第六十八話
異層同期体。
一つの魂に、二つの肉体を持つ、特殊な存在。
異なる種族の血が交わることで生まれる。
……ことがあるかも知れないと、言われてきた。
二つの血が交わり、両方の特徴が半分ずつ肉体に現れる混血。
それとは違い、異層同期体は、それぞれの種族の完全な肉体を持っているのだ。
人間が存在する『地上』。
そこから少しズレた『異層』と呼ばれる空間。
そこに、使っていない一方の肉体を眠らせている。
異層に眠る肉体とは常に繋がっており、同時に成長していく。
そして、その者の意思一つで、『切り替え』出来る。
それは、異層より来たりし者達……『天使』、『悪魔』、『竜』が『地上の人間』と子を成せば「現れるかもしれない」と囁かれ続けてきた。
しかし、それはあくまで空想、妄言の類。
上位種達の戯言。
そのはず、だった。
彼女、『クロム』が現れるまでは……
*
銀の竜に『替わった』クロム。
その大きな手が、セインを捕えようと掴みかかってくる。
セインは、その手をひらりひらりと躱していく。
風に舞う布のように。
対処するだけなら容易かった。
彼女はなにも、敵意を抱いているわけじゃない。
傷つけようとはしてこないのだから、身を翻すだけでいい。
──だけど、これじゃ意味がない!──
セインには、クロムに伝えたいことがある。
だが、逃げていては伝えることなどできない。
向き合わないと。
クロムが怒っている理由……
きっと、「ここには居られない」と、そう言ったから。
一人、残されることがきっと不安なんだ。
そんな彼女の想いに、寄り添えなかった。
ちゃんと、向き合えてなかった。
だから……
向き合わ……ない……と?
……どうやって?
正面にそびえ立つクロムを見上げ、セインは額に冷や汗が滲む。
大きさが違いすぎる。
目を合わせようにも、セインが見上げたところで、彼女の下あごしか見えない。
加えて彼女は今、頭に血が上っていて冷静ではないだろう。
話しかけようにも、聞く耳は持ってくれそうにない。
──なら、やることは……二つだ──
彼女の頭を冷やす。
そして、自分を見てもらうこと。
セインは覚悟を決めて、駆け出す。
──逃げたって、もっと不安にさせるだけだ……!
なら、こっちから近づく!──
彼女の足元を目掛けて、まっすぐに。
セインはこのまま、またぐらをくぐり抜けてしっぽに飛びついてやろうとした。
……が、その直前。
クロムは、高めの雄叫びを上げて羽ばたいた。
竜の巨体を浮かせるほどの羽ばたき。
その風圧に、踏ん張りが利くはずもなく……
セインの体は宙を舞った。
風に受け止められ、なんとか背中を打ち付ける程度で着地した。
──なんか、風が冷たい……!──
いつもなら、もっと柔らかく受け止めてくれるはずだが……
なぜだか、少し怒っているような気がした。
《セイン……! お前……お前……!》
クロムが上空からこちらを見下ろす。
……長い尻尾を抱え、体を隠すような、不自然な体勢で。
セインは、そんなところを気に留めず──やっとこっちを見てくれた!──と、呑気に構えているが。
「クロム、聞いて! 話したいことが……」
《この……不埒者ォォォォォォ!》
「えぇっ!?」
羞恥の叫びが、セインの脳を震わせる。
脳が揺さぶられてふらつくセインの周囲に、彼女の息吹が繰り返し襲い掛かってくる。
……どうやら、余計に怒らせたらしい。
何故なのかは、セインには全く分かっていないが。
セインは困った。
空を飛ばれると、余計に近づき辛くなった……と。
飛び上がろうにも、今は風が助けてくれない……気がする。
何かいい方法はないか、と周囲を見渡す。
……ひとつだけ、見つけた。
それは、イチかバチかの掛け。
だが、セインは迷わず駆け出した。
クロムを信じて……岬の先へ。
対して、クロムは……
──セイン、クロムの……敵になるのか?──
彼が向かった先。
そこには、セインから預かっていた二本の剣がある。
あの剣は『信用の証』。
それが彼の手に戻れば、もう信じることが出来なくなる……ということだ。
──ほんとうに、そうなのか?──
クロムは、セインの姿を目で追って、自分に問いかけた。
最初は確かに、形がなければ安心できなかった。
だが、今もそうだろうか……?
「違う」と答える自分が居る。
セインは、自分を裏切るような人間じゃない。
ほんのわずかな時間、共にいただけ。
それでも、分かる。
竜は相手の本質を、魂を感じることが出来る。
だが、そんなことは関係ない。
セインは初めて言葉を交わしたあの時から、ずっと、自分のことを考えてくれていた。
そんな彼が、裏切るはずが……ない。
セインは、クロムを恐れない。
恐れていたのは、クロムの方。
顔を上げて、セインの姿を捉える。
すると彼は、自分の剣には目もくれず、岬の先へ駆けていき……
海に向かって、飛び込んでいく。
《セイン⁉》
考えるよりも先に、体は彼の方へと向かっていた。
落ちていく彼を、この手で受け止める。
両手の中に納まるセインの姿を見て、安堵する。
それと同時に、胸の底から込み上げる、怒り。
《セイン! おまえ……なに考えてるんだ!
人間がこんなところから落ちたら、危ないだろ!》
セインは上体を起こし、こちらの目を見返して頭を下げる。
「ごめん……こうすれば、キミが見てくれると思って」
《クロムが助けなかったら、どうするつもりだったんだ。
死ぬかも、しれなかったんだぞ》
「信じてたから。
クロムなら、助けてくれるって」
本気でそう言っているのがわかるから、タチが悪い。
怒るに怒れず、その上少し照れくさい。
こいつはズルい奴だ。とクロムは思う。
「クロム、ごめんね。
傷つけるつもりはなかったけど、うまく伝えられなくて」
《おまえが謝ることじゃ、ないだろう……》
クロムも分かっている。
結局は、自分の都合を押し付けようとしただけだ。
《すまない、セイン》
「いいよ、気にしないで。
それより、聞きたいことがあるんだ」
そう言って、セインは水平線の方を指差す。
「いつも、あそこを見てたよね。どうして?」
《それは……》
「僕はね、あの景色の向こうに、行ってみたい。
なんて、考えてた」
口をつぐむクロムに、セインは語る。
「里のみんなのことは好きだよ。
……でも、里に居るのは、正直窮屈だった。
時々一人になって、山の向こうを眺めて『いつか、あの向こうに』って考えてた。
でも、勇気がなかった。
今は分かる。
一人になることが、怖かったんだと思う。
連れ出してくれる、誰かをずっと待ってた」
《その誰かは、来たんだな。
お前の前には》
セインは頷く。
そして、クロムの顔を見上げる。
「今度は、僕がそうなれたら。って……
いいや、違うな」
セインは、クロムの目を見るように向き直る。
「クロム、僕はキミと、あの海と空の向こうに行きたい。
一緒に、見たことのない景色を見たい。
キミと僕は、似てる。
そんな僕らだから、同じものを見られると思うんだ。
だから、僕の仲間になって欲しい」
《クロムは……竜だ。
ヒトの世界で、生きられるか?》
「大丈夫、キミはその力を正しく使える。
クロムは僕を傷つけようとはしなかった。
そして、僕は傷一つない。
それが、なによりの証だよ」
彼は優しく語った。
「キミは竜で、人間。
二つの世界で生きられる、特別なんだよ」
《二つの、世界……》
クロムは上昇し、岬に降り立つ。
そしてセインを降ろすと、人の姿へと替わる。
振り返って、飽きるほど見てきた水平線を見つめる。
あと一歩、踏み出せたなら……
何度、そう思い続けてきただろう。
けれど、なにも知らない恐怖の方が大きく……
ここから先へは行けなかった。
だけど、今……その一歩を踏み出せなければ、きっと後悔する。
「セイン、クロムは行きたい。
あの、空と海の向こうに。
だから、おまえと一緒に、行くぞ」
「決まりだね。
クロム、これからよろしく!」
そう言って、セインはグローブを外して、左手を差し出す。
だがクロムは、その意味が分からず首を傾げている。
「ああ、そっか。
……クロム、手を出して」
クロムは言われた通りに手を上げた。
それを、セインは両手で優しく包み込む。
「握手って言ってね。
人間は、互いに触れ合うことで信頼を伝えるんだ。
……簡単に言えば「お互い信じあって一緒に頑張ろう!」っていう、挨拶だよ」
「そうか。これが『人間のやり方』か。
覚えておく」
そういって、キュッと握り返すクロム。
自分の手を包む、セインの手はごつごつとしていた。
大きくて、暖かい。
頼もしくて、触れていると安心する。
『触れ合って信頼を伝える』。
クロムは、その意味が少し、分かった気がした。
*
そんな少年と少女の触れ合いを、遠く離れた所から見つめる二つの影があった。
一つは、赤い肌と紫の髪、頭の両側から生えた二本の角が特徴的な少女。
ルーア、悪魔であり、セインの仲間。
「異層同期体……まさか実在するとはな。
ワシらとしては好都合。
じゃが、いいのか……クウザ?」
ルーアは横目で、隣に立つ緑の法衣を着た青年に視線を向ける。
クウザと呼ばれた青年は、からかうような、挑発的な視線に少しイラっとする。
……が、それを無視する。
セインとクロム。二人の姿を金色の眼で見つめ、諦めの混じったため息を吐いた。
「正直、今からでも彼を八つ裂きにしたいところだけど……
そんなことしたら、これから一生クロムに嫌われるのは分かってるからね。
諦めるしかないだろう」
「竜の悪い所だな。
宝を独占したがるのは」
と、呆れた様子で鼻を鳴らすルーア。
その指摘に、目を泳がせるクウザ。
「そんなことは……あるけど。
でも、まあ……あの子が選んだことだから、ね」
「やけに諦めがいいじゃないか。お前にしては」
セインの手を取り、少女が『ゆりかご』とも言える地を離れていく。
その姿を見ながら。
「約束、だからね」
クウザは、金色の眼に名残惜しそうに少女の姿を納める。
そして、後ろ髪を引かれるようにその場を後にした。