第九十六話
王女がいつも使う脱走経路は全て見た。
城の中もくまなく探した。
なのに、王女の姿はなかった。
わたしは、その日初めて、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
呼吸がしにくくなって、普段では考えられないほどに汗をかく。
「王女さま……アルミリア……
どこに……!」
夕方。
途方に暮れながら、王女の自室に戻る。
すると、そこには何食わぬ顔で、王女がベッドに腰かけていた。
何やら全身煤けていて、服の埃をはたきながら。
「あ、アリシア!
ちょうどよかった、あなたに教えたいことが……」
「どこに……」
王女の言葉は、ろくに聞こえなかった。
叱りたくてしょうがない。
今までどこに居たのかと、問い詰めなきゃいけない。
でも、それ以上に姿を見られたことで、緊張が解けて……
気づけば、彼女の胸に顔をうずめていた。
「アリシア?」
心臓が脈打つのが伝わる。
暖かさを感じる。
息遣いが聞こえてくる。
「良かった……
無事で、良かった」
「アリシア……
……ごめんね」
「今日は、このままここに居てください。
でないと、許しませんから」
「分かった。
お話は、また明日する」
そういって、彼女はわたしを抱きとめた。
*
「あなたは、もっと楽しいことを見つけた方がいいと思う」
翌日、彼女はわたしを見るなりそう言いだした。
「はい?」
「だって、いっつもぶすぅーっとした顔して。
つまんなそうなんだもの」
それは失礼しました。
生まれつきこういう顔なので。
「だから、外に行こう。
こんなお城の中に閉じ込められたら、息が詰まるってものよ。
つまんないのも当然。
きっと、あなたの楽しいことが見つかると思う」
それは自分のことなんじゃないか、と思いつつ。
目の届かないところに行かれるよりは、誘いに乗った方がいいだろう。
と、わたしは判断する。
「分かりました。
では裏庭にでも行きますか?
あそこなら中庭よりも広いです。
体力を持て余しぎみな王女さまも、そこなら満足に駆けまわれるのでは?」
「アリシアは、私を馬か何かかと思ってる?」
滅相もございません。
確かに荒ぶる猛獣のようではありますが、獣ならば手懐けられます。
むしろ、王女が人間であるゆえに、知恵があることが厄介なのです。
「とても失礼なことを考えている気がする……
まあ、いいわ。
そんなところじゃなくて、『城下』にいくの!」
「城下に……?
まあ、許可をとれば可能でしょうが、ひと月はかかりますよ?」
「そんなまどろっこしいこと、しなくていいの!
いいからついてきなさい!
特別に教えてあげるから!
……あのね、私の額に手を当てても意味ないよ。
熱はないから」
「……そのようですね」
退屈のしすぎで、夢をみるようにでもなったのか?
いや、たしかに前々から『せっかく王女になったんだから、素敵な勇者さまに迎えに来てほしい』などと夢見がちなところはありましたが。
「いいから、ついてきなさい!」
王女はちょっと怒った様子で、わたしの手を引く。
……治せるからいいのですが、握りつぶすような力加減でひっぱるのはやめてほしい。
それで、連れてこられたのは王女の部屋。
「その憐れむ目をやめてくれる?」
「王女、今日は休まれた方が」
「私、別におかしくなったんじゃないから!
まずは話を聞いて!」
そう言ったあと、彼女は暖炉の中に入り込む。
ああもう……そんなことしたらお体が汚れる……
そんな心配が過ぎり、わたしは気づく。
そういえば昨日、王女を見つけたとき、彼女の体は煤で汚れていた。
ということは、昨日もそこに居た?
いや、そんなはずない。
まず王女の部屋は抜かりなく探した。
そんなところを見逃すはずが……
「アリシア~、こっち!
入ってきて~!」
王女がわたしを呼ぶ声は、なにやら遠く聞こえた。
暖炉の中にいるだけならば、そんなことにはならないはずだ。
わたしは少し警戒しながら、暖炉の中を覗き込む。
……すると、暖炉の底は深く、暗く。
そこには道が続いていた。
「降りてきて!
昨日一日見て回ったから、案内してあげる!」
……なんてことだ。
これは恐らく、王族の脱出経路だ。
たしかにこれなら、城下まで通じているだろう。
それを……よりにもよって、この王女が見つけてしまったのか……
昨日はきっと、街まで降りるルートを見つけて帰ってきたのだろう。
だから騒ぎにはならなかった。
だが、この王女が街を知ったらどうなることか。
今は王族。
しかし元は田舎育ちの野生娘。
有り余る体力と無知が合わさり、城下を駆け巡って大騒ぎを起こすことは想像に難くない。
「……そろそろ私も、あなたを分かってきたわ。
置いていくわよ」
「いま行きます」
目を離してはいけない。
もうこの際、バレたときのことはどうでもいい。
城下の民のためにも、わたしが王女を見ていなくては。
「私ね、あなたが長めに黙ってる時は、大体私に対して失礼なこと考えてる時だと思うの」
「そんなことはございません」
我が王女は意外と聡い方である。
いや、それとも『勘』というやつだろうか。
野生的な……
おっと、沈黙は勘ぐられるのでやめておこう。
「一つ伺いたいのですが」
「どうしたの、アリシア」
「昨日は、わたしを巻けたのですから、一人で街に出ていくことも出来たでしょう。
なぜ、そうしなかったのです?」
「そんなの、決まってるじゃない」
わたしの問いに、王女は反射的に応える。
「一人じゃ、つまらないから。
あなたはここで出来た、たった一人の私の味方。
……ううん、友達だもん。
二人で、一緒に行きたかったの」
初めての感覚だった。
心臓が、跳ね上がって……いや、弾んだ、というべきか。
ほんの少し、体が熱くなる。
「暗いから、あんまり離れないでね」
「……ええ、どこまでも、御供します」
それからしばらく歩いて、地下に入った。
「ずっと気になっていたのよ。
壁を下るとき、部屋と部屋、階と階の間がやたら離れてるのね。
それで、ちょっと怪しいと思ったから調べたら、ここが見つかったってわけ」
なるほど、ただのやんちゃ娘、というわけではないらしい。
意外とよく見ている。
「……あれ?」
「どうしました、王女さま」
王女さまは、急に立ち止まって一点を見つめている。
「いや、昨日は見かけなかった部屋が……」
それが部屋というのが適当かは分からない。
でも、確かにそこには、『間』があった。
通路の、不自然な位置に。
そして、わたしの全身を巡る魔力の回路が言っている。
絶対に、ここに近づいてはならない……と。
「王女さま、城下街に行くんですよね。
行きましょう、早く」
連れて行こうとするけれど、彼女の体は岩のように重く、動かない。
「でも……呼んでるから……」
いけない、王女さまが、あの『間』に引き付けられている。
ああ、もう! なんて忌々しい馬鹿力……!
引き返させようとしているのに、わたしの方が引っ張られる……!
……イチかバチか。
「こんなときくらい、わたしの言うことを聞いて!
アレーナ!」
「アリシア……今、私の名前……
アレーナって、呼んでくれた!?」
王女さまの足は止まり、わたしの肩を掴む。
意識をこちらに強く引き付けたことで、向こうからの誘惑を断ち切れたらしい。
「アリシア、どうかしたの?」
「いえ……お気になさらず」
わたしが、必要以上に取り乱してはいけない。
余計な不安を抱かせないように……
また、向こうに引き付けられないうちに……
「行きましょう、アレーナさま。
はやく城下街に行かないと、日が落ちてしまいます」
「うん、うん! 行こう!
今日はやけにアリシアのノリがいいんだもの。
街に行かなければ勿体ない!」
こんなところは、早く離れなければ……
帰りは、正門から戻ろう。
叱られると思うけれど、またここに引っ張られるよりは……
そう安心したのも、束の間。
わたしは見てしまった。
アルミリアの背後に、迫る影を……
刃のようなものを振りかざし、彼女を切り裂こうとするのを。
「逃げて、アレーナ!」
アルミリアと位置を入れ替わり、突き飛ばす。
彼女に当たるはずだった刃は、わたしの背中を切り裂いた。
「アリシア……!
アリシア!」
気にしないで、アルミリア。
これが、わたしの役目……それを、果たしただけ。
逃げて、早く……
「許さない……
よくも、アリシアを!」
……分かってる。
そう、あなたはそういう人。
でも、今はあなたのそんなところが憎い。
どうして逃げてくれないの?
──許せない──
──いつも、いつも、自分勝手──
──わたしのことを、見てくれない──
《おまえが居る限り、わたしは影のままだから》
だから……