くんが産んだと思ってるの?」
「流石にそれはないけど、父親が礼くんの可能性はあるわけでしょ」
ママタロとパパタロ、どちらの噂の方がマシだろう。ママタロは馬鹿らしいけど、パパタロは生々しくて嫌だなあ。
「ねえ君さ、お父さんとお母さんの名前わかる? 礼くんとどういう関係?」
「あっはは! 必死じゃん!」
成る程、このお姉さんはタロに好意を持っているのかもしれない。横で大爆笑している金髪のお姉さんを尻目に、恐る恐る口を開いた。
「りょうしんはまさよしとふみか。タ、れいくんは、」
幼馴染? いや、今の私は未華ではなく謎の子どもだからそう答えられないか。兄、とは言えないし、親戚……?
それが妥当だろうと考え答えようとした瞬間、教室のドアが派手な音をたてて開けられた。怒気を纏った彼に睨みつけられたお姉さんたちが、肩を震わせる。
「あんたら、俺の子に何か用?」
ママタロパパタロ疑惑は燃え上がるばかりである。
私があのお姉さんたちに連れていかれるのを誰かが見ていたらしく、またしてもその情報はSNSで拡散されていた。それを見たタロの友人が、タロに伝えたそうだ。情報化社会こええ。
まだ三限は終わっていない筈だが、タロはもう教室に戻る気はないみたいで、私を抱っこして学校を出た。
「いやいやいや、わたしのよんげんは」
「出なくていい」
「おう……」
「一回くらい休んだって平気だろ」
「おう……」
私の予想以上に、そして私以上に私の身を案じてくれていたらしい。彼は不機嫌ながらもしっかりと私を腕の中に閉じ込めて家まで帰った。明日は筋肉痛で苦しむに違いない。子どもって結構重いんだぞ。昨日チビタロを抱っこした私は、暫く両手がふるっふるしていた。
想定外に早い帰宅で時間をもて余した私たちは、タロの家のリビングでのんびり寛いでいた。離れると不安そうな顔をするものだから、つい絆された私の現在地はタロの膝の上である。何かおかしいのはわかっている。
沈黙に耐えかねて電源を入れたテレビが雑多な音を流し続ける。
「タロ」
「何」
「わたし、あのおねえさんたちになにもされてないよ」
「知ってる」
「じゃあそろそろはなれようぜ」
「無理」
お腹に回ったタロの腕に力が入った。し、締め殺される……。中身がちゅるんと出てきそうだ。
息を詰める私に気がついたのかそうでないのか、その不必要な力が緩んだので大きく息を吐いて吸った。ちゅるんは回避出来たようだ。
年頃の男女の適切な距離とか色々教えてあげようかとも思ったが、自分の小さな手を見つめていたらどうでもよくなった。
このチビハナさんが今のタロの癒しとなるならお好きにすればいいさ。
脱力して背後のタロに完全に寄り掛かると、その温さに目を閉じた。
昔、タロに出会って暫くした頃、公園で年上の男の子にいじめられたことがあった。きっかけは覚えていない。きっと些細なことだったのだろう。強気過ぎるお子様だった私は大柄ないじめっこ相手に一切引くことなく、ガジガジと噛みつき追い払ったのだが、そんな私をタロは半泣きで、しかし鋭く睨みながら叱りつけた。
いつもにこにこして私に怒りをぶつけたことのない温厚な幼馴染は、その日から変わったのだ。尚、あの日私を叱った後は暫く離れてくれなかった。まるで今の彼みたいに。
初めて見る怒った彼が少し怖くてドキドキして、大切でしょうがない、みたいにぎゅうぎゅうに抱きしめてくれる彼にまたドキドキした。
チビタロは子猫みたいで可愛い。そして同時に、私の初恋の瞬間を思い出すから、好き。
後で模様に触れてチビタロになってもらおう。うつらうつら、船を漕ぎながら決めた。
「私は激怒した」
「メロスか」
目が覚めた私は、通常サイズだった。小さくない。ついでに大きくもなかった。未華二十歳、通常でノーマルで完全体であった。
ならば、とタロを見やるも、彼も通常サイズだった。どちらかが小さいということはなく、不思議な模様も石もどこにも見当たらず、どこまでも元通りであった。
まさかの夢オチか、と憤りながら日付の確認がてらスマホを見たらタイムラインに多産タロ情報を見つけ、夢ではなかったことを知る。つまり胡散臭い父の言葉は正しかった。私たちはよくわからない力にただただ振り回され、その理解が及ばないままあっさり解放された。これは確かに、どう努力しても手の届く気配のない領域である。
タロ曰く、小さな私を連れて帰宅した時点で、私のうなじに浮かぶ模様は薄まり、消えかかっていたという。つまりあの現象の終わりをタロは察していたのだ。
「タロの馬鹿! 最後にチビタロ見たかったのに!」
「寝落ちたのはハナだろ」
「ふーんだ」
「わっかりやすい拗ね方……。もう子どもじゃないんだから駄々こねるなよ」
「駄々なんてこねたことないもん」
「縮んでる時のが素直だったな」
「このロリコン野郎!」
「うわお前ほんと最悪……」
溜め息をついたタロは、不貞腐れる私の頭を優しく撫でた。思わぬ甘い仕草に、まさか、と自分の手に視線を落としたが、やはり私はもう子どもではない。
私があまりに怪訝な表情をしていたのだろう、タロは小さく笑った。
「ロリコンじゃないから、元の大きさでも可愛がってあげる」
タロはむっつりに違いない(確信)。
お読みいただきありがとうございました。