第六十三話
広大な海の真ん中。
ポツンと留まる大きな船が一隻。
「本当にいいのかい?
『そんなの』で……」
船乗りが少女に問いかける。
海に浮かんだ、今にも壊れそうな小船を指して。
その顔を見るに、半分は本気で心配してくれているのだろう。
だが、おそらくそれは口実。
半分は好奇心、というところだろう。
「こんな海のど真ん中、見渡したってなんにもありゃしねぇ。
こんなところから、そんなボロで行けるところなのかい?
『竜の渓谷』ってのは」
「どのみち壊れるからな。
ボロのほうが都合がいいだろう」
船乗り達に問い詰められる少女は飄々とそう答える。
十二、三歳ほどに見える、
白いワンピースを着たその少女。
毒を思わせる紫の髪に、燃えるような真紅の肌。
極めつけに、太く、艷やかな黒い角が頭の両側から生えている。
その容姿は明らかに人間のものではない。
彼女の名は『ルーア』。
この場に居る誰よりも長く、この世界を見てきた……悪魔なのだ。
「大金貰ってるし、送り届けるくらい構わねぇんだぜ?」
「やめておけ。
お主らまで構ってはやれん」
彼らがかなり腕の立つ船乗りであるのは間違いない。
ユーミベノの港をたって二日。
なんの不安もなく航海をしてきたことが、彼らの腕前を示している。
しかしそれでも、ルーアは首を横に振る。
「ここから先は嵐の渦巻く竜の領土。
正しい道を少しでも外れれば波に飲まれ、
そして竜の怒りに触れるような振る舞いをすれば、たちまち身を裂かれる」
そこまで伝えた上で、
ルーアは蠱惑な笑みを浮かべて、こう続ける。
「死に際に一目見たいと言うのなら、
ワシは止めはしないがな?」
挑発的なその笑みは、その場の誰もが彼女が悪魔であることを嫌でも思い出した。
*
竜の渓谷……
それは、伝承より伝わる竜たちの聖地。
船乗りならば誰しもが一度はその名を耳にするという。
そこは地上でもっとも美しい場所。
秘宝が眠るという噂もあり、
富や名声を求める命知らずが、数多く挑んだという。
しかし、ただ一人を除いて、
人間がその地に足を踏み入れて帰ってきた記録はない。
「と、言うわけでお主が歴史上二人目になる予定だ。
良かったな、セイン」
小舟の上で向かい合って座る『セイン』と呼ぶ黒髪の少年に、
ルーアはからかうように語った。
「それはいいけど、ここからどうやって行くわけ?」
広がる海原の中。
目に見える範囲では島というモノは見当たらず、
自分達の乗る小舟がぽつりと一つ浮かぶだけ。
その小舟はいつ沈没してもおかしくなさそうな、おんぼろ舟。
帆が付いていると言う訳でなく、見える限りで動かせそうな手段と言えば……
オールが一対、置いてあるだけ。
すこし嫌な予感がしながら、
セインはおそるおそる、ルーアの顔を覗き込む。
当の彼女は、にやにやと嫌な笑みを浮かべながらセインを見返している。
「決まっているだろう。漕ぐのだよ」
と、ルーアはオールを指差して告げる。
「うっそぉ……」
「ほんとぉ」
ルーアは、見る見る元気を無くすセインを見るのが楽しそうだった。
がんばれ~、とかわいこぶって手を振る彼女の姿をみて、
セインは『この人でなし……』と心の中で恨みがましい声を上げる。
──あ、そもそも人じゃないんだった──
なんだか負けたような気がして、ただただ一人悔しい思いを抱くことになったセインだった……
それから太陽が傾き、そろそろ沈みそうな頃まで時が進んだ。
「……ねぇ。まだ何にも見えないんだけど……」
セインは昼前から、顔が真っ赤になるほど必死に舟を漕ぎ続けていた。
だが、竜の渓谷はおろか島一つ見えはしない。
こんな海のど真ん中で、なんの目印も見当たらないこの状況。
もはや遭難しているのでは? と、不穏な考えが頭を過る。
そんな彼の不安とは裏腹に、ルーアは余裕の態度。
舟に寝そべって、くつろいでいた。
「安心せい。そろそろだ」
「そろそろ……?」
ルーアはおもむろに体を起こして、セインの方へとすり寄っていく。
膝が突き合わさるまでに近づいて、彼女はこちらの顔を見上げる。
「まだ少しだけ時間がある。
せっかくだから『結界』について教えてやろう」
それが、さっきの言葉と何の関係があるのか分からない。
だが、彼女の浮かれた顔を見ていると分かることが一つある。
多分この話が終わらないと、本当に聴きたいことは教えてくれないのだろう。と。
回りくどいが仕方ない、とセインは諦めてルーアの話に耳を傾ける。
「竜の渓谷の周りには鏡面結界が張ってある。
鏡面結界とは、周囲の景色を反射して『何もないように見せかける』結界じゃ」
「ああ、それなら分かるよ。
空人の里にも同じような結界が張ってあった。
あれ……もしかして、僕らはもう結界の近くにいる……ってこと?」
その通り、とルーアは頷く。
「ただ、この結界の効力はそれだけではない。
空人の里もそうだろうが、たとえ視えなくとも、中に入れてしまえば意味がない。
『特定の者以外入れないようにするルール』というものが作られる訳じゃ」
「ああ……ウチのは森の中をぐるぐる回って、いつの間にか外に出てるって感じだったなぁ」
「ここも同じようなものだ。
風の流れで、近づかれてもいつの間にか来た道を戻るようになっている。
『竜ではないもの』が中に入ってこないようにな」
「えっ、それって僕らがここまで来ても、入れないって事じゃ……」
「そんな結界の中に入る方法は大きく分けて三つ」
ルーアは指を三本、立てて見せる。
「一つは単純。結界を破ってしまうことだ。
だが、島全体を覆うような結界を破るのは準備も必要だし、かなり骨が折れる」
そう言って、彼女はめんどくさそうに首を振った。
心底やりたくないのだろう。
「残る二つは、結界が拒絶しないものに紛れること。
この結界は強力ではあるが、綻びがないわけではない。
大きさと強度は、どちらかが犠牲になるものだ」
ルーアは両手を肩のあたりまで上げて、ゆらゆらと左右に上半身を揺らす。
まるで天秤のように。
「ここの結界は『竜以外を拒絶する』が、
反面『竜』ならば容易に通してしまう。
それもかなり大雑把な判定でな。
『竜が持っているもの』『竜の力が宿っているものを身に着けている』
そんなものでも通してしまうのだ。
つまり、簡単に言えば竜に結界の中まで運んでもらう。
これが、二つ目の方法だ」
「なるほど。
……でも、竜の力が宿ったものなんて持ってないし……
運んでくれる竜もいないよね?」
その言葉を待っていた、と言わんばかりにルーアは目を輝かせる。
「その通り。
そこでワシらが取る方法は『三つ目』だ。
結界にはどうしても逆らえない『理』がある。
それは、自然界の事象について防ぐことは出来ないということだ」
「自然界の事象……?」
「結界を作るのはあくまで『この世界に生きる者』だ。
より大きな存在である『世界そのもの』が起こす事象は防ぐことはできぬ。
それが絶対のルールだ」
そこまで聞いて、セインの中で今までの話が一気に噛み合った。
「……あ、そっか。それで『結界が拒絶しないものに紛れる』!」
うんうん、と楽し気に頷くルーア。
セインが気が付いたことが嬉しそうだ。
「そう! ワシらは今、この結界の中まで運んでくれる自然現象を待っている……というわけだ」
「へぇ!
……それで、その自然現象って?」
セインがそう問いかけた途端、ルーアは目を逸らした。
「……今、この辺は波が引いておってな」
「うん」
「それで、そろそろ戻る頃合いなのだ」
「……なにが?」
「当然……波が」
スッと、セインの背後を指差すルーア。
恐る恐る振り返ってみると、かなりの高波がこちらへ向かって押し寄せてきていた。
「うっそぉ……」
ルーアは、自分の方へ向き直ったセインの首に手を回し、抱き寄せるように引っ張り体を伏せさせる。
「しっかり舟に捕まっておれよ?」
そう言って、ルーアは足までセインの体に固く絡みつかせてぶら下がる。
「目は固く閉じて、出来るだけ肺に息を貯めろ。
あと、舌を噛まんように気をつけておけ」
色々と文句を言ってやりたかったが、
そんな余裕はなかった。
多分、先程までの説明は、
有無を言わさず巻き込むための時間稼ぎだったのだろう……
そう気がついたときには、もう遅い。
気づけば波に飲み込まれて、
もみくちゃにされて……
覚えているのはそこまでだ。
*
今は夢か、現か。
その区別もつかないほど、セインの意識はぼんやりとしていた。
だけど、とても美しいものを見た気がする……
それはとても大きな体をしていて、すらりと長い首としっぽ。
その全身を銀の鱗が覆い、太陽の光を反射させてきらきらと輝いている。
──あれが……竜?──
背中に生えた翼を大きく広げ、はためかせる。
すると、竜はどこかへ飛び立つ。
セインは、思わず行く先を目で追った。
向かっていったのは、少し離れた岬の先……
そこで、見失った。
突然、姿を消したのだ。
確かにそこに竜は降り立った。
そのはずなのに、そこに竜の姿はなく……
代わりに、煌びやかな銀の髪少女が一人居た。
その少女は、長く伸びた髪を風になびかせて、物憂げにどこか遠くを見つめていた。
そんな少女の姿は、
初めて見たとは思えず……
誰かに、似ているような気がした。