第四十五話
いつからだろう。暗闇を恐れるようになったのは。
おぼろげに、幼少の記憶が思い起こされる。
そうだ、あの頃は恐れていなかった。むしろ、この窮屈で孤独な城の中から抜け出せるならと、自ら入って行った。
きっとその先に、自分の望む世界が広がっているはずだと。
その、はずだったのに……
そこから先を思い出そうとすると、頭が痛くなる。
それ以上先へ行くなと、警告されているように。
だが、思い出してしまった。
固く閉じていた筈の記憶の鍵、それが開かれた。
そうだ、私は……かつてこんな風に、死の境を彷徨った事がある……
あの日、私は死ぬ筈だった……いやきっと、死ぬべきだった。
*
仮面の者、二度に渡って立ちはだかり、アレーナの命を狙った。
その正体は、そのアレーナの侍女『アリシア』だった。
彼女は、目の下から鼻筋にかけて一直線に出来た傷を拭う。
それでも尚流れ続ける血を見て、セインを睨む。
「お前が、アレーナの命を狙ってたのか……なんでだよ……」
「なんで……ですって?」
激しい怒りを瞳に灯すアリシア。
キン……と金属同士がぶつかり合う音が、冷たく響く。
「お前が理解など出来るものか! 私のッ、顔にッ! 傷を付けておきながらァ!」
間合いを詰められ、アリシアの短刀による猛攻に追い詰められる。
だが、彼女の太刀筋は乱れていて、防ぐだけならば容易だった。
「顔?! それがなんだっていうんだよ! そんな事でアレーナを殺そうっていうのか!」
「そんな事? ……ああ、そう……お前達にとってはそうでしょうねぇ!」
怒りで顔が歪み、傷が圧迫されて垂れた血が、頬を伝う。
「生まれながらに、自分の……自分だけの顔を持つお前達には分からないでしょうね! 顔を持たない、私のッ! 思いなどッ!」
「どういう意味だ!」
取っ組み合いの体勢になった二人。
「貴方は思わない? アルミリアの顔はとても美しいと」
「それはっ……なんで今そんな話をするんだ?!」
困惑を浮かべるセインに、アリシアは顔を迫らせていく。
「よく見なさい! 私の顔を! 似ているでしょう? あの子にね」
それは確かにそうとは思った。だが、それに何の意味が?
「おかしいと思わない? 同じ年で、似た容姿をした同性の子供……そんなのが、偶然で見つかると思う?」
確かにそうそう見つかるものではないのだろうが……現にここに居るのでは?
「当然よ。私は、そのように造られたのだから!」
「造られた……?」
*
逃亡していたアギルが、一転反撃をしてきた為、応戦していたジーク。
そこで気がついた。自分は術中に嵌まっていたのだと。
セインと二人で連携を取れていた間は、意識を分散させられていた。そのお陰で有利を取れていた。
だが、相手は負傷しているといえど魔王軍四天王。
一人の人間が立ち向かうには、手に余る相手だったのだ。
結果、立場は逆転した。
「逃げる、か。当然だ。先程は後れを取りはしたが、人と魔族。その力の差は明確。不死身か、愚か者でもなければ立ち向かってはこないだろう」
嘲笑うように告げるアギル。
ジークは物影に隠れ、反撃の機会を伺っている。
「そしてお前は不死身ではない、という事になる。ならば何故生きているのか? それが引っかかっていたのだよ」
アギルは相当舌に脂が乗っているようだ。何か意図があるのか、それとも上位種であるという慢心か。
「確かに死体が回収されたと確認していたのだ。俺がジークとして動くためにな……だが、思えばおかしな話だ。お前が死んだ事実は秘匿していたのに、『何故か』噂として広まっていた」
──まったく、余裕のある事で。
と、心の中で悪態をつく。
「俺の……いや、私の動きを牽制していた訳だ、お前は。その為に犠牲を払ってでも」
ドクン、と心臓が跳ねた。
アギルは笑う。
「お前は、ある程度こちらの思惑を察知していたのだろう? その上で暗殺できる『隙』を作ったわけだ。王族としてのしがらみを抜きに、自由に動けるように」
じわり、じわりと溢れてきた汗が、頬を伝い落ちていく。
「さて、そうなるとあの死体はいったい誰だったのか? ”お前の代わりに死んだのは誰か?” ああ、そうだ。確か王族には、同じ年の従者が付けられるのだったな?」
──やめろ……
「自分の従者……そう、お前の代わりに死ぬために生まれた人形を利用したのだ! そうやって命を踏み台にしながら聖人のように振る舞うのだ。実に立派な王族だよお前は!」
ジークは思わず飛び出て、斬りかかっていた。
アギルも動揺くらいは誘えると思っていたが、まさかここまで感情を顕にしてくるとは予想しなかった。
「あの人の想いを……死を……! 侮辱するな!」
「『あの人の』……?」
引っかかる物言い。それをきっかけに、抱いていたものの、気に止めていなかった違和感が、大きくなってくる。
それは、彼の動きだ。
長剣には慣れていないようでありながら、動きそのものには無駄がなく、そして的確に急所を突こうとしてくる。
その動きに華美なものはなく、『王族らしくない』のだ。
これはまるで……暗殺者のようだ。
*
「そう、我々は”死ぬために生まれた人形”。そこのお姫様が死なないように、命が狙われれば代わりにその死を引き受ける! でもね、私は欠陥品だった! 死ぬことを受け入れられなかったのだから!」
アリシアは、そう言ってセインの背後に目を向ける。
その顔は、『あの子と同じようにね』とでも言いたげだ。
「だからってなんでそれが、アレーナを殺す事になるんだ!」
死にたくないという想いは否定しない。
たとえ生まれがなんであれ、命有る者ならば、当然の想い。
しかしそれと彼女の凶行を受け入れる事とは別だ。
アリシアは、そんな答えは分かり切っていたと言わんばかりに、つまらなそうな表情を浮かべ……怒りを向きだす。
「だから言った! 貴方に理解できるはずがないと! その子が居たら、私はいつまで経っても『アルミリアの影』! 私は……私になりたいんだ! 唯一無二の、私に!」
見た目からは想像もつかない膂力。それは、狂気が生み出す力なのか。セインは押し飛ばされた。
「その為に私は、アルミリアの全てを奪う! この国も、血縁も、仲間も……全てッ!」
「仲間……?」
「そう、全て奪ってから殺すつもりだった。順番は前後したけどね……でもあとは貴方だけよ! それでアルミリアからは何もなくなる!」
それを聞いたセインは、戸惑いと、怒りが半々に問いかける。
「それは……どういう事?」
「言葉の通りよ。貴方の仲間はここの土の下に埋まってるわ。私達の、なりそこないと一緒にね」
それは多分、無意識のうちに引いていた一線だった。
人に剣を向ける躊躇いの、さらにその先にある、最後の。
セインは剣を……エスプレンダーを置いて、アリシアに組み付いた。
ナイフを奪い取り、押し倒して馬乗りになった。心臓めがけて、振り下ろすために。
だが、アリシアは容易く切り抜ける。
彼女は腰を突き上げ、それによってバランスを崩したセインを絡めとり、マウントを取り返す。
驚いた。この少年がここまで殺意を剥き出しにしてくるとは。
ナイフを奪い返したいが……アリシアは下手には動けなかった。
拘束して尚、暴れて手がつけられないからだ。
これではまるで獣だ。
当のセインは、とにかくもがいた。
この怒りを、ぶつけてやらなければと必死だった。
暴れるうちに、ナイフを握った腕を自由に出来た。
それも僅かな時間だろうというのは直感していた。
どこでも良いからと、とにかく。
その無軌道に振るわれた切っ先は、アリシアの左股の裏を切り裂いて……自身の脇腹まで届いた。
「またッ! 私の体に傷を付けたなぁ!」
それだけでは抜けられなかったが、激昂したアリシアが首を絞めてきた隙に、彼女の脇腹を拳で殴り付けた。
彼女の拘束を抜け出して、セインは駆ける……エスプレンダーを手に取る為に。
立ち上がることもままならないアリシアは、股からナイフを抜き取って抵抗しようとする。
だが、手にしたナイフは気付けば宙を舞っていた。セインの剣によって、弾き飛ばされたのだ。
目にも止まらぬ速さで横一閃。
そのまま流れるように高く掲げ、振り下ろす……
アリシアは、死さえ覚悟した。首筋に切っ先が触れた事が分かったから。
だが、そこで彼の剣は止まった。
剣の刃を見つめて。
*
『君が帰ってこられるように』
その想いを彼女が籠めてくれた剣……エスプレンダー。
その刃に映る男の顔は、誰だ。
分かっている。自分だ。
これが、こんな怒りに囚われた姿を、アレーナが見たら、どう思うのだろうか。
彼女の求めた、勇士の姿は……こんなものなのか?
セインは後ずさり、アリシアから離れる。
それから力なく膝を突いて、剣を手放した。
震える両手を見つめて思う『自分は、この剣を持っていちゃいけない』と。
彼女の祈りを、こんな事の為に振るった。それが、許せなくて……
「せ……いん……」
そんな時、彼女の声が聞こえた。
「アレーナ⁉」
セインは思わず駆け寄った。
だが彼女の前で、今こんな自分の顔を向けていいのかと、触れる事を躊躇った。
彼の思いを余所に、アレーナはセインに手を伸ばし、しがみつく。
「セイン……聞いて、くれ……」
「アレーナ、無理しないで……」
か細い声を届けようと、無理をしてでも彼の体に寄る。そんな彼女を、セインは抱き寄せて抱える。
「頼みが、ある……」
息が荒い。とても苦しそうで、弱々しい。
そんな彼女の言葉を聞き逃すまいと、口元に耳を寄せる。
「お願いだ……セイン。私……を……」
「どうしたの? 僕に、何が出来るの?」
「わたしを……殺してくれ」
何を言っているのか、理解できなかった。
頭がそれを飲み込んでしまった時、それでも受け入れることは出来ない。
「出来る訳ない……そんなの……どうして!」
「君じゃなきゃ……ダメなんだ。早く、私を……でないと、私は……うぅ……あああああ!」
セインの腕の中で、もがき、苦しみだしたアレーナ。
そこで理解した。理解してしまった。
ずっと、知っていた。知っていて、見ないふりをしてきた……
それが今、目の前で『形』になってしまう。
拒絶されるようにセインはアレーナから弾き飛ばされた。
「セイン……セイン! お願い……わたしを……っ!」
そこから先、何を言っているのか聞き取れなかった。
彼女が、闇に飲まれてしまったから。