第六十六話
頬を撫でる風に、クロムは起こされる。
それは、誰かが来たことを彼女に伝えるものだった。
まだ重い目蓋を持ち上げて、気だるげに岩陰から顔を出す。
……あの男だ。
自分とクウザ以外、入ってこれないはずの結界を抜けてきて、日が沈むまで居座った変な奴。
日が出て間もないのに、なんの用だというのか。
セイン、とか名乗っていた気がするその男は、今日は手に何か持っている。
反対の脇には木の束なんか抱えて、なにをする気だろうか。
なんとなく気になって、その男がなにをするのか、クロムはじっと観察する。
彼はその辺から少し大きめの石を三つ程持ってきて、平たい木を囲むように並べる。
それから細長い木の棒を持って、先を平たい木につけた。
そして、それを勢いよく擦りつけ始めた。
少しすると、僅かに黒い煙が見えるようになる。
そこにすかさず葉っぱや草を放り込んで、息を吹きかけると……
たちまち、炎が上がり始めた。
──なんだ、ただ火をつけただけか──
なにかの儀式かと身構えていたクロムだったが、大したことじゃないと分かれば、途端に興味を無くした。
ちょっと損をした気分になりながら、クロムは寝直すことにした。
昨日からずっと身を隠すのに使っている岩に背中を預け、目蓋を閉じる。
あの男がなにかしてこないとも限らない。
が、たかだか炎の一つ起こされたところで、クロムには気にするようなことではなかった。
……焦げ臭いのは少し気になるが。
どの道、あいつは丸腰。
『大切なもの』と言っていた剣はこっちにあるのだから、なにも出来ないだろう。
──それに、アイツは風に好かれてる──
だから、悪い奴ではない……と、クロムは思う。
少なくとも、寝込みを襲ってきたりはしないはずだ。
そうして、うとうとし始めた頃。
鼻先に漂ってくる、いい匂い。
それがなんなのか、クロムには分からなかった。
だが、嗅いでいるとなぜか腹の辺りがへこんでいく。
思わずそろりそろり、と手足が動いて、気がつけば匂いの元を辿っていた。
「やっぱり、お腹空いてた?」
いつの間にか、目の前にあの男、セインが居た。
「……なんで居る。いつの間にクロムの前に来た」
「えっと、キミの方からこっちにきたんだよ?」
「そんなはずない。だってクロムはずっと……」
と、周囲を見回して、元居た場所から大分離れていたことに気がつくクロム。
四つん這いに歩いてきた今の恰好にも気がつく。
だんだんと恥ずかしくなって、顔が火照って頬がほんのり赤く色づき始める。
「それ、なんだ」
話を逸らすように、自分が引き寄せられた元凶に指を指す。
胴の詰まった、竜のなりそこないみたいな奴が、木の棒で串刺しにされている。
それは何度か海に潜ったときに見たことがある。
たしか、魚とか呼ばれているものだ。
それは火にあぶられて、体の表面が茶色く色づいて、香ばしい匂いを放ってる。
嗅いでいると、腹がくぅっと引っ込んでくる。
「朝ごはんだよ。もういい頃じゃないかな。
はい、これクロムの分」
と、セインは当たり前のように一つ差し出してくる。
……受け取ってしまった。
なんというか、あまりにも自然に渡してくるものだから、警戒する間もなかった。
渡された魚をしばらく見下ろして、クロムは思う。
これをどうしろというのか。
顔を上げて目で訴えてみる。
すると、セインは笑顔でこう言う。
「熱いから気を付けてね」
伝わらなかったらしい。
『知らない』と伝えるのは癪だったが、仕方ない。
少し、折れてやろう。
「おい」
「どうしたの?」
「これ、どうすればいい」
「えっ」
セインは間の抜けた顔でこちらを見てくる。
それから、困った様子で考えごとを始める。
「いや、うーんと……魚は、初めて?
そのまま食べて大丈夫だよ。
火は通してるし」
食べる。
クロムには馴染みのない行為だ。
他の生物は当たり前のようにやっている。
そのくらいの『知識』はあるが……
「おまえが先にやってみろ」
「えぇ? まあ、僕も一緒に食べるつもりだったし、いいけど……」
戸惑った様子ではあるものの、セインは躊躇うことはなく、もう一つの焼かれた魚を手に取った。
そして、口をすぼめて息を吹きかける。
しばらくそれをやると、次は大きく口を開いて、魚の胴に噛り付く。
その身を嚙みちぎって、何度も口の中で執拗に噛み砕き……ごくり、と飲み込む。
あれが、『食べる』……か。
クロムは見よう見まねで魚に噛り付く。
すると、じゅわり、となにかが口の中に沁み出す。
海の中に入った時のような、舌がピリッとする感覚がある。
だが、それだけじゃない。
噛めば噛むほどに溶けだす汁が、舌を流れて喉を通っていく。
それが流れるたびに、頭の中がとろけそうで、ほっぺたが緩む。
たまらず、クロムはまた一口、もう一口と食らいついていく。
気がつけば、あっという間に手にしていた魚はなくなっていた。
すかさず、クロムは顔を上げてセインの手にある魚に目をつける。
「気に入ってもらえたのはいいけど、これは僕の分だから勘弁して貰えないかな?」
彼の困った顔を見て、クロムは流石に引き下がる。
だが、名残惜しくて、ついついセインが手にしている焼き魚を見つめてしまう。
「また獲ってくるよ」
「とってくる……?」
そうか、とクロムは閃く。
──あそこに沢山いるじゃないか──
「クロムどうしたの?」
じっと海の方を見つめていたら、セインが声をかけてきた。
──あそこからとってくれば、また食べれるのか?──
ただ一言、それを彼に聞きたかった。
だが、喉元まで出かかった言葉を、腹の底に押し返す。
「なんでも、ない」
そう一言だけ返して、クロムは膝を抱える。
知らないというのは、よわいこと。
弱さは、知られてはいけない。
それが、クロムの考えだった。
「ねえ、クロム」
「……なんだ」
「キミ、年はいくつ?」
だというのに、何故こいつは人のことを軽々しく聞けるのか。
「そんなこと知ってなんになる」
「別になんともならないよ。ただ、知りたいんだ。クロムのこと」
「……は?」
こいつの言葉からは悪意を感じない。
だから、本当にただの興味……
だが、だからこそ理解できない。
悪意もなく他者の内側に踏み込もうとするのが……
この島に生まれついた者にとって、自らを包み隠さない相手は唯一無二。
生涯、命を預けるに値する者にだけなのだ。
そう、その相手とは……
──『つがい』になりたいとでも言うのか⁉──
そう意識した途端、心臓が破裂しそうになる。
──『つがい』……こいつが?
この男……が?──
この男は、風に好かれ、正直で……
ひょろひょろとせず、逞しい体つきをしているだけの、こんな奴……
「じゅっ……十二……だ」
「えっ、そうなの? もうちょっと上かと思ってたけど。
僕より年下だったんだ。
大人っぽい雰囲気してるから、分からなかったよ」
悪くない……かもしれない。
そう思い始めると、彼の姿を見るだけで、体が熱を帯び始める。
だが、まだだ。
こいつは、自分のもう一つの姿を知らない。
「……いいのか?」
頑張って頭を冷やして、問いかける。
「なにが?」
質問の意図が分からず、首を傾げるセイン。
クロムには分かる。
こいつはただの人間。
もう一つの自分を知れば、きっと恐れるに違いない。
そう思って、クロムは恐る恐る尋ねる。
「クロムは……竜、だぞ。
怖く、ないのか?」
「あっ、もしかして……
僕らがこの島に来るときに助けてくれた?」
「えっ、あっ……ああ」
そう、たしかに助けた。
岬から外を眺めていた時、波に流される彼らの姿を見つけて、思わず飛び込んでいた。
だが、あの時は意識がないものと……気づいていないと思ったが。
セインは、クロムの肩をがっしりと掴む。
「やっぱり居たんだ!
あの『綺麗な銀色の竜』だよね!
ありがとう、キミのお陰で助かったよ!」
「えぇっ?!」
驚くほど簡単に、彼は自分を受け入れてくれた。
その上あの姿を『綺麗だ』と。
そして感謝の言葉まで。
今まで受けたことのない言葉の数々。
さらには、異様に近い距離感。
先程までは何とも思っていなかったのに、今は意識し過ぎてしまう。
心臓は破裂寸前で、頭は沸騰しそうだった。