十六話
俺は今、ハアハアと息を切らしながら雑木林の中を歩いている。前を歩いている美幸が振り返って見てきた。
「大丈夫か?」
「大丈夫、です。構わず、行ってください」
「分かった。しかし、無理はするな?」
美幸は前を向いた。
今までの人生で幾度となく歩いてきたが、息を切らした事はなかった。では何故、息を切らしているのか?
原因は俺の背中にある。背中に重みを感じる。
この重みの正体は、紀伊だ。本日出立する時、俺は紀伊に背中に乗るように提案した。昨日、無理に歩かせた事で紀伊の傷口が開いたからだ。本日もまた歩かせると傷口が開くだろうし、これでは治るものも治らない。
紀伊は俺の提案に昨日のように拒否することはなく、素直に従った。紀伊もまた、傷口が開くことは避けたかったのだろう。
突如頭の上に何かが落ちた感覚を覚えた。左腕で紀伊が落ちないように支えつつ、右手の人差し指と親指でそれを摘む。
それは乾いた米粒だった。確かこれは携帯食料のものだ。何でこんなものが? まさか。
背中にいる紀伊を見た。口をモゴモゴと動かしている。
「何を食べている?」
「乾いたお米」
紀伊は「何か?」と言いたげな顔をしている。
「いやいや、『乾いたお米』じゃなくて。断りも無しで人の背中でものを食うなよ」
俺は善意で紀伊を背中に乗せているのだ。そんな人の上で何の断りも無しでものを食うなんて失礼だろう?
そんな俺の言葉に紀伊は不敵な笑みを浮かべる。何だ、気味が悪い。
「ね? よく分かったでしょ?」
「分かったって何が?」
「人の背中で断りも無しにものを食べられるとどう思うのかってことが」
思い出した。確かそんなことがあったな。
一矢に会うために紀伊の背中に乗って空より八咫城に向かっていた時、俺は紀伊の背中でおっかあから貰った握り飯を食べたことがある。
その時、紀伊に人の背中でものを食べられるとどう思うかと聞かれた。
それに対する俺の返答は「何も思わない」だった。理由はそんな状況、ありえないからだ。
しかし、今はその状況。はっきり言って迷惑だ。食べかすが頭の上に落ちてきたからな。
「やれやれ、分かったよ。迷惑な事この上ないな。あの時無断でものを食べて悪かった」
「分かればいいんだよ」
言って紀伊は自身の手のひらにある携帯食料をすべて口の中に放り込んだ。食べるのはいいが、手からこぼれた米粒が俺の顔の上に落ちてくる。
「あの、龍神様? 米粒が俺の上に落ちてきてるんですけど」
「細かいこと気にしちゃだめだよ」
やれやれだ。そう思いながら前を向くと、一矢と美幸が立ち止まっていた。何やら顔を上げている。
「何かあったのですか?」
足を止めて一矢に声をかける。
「ん? ああ、この木がな……」
一矢と美幸、二人の目線の先には木があった。松の木だ。樹齢何百歳と言ったところか、幹が太くて大きい。
「この木が何か?」
「――いや、何でもない。行こう」
一矢は再び歩きだした。見つめていたこの木、一体何があるのか。
「ここで兄上は拾われた」
美幸が話してきた。目線を美幸に移す。
「母上から聞いた話だが、むしろが敷かれてその上に幼少の頃の兄上が捨てられていたらしい。兄上はこの木を見てその時のことを思い出したのだろう」
一矢は八咫の血が入っていない他人だという話は聞かされていた。てっきり俺は才を見い出されてどこかの寺から養子として迎え入れられたと思っていたが、まさかそんな悲惨な過去があったなんて。
「この話はあまり兄上にはしないであげないで欲しい。兄上にとってあまり思い出したくないであろう過去だろうからな」
誰にだって忘れてしまいたい、そんな過去があるだろう。それをつつくのは野暮というもの。
俺は了承の返事を返した。
「行こう。ここで立ち止まっていては野宿になる。昨日みたいな思いはしたくないだろう?」
美幸は歩きだした。
夜通し戦い続けると言う、昨日みたいな出来事は御免被りたい。
俺は二人の後を追った。
その町は何やら異様な雰囲気を放っていた。うまく説明できないのだが、汚いと言うかそんな感じだ。
町を歩く人々を見るとあることに気づいた。圧倒的に男性が多いのだ。そして皆一様にニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべている。
「この町、何か変じゃないですか?」
美幸に耳打ちする。しかし、美幸からの返事はない。
聞こえてなかったのか、美幸の顔を覗き込むと顔色が悪かった。
「美幸、大丈夫ですか?」
美幸の肩を叩いて声をかける。ハッとしたように体をビクつかせると、俺の方を向いた。
「ああ、大丈夫、だ。問題、ない」
息苦しそうに呼吸をしながらそう答えてくる。どう見ても大丈夫じゃない。
美幸に肩を貸そうとした時、横から男の声が聞こえた。
「よう、姉ちゃん。大丈夫かい?」
声の主は豊満な体の男だった。みすぼらしい格好で、この町の人々と同じように気持ち悪い笑みを浮かべている。
「大丈夫、だ。気遣い感謝、する」
息苦しそうに美幸はそう答える。
「大丈夫じゃなさそうじゃねぇか。どれ、俺が休めるところまで連れてってやるよ」
「いや、いい……」
美幸がそう断ったにも関わらず、男がまあまあと美幸の腕を掴んだ。なんだか強引だ。
「あの、本人がこう言っておりますから」
本人が断っているにも関わらずにしつこい。親切もここまで行くとただの押し付けだ。
左腕で背負っている紀伊を支えながら、右手で男の手を掴んで美幸から離そうとする。
「触んじゃねぇ!」
突如男に殴られた。突然の出来事のために身構えておらず、吹き飛ばされて背中から地面に倒れる。まずい!
紀伊を背負っている。そんな状態で背中から地面に倒れるとどうなるか、簡単に予想がつく。
とっさに体をひねって背中から地面に倒れるのを回避する。その代わり、体の前面から地面に倒れ込んだ。
受け身を取っていないことに加えて、背中に紀伊がいる事も相まって地面に強く体を打ち付ける。
「ちょっと! 大丈夫!?」
紀伊が背中から降りて声をかけてくる。痛みが全身に走る中、俺はそれに「大丈夫」と答えた。
「ったく、何だこいつは。さあ、姉ちゃん行こうぜ」
「直正! 紀伊! 離せ、貴様!」
痛みに耐えながら横目で美幸と男を確認する。
美幸は男から離れようと懸命にもがいていた。しかし、男の手は美幸の腕を離そうとしない。
そんな美幸に相変わらず気持ち悪い笑みを浮かべながら男は美幸を連れて行こうとする。
まずい、このままじゃ美幸は――!
「待て、どこに行く?」
男の前に一矢が立ちはだかった。その顔からは相当な怒りを感じられる。
「あん? 何だてめぇは!」
「お主が腕を掴んでいる女子の兄だ」
男はガンを一矢に飛ばしたが、一矢は怯む様子はない。威風堂々としている。
「なるほど、この女を守ろうって訳か。さっきの男のように殴り飛ばしてやるよ」
男は美幸の腕を手放し、両手をボキボキと鳴らした。
開放された美幸は一目散に俺のもとに駆け寄ってくる。
「直正! 紀伊! 怪我は、ないか!」
美幸が俺を介抱した。そんな美幸に、怪我も何もない事を伝える。
そんな事よりも一矢だ。男は一矢よりも背丈が高い。一矢は武人とは言え、勝てるのか?
「心配する、ことはない。兄上は、あのよう、な男に負けはしない」
美幸が言う。
そうだ、一矢には槍という武器がある。それだけで有利だ。
美幸の言葉を信じるとしよう。
「さあ、構えろよ」
男は笑みを浮かべながら一矢を挑発する。
そんな挑発に一矢はふっと笑みを浮かべると、持っていた槍を手放した。
って、おいおい! 何をやってるんだ! 自分から不利な状況を作ってどうする!
「あん? 何の冗談だ?」
「お主ごとき、武器を使わずとも勝てる」
そう言って一矢は構えた。
まさか、挑発に乗ったのか!? 悪いことは言わない! 槍を拾えって!
「ふ、ふざけやがって!」
男は勢いをつけて一矢に殴りかかった。駄目だ、やられる!
そう思った矢先、一矢は体をひねってそれをかわし、殴りかかってきた腕を掴むと男の足を引っ掛けて転ばした。
男は地面に倒れ込み、一矢すかさず男の胸ぐらを掴み拳を作って男の顔めがけて殴りかかった。男は悲鳴を上げる――拳が男の顔に当たる寸前で一矢は殴るのをやめた。
一矢は胸ぐらから手を離すと、槍を拾って男から距離を取り、男に向き直る。
「今のは手を抜いたが、次はお主の命をもらう」
一矢は槍を構えた。男は恐怖したのか、素早く立ち上がると一目散に逃げて行った。
それを見た一矢は構えを解き、こちらに近づいてきた。
「三人とも怪我はないか?」
一矢が手を差し伸べてくる。俺はその手を掴んで立ち上がった。
「ええ、何とも。それにしても驚きましたよ。急に槍を手放すんですから」
「何も武器を使うだけが武人ではない」
ふと辺りを見渡すとあることに気がついた。先ほど殺し合いになりそうな出来事があったというのに、誰一人俺たちに注目することはなく、知らぬ存ぜぬという態度を貫いている。
先ほどのような出来事があったら、普通は堺の国で一矢と美幸が睨み合っていた時のように注目してくるはず。
「この町ではこれが普通だ」
俺の様子を察知してか、一矢が話し始めた。
「この町はある産業が盛んでな、独特の雰囲気を放っている。美幸のような真面目な女子には耐えられないものだ。どうする、この町から離れて野宿するか?」
「いや、私、一人に配慮する、必要はない」
「そうか、だが無理はするな。無理だと思ったら言え。すぐにでもここを離れる。それと直正」
一矢はこちらを見る。
「何ですか?」
「この町にいる間は多くの女子から声がかかると思う。しかし、ついていってはいけない。無視するのだ。いいな?」
俺は了承の返事をする。
ここで一つ疑問が浮かんだ。何故この人はこの町について詳しいのだろう?
「一矢はこの町に詳しいのですね」
興味本位でした質問だった。
そんな質問に一矢から驚くべき答えを聞くことになる。
「自分はこの町で生まれたからな」