第七十一話
《クウザ! クロムの声を、聞け!》
悪魔を相手に暴れるクウザに、そう呼びかけた時。
彼は一瞬、動きを止めた。
セインの言う通り、言葉が届くかもしれない。
一縷の望みをかけて、自分よりもずっと大きな存在に挑む。
どうやったって、力比べで敵うはずがない。
ただ、彼の興味がこちらに向けば、それでいい。
《クウザ、聞こえるか?
クロムが来たぞ!
声、届いているか?》
クウザは、クロムをじっと見つめ、呻く。
そして、行き場のない衝動をぶつけるかのように、辺りの岩場を殴りつけ、砕く。
きっと、クウザの中で戦っているんだ。
クロムはそう思う。
クロムは飛び上がり、クウザの意識が自分に向くように、目の前を飛び回る。
《ついてこい、クウザ!》
そして、セインとの約束の地に向かう。
それは、あの岬。
自分の、唯一の居場所だった地。
二人だけの場所だった。
余計な邪魔の、入らない場所だ。
《クウザは、ここにクロムを連れてきて、守ってくれた。
クロムが、誰にも傷つけられないように。
……そうだろう?》
彼の赤く染まった瞳を見つめ、クロムは心に呼びかけ続ける。
《クウザ、苦しいんだろう?
大丈夫だ、ここにいればお前は誰も傷つけない。
ここで、今度はクロムが守る!》
クウザは頭を抱えて、雄叫びを上げる。
その直後、クロムに覆い被さるように彼女を押し倒す。
大きく口を開き、首筋に食らいつこうと迫る……
が、口先が喉元に触れる寸前で、クウザは歯を食いしばる。
クロムは、怖かった。
自分よりも二回りも大きくて、強い力に押さえつけられて、抵抗できないから。
そして、思うのだ。
きっと、それはクウザも同じなんだ……と。
《お前は、凄い。
自分の中で、ちゃんと戦ってるんだな。
クロムは、悔しい……
自分が弱くて、だ。
クロムだけじゃ、クウザを助けられない。
それでも!》
それでも、クロムは前を向く。
弱くても、出来ることはある。
《今できるのは……信じることだ!》
クウザの背後に浮かぶ人影に向かって、クロムは叫ぶ。
《行け、セイン!》
風に高く舞い上げられたセイン。
クウザの背中に飛び降り……勇士の剣を突き立てる!
苦しみ、もがき始めるクウザ。
振り落とされぬようにとしがみつくセイン。
だが、激しい抵抗に耐えきれず、振り落とされてしまう。
クロムは、この隙にクウザの拘束から逃れ、落ちていくセインを助ける。
《セイン、大丈夫か?》
「ありがとう、クロム。平気だよ」
《そうか、良かった……》
安堵したのも束の間。
二人の視線はクウザに向く。
息を切らし、うなだれている。
セインのやったことは、効果があったようだが……
《今、クウザに何をしたんだ?》
セインは、勇士の剣と、それを握る紋様の浮かぶ右手を見つめて答える。
「邪悪なる者と、逆のことを出来ないかなって」
《どういうことだ?》
「あいつは、善意を悪意に反転させたって言ってた。
ならきっと、逆のことも出来るはず。
勇士の剣は、魔力を求めてる。
これで、クウザを支配してる邪悪なる者の源素を吸い上げて、
僕の『勇士の力』で反転させる」
《分かった、クロムは何をすればいい?》
「クウザの魂が完全に蝕まれたら治せない。
とにかく、クウザが負けないように呼びかけて欲しい……
それが出来るのは、クロムだけだ」
互いの目を見合わせて、頷き合うセインとクロム。
クロムは、セインを自分の頭に乗せ、浮かび上がる。
《セイン、今のままじゃ、また振り落とされる》
「そうだね、なんとかしないと……」
《だから、クロムの力を貸す。
クロムに、任せてくれるか?》
「もちろん」
そう答えることに、迷いはなかった。
何をするのか分からなくとも、彼女が必要だと思ったのなら、ただ信じるだけだ。
「どうするの?」
《クウザの上まで飛んでいく。
そのあとは、クロムに身を預けろ》
「分かった!」
その返答で、クロムはクウザの真上へ向かって飛ぶ。
そして、うずくまるクウザの、遥か上空。
そこで、クロムは人の姿へと……替わる。
大地に引かれるままに、落ちてゆく二人。
その中で、クロムはセインと正面から向かい合う。
肩を掴み、身を寄せる。
自分の額を、彼の額へと近づけていく。
互いの肌と肌が触れ合い、目を瞑る。
呼吸が伝わる。
熱が、伝わる。
鼓動が伝わる。
そして、クロムは囁く。
「我ら今、一陣の風とならん」
……クウザは、自分の遥か頭上を見上げた。
防衛本能が、訴える。
『ハイジョシロ』
体は反射的に動く。
肺が膨らむほどに空気を取り込み、息吹として吐き出す。
外敵を排除するために。
だが、それは突然吹き荒れた突風に打ち消される。
そして、風を纏って降り立つ閃光。
銀色の体表が、より輝きを増した……竜のクロム。
そしてその頭の上に、髪と瞳が新緑に染まったセインの姿があった。
《セイン、左側の首筋を狙え。
……そこが、一番もろいはずだ》
「分かった」
たしかに、クウザの首筋の左側……そこから胸にかけて、ひときわ強く闇が覆っていた。
つまるところ、それだけ補わなければいけなかった部分、ということ。
その闇を払えば『もっともクウザに近い部分』が露出するはず。
セインは勇士の剣を背負う。
そして、腰の左側に携えた剣『エスプレンダー』に手をかける。
遠く離れた一点を見据え、構える。
……一歩、踏み出す。
すると、空を吹き抜ける風のように、その距離を一瞬で詰めていく。
そして、一閃。
鞘から抜き放たれたエスプレンダー。
その白金の刃が、クウザに纏わる闇を切り払う。
全体から見れば、ほんの僅かな、小さな切れ間。
それでも充分。
クウザの体に飛び移り、再び勇士の剣を突き刺す。
勇士の剣が吸い上げる負の力が、体を巡りだす。
激痛が、セインを襲う。
それは、血管を茨の蔦が這っていくような……
流れるだけで、棘が体を傷つけていく、そんな感覚が常に走り続ける。
はち切れてしまいそうな痛みに歯を食いしばって、浄化を始める。
負の力を、正の力へ。
自らを傷つける『棘』を削っていく。
そして、エスプレンダーを突き刺して、クウザの体へ流し込んでいく。
分かっている。
人間の身一つでは、竜の体を覆う巨大な闇を受け止めきれないだろう。
だから、もう一人。
セインを拒絶しようともがくクウザ。
そんな彼に、クロムが飛びつく。
白金に輝く爪を突き立て、クウザの腹部に食い込ませる。
そして、大顎を開いて、首筋の傷に食らいつく。
クロムはクウザに光を流し込む。
クロムは、セインの『光』を受け取った。
一人に出来ることは小さくとも……
二人でなら、より大きな力になる。
クロムも加わったことで、クウザの抵抗は大分鈍くなっていた。
セインは目蓋を閉じ、意識を『内』に集中させる。
負の力を正の力に変えて、クウザに流す。
これだけでは、恐らく元には戻せない。
セインはそう感じていた。
必要なのは、もっと根本的なこと。
『クウザ自身』が、この闇から抜け出すことだ。
だから、こうして『クウザの一部』となり、内側に意識を向ける。
そうして、囚われたクウザの魂の元へ向かおうとしていた。
これは、以前使っていた『憑依』の応用。
他者の魂を自らの身に受け入れるのではなく、自らの魂を他者の器に移す。
ここからは時間との勝負だ。
魂を失った肉体は、次第に『生きるために行っていること』をしなくなる。
呼吸が止まり、心臓の鼓動が弱まり、血流が止まる。
肉体が、死んでいくのだ。
そうなればセインは戻れない。
『クウザの一部』として、セインの肉体が機能している内に、クウザの魂を救いださなければいけないのだ。
クウザの中に入ると、怒りや憎しみといった感情が……ドス黒く、波のように押し寄せる。
その圧倒的な感情の波で、前に進めずにいた……
だがその時、一筋の光が僅かな道を切り開いていく。
これは恐らく、クロムが流し込んだ『光』。
セインはクロムに感謝して、前へ進む。
《許さない》《お前には渡さない》《あれは私のもの》。
セインを圧し潰さんと迫る感情をかき分ける。
すると、その先には……
《どこにも行くな》《傍に居てくれ》《もう、別れたくない》。
怒りの先にあったのは、不安と、悲しみ。
そして……
ぼんやりと見える、女性の姿。
どことなく、その姿はクロムに似ているように見えた。
その女性は、ひどくやせ細った腕で胸元に赤子を抱いていた。
すやすやと眠る赤子を、起こさぬように差し出して、告げる。
『この子を、お願い。
竜の力を制御して、人の世界で生きられるようになるまで』
両手でそっと、差し出された赤子を受け取り、抱き寄せる。
赤子を渡すと、女性は力なく腕を落とす。
『ああ、それまで必ず私が守るよ。
そして、いつか必ず、また君の元に……!』
返事は無かった。
彼女は微笑みながら、こちらを見るだけだった……
今触れたのは、クウザの記憶。
そして、あの赤子は恐らく、クロム。
《私が、殺した》
振り向くと、真っ黒な塊がこちらを見ている。
《私が関わらなければ! 愛さなければ!
彼女が死ぬことはなかったのに!》
黒い塊は、次第に形を変えて竜となる。
《もうこれ以上、失いたくない。
誰にも、クロムは渡さない!》
彼の怒りが風となって襲い掛かってくる。
セインの全身を切り刻まんと吹き荒れるかまいたち。
それを受け止めながら、セインは思う。
「違う……」
《違う? 何がだ!》
「たしかに、後悔することは、あるのかもしれない……
だけど、それはクウザの本当の心じゃない!」
向かい風を払い、追い風を巻き起こすセイン。
《分かったような口を利く!》
「全部は分からない!
でも、一つだけ確かなことがある!」
セインは追い風に乗って、クウザの懐に潜り込む。
そして、竜巻を纏った拳で黒い竜の胸を突き抜ける。
「今の記憶を見て、はっきりと言える!
僕の前でクロムはずっと、人の姿でいた!
竜の力で、僕を傷つけることはなかった!
それは、クウザが守り続けたから!
クロムを……そして、あの人との約束を!」
薄っぺらい悪意に覆われた、彼の中の善意を探して手を伸ばす。
「辛い想いも、受けた痛みも、とっくに乗り越えてきたんでしょ?
だから、今も抗ってる! それが証だ!」
深く深く、手を伸ばす。
そして、指先に触れた感覚に迷わず掴みかかり、一気に引き上げる。
黒い竜の殻を破り、現れる『クウザ』。
「まったく、切り刻んでやろうと思ってたのに……
余計な借りを作ってくれたねぇ」
そう言いながら、困ったような笑顔を浮かべる。
「借りは早めに返しておくに限る。
人間は、すぐ死んじゃうからね」
などと本心ではない悪態をつきながら、竜の姿へと変わるクウザ。
地上で食らっていたのは、比べ物にならない息吹で、この負に覆われた空間を一気に打ち砕いていく。
「クウザ……凄い……」
と、息を呑むセインの手を引いて、クウザは舞い上がる。
《さあ、早く戻りな。
キミにクロムを任せるんだから、こんなところで死ぬんじゃない》
そう言って、高く高く、セインを投げ飛ばす。
……直後。
脳天に強い衝撃を受けた感覚が、全身に走っていく。
最初に目に入ったのは、夜の闇を照らし出す、日の出の光。
真横には、クウザに食らいつくクロムの姿。
徐々に輝きを失っていくクロム。
それと同時に、セインの身にも力が入らず、視界が揺らいで……落ちていく。
《まったく、死ぬなと言っているのになあ。無茶をするから……》
気を失ったセイン、そしてクロムを抱え、クウザは優しく彼らを地上に降ろす。
《……とはいえ、私も……限界、だなぁ……》
ギリギリの体力で人化したクウザ。
人の姿で眠るクロムの傍へ向かうと、その場で倒れ込み、そのまま意識を失った。




