第九十四話
ゲレルの内側からほとばしる炎が、自身の体内に浸食していた『影』を燃やした。
それを伝って、影の獣の全身も火炎に包まれ、獣は苦しみに悶える。
立ち上がるゲレル。
精霊と一体になったその体は、ほのかに赤く輝いていた。
その髪は、炎のようにたなびく。
そして、弓を構える。
矢は持たない。
指先で、矢があるべきところをなぞる。
すると、そこに炎が渦巻き、収束し、一本の矢となる。
炎の矢を放つ。
それは、影の獣に向かって、まっすぐに飛んでいく。
影の獣は、八つの刃で撥ね退けようとする。
たった一本の矢。
弾かれれば、それで終わり。
だが、それでもゲレルは得意げに笑う。
「それは、タダの矢じゃねぇ!」
その矢は、意志を持つかのように刃をかいくぐる。
そして、影の獣の頭上を抜けて……
「受け取れ……セイン!」
獣の背に立つセインの胸を、貫いた。
*
何も見えず、聞こえず、感じるものもない。
暗闇さえ優しく感じる『黒』の中に、セインはいた。
目を閉じているのか、開いているのか、もはや自分自身というものが分からなくなりそうになった……その時だ。
胸の奥から、熱を感じた。
体の中に血が通う感覚を、思い出す。
音が聞こえる。
心臓の音。
体が動く。
『ここに自分は居るんだ』と、感じられる。
「……っていうか、熱っ! あっっっっつぅ!!!!!?」
体の中を巡る血は、巡るごとに熱を増し、まるで沸騰したかのようだった。
だが、そんな気がする、というだけのようだ。
そもそも、今は生身の肉体ではなく、魂の状態なのだから。
「なにこれ。
えっ、なんだこれ?!」
自分の身を包む炎。
突然起こった、身に覚えのない力に、セインは戸惑う。
だが、気が付く。
これは、ゲレルから送られた力なのだと。
最初は驚いた。
だが、慣れてくれば、怖いものではないと分かる。
むしろ、心強く感じた。
「ありがとう、ゲレル」
両手に剣を呼び出して、その身を流れる炎を刀身に宿す。
「こんな辛気臭いところは、さっさと燃やしちゃおうか!」
勇士の剣とエスプレンダー、二本の剣で空間を切り裂き、その炎で『黒』を燃やす。
この空間を塗りつぶしていた『黒』が燃えて、視界が開ける。
その時、一瞬脳裏に浮かぶ光景……
……目の前に、小さな少女の姿があった。
金色の髪、碧の瞳……幼いがその姿には面影がある。
「アレーナ?」
アレーナらしき少女は、こちらに吸い寄せられるように近づいてきていた。
だが、それを誰かに引き止められたようで……
それから、この視界の主は、アレーナに襲い掛かった。
襲われたアレーナを別の少女が庇う。
薄い金色の髪をした、アレーナによく似た少女が……
「今のは、いったい……」
気が付くと、目の前には黒い繭のようなものがあった。
心の中に糸を張り巡らせ、中に何かを閉じ込めているような……
「さっきのは気になるけど、今は先にあれだよね……!」
黒い繭は、自分を護ろうとしているのか、セインに向けて糸を放って攻撃する。
セインはそれを剣の炎で焼き払い、突き進む。
繭の目の前まで辿り着いたセインは、表面を切り裂き、中へと手を伸ばす。
様々な感情が、セインの中に流れ込む。
『全てを、一つに』
『触れたい』
『わたしも、彼女のようになりたい』
それは、誰か一人のものではなく、いくつかの人格が絡み合った、複雑なモノ。
そのせいか、奥まで手を伸ばすのが、困難だった。
『奴が邪魔だ』
『消す』
『ワタシが、ホンモノに、なる……』
絡み合った感情は、それが『誰のものか分からない』。
きっと、本人もそうだ。
自分のものでない感情と、記憶を、『自分のものだと思ってしまっている』。
セインはその手を伸ばし、繭の中でなにかに触れた気がした。
『おね……がい……たす、けて……』
また、視界に映る『誰かの記憶』。
血を流して倒れる、二人の少女。先ほど見た少女と同じ人物のようだ。
一人は辛うじて話せるようで、こちらに語りかけている。
『このまま……では、死んで、しまう……
わたしは、いいから……その子を……
大切な、人なの……』
少女は消え入りそうな声で、必死に訴えてきていた。
『アレーナを……おねがい……』
その言葉を最後に、少女は動かなくなる。
視界の主は、その少女の意思に応えるように、もう一人の少女に近づき……傷口から、中へと入り込んだ。
その時、セインは背筋が凍り付きそうになるほどの、おぞましい気配を感じた。
動かなくなった少女の元に、なにかが集まっていた。
酷く冷たい、なにか……『影』のようなものが……
──エデンと似ているような……でも、少し違う──
セインは、繭の中で触れた何かを、掴む。
「キミのことは許せない。
どんな理由があったのだとしても……」
そして強く、自分の元へ引き寄せる。
「だけど、キミは……キミの意志で生きろ!
誰かにいいように使われたままで終わるな、アリシア!」
繭の中から引きずり出したアリシアを、セインは抱きとめる。
「……エデンは……?」
その姿はまだ見えない。
だが、もう一度繭の中へ手を伸ばそうとした時……
嵐のように強い風が吹きすさび、セインは、この世界から弾き出されてしまった……
*
影の獣から、その身を弾き飛ばされたセイン。
ズキズキと痛む頭を押さえながら、上半身を起こす。
『影』はアリシアの体から離れ、どこかへ飛び去ろうとしている。
まだあそこには、エデンが捕らわれている。
──止めなきゃ……!──
こちらへ駆け寄ってきていたゲレルに、声を上げようとする。
だが、咄嗟に声が出てこない。
体と魂が離れている時間が長すぎた。
魂が肉体と繋がり切れず、思うように体が動いてくれないのだ。
このままでは、逃げられてしまう……
そう考えた瞬間、セインは目にする。
一筋の輝きが、まっすぐ飛んでいく。
『影』に向かって。
それは白金に輝く槍だった。
槍が『影』を刺し貫く。
光の柱が立ち、『影』をこの地に縫い付ける。
その隙で魂が体に定着し、セインは駆け出す。
「ルーアッ!」
セインは声を絞り出す。
離れて眺めていたルーアが、その一言に応えて手をかざし、彼の足元を隆起させる。
空中に捕えられている『影』の元まで近づき、セインは飛ぶ。
一回きりのチャンス。
セインは迷わずエスプレンダーで斬りつけ、中に見えた黒い球体に手を伸ばす。
その球体を胸に抱え、地上のゲレルに視線を送る。
弓を構えていたゲレルは、炎の矢を作り出し、『影』に向けて放つ。
そして、セインは落ちながら風の力を剣に纏わせ、ゲレルの矢が刺さるのと同時に振るう。
『影』は一気に燃え上がり、灰となって消えた。
「なんだったんだ、あれ」
戦いを終えて、ゲレルが呟く。
「『邪悪なる者』は、かつて勇士が『意志』と『力』に分けて封印した。
……そうだな、ルーア?」
そう言って、セイン達の元にやってきたのは……アレーナだった。
ルーアは彼女に唖然としながらも、問いかけには頷く。
「エデンは邪悪なる者が元々持っていた『意志』。
そしてあれは、『力』が意志をもったものだ。
今や『力』は単独で『邪悪なる者』になった。
そして、より完全な存在となるために、『エデン』を取り込もうとしている」
そういいながら、『エデン』を抱くセインの元へ近寄る。
「取り込まれてしまえば、『エデン』の意識は飲み込まれ、失われてしまうだろう。
だから……私は守ると決めたんだ」
アレーナは、エデンを受け取り、自らと同化させる。
「私は、間違ったことをしているかもしれない。
けれど……私が、この友人にしてあげられることは、これだけだから」
俯き、自分の胸に手を当てるアレーナ。
彼女はその姿を変えながらも、セインを見つめ、告げる。
「セイン、キミを信じている。
だから、私は私にできることをする」
そう言って、彼に背を向け、遠く彼方に視線を向ける。
「……あまり時間がない。
私とエデンで、もう少しだけ時間を稼ぐ。
『世界の中心』で待っている」
それだけ告げて、彼女は飛び去って行った。