第一席~目覚めの紅茶はアールグレイ~
少女は問う。
闇とは、悪とは何なのだろうと。
少女は疑問を持つ。
一体何が、善と悪を振り分けているのだろうと。
価値観などそれを見るものと同じ数だけ存在するというのに、一体どうやってそれを善と悪…全く違う二つのものに分けられるのだろう。
罪であれば悪だと誰かが言った──……少女は、ならば罪は何をもって罪とするのかと問うた。
命を奪うのが罪としよう。生き物は常に何かの命を食らうことで生きながらえているのだから、生きることはすなわち罪となるのではないか。けれどもそれは罪ではないと彼らは言う。
何かを傷つけることが罪だとしよう。そこに傷つける意志がなかったとしたら罪は軽くなると彼らはいう。しかしそれをどうやって見抜くというのだろう?人は、必ずしも真実を口にするとは限らないのに。
罪の定義などあまりに曖昧過ぎる。こんなものでは善悪は分類できない。
大多数に否定されれば悪だと誰かが言った──……少女は、ならば世界を照らす小さな光など悪ではないかと答えた。
必ずしも多くの考えが正解だとは限らない。一人を救うのに百人を犠牲にするか、百人を救うのに一人を犠牲にするか。多くは後者が<正しい>と言うだろう。
けれど、前者は本当に間違いなのか?その一人が、自らのかけがえのない者だとしたら、人はその一人を犠牲にすることを認められるのだろうか。
これも駄目だ、人間はどうしても私的感情をもってしまう。
こんな曖昧なものでは善悪は諮れない。
神に抗うものが悪だと誰かが言った──……少女は、何故神を悪だと疑わないのかと疑念を抱いた。
神は完璧な存在だと人は信じるが、そもそもとしてそんな存在がいるのなら世界を破壊する<魔物>を何もせずのさばらせているのだろう。
すなわち、神にも魔物は手の出せない…あるいは排除できないものだということになる。
もしかしたら、あえて何もしていないのかもしれないが。
どちらにせよ神は完璧ではない。すなわち間違いを犯す可能性があるということだ。
それならば、神が悪となることもあるだろう。やはり、これも善悪は定めるにはもろすぎる。
他にも多くの問答が繰り返されたものの、少女が納得する答えは一向に現れなかった。
まるで押し問答だと、そう思う者とているだろう。
けれども、納得できないものは仕方ないのだ。知らぬものを知りたいと思うのは知を司った定めなのだから。
そして少女は、長い思考の末に善と悪とは都合の良い形のない妄論なのではないかと悟った。
自分を正当化するときに、相手を悪、自らを善と定めてちっぽけな自分を守る。
確かな定義がないのならば世界に悪も善も存在しない。
絶対的な悪も、存在しない。
だとしたら、世界の敵である魔物はどうして生まれたのだろう。
どうして、世界を破壊し<悪>となるのだろう。
何故、世界を破壊する魔物は<悪>とされるのだろう。
少女は考える。理由を求める。答えを探す。
けれども、その真実は何処にもない。誰も正解を見つけられない。
あぁ──……どうして世界はこんなにも──……。
これはとある人間と人形の、過去から今にわたる長い…長い、お話。
***
『──……かつて、世界には魔物が溢れかえっていた。
人が生まれ落ちるずっと前から、神々が姿を見せていたその頃から。
魔物は人ならざる存在であり、何かを求めて見境なく世界を破壊する。魔法、あるいは魔術と言われる特異な力をもってして、世界の敵であり続けた。
神が地上から姿を消し、それに変わって人が生まれたそのあとも、魔物は世界の敵だった。
人を、街を、存在するあらゆる存在を魔物はそれが本能とでもいうように破壊する。命を奪われたものも星の数ほどいたに違いない。
ある者は魔物に問うた。お前たちは何を求めているのかと。何故破壊に身を投じ、世界の敵であり続けるのかと。
しかしその答えが返ってくることはなかったという。
<理性なき悪しき化け物>
故に、魔物とは世界が定めた闇と影の象徴とされていた。
光がどこにでもある様に、影であり闇である魔物は対となって切り離せない。故に、世界から魔物は消えぬ存在である…はずだった。
しかしいつからか魔物はその姿を消すこととなる。その原因は、何処にも書き記されていない。
勇者が現れ、魔物を滅ぼしたから。
神が魔物をこの世界から切り離したから。
はたまた…自らその姿を消したなど。
伝えるものがいないその事実は定かではないが、魔物はおとぎ話のような存在になったのだ。
今となっては魔物など、妖精や神以上に空想的で本当に存在していたのかも分からない。
ただ、彼らの残痕とよばれるものが抽象的にその存在を肯定しているのみだ。
しかし我らは忘れてはならない。忘却してはならない。
世界には、必ず闇が存在しているのだと。魔物が姿を消した分の闇は、世界のどこかに隠されているのだと。
その闇は、いつしか必ず世界に帰ってくるのだと』
「忘れてはならない…ねぇ」
パタンと、分厚い本を閉じ小さく呟く。
背表紙に書かれているのは<忘れられしもの>というなんともまぁ、お堅い感じのタイトルで中身もその通り難解な言い回しで書かれていた。
魔物がかつてどんな存在であったか。大昔に存在したという神々について。はたまた、とても真実とは思えない禁術など…簡単に言ってしまえば太古の伝承や、もうおとぎ話となった魔物について延々と書かれている古ぼけた本。少し、ほんの少しだけ興味を惹かれたから読んではみたものの、結局数ページ読んだだけでやめてしまった。
他にも似たような内容の本はいくつも並んでいるが、もう手に取ろうとは思えない。絵本のようなものもあるようだがとても子供に読ませるような内容じゃなかった。こんなもの、子供が読んだら号泣不可避だ。
やはり血のつながった祖父の遺品とはいえ、趣向までは似なかったらしい。
好きなのは街の武器屋を巡ることで、嫌いなのは外見を揶揄されること。趣味はトレーニング。
家族は父と母、姉が三人いて小さなカフェを経営している。
そして将来は警騎団に入って男らしく住民を守る…なんてちょっと誰かに言うには気恥ずかしさを持つような夢を抱いてる、何処にでもいるような17歳男子。
それが俺、ウルズ・リアクティスという人間だ。
おとぎ話や夢みたいな冒険に心が惹かれないというわけではないが、それがあまりにも空想的過ぎれば話は別。もう夢ばかり見るような子供でもないのだ。
古書を適当なテーブルに置いて立ち上がる。一息ついて周囲を見回すと、良く言えば歴史を感じる…悪く言ってしまえば古くさびれたような本や家具、装飾品なんかがずらりと並んでいた。
それらはどれもこれも祖父が趣味で集めていた骨董品の数々で、ここはそんな祖父がひっそりと営んでいた骨董店。
とはいえ、こんなご時世では骨董店の需要などあるわけもなく、客が来ていることなど見たことがなかったが。
既に忘れ去られた大昔の伝承について調べていた祖父。子供の頃はそんな夢のような話に心が踊ったものだが、それがありもしない空想だと思ってしまうようになってからは話を聞くこともなくなった。
そんな祖父が亡くなったのが一か月ほど前。この機会に閉じることになったこの店の片づけを始めて早数日経つが、片付ければ片付けるほど何処からかまた物が出てくるのだから不思議なものだ。
一体これだけのものをどこから集めてきたんだか…。
あり得ないことだが、実は店に<魔法>でもかかってるんじゃないと思うほど。
「って、んなわけねぇか」
誰が聞くわけでもない呟きを零してまた一つ、ランタンを箱にしまった。
もうところどころ錆びた外郭に覆われたそのランタンの中には電球も、火をともす場所もない。
ただ中心にほんのり赤い透明な石が備え付けられているのみだった。
これが、この世界の<魔法>と呼ばれるもの。
人にはない奇跡の力を持つ特別な石…<魔水晶>は俺達にとって身近な存在だ。このランタンのように明かりを灯したり、それ以外にも水や火、風などの自然現象を生み出すこともできる不思議な石。
人はこれを、、<魔物の遺物>なんて呼んだりするが実際のところその正体は分かっていない。
世界のあちこちで採取できる魔力のこもったこの石を、街の連中だって便利だから使っている、という程度でその仕組みや起源なんかは知らないはずだ。俺達みたいな一般人は知る必要がない、というのもあるのだろうが。
もっともこんなランタンや俺達が日常生活で使っている魔水晶なんてものは魔法の片鱗、微々たる力しか持っていない。
魔水晶の別の能力や使われ方を思い出して少し動きを止めるが、すぐに記憶の外に押しやって店の奥の方に進んだ。
ここ数日は店に並んでいるものの片付けで精いっぱいだったから、奥の鍵がかかった部屋の方はちゃんと見ていない。
どんなものがあるかくらいは見ておいた方がいいだろうと思って回しずらい鍵を使い扉を開けた瞬間、ぶわっと舞い上がったほこりに咳き込んだ。
「ごほッ、何だよこの埃の量は…!?」
じいさん掃除してなかったのかよ!と涙目になりながら咳を繰り返して一旦部屋の外に避難すれば、だんだんと舞い上がったほこりが落ち着いてくる。
一体どれだけ放置して置いたらこんな有様になるのか…几帳面な祖父には珍しいな…と思いつつも箒を手に取り人間が活動できる程度に埃を取り払う。
それだけでも小一時間ほどかかり、ようやく咳き込まない程度に掃除を終えた頃にはもう少しで日が暮れてしまうような時間になってしまった。
何故かやけに疲労感を感じながらも今度こそ奥の施錠されていた部屋に入り、目を見開いた。
そこにあるのは、店に並んでいたものとは大きく異なる光景。
家具ではない…装飾品、といえばそういったものもあるがその用途はきっと店に並んでいたものとは違うだろう。何せ、そこにある全てのものに<魔水晶>が埋め込まれているのだ。
それも、俺達が日常生活で使っている魔水晶とは違う。色も、感じる魔力も全く知らないものだ。
どんな効果を持つのか予想も出来ないそんな魔水晶が埋め込まれた、いわば魔道具と呼ばれるようなものがそこにはずらりと並んでいた。
「なんでこんなものが…」
思わず零れた疑問に答える声はない。ただ、魔晶石や世界の忘れられた過去について研究していた祖父のことだ…もしかしたら俺や家族ですら知らないが何か特別な関係があって、それ伝いに手に入れたものなのかもしれない。
あるいは、ここに集めることで人の手に渡らないように管理していたなんてことも考えられる。
よくよく思い出してみれば、幼い頃ここに出入りしていた時もこの鍵付きの部屋に入ったことはなかったような気もするし。
もしかしてここにあるのは危険な物ばっかりなんじゃ…と顔を引きつらせるが、放っておくわけにもいかない。
<しかるべき場所>に引き渡すのにも少しはどんなものがあるか把握しなくてはならないだろう。
「……触らなきゃ大丈夫…だよな」
ふとよぎる、小さい頃に聞いた祖父の話。子供が目を輝かせるような、夢みたいな話。
成長し、理性という名の重しに押さえつけられていた好奇心が顔を覗かせ青年の体を突き動かす。
まるで子供に返ったような高揚感が心の奥から湧き上がってくるのを感じた。
まず見つけたのは指輪やネックレスといった、アクセサリーの形を模しているもの。ただし、本来宝石が埋まっているところにあるのは美しく輝く魔水晶だ。
つまり魔力のあるものが触れる、あるいは魔力を供給すれば何らかの魔法が発動するということである。
俺も一応魔力は持っているから下手に触れると作動してしまうかもしれない。うっかり発動させたら一大事だし、片付けには魔力遮断の手袋か何かを使わなきゃいけないな、と考えながら他には何があるのだろうと別のものに視線を向けた。
そしてきょろきょろと辺りを見回し、意識がとある場所に釘付けになる。
ウルズの瞳に移るのは武器と防具。
まるで勇者が持っていそうな豪奢な装飾が施された剣や自分が目指している警騎団が使っていそうな鎧、それから見たことがないような形で使い道もよく分からないものまである。
大剣を見上げ、これを使えたらさぞかし強い男に見えるんだろうなぁ…としばらくそれらを見つめるが、視界に入った魔水晶にぐっと堪えた。
「こっちは…椅子?これにも魔水晶が埋め込まれてる…何に使うんだこれ」
椅子というよりは玉座に近いそれをまじまじと見つめるものの、結局使い方なんて分からなかった。俺の知ってる魔水晶の能力といえば、ほとんどが火や水などの自然現象を発生させるものだしそれ以外なんて予想もつかない。
しいて言うならもう一つの使い道は知っているものの、あまり縁を持たなかったこともありよく知らなかった。
魔水晶は、奇跡の力を持つ石。
人間には到底できないことを簡単にやってのけるそれは、ある意味最も身近に好奇心を満たしてくれるものなのかもしれない。
けれども、魔水晶は…魔力に関することは、あまり気が進まなかった。
俺は魔力なんかに頼らず、自分の力で強くなりたい。それこそ、さっき見つけた剣を振るって戦えるようなそんな男になりたいのだ。
頭によぎるのは、街や国を守護する警騎団の団長であるザクレイ・クロッカー。
自分の目標であり、憧れであるその人は今もどこかで警騎団長の象徴である大剣を手に人々を救っているんだろう。自分を鍛え、その身を用いて戦う姿は男の憧れだ。
いつかは俺もそんな男になりたくて、自分なりにトレーニングを重ねているし18歳になれば入団試験を受けられるから夢はもうすぐ手前。
今こうして祖父の家を一人で片づけているのも、18歳の誕生日を数か月後に控えてこの街の近くの大都市で行われる入団試験を受けるためだった。
住んでいる街から試験会場までは移動だけで一か月はかかる。そこで、片づけを条件に会場にも程よく近い祖父の家に一時的に引っ越してきたというわけだ。
最後の最後まで止めておけと言っていた母さんや姉貴を説得し、何とかこぎつけた一度きりの参加資格。母さんたちが俺を心配して止めているのは分かっている。警騎団の仕事は、時として命の危険も伴うのだから家族としては当然の心理だろう。
それでも夢は夢なのだ。諦められないし、諦めたくない。だからこそ、必ず俺は入団試験に受からなくてはならないのだ。
試験までの残り約二か月はここの片づけとトレーニングをしていたらあっという間に過ぎ去っていくだろう。あとはかなり久々に来た街だから、観光がてらあちこち見て回るのもいい。
やること、やれることは数えきれないくらいある。だが、何をするにもまずこの店の片づけをしなくてはならない。約束は約束、そこはきちんと守るのが筋ってものだ。
「まだ奥に何かあるな」
まるで物置みたいに物が敷き詰められているせいでよく見えないものもあるが、意外に広い部屋にはまだ奥があるようだ。
正直表より広いんじゃないかと、そう思うのはあまりに物があるせいでその奥も続いているような感覚があるからか。
この店こんなに広かったんだな…と感心めいた感情を抱きつつ奥に入ればさっきは気づかなかったのか再び埃がぶわっと舞い上がった。
幸い咳き込むほどではなかったので、口を手で覆いながらさらに奥へ進んでいくと物は減っていき、さっきより広さを感じる所があった。
薄暗い中に突然現れた光に目を細める。どうやら天窓があって、そこから月明かりが入ってきているらしい。
そしてその光の下、まるで差し込む光を受けるためそこに置かれているような一つの箱があった。
近づいてみると、真っ黒なそれはまるで棺のようにも見える。大きさも、人が一人入れそうなくらい。
ぐるっと周りを見てみるも、不思議なことにその棺には他のものと違って魔水晶が埋め込まれていなかった。
つまり、この棺自体は魔道具でも何でもないただの箱ということ。
となれば、次に思うのはひとつ。
(何が、入ってるんだろうな…)
これだけの魔道具がある部屋の一番奥、それも一つだけまるで隔離されるかのように置かれていた棺だ。中身が気になるのは当然の心境というものだろう。
「…まさか死体…なんてわけねぇよな」
小さく呟き、改めて目の前の棺を見つめた。蓋に何か文様のようなものがかかれているそれは、光に照らされて鈍く光っており材質は石かそれとも金属か、多分そういったものなんだろうと考える。
しゃがみ込み、恐る恐るといった様子で手を伸ばせばひんやりと冷たい感覚が神経を通して脳に伝わってきた。
蓋の縁に指をかければずっしりとした重さが腕にかかってくる。動かすのにはなかなか骨が折れそうだが無理という感じでもなさそうだ。鍛えた腕にぐっと力を込めれば、石の擦れるような音を鳴らしながらそれは少しずつ動いていく。
がり、ごりっと削れるような音は長い間この蓋が開けられていないことを指し示しているような印象を受けた。そうして少しずつ、少しずつ蓋を動かしていくと中の様子が隙間からうっすらと伺える。
見えるのは…布?そしてそれから…。
「ッ…うわぁぁぁッ!?」
続いて見えたものに、思わず大声を上げてしまい蓋がごとんと床に落ちる。
火事場の馬鹿力というやつだろうか、あれだけ重くて動かすのに時間がかかってた棺の蓋は床に転がって中が光に照らされた。
こういう時、もしここが物語の中なら差し込む光の下には剣が突き刺さっていて、その剣を勇者が引き抜いたりするのだ。けれど、ここにあるのは剣でも槍でもなくただの棺。
そして棺とは、人間を収めておくためのものだ。
「おん…なの、こ…?」
は…、と叫んだことで乱れた息の合間で小さく呟く。
そう、女の子。目の前の棺に納められているのは、まごうことなき人間だった。
ただし、一般的に棺におさめられているものとは違ってそこに<死>の気配はない。まるで眠り姫のように、この静寂に包まれた部屋の奥で眠っている。美しすぎるくらいに整った顔はその瞳を閉じて静寂を守り続けていた。
ばくばくとうるさい心臓を落ち着けるように呼吸を繰り返しながら、眠っている少女を見つめてふと違和感に気づく。
そこには確かに<死>の気配はないが、同時に<生>も感じない。呼吸をしている様子も見受けられなかった。
つまり、この少女は人間ではない。人間ならこんなところにあんなに埃が溜まるくらい眠っていて形を保っているなんて出来るわけもないのだから。
それが意味することを、俺は一つだけ心当たりがあった。
人の様であり、だが人間とは全く異なる存在。むしろ、人間よりもずっと優れた力を持った存在。
「まさか、魔動人形?」
それは、さきほど見つけた魔水晶のもう一つの…いや、<本来>の使い道。
魔水晶とは、本来一つ一つが異なる魔力の性質を持っているらしい。小さな欠片のようなものは質までは確立できず、その魔力をエネルギー源とすることくらいしかできないが、一定の大きさを超えると<その魔水晶に込められた魔力の質>に応じて奇跡ともいえる力…<魔法>が使えるのだ。
けれど魔法は人間が直接扱うにはあまりに強大で危険すぎる。そのまま自分自身で使ってしまえば体が持たないのだ。
そこで人々が編み出したのがここにも多くある魔道具、そしてと魔動人形よばれるもの。
魔道具は魔水晶を武器や防具などに埋め込み、それを媒体として使用者が魔力を流し魔法を作動させるという代物だ。魔力と、多少の知識さえ持っていればそれなりに使えることが多く、仕込まれてる魔水晶にもよるが扱うのは比較的簡単らしい。警騎団もそういった魔水晶を施した武器を使っている人間は多いと聞いた。ある意味俺達が日常で使っているのも魔水晶をエネルギー源にしているという意味では一種の魔道具と言えるだろうが。
そして魔動人形は、そんな奇跡の力を持つ魔水晶をその名の通り人形という形にしたもの。くわしいことは知らないが、魔水晶をコアとし特殊な外殻で覆うことで今度はその外殻を媒体にして武器よりももっと複雑で強大な魔法にも耐えられるようにするらしい。
ようは武器よりもさらに強い魔法を使える魔道具を魔動人形と総称しているのだ。もっとも同じ魔動人形でも魔法の方向性は違ったり外見も色々とあるらしいが。
「それにしても…すごいもんだな」
目の前の少女はとても人形とは思えない。光に照らされる白い肌に、透き通るような銀色の髪一本にかけてまで精巧すぎて人間みたいだ。
肌からはうっすらと血管すら伺える気がする。あまりに美しすぎて人形っぽさはあるものの、少女が動いていればとても人形だとは思わないだろう。
「…綺麗な子だな」
まるで吸い込まれそうな美貌に目を離せず、じっと眠り続ける少女を見つめる。
こんなに精巧なら、きっととても強力な魔動人形なのだろうと予想するのは難しくなかった。これはいよいよもって<魔術協会>に回収を頼まなきゃいけないな…と考えながら蓋を閉めようと立ち上がろうとした──……瞬間、聴力がガタッという物音を拾い上げる。
何かにぶつかってしまっただろうか、と思うがそんな感覚はなかった。
(じゃあ一体、)
何が、という疑問を解消する前に更なる変化が訪れる。先ほど鳴った物音があちこちで…やがて、部屋中で響き始めたのだ。
弾かれるように辺りを見渡せば、押し詰められた魔道具たちがまるで地震でも起きてるみたいに揺れているではないか。ガタガタと笑うみたいに振動を繰り返すそれは不気味で、恐怖心がじわじわと苛んでくる。
「な、んだこれ、何だこれ…!?」
誰に聞かせるわけでもなく、聞かれるわけでもなくウルズの叫びが響く。それでも、叫びをあざ笑うかのように魔道具はガタガタと揺れ続ける。さっき見つけた剣も、盾も…椅子やアクセサリーまでまるで意思を持ったように。
もしかして何かの魔道具を作動させてしまったのかと思うも、答えなんて見つからない。魔法に関する知識なんてほんの少し、本でかじった程度なのだから仕方ないだろう。
ただ目の前で起こる非日常に恐怖と、そして。
ほんのわずかな高揚感がふつりと顔を覗かせた。
「いやいやそれより前にこれなんとかしねぇとだろ!!」
確かにいかにも摩訶不思議といった光景に心踊る部分がないとは言わないが、このままこの振動が続いて魔道具が壊れたら大惨事だ。それこそ何が起こるか分かったもんじゃない、と焦りが込み上げてくる。
万が一何かあれば大騒ぎになって入団試験どころじゃなくなってしまうし、それだけは何とかして避けなければならないのだが良い案は浮かばない。
しかし突然、何の前触れもなくそれは収まった。
何事もなかったかのように再び静寂に包まれた部屋に、さっきの音は自分の幻聴なんじゃないかと錯覚する。
けれど、さっきとは微妙にずれた魔道具の数々と、まだ耳にこびりついたように残る騒音がさっきのことは現実だと知らしめていた。
いや、でもなんで急にあんなことが起きたんだ。
偶然このタイミングで地震が起きたわけもあるまいし…と答えを求めて思考を巡らせていると。
後ろから、衣擦れのような音が聞こえた。
「!?」
「………」
後ろを振り返り、目を見開く。そこにいたのは、先ほどまで眠っていたはずのの魔動人形少女。
だが今は横たわらせていた体を起こし、ぼんやりと宙を眺めていた。触ってもいないのにどうして人形が動き出しているのか。理解を超える出来事の連続でパニック状態に落ちかけていると、少女の視線がゆっくり青年の方に向けられた。
まるで暗闇の海底みたいに青く、けれども鏡のようにこちらを反射しているだけのように見える瞳は人間味が薄いと感じる。
ここからでは全貌は見えないが、細目の体を包んでいるのは黒に近い藍色を基調としたドレスの様で、銀色に輝く小さな頭には青いバラが装飾されたミニシルクハットが乗っかっていた。
ドレスのあちこちに見える青みのある透明な石はもしかして魔水晶だろうか。さっきは気づかなかったが、多くの魔水晶…それもかなり大きなものがドレスに埋め込まれている。
何も言わず、ただこちらをぼーっと見つめる少女の瞳に囚われたように動けずにいるとゆっくりと閉じられた口が開いた。
「…懐かしい、気配がするわ」
「え、」
「貴方が私を起こしたの?」
まるでいくつも装飾されている透明な魔水晶みたいに透き通った声が静寂に包まれた部屋に通る。
棺の中で、半身を起き上がらせた状態のまま問いかけてくる少女に、どうしたもんかと視線を彷徨わせた。
異性と接するのは姉がいるおかげで慣れているが、かといってうまく話せるかと言えば話は別だ。それに眠っていた魔動人形を起動させてしまってどう対処したらいいのかも分からない。
見たところ攻撃性はないようだが、その秘めた力は凄まじいはずだ。万が一機嫌を損ねて部屋を壊されでもしたら困る。
それでも無視することは出来ず、一応「多分…?」と返せば、少女はきょとんとして変な人間ねと呟いた。|
「…なぁ、お前って魔動人形なのか…?」
「えぇ、そうよ。私は人形。貴方たちが作った、意思を持った人形」
ウルズの問いかけに少女は答える。どうやら意思疎通も可能なようだ。人形と自ら明言してきたものの、そうは思えないほど人間に近い少女に困惑に似た感情を抱いていると再びガタンッと物音がした。
「今度は何──、」
もう何が起きても驚く気がしない、と少女から視線を外しゆっくりと物音の下方へ振り向いて…固まった。
俺の視界の先、未だに埃の残る薄暗い物置部屋。
そこに、闇とも影ともとれぬ漆黒の何かが…<湧き上がっていた>
「なッ…!?!?」
一体どこからとか言う前に、どろどろとして形を持っていなかったそれがだんだんと確かな形を持っていく。そうしてそれは、溢れ、形作り…生き物として出現した。
真っ黒で分かりにくいが、あれは犬…それか狼だろうか。形がはっきりしないせいで判別しきれないもののそういう類の生き物だ、あれは。
そうして一種の現実逃避のように思考を巡らせていると、犬の影は。
あろうことか、こちらへとびかかってきた。
「!?」
突然の強襲に対しもはや反射的に、転がる様にして飛びのけば勢いがありすぎたのか置いてあった鎧型の魔道具に頭をぶつけてしまった。
幸い崩れるようなことはなかったようだが、ずきずきと痛みを訴える頭を打さえて呻きながら顔を上げてぎょっとする。
なんと、あの黒犬が増えている。幻覚ではない、さっきまでは確かに一匹しかいなかったはずだ。
それが今は三匹…いや今も増え続けているではないか。
先ほど沸いてきた黒い泥のような所から、まるで制限などないように次々とそれは出現している。
いくらこの部屋が広いとは言っても、それは物置として測った基準に対してにすぎない。さっき飛び掛かってきたのを避けたのもぎりぎりだったのに、何匹にも囲まれてはたまったもんじゃない。
というかなんであれ襲ってくるんだ、いやそもそもアレは何なんだと命の危険すらも感じる異常事態に頭が痛くなってきて…思い出した。
ここにいるのは今、俺だけじゃない。
「ッ…あの子は…っ!?」
そう、人形に対してこういう表現をするのが正しいのかは分からないがあの少女。
人間で言う寝起きみたいなもんじゃ襲われても避けられないんじゃないか、と慌てて視線を向ければ、案の定グルグルと唸る黒犬に囲まれていた。
流石に悠長に座ってはおらず、立ち上がっているものの相変わらずその瞳はぼんやりとどことも知れぬ場所を見つめているだけだ。
周りを囲み、今にも飛びかかってきそうな黒犬たちに興味の欠片も寄せていない…というか、眼中にないって感じと言った方が近いか。
正体不明の異形に対してそんな反応を示せるのは、彼女が魔動人形だからなのだろうか。魔水晶を内蔵し、人間よりもずっと優れた力を持つ存在であるが故に、気にかけてる必要もないのか。
もしかしたら、そうなのかもしれない。だって魔動人形は、魔法が使えるんだから。
だから、今のうちにここから逃げて外の人間に助けを求めるのが最善。そう、最善の…はずだ。
いくら特訓しているとはいえ、俺は何の力もないただの人間で今は武器もない。ただでさえ相手は何なのか分からないのだ、自分がいたところで出来ることがあるとも思えなかった。
だから──……。
「……だからって、」
思考を阻むように呟く。
最善が、何だ。
例え何も出来ることがないと感じたって、本当に何も出来ない訳がない。
そう、例えば今なら。
あの黒犬を追い払うことは出来ないかもしれない。倒すことなんて到底無理かもしれない。
だけど、それでも。
あの少女の手を掴んで一緒に逃げることなら、出来るだろ!
「ッ、そこをどきやがれ!犬っころ!!」
「!」
ギシリと軋む床で足を踏ん張り、思いっきり駆け出す。少女に意識が向いていたらしい黒犬たちは俺の動きへの反応が遅れ、渾身の疾走の末に俺は少女の手を掴んだ。
とても人形とは思えない、俺と全く変わらない温もりを持ったその手を袖越しに掴んでそのまま部屋の外へ駆け抜ける。
魔本なんてものは使えないが、体力には自信がある。少女の方も動きづらそうな服装だが、そこは魔動人形。引っ張られてついていけず転びそうな様子もなかった。
そのことをひとまず確認し、家の中では逃げたことにもならないのでそのまま外へと続く扉も蹴り開けて飛び出す。行儀が悪いのは許してくれよな、じいさん!
「っと、あいつらは…」
走るのは止めず、ちらりと後ろを振り向く。そこにはあの部屋から追いかけてきたらしい黒犬が十匹ほど見えた。あの部屋から離れれば消えるかと思ったんだが、残念なことにそういう風にはなってくれなかったらしい。
さっきは誰かに助けを求めるだなんて考えたが、どこからどう見ても獰猛な黒犬たちを街の方に連れていくわけにはいかなかった。幸い、今は全部俺達を追いかけているが他の人間を見つけたらそっちに襲い掛かる可能性だってある。
この街にも警騎団の駐屯所はあるが、そこに行くまでにも住宅街を通らなきゃならないから助けは呼べない。
と、なると方法は一つしか残されていなかった。
(この先には森がある…そこで撒けば…)
じいさんの家は街でも少し外れた場所にあるからすぐそばにだだっ広い森があるのだ。
店を開くのに不便じゃないか、と常々思っていたが今回はそれが功をなしたらしい。
あの黒犬たちが本当に犬と同じ嗅覚を持っていたらお手上げだが、そうでないなら木々の間に身を隠してやり過ごせばいい。そのあとは警騎団に駆け込むなりなんなりして対処してもらえばいいのだ。
少女には悪いがそこまで付き合ってもらおう。ちらりと俺に引かれる少女を見るが、抵抗する様子もなく相変わらずぼんやりとしていて不安になってきた。
もしかしてずっと眠ってて何か不具合が起きたとか?そういうときってどうすりゃいいんだ?とまた別の思考が浮かぶが、それは後回しにしたほうがいいだろう。
まずは目の前の問題から。それ以外は目の前のことが終わってからだ。
「おい、大丈夫か!?悪いけどアレ撒くまで付き合ってくれ!」
「……」
返事はないが、少女の瞳は確かに俺を見ている。さっきまでの鏡のようなものとは違う、不思議そうな感じだったがそこに突っ込めるほど余裕はなく無我夢中で足を動かした。
木々の合間をくぐり、土を蹴り、森の中を駆けていく。
どれほど走っただろうか。いくら体力に自信があるといえど、限界はある。
ひきつる喉と焼けるように熱い肺に鞭を打って、日が暮れてしまったせいでよく見えず整備されていない森の中をひたすらに走った。
だが、疲労が溜まれば当然走る速度は落ちる。一方でやはり向こうは生物を超えた何かなのか疲れを見せる気配はなかった。少しづつ、距離が縮まっていくのもまた道理というわけで。
「くそッ、しつけぇな…!」
「…それはそうよ。あれはそういうモノだもの」
「はぁッ!?お前、アレが何か知ってんのか!」
「アレは魔の残骸。死はなく自らの求めるものをどこまでも追い詰め食らうもの」
「魔の残骸!?なんだそれっ…ていうかお前何とか出来ないのかよ!?魔動人形だろ!?」
ようやく話すようになったかと思ったら、理解の及ばない言葉を並べ始めた少女にそう問いかける。
そうだ、こいつはこんな見た目をしていても魔動人形。となれば魔法が使えるはずだ。
こいつらを蹴散らすことなんて朝飯前なんじゃないか、どうして今まで思いつかなかった俺!
けれど、少女はウルズの期待に反してゆっくりと首を横に振った。
「無理よ。今の私には契約者がいないから」
「は?リン…なんだそれ!」
「契約者は、魔動人形と魔力の糸で繋がった人間のことよ。契約者がいなければ、私たち魔動人形は力を発揮できない」
淡々と返された言葉に、驚きを隠せなかった。
魔動人形はリンカー…契約者がいないと力を発揮できない?そんなことは初めて知った。
けれども、魔動人形なんてその存在を知っているだけで詳しいことは知らないし、実際に目にしたこともなかった。よく考えてみれば俺は魔動人形のことなんて、何も知らないに等しいのだ。
多分契約者が必要な理由にも理屈とかがあるんだろうが、今はそんなことに気にかけている場合ではない。
難しいことは置いとくとして、結論今のこいつは魔法が使えない。つまりはわずかに見えた希望も打ち砕かれたというわけで。
そんな絶望にうちひがれる間もなく、距離を詰めてきた黒犬の鳴き声がより近くで聞こえる。
この様子じゃ振り切るというのは難しそうだ。
「くそッ…八方ふさがりか…!?」
「…そうでもないわ」
「何か方法があるのか!?」
「えぇ。けどその前に…」
前、ちゃんと見たほうがいいわ。
そう少女に言われ、黒犬たちに向けていた視線を前に向けた。ウルズの黄金色に輝く瞳の先。
そこには先ほどまで続いていたはずの道がなく、代わりに小さな崖が逃げる俺達をあざ笑うかのように現れていた。
「ッ!」
慌てて進行方向を変えようとしたが、時すでに遅し。少女の忠告も甲斐なく、ウルズの片足は地面から離れて、重力に導かれるまま崖の下へと落ちていった。
もちろん、手を掴んでいた少女も巻き込んで。
崖に生えた木に引っかかりながら、二人は落ちていく。数秒の墜落の後にウルズはどしゃっと地面に背中を思いっきりぶつけた。幸い、崖はそう高くなかったらしく撲程度で済んだらしい。
それでも少女をかばうために受け身なしで背中から落ちたから結構痛みは強かった。
「いっつ…大丈夫か…?」
「私は人形よ。かばう必要なんてなかったのに」
「え?あぁ…そういえばそうだっけ。お前、人間とそっくりだから忘れてたわ…」
「やっぱり貴方、変な人間ね」
そう言う少女はどこも怪我を負った様子はない。それどころか、服に目立つ汚れ一つ見当たらなかった。
もしかしたら服の魔水晶の効果なのか、とのんきなことを考えられたのは痛みで思考がとんだせいか。
けれども、それもほんの一瞬。ウルズたちに遅れて崖から降りてきたそれに危機感は引き戻された。
ぐるぐると唸りを上げる黒犬たちはまるで飢えた獣の様だ。
「ほんと、しつこいな…」
「アレが狙っているのは私よ。今貴方が逃げれば、追うことはないわ」
「…お前を置いて逃げろ、ってことか?」
「そうしなくてはまた追いかけてくる。まだ走れるでしょう?さぁ、早く」
ウルズの上から避けて、それが当然だとでもいった様子で少女は言う。さっき言っていた方法があるっていうのはこういうことか。
だがこんなの、方法でも何でもない。
そもそもそれが出来るなら、最初からそうしていたのだ。逃げきれなかったから見捨てる、なんてこと出来るわけもない。
ましてやそれが人形相手だから許されるということもないはずだ、少なくともウルズにとっては。
こいつを起こしたのは自分、連れ出したのも自分。それならば責任は取るべきだ。
いや…それよりも何よりも。
「そんなの出来るわけないだろ」
「出来ない、ではないわ。逃げなくては死ぬの」
「だったらその時はもろともだ。案外立ち向かえば何とかなるかもしれねぇし」
嘘だ、そんなことは思っていない。目の前のアレはおそらく物理的な攻撃を受けないだろう。
根拠は現れたときに液状を示していたから。
今は黒犬という形を持ってはいるが、多分あれは一時的なもので攻撃をすればまた液体か何かになりそうな気がする。
こういう時の勘っていうのは当たるもんだ、全く嬉しくないことではあるが。
「無理よ。いいから逃げなさい、勇敢と無謀をはき違えてはいけないわ」
「うるせぇよ、いいから後ろに隠れてろ。今のお前、魔法が使えないならそこら辺の人間と大差ないんだろ?」
「だから私は人形で、」
「ごちゃごちゃしつこい」
いくら言っても引こうとしない少女に向き直り、ため息交じりにそう言って眉間の間くらいにデコピンをかましてやる。さっき落ちたときのダメージと、体力が底をつきそうなせいで力はあまり入らなかったから痛くはないだろう。
けれど、少女の瞳は大きく開かれ酷く驚いているように見えた。さっきまでの鏡のような瞳にも、確かな感情の色が宿っている。
やっぱり、こんな人間じみたこいつを見捨てて自分だけ逃げるなんて俺には無理だ。
「いいか、お前が人形だとかそういうの関係無いんだよ。何かを見捨てて逃げるなんて男として…いや、人間としてしたくない。それに…」
「…それに?」
「お前は人形かもしれないけど…その、女の子だろ。それに昔から親父に言われてんだ、男は守る側だって。多分守るものはさ、人形とか人間とか…そういうの関係ないんだよ」
だから、と言葉を続ける。
「大人しく、俺に守られとけ。起こした責任は取ってやる」
「……」
指をぶつけられた額を片手で抑え、目の前の背中を見つめる。
こちらに背を向け、黒犬と対峙する青年の言葉は、何故かあるはずのない心に沁み込んでいく気がした。
ほのかに暖かくて、心地良いそれは少女の中に小さな光を灯す。
それはまるで無限に広がる闇に差し込む光のように。凍り付いた世界を太陽が優しく溶かすかのように。
私なんてたまたま目覚めさせてしまっただけの人形なのに、どうして命までかけて守ろうとしてくれるのだろう。
(…この子は、一体何を…)
実は何か裏があって、こちらを欺こうとしている?
いや、彼の表情を見ればそうでないことは分かる。そもそも目の前にいるアレは、間違いなく私や彼を食らおうとしているのだ。命を懸けてまで嘘をつく理由はきっとない。
単に状況の深刻さを分かっていない?
いや、彼の瞳にはわずかに怯えの色が見える。それは命の危機に直面していることを理解している証拠だ。この青年は現状を把握できない愚者ではない。
(あぁ…それなら、彼はきっとどうしようもなく真摯な人間なのね)
きっと、これが答えだ。
目を背けず目の前のものと向かい合う強さと恐怖を抱いてもなお、何かを守ろうと動ける優しさを持つ青年。
あくまで彼の行動、言葉から判断したまでに過ぎないがこんな危機的状況で嘘をつけるほど人間というものは強くないだろう。
であれば…私も、その誠意に答えるべきだ。
「……」
「とりあえず、今はこれが急ごしらえの武器だな」
手近にあった太い木の枝を手に取り、剣に見立てて構える。こんなものが武器になるかは分からないが、ないよりマシだ。
こんなことなら少しは魔法に関して真面目に勉強するんだったな、と今となってはどうしようもないことを悔やむ。そうすれば少しはアレの対処法が分かった可能性も…何なら魔法なら効いたかもしれないし。
けれども今はないものねだりだ、今あるものでここを打開しなくてはならない。
とりあえず一匹に突っかかってみるか、と目の前の黒犬を睨み付けた。どうやらこっちの様子をうかがっているらしく10匹にも及ぶ黒犬は、飛び掛かってくることなく唸り声を上げている。
こうなりゃ先手必勝…!と足に力を入れ、地面を蹴ろうとした──……瞬間、ぐいっと服の首元を後ろから引っ張られて、ぐえっと変な声が出た。
犯人なんて一人しかいるわけもない…せっかく人が覚悟決めて駆けだそうとしたのに何してくれてんだ。
「お前が俺を殺す気か!?」
「大げさね。せっかく別の方法を提案してあげようと思ったのに」
「はぁ?また自分の置いてとかいうのならお断りだぞ」
「違うわ。アレを何とか出来て、私もあなたも無傷で済む方法よ」
危険だと分かっていても、思わぬ暴挙に叫びながらそう言えば少女は冷静に返答する。
そんな都合のいい道が、本当にあるのか。あるのだとしたらどうしてさっきまでそれ提案してこなかったのか。
いつ黒犬が襲ってくるか分からないので、視線は前に戻してどういうことだよ、と問いかければ少女が前に回ってきた。
ウルズの目の前には少女、そしてその奥に黒犬。慌てて少女を後ろに隠れさせようとしたが、その前にその小さな口が開かれた。
「貴方、さっき言ったでしょう?魔動人形なら何とか出来ないのかって」
「まぁ…でも契約者?がいないから魔法は使えないって言ったのはお前だろ」
「えぇ。そう…私には契約者がいない、だから力が使えないわ。けれどそれなら、契約者がいればいいだけの話よ」
「…は?いや、確かに理屈はそうだけど…って、まさか、」
少女の言いたいことを察して、いやいや!と首を横に振る。
「俺がなれるわけないだろ!魔動人形見たのなんてお前が初めてだし、そもそも俺は魔法の知識なんてなんもねぇし…!」
「あら、でも方法はそれしかないわ。私を置いていくのは嫌なんでしょう?それともアレに食われるのを選ぶのかしら」
問いかけてくる少女の後ろでは、じりじりと黒犬が迫ってきている。
迷っている暇はない、このままでは辿る道は一つしかないのだ。
であれば、答えは一つ。
こんな、まだまだやりたいことが残ってる人生半ばで死ぬわけにはいかない。
命に比べりゃ、他のことなんて些細な問題だ。
「あーもう!!どうにでもなれ!契約でも何でもしてやるよ!」
「そう」
やけくそでそう叫べば、少女が初めて微笑んだ。海色の瞳を細め、淡い赤に色づいた唇が弧を描く。
こんな状況だというのに、あまりに綺麗なその表情に目を奪われていると長い袖の中から陶器のような手がウルズに伸ばされた。
暖かい温もりを持ったその手が頬に触れ、少女と額を触れ合わせるように顔を引かれる。
後ろでは何かを感じ取ったのか、こちらにとびかかろうとする黒犬。けれど、少女は意識を向けることなく続けた。
「呼びなさい」
「はぁ!?」
「契約に必要なのは、呼びかけと同意。だから、私を呼びなさい」
黒犬の唸り声に重なって、少女の声が鮮明に届く。
黒犬の鋭い爪がこちらに触れるまで、残り十数秒。
「私はマギアステラ。薔薇と、星を司る魔水晶を宿した魔動人形。貴方との契約を望むもの」
「マギア、ステラ…」
「さぁ、貴方の答えは?」
「ッ…俺はお前と契約する!マギアステラ!」
こいつらを、蹴散らしてくれ!
促されるまま、言葉を重ねる。叫ぶように、救いを求めるように。
これが自分の人生を大きく傾けることになるとは思いもせずに。
そしてウルズの答えを聞き届け、頬に少女…マギアステラの指が伝い、さっき落ちたときに切ったらしい傷口から出た血を拭い取った。
「いい子ね」
そう一言呟き、指先を染めた赤を口元へ持っていったマギアステラはぺろりと異なる赤で舐めとった。
はっ!?とその行動に声を上げる前に心臓がドクンッと大きくなって胸元をぐっと押さえる。
一瞬襲われた息苦しさの後に一度瞬きをすれば、目の前の光景が一瞬にして変わった。
視界に映るのは、鮮やかな蒼。
ひらりと風に舞い上がったそれは、どうやら青い薔薇の花弁らしい。
まるで幕開け前の舞台を隠すカーテンのように、ウルズの視界を遮ったそれらが風にさらわれて更に奥が露わになる。
そこに見えたのは、まるでマギアステラを守る様に生えた青い薔薇。花弁は美しいが、蔦には触れるものを傷つけるだろう鋭利な棘がいくつも見受けられた。
そして、マギアステラに襲い掛かった黒犬たちは蒼薔薇に囚われており、抜け出そうともがいている。だか、それも意味なくやがて初めのような黒い泥になって溶けていった。
「ま、じかよ…」
「貴方、そんな顔もするのね。でも安心するのはまだ早いわ」
まだ残ってるもの、と続けてマギアステラは先ほど飛び掛かってこなかった黒犬たちに視線を向けた。
それでも半分はさっき薔薇に囚われて溶け消えているから、このまま襲われて食われるということはないだろう。
目の前にある確かに<魔法>としか呼べない現象に視線を外せないでいると、残った黒犬たちが一か所に集まっていく。
敵わないと分かって逃げるのか、とも思ったがマギアステラが言っていた。アレは目的を果たすまでけして諦めはしないと。
であれば、逃げる可能性は低い。一体、何をしようとしているのか。
「…アレに知能はないと思っていたのだけれど」
「おい、なんかくっつきだしたぞ!?」
「小さい一体で敵わないのなら、数体分を合わせようってことかしら」
「のんきに言ってる場合かよ!」
どろどろと溶け、合わさり、今度は巨大な狼のような形になったソレは俺達の数倍は大きいんじゃなかろうか。
思わず頬を引きつらせながらそれを見上げるが、マギアステラは動揺しているようには見えない。
それどころか周囲に重く響くような唸り声を上げるソレを、大して危機感も抱かずに見上げているように見えた。
いやいや、いくら魔法が使えてもこんなデカいのどうにかできるのか!?とさっきの魔法を見てなお、不安感が勝る。
それも仕方ないだろう、何せこっちはずっと平凡な日々を送っていたのだ。こんな非常事態の連続な状況に陥れば怖気づいても文句は言われまい。
「お、おい…アレはさすがに、」
「問題ないわ。見かけが大きくなったところで変わらないもの」
「いや、変わるだろ…」
「心配性なのね。大丈夫よ、私の薔薇はこの程度で枯らすことなど出来ないのだから」
そう迷いもなく断言したマギアステラの声に掻き消すように黒狼は鋭く光る爪を携えた前足を大きく振り上げる。
標的は、言わずもがなマギアステラだ。
いくら魔動人形といえど、あんなものに叩き潰されればひとたまりもないだろう。
咄嗟に駆けだしそうになるが、一瞬こちらに振り向いたマギアステラが瞳でウルズを制した。
何も心配することはない、というように。
「さぁ、咲き誇りなさい」
たった、一言。
マギアステラが一言、そう紡いだだけでそれは終わった。
先ほどは見えなかったが何処からともなく、芽生え、咲いた数多の青薔薇が黒狼に絡みつき動きを遮る。あんな細い蔦のどこにそんな力があるのか、黒狼は薔薇を引きちぎれないようでどんどん薔薇の鎖によって拘束されていった。
もがく黒狼を意ともせずそしてまるで何かの美術品のように巨大な体にまとわりついた薔薇の数えきれない棘の一つ一つが、、まるでレイピアのように突き刺す。
やがて貫かれた場所から黒狼は泥へと戻っていき、跡形もなく消滅した。
再び沸いて増える様子も見られない。後に残るのは青い薔薇の花びらのみ。
けれど、それもやがて空気に溶けるように消えていった。
「お、わったのか…?」
信じられない、といったように吐き出された声に答えるようにざぁぁ、と風が森の中を吹き去っていった。
聞こえるのは風に揺れる木葉の音に、鳥のさえずり。あとは、どくどくと脈打つ自身の心音だ。
さっきまで聞こえていた黒犬の唸り声も、追いかけてくる足音もない。
恐る恐る自分の手のひらを見つめ、思わず乾いた笑いが零れる。
それから背中から後ろにばったりと倒れ、大きく息を吐いた。寝っ転がったことでウルズの目には視界いっぱいの夜空が映っている。
空は俺達がさっきまで死にかけていたことなんて関係ないように星がきらめいていて、僅かに見える雲は緩やかに形を変えながら流れていっていた。
動くのが億劫なくらい疲労感にかられて、そのままぼーっと空を見つめていると視界の端からひょっこりとマギアステラが顔を覗き込んでくる。
木の合間から差し込んでくる月光に照らされて銀髪がきらきらと反射していた。
「どうしたの?」
「あー…いや、俺生きてるなぁって」
「安心して腰が抜けたのかしら」
「んなわけあるか…まぁ、動く気力はないけど…」
さっきまであんな化け物相手にしてたくせに、何でもないような顔をして問いかけてくるマギアステラに返答するも、何でかすごく眠くて瞼が落ちてくる。
極限状態から解放されて緊張の糸が切れたのだろうか。
「ねぇ、そういえば貴方…名前は何ていうの?」
「なまえ…?」
「私は名乗ったのだから、貴方も名乗るのが礼儀でしょう?」
「…ウルズ…ウルズ・リアクティス、だ」
何とか名前を告げれば、マギアステラの透き通った声がウルズ、と俺の名前を復唱する。
けれど、俺の方はというととてつもない眠気に襲われて意識はあやふやだった。
こんなところで寝るわけにはいかないとか、家に戻って片づけをしなくちゃならないとか、そもそもこいつのことどうしようとか、いろいろ考えることはあったが人間の三大欲求の一つである睡欲に疲弊した体が敵うわけもなく。
マギアステラの声がぼんやりと聞こえている中、ウルズの意識は深い眠りに引き落とされていった。
***
夢を、見た。
遠い遠い昔の夢。一体いつのことなのか、分からないくらいに時を遡った記憶。
そこには大きな湖があって、周囲には美しい花々が咲き誇っている。湖では真っ白な白鳥が優雅に泳ぎ、水面を覗けば、魚たちが楽しそうに自らの世界で尾ひれを揺らしていた。
そんな湖から目を離し、傍に生えている巨大な木の下に足を向ける。
どうやら、木の下には誰かいるらしい。人だけではなく、動物たちも集まっているようでそこにいる人物に寄り添うように周りを囲んでいた。
──……あら、今日は早いのね。
擦り寄ってくる動物たちを優しく撫で、その人は言葉を紡ぐ。自分も何かを言っていたのだが、まるで自分の体じゃないみたいに何を言っているのか分からないし、聞こえない。
目の前の人物の姿も何故か曖昧で、どんな姿をしているのか判別することも出来なかった。
夢だから、なのだろうか。
夢と分かっている夢を見るというのも不思議な感覚だと思う。
ただ、何を話しているのか、誰といるのかもよく分からないが──……胸に満ちる暖かい感覚だけは、心地よかった。
「……ん、」
ゆっくりと、意識が浮かび上がる。どうやら俺は眠っていたらしい。
どうして寝てたんだっけ…片づけに疲れて眠ってしまったのか…とぼんやりと見慣れ初めてきた天井を見つめ、ふわふわと定まらない記憶を掘り返す。
でも、昨日ベッドに潜った記憶はない。確か昨日は夜空を眺めたまま、眠くて仕方なくて…。
「そうだ!昨日変な化け物に襲われて…!いっつ!」
はっきりした頭で自分の遭遇した出来事をようやく思い出し勢いよく体を起こせば、背中に鈍痛が走る。そういえば崖から落ちて思いっきり打ったんだったか。
顔をしかめながらも窓に視線を向ければ、明るい朝日の眩しさに目を細めることになった。
どうやら少なくとも一晩明けたらしい…襲われたのが昨日と仮定して、俺はあの森の中で睡魔に負け、眠りについたはずだ。
けれど、ここは確かに俺が引っ越してきた祖父の家の中で間違いない。となると、誰かがここまで運んでくれたというわけで。
そこまで思い出して、あの魔動人形の少女のことが頭をよぎった。
この部屋にはいないようだが、あの場にいたのは俺の他にマギアステラだけだったし、ここまで運んでくれたのは自然と彼女ということになる。
女の子に運ばれたというのは男としてどうかと思うが、そこは魔動人形なのだからと気にしないことにした。
もしかしたら他の部屋にいるのだろうか、と何とか立ち上がって部屋を出る。
この店は一階が店で、二階が住居スペースになっているのだ。寝室に使っている部屋を開ければ、短い廊下を挟んでリビングの扉が見えるので、手をかけて扉を引く。
そして、その先にその人物はいた。
祖父の家の中は質素、というか飾り気がない。木製のテーブルが一つと、椅子が二つ。
一人分より、少し多めの食器に小さなクローゼット。
それから祖父の趣味だった古書の数々…リビングにあるのはそんなものだろうか。
住居スペースはまだ手を付けていないから、ここは祖父が暮らしていた時とほとんど変わらない光景だ。
子供の時、遊びに来た時から…ずっと変わらない。
そんなリビングで、マギアステラは祖父が座っていた椅子に腰かけていた。
テーブルにはティーセット。どこから見つけたのか、紅茶も準備済みらしい。
一人、椅子に腰かけてティーカップを手に持つその姿は全く違うはずなのに今は亡き祖父に重なる気がした。
「あら、起きたのね」
「…夢じゃ、なかったんだな…」
「えぇ。残念かしら?」
「…混乱しすぎて頭がついていけてないって方が強いな…」
「そう。それならモーニングティーでも飲みながら、色々と整理しましょうか」
そう言うと、マギアステラは紅茶をもう一つのティーカップに注ぎ向かいの椅子に座るように促した。
なんで俺が客みたいになってるんだろう…とは思ったものの、気にしていては話が進まない気がしたので言及することなく腰かける。
差し出された紅茶は、いい香りが漂ってきて何となく心がホッとした。
「それで、何から話せばいいかしら」
「あー…じゃあ、まず…俺って本当にお前と契約したのか?」
「えぇ。貴方は私の名を呼び、同意した。それが前段階…いわゆる準備段階ね」
「準備段階…」
「あの後、私は貴方の血液を摂取したでしょう?あの行為によって、私と貴方の間に魔術回路がつながれて契約は成立したのよ」
確かに言われてみれば、マギアステラが俺の血液を口に含んだ瞬間に心臓が強く脈打ったような記憶がある。あれが魔術回路がつながった、ということなのだろうか。
けれども魔術回路が何なのか知らない俺としては、微妙な表情を浮かべるしか出来ず、察してくれたらしい彼女が仕方ないわね、と言葉を続けた。
「魔術回路は簡単に言ってしまえば、契約者が魔動人形に魔力を供給するためのラインのことよ。昨日は私が貴方から魔力を<引き出した>という方が正しいかもしれないわね」
「…つまり、契約者はエネルギー源…みたいな感じか?」
「端的に言ってしまえばそうなるわね。もう少し複雑なものではあるのだけれど…今はその程度の理解で構わないでしょう。エネルギー源が契約者で、そのエネルギー…魔力を魔法に変換するのが魔動人形。そう覚えていたら良いわ」
「なるほどな…で、魔動人形は魔法に変換は出来ても魔力はないから、単体じゃ魔法を使えないってことか」
それなら納得だ、とウルズは契約者がいないと力を使えない理由を納得する。
魔道具とて、使い手がいなければただの道具と変わらない。つまり魔動人形も同じこと、というわけらしい。見かけこそ人間そのものだが、彼女はまぎれもない魔動人形なのだ。
「他に聞きたいことは?」
「えぇと…その、お前って本当に人形…なんだよな」
「魔法を使っているのを見たでしょう?」
「それはそうだけど、見かけも中身もあんまりにも人間すぎるからつい忘れそうになるというか…」
「なるほど。それじゃあこれを見れば納得できるかしら」
ウルズの言いたいことが分かったらしいマギアステラは、ティーカップをテーブルに置き、右手で前髪を上げた。
先ほどまで隠されていた額が露わになって、ウルズの瞳が開かれる。
そこには、人間には存在しないはずのもの…魔水晶が埋め込まれていた。服に埋め込まれているものとは違う色合いの魔水晶は、不思議な輝きを持っている。
意識が吸い込まれそうな感覚に陥りかけた直後、マギアステラは手を下ろし魔水晶は再び銀色の髪に隠された。
「これが私の魔水晶、名づけられた名は<流るる薔薇の星姫>。私が魔動人形だと理解できた?」
「あ、あぁ…」
「魔動人形を見るのは初めてだと言っていたものね。それならすぐに飲み込めないのも無理はないわ、きっとそのうち慣れるわよ」
「慣れるもん、なのか?あ…?あとアレは何なんだよ!?」
「声を荒げるものではないわ。アレとは何?」
「昨日俺達を襲ってきたアレだよ!アレが一番聞かなきゃならないことじゃねぇか!」
すっかり忘れていたことを問いかければ、マギアステラは本当に今更ね、と呆れたように呟いた。
俺としても今の今までそれを聞かなかったのは抜けていると思うが、未知ことが立て続けに起きたせいだと思いたい。
けして命の危険にさらされて脳みそが記憶の彼方へ放り投げたわけではないと思う…多分。
マギアステラが目覚めたのと同時に現れたあの謎の黒泥。しかも狙っているのは自分だと彼女は言っていたのだ。
それならば今この状況でだって、現れてもおかしくない。今現れてもまた命の危険にさらわれることはないだろうが、それでも味わった恐怖はそう簡単に消えはしない。
「あれは──……」
ウルズの問いかけに答えるために、マギアステラが口を開く。
けれど、その前に下の方で轟音が鳴り響いた。そう、まるで扉をぶっ壊したみたいな。
「な、何の音だ!?」
そんな音を聞いて大人しく座っていられるほど、悠長な性格はしていない。
マギアステラの言葉が続くよりも先に、階段を下りて店の方に赴けばそこには粉々に砕け散った店の扉…それと、二つの人影。
一人は眼鏡をかけている目つきの鋭い男で、もう一人は表情こそ穏やかだがそれ故に何とも言えない不気味さを感じる。
というか、急に人の家にやってきて扉をぶっ壊すような奴に抱く感情など、マイナスでしかあるわけなかった。
「ウルズ・リアクティスだな」
「えっ…は!?」
「お前を、此度の大量魔力放出の重要参考人として連行する!」
壊された扉から雲一つない快晴が見える、そんな朝。
突然の来訪者にそう言い渡され、その言葉を飲み込むのに数秒の時間を要する。
そして十秒後、世間では何の変化もない平凡な日々を送っているだろう街の端で、ウルズの驚愕の声が響き渡った。
~ to be continued ~