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これが自由というものか。

作者: ハーモニー

この物語は、いつから始まっていたのだろうか。

 さて目を覚ますと、違和感を覚えた。騒々しい。何かが、おかしい。何がと聞かれれば、違和感があるからとしか、答えられないのだが、それでも、なにかが。

 早朝五時。一日で、一番寒い時間だ。そんな寒さに、かじかむ足先を、布団の中に収めて、温めながら、昨夜のことを、思い出す。いや、別に、変ったことは、なかったはずだ。何だろうか、この違和感……

 少しずつ、頭が覚醒してくる。ここでやっと、気づく。ああ、簡単なことだった。さっきから、やけに大きくなっている消防車のサイレンが、すぐそこで途切れているのだ。しかも、何台分も。


 どういうことだ。


 この辺で消防車が来なくてはならない場所なんて私の住むアパートぐらいだ。


 まさか。


 目覚めた。頭も体も目覚めた。確実に私の身に危機が迫っている。しかも命が奪われるかもしれない程のだ。本能が今すぐ逃げろと呼びかける。早く、早く。急いで玄関に向かい、飛びつくようにドアを開けようとした。しかし恐ろしいことに、玄関のドアが開かない。なんということだろうか!しかしこんな時ほど冷静になるべきなのだ。そうだ、こういう時は窓から救出を求めるのが最善の策ではないか。これだけ大騒ぎになっているのだから、気づかれないはずもない。私は安心感からか、自然と冷静さを保ちながらベランダに出るための窓を開けた。

 いや、開かない。絶望的。こんな形で、なにが起きているのかもわからずに、私は炎に焼かれて死ぬのだろうか……


 ――――


早朝四時半。

 朝早くから出動命令。空気が乾燥するこの時期、本当に忙しい仕事だ。できれば最後まで寝ていていたかった。今度はどこで火災が起こった?

「救助指令救助指令 特殊救助 横浜市栄区上郷町140番3号メゾンタワーズ301号室 横浜市消防本部  第1班・第2班出動。 繰り返す 救助指令救助指令 特殊救助 横浜市栄区上郷町140番3号メゾンタワーズ301号室 横浜市消防本部  第1班・第2班出動。 おわり」



 救助指令?火災ではないのか?こんな時間から救助か。……おい、ちょっとまて。救出って言ったって……今読み上げられた住所は明らかに一般的なアパートじゃないか!一体どこから誰を救出するというのか?よく中国で子供が建物の間に挟まって救助されるニュースを見るが、その類だろうか。それにしたって特殊救助って…

 そんなもの、聞いたことすらないぞ…

「先輩、何だったんですか、今の出動命令……」

 出動がかかったらとにかく早く準備をしなくてはならないのだが、不安から思わずこの署の隊員の中では最年長である野田先輩に質問をしてしまった。

「さあな、俺もこんな命令は初めてだ。詳しい状況は移動しながら無線で確認するから、石井もとにかく早く準備しろ!」

 初めてなのか…。五十歳の野田先輩ですら……?


 ――――


早朝五時半。

 皆、どうすることもできぬまま見守っている。アパートの三階の、現場である部屋の窓まではしご車のはしごをのばし、救助隊員は階段を上ってその部屋の玄関前まで向かっている。しかし、どうしたことかカーテンが閉まっているわけでもないのに部屋の中の様子をうかがえない。なんというか、部屋の中と外との寒暖差で窓が曇った時の状態がさらに強くなっているような……とにかく中が確認できないのは確かなようだ。しかも窓を割って強行突破もできない。一般家庭の窓が割れないなんてありえないぞ。玄関のドアももちろん同様に開かなければ壊れもしない。

 どうにかして中にいる人物とコミュニケーションを取らなくてはいけない。しかし、どんなに窓を叩いても、チャイムを鳴らしても、応答はない。俺は、中の人物を心配するより前に、この異常な状況に一種の興奮を覚えていた。


 ――――


朝十時。

 疲れた。さっきまで私が試みていたのは何かしらの道具で窓を割ること。しかし無駄な徒労であった。もういい、疲れた。

 何か進展があったとするならそれは、私の部屋に起こっているのは火災なんて可愛らしいものではないことに気づいたということ、それと窓の外で救助隊員と思われる人物が何かを叫びながら必死に窓を叩くようになったということくらいだろうか。救助隊員にどれだけ手を振り返しても、叫んでも、あちらには認識できていないようだ。どうやら私が見えていないらしい。こちらからは見えているのに?どんな仕組みだ?

 今私は、コーヒーを飲んでいる。なんて呑気なのだと笑われるだろうか。でも、仕方ないじゃないか。玄関のドアは開かない。ベランダに通じる窓も開かない。割ることもできない。救急隊員に認識もされない。携帯電話も、圏外だ。ほかに何かすることがあるか?仮に向こうから部屋の中を見られていないとしても、少なくとも形としては部屋の中を覗かれるという最悪なプライベートの侵害を受けながらも、外部とは一切コンタクトが取れないという圧倒的な孤独感。なんの意味もなく、ただそこにあるという恐怖。

 ならばカーテンを閉めろと言われるだろうか。できるわけがない。あちらが私を見ているかもしれないというストレスが、現段階で私を唯一外部とつなげてくれているという希望なのだから。ずっと、見ていてくださいよ?

 ……パンを焼いて、目玉焼きでも作るか。


 ――――


朝九時

 相変わらず救助隊員は窓を突破しようと必死だ。さっきはドリルのような見たこともない機械まで出てきたぞ。割れなかったが。

 いつまでも消防隊が二班分もいても仕方がないので、第一班は署に戻った。もはや俺らも必要ないのではないか?

「おい石井。何だと思う?この状況。」

 野田さん、そんなこと聞くかよ……

「なんだと思う?と聞かれましても…。わからないですよ、そんなの。」

「だよなぁ……」

 不毛な会話だ。でも、この異様な雰囲気の中でできる会話なんてその程度のものだ。我々はいつ署に戻れるのかなんて話をできるはずがないだろう。

 先ほど、ようやく警察によりこの部屋に住む人物の詳細が分かった。

 木下 クミ、二六歳、女性、会社員。去年の冬に転職し、今年の春からここに移り住んだ。実家は埼玉県春日部市で、転職する前はそこで両親と暮らしていた。転職理由は人間関係がうまくいかなかったこと。しかし転職先でもその状況は変わらなかったらしい。結局、人間関係が苦手な人は、どこに行っても状況が改善されることなどないのだろう。両親によると、彼女は変なところで冷静になる性格ということだ……

まさか、いまあの部屋の中で、冷静ってことはないよなぁ……


 ――――


昼十二時

 暇だ。状況は相変わらずだ。何も起こらない。こんな状況だ、むやみに食料を消費するわけにもいかないだろう。こんな異常事態なのに、やけに冷静な自分が腹立たしい。私はこういうところがあるのだ。

窓の外の救助隊は、今はもういない。先ほどあきらめたようだ。今、この部屋に聞こえる音は、私の生命音だけ。もしもこれからずっとこのままだったら、私は狂う。いつか確実に狂う。餓死が先か、狂いが先か。

 いっそのこと、もう狂いたい。


 私は、友達が少なかった。きっと淡泊すぎるのだと思う。しかし、嫌われていたわけではい。いじめられていたわけでもない。でも、常に、なにか、微妙な孤独感が付きまとっていた。翻って今はどうだろうか。同じだ。別になにかをされているわけではないけど、だれも近づいてはくれない。

 ……空しい?

 ああ、そうか、これだ。これが私の人生だ。誰も私のことなど見てくれない。なんて空しいのだろうか。

「空しい、か。」

 言葉にすると途端に悲しくなる。私の人生は空しいんだ。

 いや、でも、ちょっと待て。それは果たして私だけだろうか。ほかの大多数の人間は空しくない人生を謳歌するのだろうか。そうじゃないだろう。みんな空しいだろう。だってみんな死ぬのだから……

 ここで、考えるのが嫌になった。人が死ぬのは当然のことだが、こうもリアルに死が近くにあると考えただけで死にそうだ。

 さっきまで、私はここからどうやって出るかを考えていたが、今は違う。

「死ぬときはきれいに死なないと……」

 まるで、死神が私をここに閉じ込めているような。そんな気がした。


 ――――


午後一時

 撤退命令が出た。もちろん、俺ら消防だけだ。思えば、もうとっくに今日の仕事は終わりの時間だ。そろそろ帰らせてもらってもいいだろう。

 しかし、気になるというのも事実だ。町に怪物が出てきたって話のほうがまだ現実味がある。八時間、あらゆる人間が全力を尽くしても中を覗き見ることさえできなかったアパートの一室が今まであっただろうか。あの中にいる女性は、今なにをしているのだろうか。

 また、来ます。

 ――――


 午後三時


  二月三日

   久しぶりに大きな駅に出た。宣教師の声が、パチンコ屋の騒音で聞こえなかった。


  五月二十日

   最近、飼っている犬のアトムが救急車の音で泣かなくなった。前は小さな音でも遠吠えまでしていた  のに。こいつが年を取ったのか、よく聞く音で慣れたのか。


  八月五日

   雨だった。雨は好きだ。傘で顔を隠せるから。


 ……結構詩人だな、私。高校生の頃の日記の一部だ。

 今読んでみると恥ずかしい。となるだろうと思っていたが、案外そうでもない。むしろこの頃の私をほめてやりたいほどだ。まさか、こんなに早くに死ぬ準備をすることになるとは、思っていなかった。これは遺品整理だ。なぜなら、今の私は死んでいるも同じだからだ。誰とも干渉できない、なんの役にも立たない。そんな人間は、もはや死んでいるのだ。

 ふと、今朝のことが頭によぎった。

「あれ?私、なんで外がサイレンでうるさいってことに気づいた……?」

 不思議だった。救助隊員の声は何一つ聞こえなかったのに。その矛盾に希望は隠れているのだろうか…。


――――


午後九時

 本当に来てしまった。アパートの周りに集まっていたやじ馬は、今はもういない。どんなに珍しいものでも、人は変化のないものにはこんなに早く興味をなくすものなのか。

救助隊員も、さすがに今日は引き上げはじめている。俺だけだ。こんなに長く強くこの事態に興味を持っているのは。

 しかしこれを誰もがほっておくわけがない。明日にはまた救助が始まるのは自明なことだ。つまり、これが最後のチャンスかもしれない。俺があの部屋に入ることができるか試す最後のチャンス。なぜだか知らないが、俺だけはあの部屋に入れるのではないかという思いがあるのだ。階段を、上り始めた。


――――


午後五時

 考えていた。なぜサイレンの音が聞こえたのか。サイレンだけではない。よく意識して耳を立てると、実はいろんな音が聞こえていたのだ。犬や鳥の鳴き声。風の音。そして多分、人の声。聞こえていたのだろうか…。聞こえていたのかもしれない。でも、少なくともあの救助隊員が何を言っていたかは覚えていない。どういうことだろうか……

 考えていた。しかし、希望は出てこなかった。いくら考えても結局、現状は何も変わっていないというのが現実だ。最後には「わからない」に戻ってくる。

 考えても仕方がないということだ。ひと眠りして起きればすべて解決しているだろうか。いや、それよりも本当にすべてを解決する方法がある。もう少し待ってみて、それでも何も変わらなければそれを実行してしまおう。

 私はどのみち孤独だ。友達もいなければ恋人だってもちろんいない。仮にここから解放されたとしても、孤独のままだ。今、私は死んでいるも同じだと言ったが、それは同時にいつでも私は死んでいるも同じだということを自ら暴露してしまったということだ。そんな生なら。

 もう死んでしまおう。


――――


午後八時

 幸いにも、丈夫なロープがあった。


――――


午後九時

…………………。


――――


午後九時三分

 少しの間、ドアの前で考えていた。ドアが開いたとしても、もしも殺人鬼が侵入していて、女性が殺されていたとしたらどうする。もしも、誰もいなかったらどうする。

 いや、考えても仕方ないじゃないか。もう嫌というほど考えた。でも、何もわからなかったじゃないか。

「よし」

 たった一言、しかし力強い一言で決意を固めた。ドアノブを回してみた。

 ドアが開いた。

 真っ暗な小さなワンルーム。それでも外からの光で玄関に入るとすぐに全体が見渡せる。

「窓は曇っていて光は入らないはずなんだけどな」

 その時、人影が見えた。

「おい!無事か!?もう大丈夫……」

 もう大丈夫だぞ。と言いかけた。でも、そんな声が届くはずがない。彼女は壁にぶら下がったロープに身を委ねている。

 一歩遅かった。それだけだ。

 彼女はなぜ自ら命を絶ったのか。それは俺にはわからない。彼女は最期に何を想ったのか。それも分からない。しかし、彼女の死に顔を見ると一つだけわかることがある。彼女の死を悲しむ人は、数人もいないんだということだ。

 着々と、意識が遠のいていく。私はもう死ぬ。確実に。でもやはり、気は楽だ。今までの、人生の中で、一番、楽。

 死ぬって、こういうことか。こんな感覚か。何も、得られたものなんて、なかった、私の人生。しかし今、一つの、確信が得られた。どこにも、書き遺せない。その代わりに、せめて、締まる首を、堪えて、声を出す。

 ああ、これが自由というものか。


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