第百話
『私』が生まれたのは、怒りと哀しみの渦の中だった。
喜怒哀楽。
人間の感情の《源》。
その総量は一定に保たれる。
世界のバランスを保つためだ。
それぞれが均衡を保つからこそ、互いに打ち消し合い、《感情》というものは目に見えず、形のないものとなる。
だが、そのバランスは一度だけ、崩れたことがある。
天使、悪魔、竜……強大な異種族がこの世界で争い、人が巻き込まれた時のことだ。
怒りと哀しみ……人間の『負の感情』が、溢れた。
バランスを崩した時、どうなるか。
《世界》が均衡を保つため、『調整』を行う。
余分な感情に形を与え、《現世》に産み落とすのだ。
そうして産み落とされた『負の感情』は、ただ存在するだけで世界を混沌に陥れた。
大地を穢し、空気は淀み、触れるものは壊れていった。
……『私』の意志に関わらず。
存在そのものが『邪悪』。
故に人々は《私》をこう呼んだ……
《邪悪なる者》
と。
人は『私』を恐れた。
世界はまた怒りと、哀しみが溢れた。
釣り合いを取るために、溢れた怒りと哀しみにまた、形を与える。
その繰り返しで、私は強大になってしまった。
『私』の《意志》では、この膨大な感情を止められないほどに。
かつて、一人の男が『私』の前に立ちはだかった。
その瞳に、強い怒りを滲ませて。
それが、もっとも愚かな行為だとも知らずに。
でも、構わない。
そうして、『私』に負の感情を向けるなら……
キミとも一つになれるのだから。
*
《エデン》は別に、良いことをしようとしてるつもりなんてない。
ただ、アイツが邪魔。
それだけだ。
《エデン》と《邪悪なる者》。
正直、当人もどちらが先に生まれたのかは分からない。
そんなことは、どうでもいい。
ただ、『弱い方』が支配される。
それだけだ。
結界の外、遥か上空から《邪悪なる者》を見下ろすエデン。
理性も知性も感じない、ただ欲求のままに膨れ上がるだけのバケモノだ。
だが、放っておけばもはや結界も突き破ってしまうだろう。
「あんなのと同質と思われるの、心外なんだよね」
深々と、ため息を吐く。
これからやることが、無駄だと分かっているからだ。
「こんなことに付き合うなんて、モノ好きだよね、キミも」
胸に手を当てて、その内側に話しかけるように、そう言った。
『無駄ということはないはずだ』
頭の中に伝わる声……この体の持ち主、アレーナのものだ。
「セインが来るから、かい?
……でも、やっぱり不毛だよ」
『なぜ、そう思う?』
「勝った方が、彼の敵になるだけだからさ」
そう言って、エデンは自虐気味に笑う。
「『我ら』は、この世の全てを飲み込む、という本能が根底にある。
ワタシだって、それに抗えないのだから」
アレーナは、返事をしない。
しかし、彼女がなにを考えているか、体を乗っ取っているから分かる。
「妙な事、考えないでよ」
『いや、分かっていると思うが、『悪役』にしかなれないキミに、あえて言おう』
ほんの少し、笑いながら、彼女は告げる。
『本能に抗おうとするから、『キミはキミ』なんだろう? 《エデン》』
「……無駄話はここで終わり。
どうせ無駄な時間を過ごすなら、少しでも抗っておこうか」
エデンは、鎧から突き出た一本の棘を折り、左手で握る。
すると、それは身の丈ほどに伸びて、一本の槍に変化する。
アレーナの《従士》の力で更に変化させようとするが、うまく武器に力が通らず、稲妻のような光が、槍の周りに走るだけだった。
「反発しあう力じゃ、こんなものか。
ま、これで我慢するしかないね」
そして、エデンは邪悪なる者に向かって突撃する。
邪悪なる者は、エデンを取り込もうと触手を伸ばす。
エデンは、稲妻を纏う槍で触手を断ち切っていく。
その戦いは、三日三晩続いた。
最後まで、エデンは抵抗し続けた。
最初から分かっていた、力の差が大きすぎること。
決して、敵うことはないと。
それでも、『自分』を護るために戦い、邪悪なる者を抑え込んだ。
「やっぱりキミは、もう邪悪なる者とは違うと思う」
真っ黒な闇の底へ沈んで行く中、アレーナはそう言った。
『どうして?』
「こうして私と話していることが、その証拠だ」
言われてみれば、そうかもしれない。とエデンは思った。
いつの間にか、『個』というものを大切に感じるようになっていたらしい。
今もこうして、アレーナの中に逃げ、邪悪なる者と同化してしまうのを避けている。
『アレーナ、キミの方が先に取り込まれてしまうかもしれないけど、いいのかい?』
「大丈夫だ」
彼女は胸を張ってこたえる。
「信じている。どんな暗闇の中でも、諦めなければ、きっと光は差すと。
だから、私はこの暗闇を恐れない」
アレーナは、前へと手を伸ばす。
何かを掴み取ろうとするように。
「……そう、光が見えるまで、私は諦めない!」
その手の中に槍を作り出し、握りしめる。
『なにするつもり?』
「悪あがきだ。今度は私に付き合ってもらうぞ、エデン」
エデンに目があったら、きっと丸くしていただろう。
彼女が、ここまで無茶な性格をしているとは思わなかった。
一緒に居た時間は長かったが、こうして彼女『個人』をよく見たのは、初めてかもしれない。
『面白いこと言うね。
ちなみに、拒否権は?』
「ない!」
どうやら手を貸すしかないようだ……とエデンは諦めた。
アレーナはまず、手あたり次第に槍を振るってみる。
が、手ごたえは感じなかった。
「ならば、これでどうだ!」
槍を逆手に持って掲げ、大きく体を捻って投擲する。
どこかに当たったかは分からない。
だが、『黒』の中がざわめきだしているのを感じる。
「どうやら、これが効くようだな」
ニヤリ、と不敵に笑みを浮かべるアレーナ。
「さあ、もっとやってやろう、エデン!」
『ああ、ワタシも興が乗ってきたよ。思いっきりいこう』




