第七十八話
違う、そんなはずない。
セナは、直感を理性で否定しようとする。
こいつは姿形を使っているだけの『邪悪なる者』。
アレーナではないんだ……
そう、頭では分かっているはずなのに。
なのに、何故?
こちらを覗く碧の瞳はとても澄み切っていて……
今、自分を抱く彼女は……
アレーナなのだと、感じてしまう。
「怪我はないか?」
「……うん」
セナは、静かに頷く。
「そうか、ならいい」
そう言って、彼女はセナを降ろす。
そして、それ以上を語ることなく、聖域の奥を目指して歩き始める。
「待てよ……おまえ……何するつもりだ?」
信じたくはない。
けれど、もし自分の感覚が間違っていないのだとしたら……
「ここに霊脈があることは知っている。
以前来た時に、エデンが感知していたからな」
「エデン……が……?」
その言い方、まるで自分は『エデンではない』と言っている様だ。
彼女は歩みを止め、半身を返してこちらを見る。
「セナ、君はここに居た方がいい。
巻き込みたくはない。
……セインと戦うことは、避けられないだろうが」
愁いを帯びた顔で、俯く。
セナは確信する。
今の彼女は、アレーナだ。
そして、理由は分からないが、今アレーナは……邪悪なる者『エデン』に協力している。
いったい、どうして……? 困惑するセナ。
その時、アレーナは俯かせていた頭を跳ね上げる。
そして口の両端を吊り上げて、邪悪な笑みを浮かべるのだ。
「悪いけど、キミの望みは叶えられなくなった」
直後、目を見開いて驚いた表情に『切り替わる』アレーナ。
「……! やめろエデン、セナを巻き込むな!
分かるだろう? 今の彼女は、心が不安定だ!」
「だ、か、ら、好都合なんだろう?」
そんなやりとりを一人でした後、金髪の少女はセナに迫る。
「キミを尊重はするけど、この肉体の主導権はワタシにある」
一歩、また一歩と彼女が近づく度、身の危険を感じて後ずさるセナ。
しかし、気がついた時には壁際まで追い詰められていた。
アレーナは、壁に背中をつけたセナの真横に手をついて、逃げ場を塞ぐ。
少し高い所から、セナの顔を見下ろし、怯える彼女の瞳を見つめる。
そして、落ち着かせようとでもしているのか、冷たい手で頬を撫でる。
その手をセナの顎に当て、クイっと顔を上げさせる。
「そう怖がらないで。
勘違いしないで欲しいんだけど、傷つけるつもりはないんだよ?」
先程見た澄んだ碧とは違う。
深く、昏く、吸い込まれるような……蒼。
アレーナじゃない。こいつはエデンだ……そう確信する。
気を許してはいけない、そう思いつつも……
その瞳に、深い闇の中に、飲み込まれてしまいそうになる。
エデンは顎から手を離し、指先で首筋をなぞり、胸の真ん中に指を突き立てる。
「ここ……大分溜め込んでるみたいだね。
その想い、秘めるよりも、伝えてあげたら?」
耳元で囁かれるその声は……甘く、溶けそうになる。
抗えない。
胸の奥底に押し込んだ黒い靄が、彼女の指先に吸い寄せられるように、引き出されてしまう……
「セナ!」
声が聞こえた。
愛しい人の声。
ああ、どうか……どうか近づかないで欲しい。
そう、セナは願った。
抑えきれない。
自分の想いが、願望が、欲望が。
それはあなたを傷つける。
自分の醜さを見て欲しくない。
「……! エデン、どうしてここに?」
「どういうことです? 今の今まで、感知できなかったなんて……!」
──ああ、来てしまった。
セイン……そして、シエラ。
シエラ……なんでお前がそこに居る──
「ワタシの目的は分かっているだろう?
そんなことより、彼女。
キミに伝えたいことがあるそうだよ?」
「セナ? お前、セナに何をしたんだ!」
「別に? ただ、ちょっと背中を押してあげただけ、だけど?」
エデンはセナの肩を抱き、セイン達の前に連れ出す。
「さあ、想いを伝えておいで」
セナの耳元に顔を寄せ、そっと囁くエデン。
水色の眼が、シエラを睨む。
「離れろ……」
セインは、空気の震えを感じる……
肌のヒリつく、この感覚。
これは、クウザの時と同じ……!
「セナさん! 怒りに飲まれてはいけません!」
シエラの呼びかけに、セナが応じる気配はない。
その怒りは……彼女に向けられたものだから。
「そこに居ていいのはあたしだけ!
セインの傍から、離れろォオォォォォォ!!!!!!」
彼女の慟哭に呼応するように、大地から湧き上がる闇が、セナの身を包んでいく。
燃え盛る炎のように、肥大化していく『闇』。
大地から生える、女性型の上半身の巨体。
どこか彼女の面影を残しながらも、その髪と腕は、無数の蛇となってセイン達に襲い掛かる。
セインは剣を取ろうとするが、一瞬、躊躇う。
分かっている。
助ける為には、戦わなければいけないと。
しかし、それでも……彼女に剣を向ける覚悟を、決めるのが遅れた。
その一瞬の隙に、セナから放たれた蛇に噛まれ、セインは気を失う……
倒れるセインを包むように、蛇たちは彼の体に巻きついて、セナの胸元まで運ぶ。
そして、彼女の胸元から新たに生えた蛇たちが、セインを体に縛り付けた。
一方、シエラには明らかな敵意を見せる。
逃げ場のない方向へ彼女を追い詰め、四肢と胴体に巻きついて、強く締め付ける。
四肢をもぎ、胴を折ろうとしているようだ。
「……へぇ。
想像以上、だね……これは……」
エデンは変貌したセナの姿を見上げ、少しひきつった笑みを浮かべる。
「まぁ、あとはよろしく」
聖域の奥へとエデンは向かおうとする。
……が。
「……あれっ?」
セナの『手』は、エデンさえ捕らえてしまう。
「想像以上というか、ドン引き……だね、これは。
ワタシさえ手に余るとか、想定外」
「だったら、セナさんを元に……戻し……なさい……!」
シエラは、抵抗しながらエデンに呼びかける。
「……できない」
「なん……ですって……!
この期に及んで、なにを言って……!」
「あのね? こう言ったらなんだけど、ワタシって穢す側だろう?
浄化するのは勇士の役目であって、元に戻すとか、ワタシに出来るわけないじゃないか」
「……ハァ?」
シエラの額に、青筋が走る。
「まあ、操るくらいは出来る……と思ってたんだけどね。
ここまで邪気が強まると、無理みたいだね
そもそもさ、支配関係が違うんだよ。
キミ達、ワタシを『力』と『意思』に分断して封印しただろう?
ワタシは『意思』の方で、大地に流れ出した『力』を回収して存在を強めているワケ。
これもその一環。
霊脈と結びつきの強い存在に、源素に流れる『力』を注いで、ワタシの元に回収する。
少量なら、ワタシの方が支配できるしね。
……ただねえ、この長い年月で、源素と結びついた『力』の方が強くなりすぎちゃってる。
もしこのまま同化したら、ワタシは『力』の方に飲まれてしまう。
それが嫌だから、霊脈に楔を打って力関係を逆転させようと……」
「ふっざけんな……」
低く、ドスの利いた声が、エデンの言葉を遮る。
そして、ギチギチ……と何かが引っ張られる音。
不思議に思ったエデンが、シエラの方を見る。
すると彼女は、歯を食いしばり、拳を強く握り締めて、自分に巻きつく蛇に抵抗を始めていた。
「オデンだかなんだか知らねぇが、大げさな名前を名乗りだしたと思えば……
アタイの縄張りで……好き放題やりやがって……
その癖、『自分じゃどうにもなりません』だァ……?」
一匹、二匹……彼女に巻きついていた蛇の胴が千切れていく。
「ふざけんじゃ、ねぇぞォ!!!!!!!!!!!!!!」
鼓膜を突き破るかのような叫び声が、聖域に響き渡る。
それと同時に、彼女に巻きついていた蛇が、バラバラに千切れとんだ。
ズン……と重々しい音を立てて着地したシエラ。
彼女は立ち上がって、羽衣を脱ぎさる。
胸にはサラシ、下は大胆に太ももが露わになった、丈の短いスパッツ。
脱ぎ去られた羽衣は一本の紐に変化し、彼女の長い髪を纏める。
穏やかな印象からはかけ離れた、武闘派の肉体。
開眼したその目は、エデンを見据え……飛ぶ。
飛び上がったその先で、踵を頭よりも高く上げ……風を切るように振り下ろす。
そうして、エデンを捕らえた蛇を断ち切った。
二人そろって着地すると、エデンは不敵に笑う。
「ああ、そうだよね。
キミって、そういう激しい奴だった。
なんだか違和感あると思ったよ」
「黙れ。
一つ『貸し』だ。
まずはセインを助ける。手を貸せ」
「断る……訳には行かなさそうだ。
分かってるよ。
ワタシもバカじゃない、『アレ』とキミの二人を、纏めて敵に回す気は無いよ」
「昔よりは聞き分けがいいな、テメェも。
終わったら一発ぶん殴るから、覚悟しておけ」
「ねぇ、それって貸し借りの差し引き足りてるかい?」
睨むシエラに、「まあ、いいけど」と肩をすくめるエデン。
彼女から目を逸らし、セナに視線を逃がす。
「さっさと借りを返しちゃおうか」
「逃げよう、とか考えるなよ?」
「もちろん。
借りを返すまでの間はね?」
シエラは拳を。
エデンは自ら生み出した槍を。
それぞれ、構えた。