第七十三話
王都。
クロムが初めて訪れた、ヒトの世界。
その数の多さに当てられて、頭がくらくらとした。
聞こえる音、感じる視線。
それらを過敏に感じ取ってしまったのだ。
「本当にごめん、そこまで考えてなかったよ」
項垂れるクロムを背負いながら、謝罪するセイン。
自分はずっと誰かと一緒に居たからか、気にしていなかった。
だが、思えばクロムはこれまでほとんど一人で過ごしてきたようなもの。
その上、感覚が優れているのだから、こうなってしまうのも仕方がない。
クロムは、「うぅ~……」と元気無さそうに唸りながら、顔を上げる。
「ちがうんだ……なんか、クロム弱くなってる気がする」
「どういうこと?」
「どれ、ちょっと見せてみよ」
セイン達は道の脇に移動する。
そして、ルーアがクロムの様子を確かめる。
「……これは……!」
「どうしたの?! クロム、どこか悪いの?」
「腹をすかして……弱っておる」
「……そんなこと?」
ルーアが大袈裟に驚くから、何事かと心配したセインだったが、拍子抜けしてしまう。
だが、彼女はふざけた様子ではなく、真剣な面持ちだ。
「これは『そんなこと』程度の話ではないぞ。
クロムは本来、竜と同様『源素』を糧にしている。
空腹など起きるはずないのだ」
「……そっか。エデンに、霊脈を奪われたから」
本来、地上に流れ続ける『源素』。
その発生源である『霊脈』を邪悪なる者……エデンに奪われてしまった。
その影響の一端が、ここに現れた。
「ひとまず何か食わせよう。
しばらく人間で居ることだな。
竜に替わる時に、大きく力を使ってしまうはずだからな」
「分かった。
クロム、もう少し待ってね」
クロムは、セインに力なく頷く。
セインは再びクロムを背負って、進む。
「これだけでは済まない……はずだ。
あまり時間は残されていないだろうな」
ルーアは深刻な表情で、そう呟いた。
*
それからしばらく、セインの背中で揺られていたクロム。
ある時、いい香りが鼻を抜ける。
何かが焼けた、香ばしい匂い。
魚……とは違う。
嗅いでいると、ほんのり、とろけるような……そんな匂いが混じってる。
力の入らなかった体に、少しずつ元気が湧いてくる。
「セイン! これ、なんの匂いだ!」
セインの肩からグイっと顔を出して、クロムは尋ねる。
「少し元気出てきた?
もうすぐお店に着くから、ちょっとだけ待ってね」
もったいぶるセインに、クロムは不満でちょっと頬を膨らませる。
だがその反面、期待で胸がドキドキと高鳴っていた。
そして、匂いを最も強く感じる場所へ着く。
これが『お店』というやつだと、クロムはすぐに分かった。
セインが戸を開くと、中に閉じ込められていた香りが一気に広がる。
クロムは、気だるかった体に活力が流れ始め、セインの背中から飛び降りる。
セインの横をすり抜けて中へ入ると、そこには薄茶色の塊が沢山並んでいた。
漂ういい香りの正体はこれのようだ、とすぐに分かった。
まん丸だったり、縦長だったり、何かが挟んであったりと、見た目も様々。
見るだけでも楽しくなり、クロムは胸が高鳴る。
「セイン! これはなんだ?」
「パンだよ。お腹が空いてる時、まずはこれかなって。
この中から、食べたいモノを選んでね」
「どれでもいいのか!」
キラキラと、赤と金の瞳を輝かせるクロムに、セインは微笑んで頷く。
さて、クロムに選ばせている間に……と、セインもこれから城に向かう手土産を選ぼうとしていた。
「あら、また来てくれたんですね」
店の奥から足早に出てきた女性が、声を掛けてくる。
この店にいると、いつも顔を合わせる店員だ。
「ひさしぶり!
この間貰ったパン、美味しかったよ!」
「それは良かった。
今日もお土産を買いに?」
「うん。それとあの子の分をね……って、ああっ!」
とクロムを紹介しようと振り向くと、彼女は手に取った一斤のパンをそのまま口に運ぼうとしていた!
「ちょっと待ってクロム!」
セインに声を掛けられ、驚きで体を震わせるクロム。
「食べるのは、お会計のあとで……ね?」
「おかいけい……?」
「えっと……食べるのはお店を出たあとっていうか……」
「食べちゃダメ、なのか?」
クロムは見るからに落ち込んで、肩を落とす。
セインはそんな彼女を見て、すぐに自分が間違えた事に気がつく。
だが、どう言葉をかけてあげるべきか分からず困っている所に、店員のお姉さんが助け船を出してくれた。
「いいですよ。
お腹空かせてるの、見て分かるもの。
おあずけされたら辛いもんね?」
「……いいのか?」
クロムは顔を上げてお姉さんの方を見た後、セインに許しを求めるように目を向ける。
「お姉さんがいいって言ってくれたから、いいよ。
でも、それ一つだけ。
あとは、お店を出たあとで……いい?」
クロムは、ブンブンと大きく首を縦に振る。
そして、二人に見守られる中でパンに噛りつく。
小さな口いっぱいに頬張って、幸せそうに顔を綻ばせる。
「ありがとう、気を使ってくれて」
「いいんですよ。
それだけ、うちのパンが美味しそうだったってことですから」
そう言って、お姉さんはクロムを見て微笑む。
「この子、お仲間ですか?」
「うん。
色々あって、人里に出てきたのは初めてでね。
教えてあげなきゃいけないこと、沢山あるんだけど……
まだまだ、うまく伝えられなくて」
「責任重大、ですね。
でも、だからかな……」
お姉さんはセインの顔をよく見る。
「お客さん、前に会ったときよりも、少し大人っぽくなりましたね」
「そう、かな?」
セインは少し照れくさくなって、はにかんだ。
それから、買い物を終え、店を出たあと。
セインはクロムに伝える。
「人はね、自分の欲しい物を貰うかわりに、相手の欲しい物を渡すんだ。
そうでないと、奪いあいになって、争いが起きるかもしれない。
それは、クロムも嫌だよね」
「そうか、それは……嫌だな」
「だよね。
だけど、みんながみんな、お互いの望む者を持ってるとは限らない。
だから、代わりに『お金』がある」
「お金……さっきセインがあの女に渡してた、キラキラしたやつか?」
クロムは、しっかりとそういう所を見ていたらしい。
セインは「そうだよ、よく覚えてたね」と、頭を撫でてやると、彼女は満足げだった。
「自分の欲しいものを、お金と交換して、相手はそのお金で、自分の欲しいものを誰かと交換する。
そうやって、今の人の世界は成り立ってるんだ。
……分かった、かな?」
「セインがお金を渡すまで、食べちゃいけない」
「うん、今はそれで充分。
よく覚えたね」
セインがぽんぽんと、頭に手を置くと、クロムは誇らしげに胸を張った。
それを傍から見ていたルーアは、思いを馳せる。
「変わったな。あやつも」
知らない時間が、彼を大きくした。
ルーアからすれば、頼もしくなったと思えるが……
「セナは、どう思うのだろうな」
誰よりも近くで、長い時を共に過ごした彼女は、今の彼を誇るのか……それとも……
「おーい、ルーア行くよ!」
「ああ、分かった」
ルーアは、そんな思いを自分の胸の内に留めて、城に向かうセイン達を追った。