第七十二話
セインが目覚めたのは、鼻先にツンとくる風を感じたからだった。
何か、空気がおかしい。
肌がヒリヒリとする、嫌な感覚。
クウザとクロムは、寄り添って眠っている。
彼らは大丈夫。
そう判断したセインは、異変を感じる方向へと駆け出す。
この方向には、覚えがある。
まだぼんやりとする頭で、思い出す……
*
「……霊脈! ルーア!」
クウザは救えた。
だが、まだ終わりではなかった。
ルーアは一人、邪悪なる者と戦っていた。
はち切れそうな心臓に鞭をうち、セインは駆ける。
一刻も早く、彼女の元へ。
……だが、すでに手遅れだった。
霊脈に辿り着いたとき、ルーアは既に満身創痍。
対して、邪悪なる者はセインを見つけて微笑みかけてくる余裕をみせた。
「そっちは終わったかい?
ちょうど、こっちも終わる所だよ」
「なにを……する、つもりだ……!」
息が切れ、呂律も回らない言葉で、問いかけるセイン。
「この霊脈の力を、私のものにするのさ」
そう言って、手の指先、そして下半身から、黒い蔦のようなモノを伸ばし、地に根を張っていく。
感じる。
霊脈の力が、彼女の体に流れていくのを。
そして、彼女の纏う茨の鎧から枝が伸び……
まるで樹木のように太く、大きく、成長していく。
空を穿つほどに高く伸びた、黒い樹木。
その時、感じた。
風向きが、変わった。
霊脈から流れていた風の力が、『負』のものに変わってしまった。
霊脈が……彼女に奪われたのだと、直感した。
「私は、ここに告げよう」
黒い樹の幹から現れる、邪悪なる者。
金色だった髪が、深い緑に色を変えていた。
「今こそ、私はこの世界と一つとなり、すべてを闇に塗りつぶす」
高みからこちらを見下ろし、挑発的に笑む。
「なにも感じず、考えず、争うことはない。
誰も傷つかない、静寂の世界を私は創造する。
我が名は『エデン』。
『理想郷』の創造主となる者だ」
「ばか、な……そんなものが、理想郷、だと……?」
よろめきながら立ち上がり、まだ闘志を見せるルーア。
だが、そんな彼女のことなど歯牙にもかけない様子の『エデン』。
「我が理想郷を否定するのなら、止めてみせるがいい。
出来るものなら、な」
エデンが指を軽く弾く。
ただそれだけで、立っていられない程の突風が、セインとルーアに向かって吹きつける。
吹き飛ばされ、倒れたセインに向かって、エデンは告げる。
「また会うとしよう。
それまで体を休めておきなよ、セイン」
そう言い残して、エデンはどこかへ飛び去って行く。
見逃された。
『エデン』と名乗った邪悪なる者には、敵わない。
残された二人が感じたのは、その無力感だけだった。
*
セインの朦朧とした意識がハッキリとしたのは、口の中に無理矢理なにかを突っ込まれたからだった。
じょりじょりとした、良くない舌触りと、苦みが口の中に広がる。
セインは、思わずむせた。
「うへっ、なにこれ……」
「魚だぞ? なにかダメだったか?」
目の前に居たのは、クロム。
真っ黒に焦げた塊を手にして、こちらを覗き込んでいる。
「腹、減ってるかと思って」
「ありがと……焼き方、あとで教えるね」
どうやら見様見真似で魚を焼いたらしい……が、明らかに焼き過ぎだ。
とても食べれるものじゃないが、それでもクロムの心遣いに、少し元気が出た。
自分の両頬をかるく叩いて、立ち上がる。
「落ち込んでる場合じゃ、ないよね」
クロムに支えられながら、ルーアの元まで向かう。
そちらでは、クウザがルーアの体を修復していた。
「ひどい有様じゃな」
「お互い様に、ね」
セインとルーアは互いを見合う。
「僕たちだけじゃ、敵わなかった」
「ああ、だが諦める気は無さそうじゃな」
「当然」
互いの目に、光が失われていないことを確かめて笑いあう。
「だが、どうする? 霊脈は奴に押さえられてしまったみたいだけど」
そんな二人の間に入ったのは、クウザだ。
「勇士の剣の魔力、セインでは賄いきれないんだろう?
奴とどうやって戦う?」
「元はと言えば、おまえが奴に洗脳されなければ、こんなことにはならなかったわい!」
厳しい態度のクウザに、悪態をついて蹴りつけるルーア。
「それについては申し訳ないけど……
でも、こうなってしまった以上、避けては通れないだろう?」
反省故か、蹴りは受けとめながらも、しっかり反論する。
ルーアも、それについては思う所があるようで、眉間に皺を寄せて項垂れる。
「まあ、すぐに答えがでないことを悩んで立ち止まっても仕方ないよ。
まずは、今出来ることをやり続けよう。
そうしたら、答えも見つかるかも」
「今、できること?」
セインは、自分の顔を見上げるクロムを見返して、微笑む。
「ごはんにしよう!」
その言葉に、クロムも力強く頷いた。
ルーアは一瞬拍子抜けしたが、「それもそうか」と受け入れて、胸の内に溜まったモヤモヤを、ため息として吐き出した。
「そんなことで、いいのかねえ」
まだ納得のいってなさそうなクウザに、ルーアが語りかける。
「いいんだ。
綺麗ごとから希望を創るのが、若者の特権だからな」
「……そういうものかね」
楽しそうにごはんの準備をするクロムの姿を見ながら、「まあ、それでもいいか」とクウザは呟いた。
*
それから丸一日。
セインも立ち上がれるようになり、竜の渓谷を発つことに。
ただ、クウザはこの地に一人、残るようだ。
「私はここで、霊脈を取り戻せないか試してみよう。
あの木を、なんとかできればいいが……」
と、霊脈に聳え立つ黒い樹木を見上げるクウザ。
そのあと、セインを見て軽く手招きする。
「キミが私の中で見た事、クロムには言わないでくれ。
あの子は、知らない方がいい」
そう、クウザはセインに耳打ちする。
「うん、分かってる」
と、セインも頷くのだが……
「二人でなんの話をしている?」
いつの間にか傍に居たクロムが、二人を見上げて問いかける。
「えっ、いや……これは、男同士の、大事な話……みたいな?」
「クロムもその、男同士の大事な話がしたい」
「でもクロムは、女の子だから……」
「女の子は出来ないのか、大事な話……」
セインは咄嗟に誤魔化そうとしたが、クロムには通じなかった。
「できなく……ないです……」
シュンとするクロムを見て、耐えきれなかったセイン。
仕方なし、とばかりにクウザが腰をかがめる。
「何か、話したいことがあるのかい?」
クロムはセインの袖を握りながら、不安げにクウザを見上げる。
「クウザは、クロムを恨んでいるか?」
「……どうして、そんなことを?」
「セインの見たものが、クロムにも見えてた。
それで……」
男同士の大事な話、はそもそも意味がなかったらしい。
セインとクウザは、互いの顔を見合わせて苦笑いする。
それから、クウザは更に身を屈めて、俯くクロムの顔を覗く。
「キミは、お母さんによく似ている」
不安で震えていたクロムの頬をクウザは優しくなでる。
「たとえ魂は遠く離れても、おまえの中に彼女は生きてる。
それで、充分だ」
「許して、くれるのか?」
「そもそも、恨んだことなんてないよ。
私達の、かけがえのない娘なんだから」
そう言って、クウザは立ち上がり、海の向こうを指差す。
「行きなさい。
それが、キミのお母さんの……願いでもあるんだから。
……ああ、でも……」
優しく微笑みかけて、クウザはこう続ける。
「たまに顔を見せておくれよ?
でないと、寂しいからね」
「……ああ、分かった!」
そう、力強くクロムは頷く。
……水平線に向かって小さくなっていくクロムの姿を、クウザは見つめ続けた。
恨んだことは、ある。
他でもない、自分自身を。
けれどそれは、クロムを……そして、命懸けでクロムを生んだ彼女の想いを、否定することだと気づいた。
だからこそ、自分も命をかけてクロムを守り続けた。
その中で、クロムを手放したくない気持ちが無かったとは言えない。
それがきっと、邪悪なる者に利用されたのだろう。
名残惜しくはある。
だが、旅立つ瞬間のクロムは、今まで見たどんな時よりも、美しく輝いていた。
「いつか、もっと強く、美しく輝くその時を、楽しみにしているよ」
クウザは、清々しい笑顔で彼女の旅立ちを見送った。