第九十三話
わたしは彼女に憧れていた。
可憐で、自由で、強くて。
わたしはその現身。
彼女の影。
『だから、邪魔だった』
彼女がいる限り、わたしは表に立つことはない。
『だから、消さなきゃいけない』
わたしは、それで……
『わたしが本物になるために、あいつが邪魔だ』
違う……! わたしは……!
『消えろ、消えろ、消えろ、消えろ』
わたしは……!
*
霊脈で源素を貪る、黒い影。
あれはアリシアなのか、エデンか。
それとも、別のなにかなのか。
「バケモノ、だな……ありゃあ」
それを見たゲレルがそう呟いた。
セインも、似たような感想を抱く。
エデンとは違う。
アリシアだって、あんなことはしないはず。
あれには、『理性』も『知性』も感じない。
本能の赴くままに動いている、ように見える。
では、あれはいったい何者か?
と聞かれても、答えは出ない。
「あえて呼ぶなら『影の獣』といったところか」
と、あの姿を見てルーアが言う。
「オッケー、『バケモノ』って呼ぶのは、ちょっと可哀そうだしね」
アレが、助けるべき二人のどちらでもないのなら……
「よし、やることは……決まったね」
なにも、躊躇うことはない。
「まあ、いつもと同じ感じでイケるでしょ」
「正気か⁉」
腰の両脇に差した剣に手をかけるセイン。
だが、それをルーアは引き留める。
「よく考えろ!
いつものヤツって、心の中に入り込むあれだろう?
あやつ、見るからにヤバそうではないか。
絶対大丈夫ではない奴だぞ!」
「……正直言うと、セナの方がもっとヤバそうだったし」
「それ、本人には絶対言わぬ方がよいぞ」
仕方ない、とばかりにルーアはため息を吐く。
「中に入って、本気でヤバいと思ったら一旦離れろ、いいな?」
「分かってる。やれたらやるよ」
セインが頷いたのを見て、ゲレルは弓を構える。
「腹は決まったみてぇだな。んじゃ、始めていいな?」
セインが走り出すのを合図に、ゲレルは矢を放つ。
『影の獣』の気を、ゲレルと、ルーアに向けるためだ。
だが、矢の一本や二本刺さった程度では、こちらに気づく素振りもない。
「お食事の方が大事ってか?
嫌でもこっちに振り向かしてやるよ!」
ゲレルは、影の獣に刺さった矢に意識を集中させる。
すると、その矢は徐々に赤みを帯びて……大きく、爆ぜる。
「爆発、強すぎじゃね?」
ゲレル自身、こうなるとは思わない勢いだった。
だが、お陰でバケモノの気は完全にこちらに向いていた。
「え、『霊脈が近いから、共鳴して増幅した』?
なるほどな! じゃあ、ここなら……」
精霊から話を聞いて、表情に自信が満ちるゲレル。
「おれは『最強』ってことか!」
そう言って、再びバケモノに向けて、矢を放つ。
源素の吸収を邪魔され、アレは怒っている様子だった。
口元以外、陰に覆われた顔が向けられる。
黒塗りになった顔の上半分から、無数の目が見開く。
ゲレルは、その視線を一身に集めていた。
「うわっ、気持ち悪ッ!
もはやアリシアの面影すらねえな、あれ!」
影の獣は、深くしゃがみ込んで、ゲレル目掛けて飛び上がる。
「なーに、あれくらいのほうが、加減しなくて良いというものだ!」
迫りくる影の獣に、立ちはだかるルーア。
腕を組みながら立つ彼女の両サイドから、舞い上がる粉塵。
頭上でひと塊になったそれは、握りこぶしのような形となる。
組んだ腕を解き、今にも殴りかかるように腰をひねる。
その動きに対応するように、拳型の岩も動く。
そして、横薙ぎに右の拳を振りぬくルーア。
近づいてきた影の獣に向けて、岩を一つ叩きつける。
影の獣は殴りつけられて、地に堕ちる。
だが、すぐに起き上がり、両手を地につけた獣のような立ち姿でルーアを睨む。
外套のように纏った影を広げる。
広がった影は八又に分かれ、先が刃のように平たく、鋭く変化する。
ルーアに襲い掛かる、八本の刃。
それを前にして、彼女は両手の平を胸の前で合わせる。
先ほど作られた拳型の岩が、今度は平手に変わった。
岩はルーアの動きに合わせて動き……影の刃を挟みこむ。
そして、指をしっかりと絡ませ、がっちりと組んで捕える。
さらに、影の獣の足元が泥のようにぬかるみはじめ、僅かにその体が沈んだ後、固まる。
影の獣が身動きを取れなくなったところで、ルーアが叫ぶ。
「今だ、セイン!」
影の獣の視界から外れ、背後に回り込んでいたセイン。
ルーアの声を合図に、『勇士の剣』と『エスプレンダー』二本の剣を、影の獣に突き刺した……
*
そこは、真っ暗だった。
いや、暗いというよりも、見渡す限りの『黒』。
今までにない景色に、セインは困惑する。
──これが、アリシアの心の中?──
いや、そんなはずない、とセインは首を振る。
これまで見てきた心は、歪められていたとはいえ、『感情』があった。
怒り、悲しみ、不安……そう言った感情が増幅して、『心の風景』を作っていた。
しかし、ここはなにも見えない。
まるで、黒く『塗りつぶされてしまった』かのような……
そこで、セインは気づく。
黒さのせいで、距離感を掴めなかったが……
今、『この空間が縮まっている』ということに。
──これ、僕を捕まえようとしてる?──
冷や汗が、頬を伝う。
「ルーアの忠告、ちゃんと聞いといたほう良かったかも」
*
セインの様子がおかしい。
彼の表情は苦しそうで、息遣いが荒くなっている。
そして影の獣から、セインの握る二本の剣を通して、黒い影が伸びていく。
まるで、根を張ろうとするかのように。
「おいルーア、あれどうなってんだよ!」
様子を見ていたゲレルが焦り、ルーアに詰め寄る。
問い詰められる彼女も、焦りが見えている。
「もしかすると……奴はセインを取り込もうとしているのかもしれぬ」
「やべぇだろ、それ! すぐに引きはがさねえと!」
だが、その時……
影の獣の拘束が破壊され、影の刃が二人に襲い掛かる。
二人は咄嗟に攻撃を回避する。
だが、ゲレルは矢筒の紐が切られ、落としてしまう。
──しまった……!──
一本だけ矢を手に取ることができた。
その一本に賭け、影の獣に放つ……
だが、それはいたずらに獣の怒りを買っただけだった。
襲い掛かる獣の攻撃を、弓でいなす。
だが、その猛攻を受けきれず、ゲレルは地に組み伏せられてしまう。
──ちくしょう、おれじゃ、なにも出来ねぇのかよ!──
自分の無力さが悔しくて、奥歯を噛みしめる。
影の獣は、刃の先をゲレルの体に刺しこむ。
体の中に、入り込んでくる。
取り込まれていく……
──やっぱり、おれじゃ、ダメなのか……──
心の中が、黒く塗りつぶされていくように感じた。
絶望して、諦めかけた。
……その時。
『そんなことは、ない!』
声が、聞こえた。
それは、初めてのようにも、聞き覚えがあるようにも思える。
『キミは、キミだからここに居る!』
強く、訴えてくる、少年のような声。
──おれ、だから……?──
『勇士様は、誰かの代わりにキミを選んだのか?
違う、そうじゃないはずだ!』
──セインは……──
思い出す……彼が、自分を仲間に引き入れてくれた日のことを。
『一緒にいて心強くて、同じところを目指してくれる人……他に思いつかないんだ』
確かにセインは、そう言ってくれた。
──ああ……そうだ。
あいつは、他でもない『おれ』を信じて、仲間にしてくれたんだ。
なのに……──
ゲレルは、黒く塗りつぶされようとした心に、『火』が灯りだす。
「おれが勝手に諦めるわけには、いかねえよな!」
体に力を入れて、心臓まで伸びてきていた『影』を押し返し始める。
『そうだ、それでいい。
ボクの名を呼んでくれ!
ボクの声を聴いてくれたように……
これはキミにしか、出来ないことだ』
「声を、聴いてくれた……?
そうか、おまえ、精霊か!」
それに気が付いた時、頭の中に『名』が浮かぶ。
「そうか、これかお前の名か!」
『そうだ、ボクの名は──』
──アグニ!──




