五話
紀伊国北部に存在する紀伊城の大広間。
そこでは、右腕を肘置きに置いて頬杖をつき、やる気を感じない表情で座布団の上にだらしなく座る女の姿があった。
彼女こそ、兄である一矢に反旗を翻して八咫烏の頭領を狙っている八咫美幸である。
戰場に立たないというのは退屈でならない。
予定では、我が軍が今頃あの男、一矢率いる軍と戦をしている頃だ。
尊敬する母上から教えてもらった戦術で奴に挑んでみたが恐らく駄目だろう。
「失礼します」
襖が開かれて一人の男が大広間内部に侵入した。
「姫様。先ほど一矢様との戦が終わりを告げましたので、ご報告いたします。結果から言いますと、我が軍は惨敗。我が軍が得意とする馬防柵の後ろから大量の鉄砲を用いて敵を殲滅する戦術は敗れましてございます」
「そうか……」
思った通りだ。私が母上に教えてもらった戦術はこれだけ。母上に懇意にされ、今回用いた戦術を破るすべを教えてもらっているであろう奴相手だと、こうなることは分かっていた。
「それで、奴はどのような策を用いて我が軍の戦術を破ったのだ?」
「それが、一矢様は龍神様を従える者を味方につけたらしく、その者を使って空から有効射程外より鉄砲で攻撃。敵は有効射程外にいるため、こちらの攻撃は届かず、対して敵は有効射程外とは言え下ろすように撃ったため有効となり、恐怖した我が軍は統制を失い分散し、そこを騎馬鉄砲隊により殲滅させられました」
「龍神だと? 奴は龍神を味方につけたのか。一体何故だ?」
「それが、情報によりますと、龍神様を従える者は桂月様より名上討伐を命じられたらしく、その者が桂月様のお導きで一矢様に付くようにと」
なるほど、桂月様が――こうなっては、母上より一つしか戦術を教えてもらっていない私は不利。
できればこの戦術を用いて奴を倒したかったが、仕方がない。
「次の戦より『あれ』を使え。それと、次の戦は私が直々に相手をする」
そう言って美幸は立ち上がった。
太陽が沈みかけている頃、三本足のカラス、八咫烏が描かれた軍旗をなびかせ、一矢率いる軍、八咫烏が生い茂る木々をかき分けて行進していた。
一行が目指すは、美幸がいる紀伊城。
「日が傾き、適当な屋敷や民家もなしか」
一矢がそう漏らした。
本来であれば、家臣などが下調べをし、寝泊まりするための屋敷や民家に事前に交渉するものである。
しかし、争いごとに巻き込まれたくないがために、どこも彼らを受け入れはしなかったのだ。
「若。日が完全に沈んだ状態で屋敷や民家を探すは危険。本日は不便ではありますが、ここで野営にすべきかと」
じいがそう提案してきた。
確かに、夜中で何も見えない状態で捜索は危険。じいの言うことに従うべきか。
「うむ。よし、今日はここで野営とする。準備にかかれ」
黒鍬者(工作活動などをする者たちのこと)たちは準備に取り掛かった。手慣れたもので、将のための幕や夕食の準備が着々と進んでいる。
野営の準備をしているのを確認した紀伊は地上に降り立った。
「直正。野営だって」
紀伊が直正に声をかけるが、返事がない。
紀伊は首を折り曲げ、直正が乗っている背中を見た。
直正は未だ恐怖に支配されており、目を見開いて下を向いてガタガタと震えている。
そんな彼らのもとに、一矢が歩み寄った。
直正殿は恐怖に怯えている。無理もない、人を殺すという取り返しの付かないことをしたのだ。
自分にも覚えがある。はじめて戦場に立ち、敵とはいえ、人を殺めた日の夜は寝付けなかった。
だからといって、いつまでもこの調子では困る。辛いだろうが、慣れてもらわねば。
己の欲望を満たすためだけに人間同士が殺し合う。それが戦争なのだ。
「直正殿。今日は何もしなくていい。夕食を取り、休まれよ」
とにかく、今日は安静にしてもらおう。それが彼のためだ。
一矢の声に直正の反応はない。紀伊はそんな直正を完成した幕の中へと連れて行った。
しかし、困ったものだ。時間が解決してくれそうもない。どうすればいいものか――。
「一矢様。女性が我が陣営に訪れております。何でも、直正殿にお会いしたいとか」
兵の一人が一矢に声をかけた。
女性? それも直正殿にお会いしたいとか。一体何者なのだ?
「よい。通せ」
「じゃあ、私は行くよ。また明日。早く元気になってね……」
紀伊は直正に背を向けると、飛び立ってその場を後にした。彼女にとって本日の食事、野生の熊などを探すためだ。
直正は虚ろな目で横になっていた。夕食の準備が整っていい匂いが漂うが、それでも彼の反応はない。
あんな光景を目の当たりにしたのだ。食欲が出ないのは当然である。
寝てしまおう。そうすれば今日の出来事をきっと忘れてしまうはずだ。そうだ、そうに違いない。
彼は、今日起こった出来事から逃れるため、目をつむった。
――人に狙いを定めて引き金を引いた。銃声の後に人から血が流れ――。
直正は目を見開いた。全身から冷や汗が流れる。
駄目だ。目をつむるとあのときの光景を鮮明に思い出す。
何故こんなことになってしまったんだ。俺はただ、世の中の人々から英雄と呼ばれる。そんな存在になりたかっただけなのに。
いや、戦争と言うものを甘く見ていたんだ。お互いに己の誇りをかけて武をぶつけ合い、敬意を払って尊敬しあう。そんなものだと思っていた。
しかし、現実は違う。そこにあるのは、いかにして相手を多く蹂躙するか。それだけ。
またあのような光景に遭遇するのなら、もう英雄なんてどうでもいい。
突如陣営がざわつき始めた。将兵たちは自分の手を止めて立ち上がり、姿勢を正す。しかし、彼、直正は気付かない。
陣営をざわつかせたものは、直正に近づいた。
「あなたの英雄に対する思いはそんなものだったのですか。そうならば、とても残念です……」
女性の、それも聞き覚えのある声だ。どこで聞いた声だったか。
声の正体を確認するために直正は横になったまま、頭だけを声のした方に向けた。
そこには、巫女服で身を包んだ女性、桂月と一矢が立っていた。
「桂月様!」
直正は急いで立ち上がり、頭を下げた。
「直正。私はあなたに英雄の才を見いだし、名上の討伐を命じました。あなたには期待しているのですよ。必ずや名上を打ち倒し、私の望む世を迎えてくれると」
直正は桂月の顔を見た。
「ですが、私は先の戦で現実を目の当たりにして、恥ずかしながら怖じ気ついてしまいました。申し訳ありませんが、私には英雄の才など無いため、桂月様のご期待に応えられません……」
思い返してみればそうだ。紀伊の背中に乗って空を飛んだ時に恐怖し、今回もまた、戦争を経験して恐怖した。こんな姿を見て誰が英雄と言うものか。
「申し訳ございませんが、名上討伐は他の者をあたってください……」
「その考えは、今後とも変わることはありませんか?」
「はい……」
そう、これでよかったのだ。
何の変哲もない凡人が、英雄になろうなど端から無理だったのだ。
「――そうですか。こんな事したくはなかったのですが、仕方がありません」
桂月様は突如手を叩かれた。
それと同時に、俺の目の前が真っ白になった。
桂月様は何をなされた? 手を叩かれたかと思うと、直正殿は力なくうなだれた。
「桂月様。一体何を?」
「今、彼の記憶から本日の合戦とたった今の出来事、それと恐怖心を奪いました」
記憶と恐怖心を消しただと!?
うなだれた状態から直正殿頭を上げ、辺りをキョロキョロと見回している。恐らく、何があったか理解できていないのだ。
「ここは……あっ、桂月様!」
直正は頭を下げた。本日二度目だ。
「お久しぶりです、直正。その後、どうですか?」
「はい。何事も無く、紀伊も私も健康そのものでございます。現在、そちらにおられる一矢様のもとに身を寄せてございます」
桂月様がおっしゃられたとおり、先ほどの記憶は消えているようだ。
念のため、本日のことを確かめなくては。
「直正殿。本日何があったか、覚えておられるか?」
「本日? 身を寄せさせていただいたことだけですが……それが何か?」
「いや、なんでもない」
本日の合戦のこともすっかり忘れているようだ。
「それはそうと、何です? その格好は」
桂月様は直正殿身なりを見て言った。
簡素な防具に包まれたそれは、どう見ても雑兵だ。
「いけませんか? 直正殿は戦闘や訓練の経験がないゆえ、このような格好にしたのですが」
「英雄が雑兵と同じ格好とは聞いたことありません」
桂月の言葉に、直正はうんうんと同意するように頷く。
再び、桂月様は手を叩いた。今度は直正殿が光りに包まれたかと思うと、一瞬のうちに光は消え、見事な甲冑に身を包み、一目見て名刀だと分かる刀を携えた姿になった。
「遅くなりましたが、私からささやかな贈り物です。軽量ながら頑丈な甲冑と名刀、『月輪』。それと、特殊な力を授けました」
「そう、これです! 英雄というのはこういう格好をしているものですよ!」
直正の顔が満面の笑みになる。
「それはそうと、特殊な力? それは何ですか?」
「それは、その時のお楽しみということで」
桂月は笑顔で言った。
本当に凄い。さっきまで雑兵だった男が、一瞬のうちに英雄を思わせる風格に変わった。
これが、神の――桂月様のお力か。
翌日、八咫烏は開けた土地に陣を展開していた。
何故かと言うと理由は簡潔。敵対している美幸の軍勢と遭遇し、対峙したからだ。
お互いの陣地から一矢と美幸が前に出た。両者、険しい表情で睨み合っている。
再び、合戦が行われようとしていた。