エスケープ!
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自殺志願者というのはその存在からして矛盾している、自殺を志願しているのに生きて存在して『自殺志願者』として定義されているのだからおかしいに決まってる。私の幼馴染の藤堂慶介は、学校の帰り道とか塾の休み時間とか、私と二人きりになれる時間になると、そんな空虚で乱暴なことを良く口にした。
あいつらは自殺志願者なんていいつつ死ぬつもりなんかないんだ。死ぬつもりがない奴がすなわち自殺志願者なんだ。と慶介は言った。「本当に死んでしまう自殺志願者もいるじゃない」と私が反論すると、慶介は構えていたように鼻を鳴らして私の意見を嘲笑しては「自殺しちまった時点でもうそいつは自殺者であって自殺志願者でもなんでもないよ」と屁理屈なんだか良く分からないことを言って一人悦に浸った。私は「あーうんそうだね」言わせておいて満足そうな慶介を眺めた。
首を吊って自殺するくらいなら、自殺の原因となった人間をぶっ殺してしまえばいい。とも言った。
そんな慶介が個人面談の時に担任教師の田辺を殺害してしまったことは自然なことだった。いや、人が人を殺すことを指して『自然』なんて言葉がどれだけ当てはめられるのかどうかは私にもわからないけれど、少なくとも他の人間が別の誰かを殺すのと比べたら納得のいくことだった。屁理屈ばかりで口答えが大好きな慶介を田辺は嫌っていたし、そんな慶介をあからさまに差別し、それに追従する形で起こったいじめを黙認する程度には、田辺は教師としておかしな人物だったから。
田辺は毎日のようにクラスの人間に対して荷物チェックを行っていた。それが行われるたびに慶介の鞄の中から卑猥な本やビデオが出てきて、怒り狂った田辺は慶介を教壇の前に立たせてつるし上げにした。慶介の鞄にそういった物を仕込む生徒はだいたい決まっていて、田辺もまたそのことを知っていて毎日のように荷物チェックを行った。
慶介に与えられたあだ名は『ヘンタイ』という身もふたもないもので、そして『ヘンタイ』には人権など与えられなかった。授業中に首の後ろからライターを突きつけられて思わず立ち上がった慶介に、田辺は『静かにしろっ!』と叱咤を飛ばした。慶介が着席すると再び後ろの席の生徒がライターを突きつけて、驚いた立ち上がった慶介の訴えを無視して『いいから静かにしろ!』と田辺は吼えた。しまいに慶介が教室から泣きながら逃げ出してから、『何をしに着たんだろうなあいつは』と田辺は嘲笑するように言ってのけた。
だから慶介は荒んだ学生生活の中で『死にたい』なんて矛盾した言葉を口にすることもなく、田辺を殺してしまったのだろう。廊下で個人面談の順番を待っていた生徒たちが悲鳴を聞きつけて教室に入るなり、ホームセンターで売っている三百九十八円の彫刻刀を首に刺されて倒れている田辺と、血の川に手をつけて悲鳴を上げている慶介の姿が目に入った。
慶介は悲鳴を上げながら校舎内を走り回った。走り回ったというより逃げ回ったようなものだろうと私は思っている。しかし決定的な現場を見られてしまった慶介に逃げ場なんてこの世にはなくて、だから慶介は校舎の屋上の柵を乗り越えて飛び越えて耳から血を流して死んだ。
慶介は田辺に対して何もできないまま自殺するほど弱くはなかったが、田辺を殺して生きていられる程強くもなかった。
☆
慶介がいない私の生活は酷く陰鬱なものだった。いやいたところで陰鬱でさえない日々に違いはなかったが、その陰鬱でさえない日々を共通する人間がいなくなったことで、私は確かに支えを失っていた。
友達はいない。中学三年生、受験の年というものらしいが、それがどういうものなのか漠然とも私は理解していない。勉強の試験を受けて合格した高校に入れるという概念は理解していたが、そのために何をしてどういう振る舞いをすればいいのかがまるで把握できないでいる。
私はアタマが悪かった。一年生のときから塾に通っているが、学校の成績は下から数えたほうがずっと早い位置にいた。塾では一番できなかった。模擬試験を受ける度黒板に張り出される成績順位の一番下には常に私の名前があり、『こいつのようにならないように』と教師に指を指された。
分かりもしない勉強を夜遅くまで塾でして、家に帰って眠り翌朝友達のない学校に向かう。そんなことを繰り返しながら、自分がもっとも殺したかった人間を殺してこの世を去った、慶介のことばかりを考えている。
☆
世間はすぐに慶介の起こした事件を忘れ去った。テレビニュースでは、ナイフを使って両親を殺害し、現在も逃走中だという海原砂輝子という浪人生の話題でもちきりだ。それに呼応するようにしてクラスメイトが慶介の名前を出す回数が少しずつ減って行き、何事もなかったかのように個々に受験勉強とやらをやり始めた。
その日の夕方、一人取り残された私は、慶介の飛び降りた屋上へと訪れていた。
慶介の死を受けて施錠されていた扉の鍵を壊し、屋上と出て、沈みかかった夕日をぼんやりと見上げると、ふと大きなため息が私の腹から漏れてくる。
夕焼けを眺める時だけはどうしてか太陽は凄まじく近い。近くて、空一杯が太陽のオレンジ色に染まる。淡い光に照らされた屋上の背の高い柵が、屋上いっぱいを多い尽くすような長い長い影を作り出していた。陰が網目状にかかったコンクリートの地面を進んでいると、ことさら強い憂鬱が私の胸の奥に広がっていった。
憂鬱は瘴気とも言い換えられた。鼻のところまで迫ったぬるく臭う水でもいい。自分の体を包み込む、人間の心を窒息させる致命的な何か。
慶介はそれにやられたのだろうか。
柵を乗り越える。乗り越えた先の足場は私の靴のサイズほどもない。私は柵に背中を向けて虚空のほうを向いた。自分が宙に浮いているような感覚があるのと同じくらいに、自分が小さな足場にしがみつくようにして立っている感覚をひしひしと感じる。ここを降りれば、自分は慶介のようにあっけなく死んでいく。
慶介は死にたかったのか。
違うんじゃないか。私は思う。慶介は死ぬつもりなどなかった。ただ逃げ出したかった。このとてつもない瘴気の海の中から、慶介と取り巻いていたろくでもない世界から、ただ逃げ出したかった。逃げ出そうとして慶介は飛んで、結果として死という優しい暗闇の中に飛び込んだのではなかったのだろうか。
柵から手を離す。ここを飛び立ったところで別にどこへもいけはしない。どこにもいけないけれど、ここにいたらいつか壊れてしまう。
生きるのはつらい、けれど死ぬのは怖い。
漠然としている。漠然としていると、私は本当に不注意になる。足元のコンクリートの一つが砕けかかっていることも、気づかない。
私はぎょっとする。足元にあった確かな足場の感触が消えて、浮遊感と共に全身が投げ出されている。
……死んじゃうっ! そう絶叫した次の瞬間には、私は地面にたたきつけられていた。
☆
「来てくださいエドガー! 飛びました! 飛びましたよ、この子」
足が痛む。肩が痛む。腹が痛む。
小学生の頃滑り台の上から叩き落された時の感覚を思い出す。全身が痛むのと同時に、息ができなくて無償に苦しい。痛いと苦しい意外の感覚が全て吹っ飛んで、ただどうにかこうに課助けを呼ぶ声を張り上げることだけを試行錯誤するその間隔。
「エドガー! ねぇ、エドガー! 見てくださいよ」
「言われなくても分かる。でかいガキかおまえは」
男女の声が聞こえる。声は私のことを観察するように、少しずつこちらに近づいてくる。私はどうにか助けを求めようと体をくねらせ、男女のほうに視線を投げかける。
「あ……あらあら」
女の方が私に近寄って来てから、おろおろとした様子で体を抱いてくれた。暖かい、やわらかい、体だった。
「死ねなかったんですね。かわいそうに……。大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
私はなんとか声を出す。息が戻ってきている。私は泣き叫ぶように言う。
「痛いっ! 痛い痛い! 助けてっ! 死んじゃうじゃないの!」
「は、ははははあ。ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
女は泣きそうに言う。
「きゅ、救急箱を取ってきてください。あ。後々あと、その……。えっと」
女はおろおろとしながら私の体のあちこちをなでる。
「どこが痛いとか、ありますか? 立てますか? あ、無理ですよね。ごめんなさい。骨とか折ってますか? 血とかは? ……出てないですね。そうですね。すいません」
「落ち着けアホ」
少年のほうが言い放つ。
「救急箱な。でもふつうは救急車だ」
「呼びますか?」
女は私に顔を近づけていった。
「呼びますか? 救急車? ねぇ、呼びますか救急車。救急車!」
「いらない」
私はいった。そんな大げさなことをされたらあとが面倒だ。
「いいから助けてよ!」
「あ、すすす、すいません。その……」
言って、女は私の顔を見て。
「痛いですよね……かわいそう」
しばらくすると、男が救急箱を持って現れる。女は中から消毒液や包帯を取り出して、私の体に刻まれた擦り傷きり傷を一つ一つをおっかなびっくり始末していく。
暖かい手だ。思う。幼いころ怪我をして母に手当てされたときの感覚に似ている。傷の手当てをされるために体を預けるというのは、酷く安心することなのだと、思い出した。
「途中で木に引っかかったんだな。でなきゃ切り傷なんてのはできない。だがそれを幸いに、骨折その他の後遺症も残っていないってところかな。奇跡的でもなんでもないが、とりあえず、無事だ」
少し離れてみているだけの少年が知ったように言った。
「よ……よろしければ。その」
女がおずおずとして、とんでもないことを切り出した。
「もしもう一度飛び降りる気があるのでしたら……お手伝いなんか……」
今こいつなんていった……? などと、その違和感について深く考える間もなく、苦しみがアタマを塗りつぶしてしまう。
「黙れ死ね」
私は泣き叫ぶように言った。それくらい痛かったし、痛いことに腹も立った。とにかく近くの人に当り散らしたかった。
「死ね! みんな死ね! 死ね、死ね」
「す、すいません……」
女は泣きそうに言う。というか本当に涙目だった。
「と、とにかく車に……ここじゃ目立つし汚いから……」
「おまえのボロ車も似たようなもんだがな」
少年は毒づくように言った。
女に肩を貸されて、私はどうにかその車とやらにたどり着く。綺麗なシルバーのオープンカー。どう見ても新品で、値段も高そうに見える。ナンバープレートは『7777』だった。
「あんたたちは」
ある程度「いたいいたいしねしね!」とわめいて落ち着いてから。私はお礼も程ほど、というかまったくせずに、それだけを尋ねた。女のほうは、『ぴょこん』と間の抜けたお辞儀をしてから、ニコニコと笑いながら顔を上げる。愛想笑いのようでいて、本当に心から笑んでもいる、そんな笑いだった。
「わたしは亀太郎です」
どこか子供っぽくて、舌ったらずなかんじの『わたし』だった。カタカナでも漢字でもない、ひらがなの『わたし』という感じがする。すらりとしたきれいな女の人。車を持っているようだが、年はせいぜい十八か九だろう。
「亀太郎?」
私は目を丸くして問い返す。
「はい。亀太郎です」
「なにそれ」
「なにそれとは?」
亀太郎は首をかしげる。
「本当に亀太郎ですもん。ねぇ?」
「ハンドルネームということを先に言え」
少年が毒づくように言う。
「俺はエドガー。つってもネット上のハンドルネーム」
ぼさぼさの髪の少年はそう名乗る。やせぎすの体で、酷薄そうな鼻立ちをしていたが、その瞳には不思議なほどに力がなかった。どこか、慶介に似て見える。私より一つ二つ年上に見えた。
「本名はこの女も知らない。教えるつもりもない。教える必要もない」
「……なにそれ」
「あの」
と、おずおずと、しかしどこか弾んだ声で、亀太郎が提案するように言った。
「その……いえ、良かったらでいいんです。良かったらその、いろいろ、おもしろいところや綺麗な場所を一緒に回りませんか? この車で、わたしたちと一緒に来ませんか」
「は?」
私は言う。いきなり何を言っているのだろう。
「来るって、どこへ?」
「ですから。おもしろいところや、綺麗な場所です」
亀太郎はニコニコとして
「いい思い出になりますよ」
「最後にたどり着くのは地獄だがな」
エドガーが吐き捨てるように。
「ただ。あんたの行きたいところでもある」
そう言って口元に笑みを浮かべる。
「わたしたちも。あなたと一緒なんですよ」
亀太郎はふふ、と上品に微笑む。それから、いつくしむような表情でわたしのほうを見つめて、あまりにも流暢な口調でこう言い放った。
「自殺、するつもりなんです。だから……こんな学校みたいな場所じゃなくて、もっと綺麗なところをわたしたちと探しませんか?」
私は……十秒か、一分か、あるいはもっと短い時間か、分からなかったけれど、とにかく考えるでもなく呆然とその笑みを見つめていて。
そして、うなずいたのだった。
☆
「自分も自殺志願者だ」とうそをついた。二人は「つらいですね」とも「分かりますよ」ともいわなかった。
「今すぐ死にたかったがあんたたちが言うならちょっとくらい付き合ってもいい」とうそをついた。「歓迎します」と亀太郎は笑った。エドガーは黙っていた。
私は死ぬつもりなんてなかった。ただこの瘴気に満ちた日常から逃げ出したかった。逃げ出すために亀太郎の車に乗り込んだ。私は自殺志願者なんかではない。
ただ……彼らについていくことで、とにかくこのどうしようもない町から、世界から、出て行けるような気がしたのは確かだった。彼らは慶介と違うようで近い。一緒にいると、どこかしら、翼は生えないまでも瘴気の中から抜け出せるような気がした。
逃避だろう。自分でも分かっている。
☆
運転席には亀太郎が乗って、私にも分かるほどへたっぴで、退け腰な運転で道路を進んでいる。エドガーはその隣の助手席で仏頂面で、ただただ風を浴びながら夕焼けに視線を投げていた。私は後部座席の真ん中にぼんやりと座っている。
「綺麗ですね」
亀太郎は言った。
「綺麗ですね。すごく綺麗です。こんなに綺麗な景色が見られたなら、今日は素敵な一日です」
「これから死ぬつもりの奴が良くいうよ」
エドガーはそう言いながらも、夕焼け空の美しさには同意したように、頬を緩める。
「なあ。あんたもそう思うだろう? 何せあんたはさっき死ぬつもりだったんだもんな。なあ、『あんた』」
「……『あんた』じゃない」
私はいった。
「へえ。じゃあなんてーの? ……いやあんただけ本名聞くってのもなんかあれだが」
「なんで?」
「いや俺たちハンドルネームで話してるし。集団自殺サイト? みたいなところで使ってた奴。つーか本当は俺たちだけじゃなくてもう四人くらい一緒に練炭自殺するはずだったし。それがこのアホ女と俺しか集まらなかったし。まあともかくそういうわけなんで、あんたも何か俺らみたいに自分の名前適当に決めろよ」
何が『そういうわけ』なのかまったく理解できなかった。
「何かって?」
「なんでもいいよ。思いつかないなら俺が決める、適当に決める」
「それはやだ」
「じゃあ決めろ」
「すぐ決まんない」
「じゃあ俺が決める」
「やだ」
「いいから早くしろ」
「えっと……」
私は困惑してしまう。いきなり何かを考えろだの、決めろだの、そういう風に求められるのは苦手だし、嫌いだ。ついうろたえて何もいえなくなって、アタマの中に浮かんだ愚にも付かないことを口走ってしまうのだ。
「ビビデバビデブウ」
私は顔を赤くして言って、それから後悔した。
「は?」
エドガーは呆然とした顔で隣の亀太郎を見やる。
「ビビデバビデブウって。あれか? さがらでゅーら、めでぃかどぅーら、の、ビビデバビデブウか」
「…………そうだけど」
「変わってんな」
エドガーは腕を組んで
「でも長いな。縮めよう。最後のブウがいいやすい。ブウっていやあれだ。ドラゴンボールの、あのピンク色の奴。おまえの名前決定だな。よろしく魔人ブウ」
言ってエドガーはけらけら笑う。
無理に訂正させるような気力はなかった。あまり歓迎したい名前ではないが、同じくらいどうでも良かった。
「もう暗くなってきましたね」
しばらくして、亀太郎がそう言って空を仰ぎ見た。
「ブウさんは」
亀太郎は私にそう呼びかける。あんたもそう呼ぶのか、とげんなりした気持ちになる。
「お腹はすいてませんか? 喉が渇いてたりとか、あとトイレとかも言ってください。疲れてませんか? 宿を探さなきゃ。あ、その、寒かったりは大丈夫ですか? この車、オープンカーですけど、ちゃんと『ふた』もできるんですよ」
『ふた』というのは通常の乗用車と同じ状態にできる、という意味だろうか。わざわざオープンカーを好んで買う人間の言い回しには思えない。本当にこれはこの女の車なのだろうかが疑問に思える。
「大丈夫」
私はそうとだけ答える。亀太郎は「そうですか分かりました。でも何かあったら言ってくださいね。例えばその、あ、お腹すきませんか」と、どこまでも気遣わしげだった。
☆
食事が済むと、宿を取ろう、という話になる。もうそろそろ遅いし小さな女の子も乗ったのだから早く寝るところを探そう、とニコニコしながら亀太郎が提案したのだ。彼女はいつもニコニコしている。
「どこでもいい」
賛同とも取れない発言をするエドガー。私はただ任せるままに後部座席で頬杖を付くだけだった。
ホテルはすぐに見付かった。亀太郎は財布を握り締めて受付に向かい、大部屋を一つ取った。
男もいるのにそれでいいのかと思わなくもなかったし、それを主張してみると、亀太郎ははっとした様子で
「そうですか。ごめんなさい個室取りますか?」
「いやいい。あんたがいいのかなって」
「いろいろお話もしたいかなと思って。昨日だって、ねぇエドガー」
「ああ。俺もこんなアホ女に襲い掛かったりもしない」
エドガーは肩をすくめて、一人ボタンを押していたエレベーターに乗り込む。会計を終えた亀太郎が「ま、待ってください。乗せて」言ってぴょこぴょことエレベーターに向かっていく。
天然記念物並に屈託のない女。それに、意地が悪いばかりで底の浅そうな男。
彼らが何を持って自殺などしようとしているのか、見えてこない。
☆
私は九時に起きた。亀太郎はもう起きていて、机に向かって何か書き物をしていた。
「おはようございます」
亀太郎がこちらに気付いたように視線を投げかける。私は無視して洗面台に移動し顔を洗いホテルの寝巻きから昨日と同じ衣類に着替えてから、部屋に戻った。亀太郎はただ私が戻ってくるのを待っていたかのように微笑んでいる。
こんな奴が自殺志願者なのか。私は思う。この女の屈託のなさをして、『自殺志願者』という陰鬱な響きと結びつけるのは容易ではないような感じがした。
「何してんの」
出し抜けに私は訪ねる。亀太郎は常にそうしているような笑顔のまま「絵を描いているのです」と答えた。
私はぶしつけに亀太郎の手元を覗き込む。そして息を飲み込んだ。
スケッチブックは全体が燃え上がるようなオレンジ色に塗られている。朱色、というよりカタカナで『オレンジ』といったほうがしっくりきそうな強い色合いで、まるで亀太郎の手元に激しい炎が立ち上っているようですらあった。そんなオレンジ色の太陽を背景に、悪意を感じる程さびてぼろぼろに描かれた校舎の天辺で、金網を背にして立つ少女が、悲しいほど孤独に立ち尽くしている。
柔和を絵に描いたような人物の亀太郎だが、その描く絵は少しだけ攻撃的なような気がする。何か世界に対する憤りのようなものを、ここまで鮮明に表現できる人間を私は他に知らない。
「このままでは、落ちたら怪我をしてしまいますね」
亀太郎は優しい声で言った。
「翼を付けてあげましょう」
そう言って亀太郎は色鉛筆を握りなおす。亀太郎の脇に置かれているのは、四十八色の色鉛筆だった。初めて見る代物だ。
「あんた絵ぇ描くの?」
私は訪ねる。亀太郎はちょんとうなずいて
「少し」
そう言って絵の中の少女の背中に、おおげさなほど白くて大きな翼を書き足した。熟練されたすばやい手つきだった。
「死ぬじゃん」
私はいった。
「翼なんて生えないじゃん。どっちにしろ死ぬじゃん」
「そうですけど」
亀太郎は少しだけ声を沈ませる。
「そうですけど」
「あんたなんで自殺なんかすんの?」
私は思わず訪ねた。亀太郎は「うーんと」と少し困ったように微笑んで、それから口をあける。
「うーんと」
そう言って首をかしげて笑っていた。この女の返事が、物を隠すように淀んだのは初めてのことだった。
「どうせたいしたもんじゃねーだろ。ただの甘えたアホだこいつは」
悪意に満ちた声が聞こえて、亀太郎は表情を失って振り返った。
エドガーだった。一人だけ離れた場所で大いびきで眠っていた少年が、起きだしたのだ。
「ちょっと」
私は憤る。言葉を続けようとして、しかし、自分が何にどう憤ったのかまったく理解することができず、それが正当なものかどうかすらも分からず、言葉を続けることができなかった。
「……いいですよ。そのとおりですから」
亀太郎はそう言って薄く微笑む。
「準備したら出かけましょうか。昼間は昼間でいいですよ。死ぬって決めちゃったら、空の青色も変わります。ブウさんにも……それを見せてあげたいですから」
☆
その日の空は眩しかった。見上げると、目が焼かれるような感覚と同時に、日差しを受けた肌に心地良いぬくもりを感じる。透き通った青い空に散った雲の破片を探していると、無償に眠たくなってくる。
「こんなに空が青いのに、あんたたちはなんで死にたくなるの?」
わたしがふとつぶやくと、エドガーはそれを無視して鼻を鳴らす。
「空が青いだけで生きていけたら、それは幸せなことなんでしょうね」
亀太郎はつぶやくようにしていった。
「天気が良いのですから」と、弁当屋で食事を買った。
弁当屋から車で十分程度進んだ先に、スポーツができそうなくらいに大きな公園が見えてくる。「ここ、知ってます」亀太郎は言う。「小さい頃母と来たことがあるんです。遊園地に行くつもりが閉園で、代わりにここでお弁当を食べたんです。ここで食べましょう」
日向ぼっこをしながら食べる弁当は、特別おいしいということもなく喉を通り過ぎる。ただ、今頃自分の両親はどんな気持ちでいるだろうかと、妙に他人事のような気持ちで思ったりもした。
両親は私に無頓着な人だった。子供に無頓着、なのではなくて、私に無頓着な人。
優秀な兄がいたのだ。この世の中の全てのことは平等ではありえない。多くを得るには、自分の力で勝ち取るしかない。兄は両親からの愛情を獲得できる程度に優秀で、私はそうではなかった。
食事が終わってから、私たち三人はあくせく片付けて出て行くことなどせずに、ぼんやりと空でも見上げて過ごす。
「あんたらの親はどんなだったの?」
他人に声をかけるときに「あんた」としか言えないことも、私が両親から好かれない理由の一つだろう。無礼で不躾で、敬語すらぎこちなくしか使えない。ガキなのだ、と兄は笑う。
「素敵な人ですよ」
亀太郎が笑顔で答える。
「小さいころはよくいろんなところに連れて行ってくれました。いつも優しいです」
「本当かよ」
エドガーがあざけるようにいうと、亀太郎は見て分かるほど表情から生気が消えて、それからその場で悲しげに俯いた。
「そんなことないです。中高と私立に通わせてくれたし、欲しいものはなんでも……」
俯く亀太郎の首筋に、大きな黒い痣を見付けた。良く見れば、腕だの脚だのに似たような黒い痕があちこちにある。
話を打ち切ろうと、私はエドガーに視線を向ける。
「あんたはどうなのよ」
「いない」
エドガーは笑う。
「どっか消えた」
「は? なにそれ」
「消えたんだよ。え? 鳥飼うだろ? いつの間にか飛んでいってることあるだろ? そんな感じで」
そう言ってエドガーはけらけら笑う。気分が悪くなって、わたしはその場で立ち上がる。
「ちょっと散歩する」
行ってらっしゃい、とだけ、聞こえた。
☆
平日だけあって公園には人もまばらだった。小さな子供を連れた母子連れがせいぜい数件。私たちと同じように、ベンチで弁当を食べているグループもあった。
かけっこの子供が私の前を通り抜ける。考えなしにグラウンドの中央に来てしまったようだ。私はその場で身を引いて公園の隅っこを散策する。一人でいると、自然と隅っこに淘汰されるというのは、ありがちなことだ。
隅っこを歩いて、トイレの建物の裏側、ふつうなら誰も来ないだろうところに、その少女はいた。
縄跳びで遊んでいる姿に違和感を覚えた。ピンク色の短いそれは小学生くらいの子供が使うものには違いなく、しかし彼女の体躯は私とせいぜい二つか三つくらいしか違わないように思われた。十二歳か三歳。彼女はぴょこんぴょこんと、特に成功させる意思や気概を感じさせないまま縄を飛んでみせ、三回目で引っかかってから感慨もなさそうに縄をたたんだ。
たたんだ縄をわっかにして木にくくりつける。それから、ぼんやりと木の目に指を這わせたりしながら、あどけない顔で何か……彼女なりにとてつもなく重要な何か、物思いにふけっている。
まさかな。と思った。
少女は私に気づくことなく、木の根に足を引っ掛け、枝に手をかけ、縄跳びの輪に自分の首をくぐらせる。
木が、しなった。ざわざわと風も吹いていないのに小枝や葉が落ちる。意外な程大きく通るその音に私はどきりとしたが、公園にいる人間がそれを気にかけることはなかった。
私はそこでようやく駆け寄ることができた。少女は私の存在に気づいて、視線だけをこちらに投げかける。驚いたような、何かいたずらを見破られた子供のような、そんな素朴な表情だった。
少女に向かって私は飛び込んだ。どうにか少女を助けようと、縄跳びでできた輪から彼女の首をはずそうと彼女の体を持ち上げることを試みるが、下手に暴れるものだから、それすらもままならない。邪魔されたくないようにも、助けて欲しくてあがいているようにも、見えた。
「亀太郎! エドガー!」
私は叫びながら、親を求める如く走り出す。
「助けて! ねえ助けて、こっち!」
「どうしたんだ? 何を助けるんだ。これからくたばるおまえを」
エドガーがどうでもよさそうに言った。亀太郎はエドガーと向かい合いながら、枝で土に線をつけて九つのマスに区切った中に、マルやバツを書き込む遊びに眉をひそめている。劣勢なようだ。
「人が死にそうなの」
私は戦々恐々と言った。「ああん?」とエドガーは足でマス目を踏み消しながら立ち上がる。亀太郎が「ああっ」と驚愕したように顔を上げた。
エドガーと亀太郎を連れて少女の下へ向かう。少女は既に暴れることもせずにその場で蓑虫のようになっていた。首吊り自殺、誰が見てもそう分かる状況だ。
「どうしよう」
私は言う。
「持ち上がらないの。エドガーあんたならなんとかならない? 男でしょ」
舌打ちして、エドガーは「ちった頭使え」と言ってポケットに手を突っ込む。そこから出てきたものを見て、私はつい息を飲み込んだ。
それはホームセンターにおいてあるような、木工用の小さなナイフだった。刃渡りはせいぜい五センチ程度。慶介が持っていたものと、良く似ていた。
エドガーはそれを用いてさっさと少女の縄跳びを切ってしまう。地面に落ちて少女はごほごほと何度も咳き込んだ。
「あれ?」
亀太郎は目をまるくする。
「え? どうして? どうして助けちゃうんですか? え?」
「どうして……って?」
私は亀太郎の方に視線を流す。
「死ねそうでしたよね? 自分でそれをやろうとしてたんですよね? だったら何で助けちゃうんですか? 酷く、ないですか。ねぇ……」
ああ……。私はどこか冷静な気持ちで彼女の疑問そうな顔を見守っていた。
「……本気で言ってるのか?」
エドガーが叫ぶ。
「え……? だって、同じでしょう? わたしたちも、この人も」
亀太郎は心底疑問でたまらないとばかりに
「わたしたちも、もし、邪魔されたら……形式的に感謝はしても、きっと、内心、怒らないですか? 迷惑だーって。怒らないですか? そういうこと、他の誰がわからなくても、わたしたちは……分かってあげられたんじゃないですか……?
死ねないですよ。つらくても、ひきちぎれそうにつらくても……。死ねないですよ。絶対死ねないですよ、わたしたち今までも死ねなかったし、この先だってそうですよ……。でもこの子は死ねたんですよね……? ようやく……死ねるところだったんですよね……? それが……」
「くそったれが」
エドガーは忌々しげに地面につばを吐いて、片手を振り上げた。
「くそったれがっ!」
亀太郎はその場で頭を抱えた。エドガーはそれ以上何もしない。ただ息を吐き出して、手を上げたのを恥じるように自分の手をじっと見つめていた。
「大丈夫?」
私はいたたまれなくなり、少女の元に駆け寄った。少女はエドガーと亀太郎のやり取りを、どこかおびえたように見守っている。
「あなたは……誰、ですか?」
青い顔で言う。ああ、この子は敬語がちゃんと使えるんだ、とどうでもいいことを思った。
「誰って言われても……」
私はそう言ってぎこちなく笑う。「クソの集まりだ」エドガーは言った。
「クソの集まりだ。おまえもクソだ」
そう言って少女を乱暴に立たせる。
亀太郎は立ち上がり、少女に向かって心配げに言った。
「怒ってないですか?」
少女は困惑した様子でうなずく。「そうですか」亀太郎はそれからどこか、吸い込まれそうな闇をたたえた瞳で少女を見つめる。
「えっと。……死のうと、したんですよね」
少女はうなずく。これは狂気だ。私は理解した。つい昨日、私は亀太郎のこの視線に見すくめられたことがある。自分たちと一緒に来ないかと手を差し伸べられた時に、確かにこの目で見すくめられた。その狂気を、私は、飛び降り自殺の真似事をしてみせる程おかしくなっていた私は、気付かなかった。
「でしたら。その、お詫びと言っては難ですが……」
亀太郎は笑う。きっとこれは誰にでもある狂気なのだろう。自分でその狂気をまとっているときには気付かない、しかし冷静で正常な状態で近くで感じれば、確かに狂っていると分かる類の。
「わたしたちと一緒に、来ませんか」
爛漫と暗く輝くその瞳に備わるのは、死の闇そのものだ。生に一度でも疑問を感じたならば、逃れることはできない魅了の闇。
☆
亀太郎のオープンカーに、乗客が増えた。
少女は、『あまり』と名乗った。後部座席の、私の隣、運転席の後ろに当たる場所に座る。亀太郎のような空虚な笑顔を浮かべる訳でもなく、エドガーのように不機嫌そうな仏頂面を浮かべている訳でもない。若干の戸惑いと迷い。それから、興奮。
「あまりは」
私は訪ねる。
「なんで付いてきたの? なんで死のうとしたの」
聞かずにはいられなかった。あまりはこちらを見る。可愛らしいその目は、死に魅入られているとは思えないほど澄んでいた。
「学校に行かなかったから」
「は?」
「行っても先輩にお金取られるから。だから行かなかったの。それで家に戻ったらお母さんに殴られるから。もうどうしようもないから、死ぬしかないなって」
あまりは言葉にしてみてから自分の発言の歪さに気付いたのか、弁解するように
「毎日、こんなんだし。生きてるのいやになったから」
そう言って視線を移した。
こんなことで人は死ねるものなのか、とは思わない。『こんなこと』ではないのだ。自分の周囲でほんの小規模に起こっている絶望から逃れることなど、誰にもできはしない。
「ブウちゃんたちと一緒にいたら、もう家に戻らなくていいから。だから」
「後悔してないんだろうな」
エドガーがいらだったように言う。
「後悔してないんだろうな、クソガキ。逃げ出すんじゃないだろうな」
「あんまり脅かすようなこと言わないでください」
亀太郎が困ったように
「もうすぐ今夜の宿に着きますよ」
「ちょっと思ったんだけど」
私は訪ねる。
「お金どうしてるの? 何日も放浪して、ガソリン代だってあるでしょ?」
「そっちの余裕はあるんです」
亀太郎は照れ笑いをする。
「お金なんて。言えばくれたから」
誰に、とは訊かない。お金はある、と分かった。それだけでいい。
☆
道連れを探してさ迷う死神の馬車だ。エドガーは言った。
言いえて妙だ。私はそう言ってエドガーに頷いた。亀太郎はあまりの手を引きながらホテルの建物に入っていく。
部屋割りは大部屋だった。途中でデパートに寄って衣類や生理用品の類を買い込んでいたので、それなりに荷物は多い。軽いのはエドガーぐらいだ。
亀太郎は気前が良かった。死ぬ前だから金を使いきっておこう、というものでさえなく、ただ無尽蔵な財布を持っているという気配を漂わせていた。彼女は絵の具とカンバスと白衣を買って、窓の外に見える夜景をせっせと描画に励んでいた。
「星のない暗い夜のほうが優しくて暖かいと思っていましたが、こういうのもいいものですね」
彼女は、特に色使いが卓越している。夜がこんなにも明るいことを私は亀太郎の絵を見て初めて知った。
窓が半分しか開かないことを亀太郎は不満がっていた。二時間少しほど絵描きに興じて、作品を完成させると、「ではわたしはこれで」と布団を敷いて眠り始めた。
隣ではエドガーとあまりがトランプゲームに興じている。二人とも笑顔だった。あまりの笑顔にはどこか、つらいことを一時的にでも忘れようとする儚さがあったが、エドガーのそれはどこか本物の笑顔のようにも見えた。ただおかしいのではなく、満たされているというような。
その内に、灯が消える。時刻は十二時を回ろうとしていた。
☆
僅かな物音に敏感になるのは後ろめたいことがあるからだという。
では何故私は後ろめたいのか。嘘をついているからか。これから自分は自殺をするのだという明確な意思を持たずに、自殺志願者の一行に何食わぬ顔で付いてきているからか。
衣擦れの音に私は目を覚ました。体を起こす。隣では亀太郎が「これ以上食べられません」などとあまりにもあんまりな寝言をつぶやいている。「もうたくさん食べましたよねやめてくださいこれ以上食べられませんってばやめておいしくないからやめて助けて食べないで」私は無視してその場を立ち上がる。
エドガーがいた。
星の散った夜空を憎むように視線を投げかけながら、いつもの仏頂面で服を着替えている。服を着ていてもひょろくさいと思っていたが、服を脱いだら尚更ひょろくさい。七つか八つの子供のように華奢で筋肉の発達していない、ただ長いばかりの胴や手足は如何にも貧弱そうだった。
「なんだよ」
エドガーはバツが悪そうに視線を投げかけた。
「なんだよ」
「なんで着替えてんの?」
私は訪ねる。
「出かけるの?」
「違うよ」
そう言ってから……エドガーは自分の失言に気付いたようにその場で俯く。出かけるのでなければ服を着る必要など生じようもない。その一言だけで彼が何事か私に隠そうとしていることが透けた。
「トイレだ」
愚にも付かない言い訳をして、亀太郎は部屋を出て行く。
「待って」
私はいった。
「私も」
「あん?」
エドガーは視線を投げる。
「私も」
舌打ちが聞こえる。「好きにしろ」とエドガーは私をほっぽって部屋を出て行った。
☆
ホテルの廊下。私はエドガーの斜め後ろをぼんやりと歩く。
「あんたさ」
ふと思いついてたずねる。
「なんで死ぬの? つか本当に死ぬの?」
「当たり前だろ」
二つ目の問いに対して。エドガーは答える。
「それで? なんで死ぬの?」
「わざわざ言うほどの理由もない。そもそもおまえに関係あんのか? おまえに話して俺が楽になったり救われたりすんのか? ふざけるな思い上がるな。それに救われて俺はどうなるんだ? 死ぬのやめるのか? おまえは俺と一緒に死ぬためにここにいるんだろ? 俺が死ぬのやめておまえにとってどうなるんだ?」
「あんた慶介に似てる」
私は唐突に言う。
「あ? 誰だそれ」
「友達? ……うん、友達」
「ははん。俺に似た奴とかいるのかよ」
「そういうとこ似てる。自分のこと、どっか特殊な人間だと思っているところ」
指摘すると、エドガーは何か言い返そうとして、黙り込んだ。黙り込んでから、自嘲っぽく笑った。
それから二人でホテル内を歩き回る。トイレには行かない。行くはずもない。一階のロビーまで降りて、自動販売機の前で、エドガーは品なく座り込んで私に千円札を差し出した。
「ファンタのグレープ味あるか?」
「あるよ」
私はおとなしくそれを購入して差し出す。「おまえも好きなもん買え。釣りは適当に使え」エドガーはプルタブを引いてぐびぐびとファンタを飲んだ。
私がコーラを買って隣に座ると、エドガーはゆっくりと口を開いた。
「妹がくたばった」
十円拾った、と酷く変わらない響きだった。
「親父は俺がガキの頃いつの間にか消えてた。一年くらい前母親も消えた。妹がいたんで、高校さぼってバイトしながら養ってた。俺らの保険とか学費とどんな風になってるか分からなかったし考えなかったけど、まあ飯を買う金くらいなんとかなったし適当に暮らしてた。
んでこないだ妹が死んだ。車に轢かれたのか、妹のほうが車にぶつかったのか、どうも分からん。運転手を恨んでいいのかどうかも分からん。別に身内がくたばったからってショックで死ぬ訳じゃないぞ? ただバイトして家帰って弁当食って寝てバイトしてって繰り返すのが面白くなくなったし、意味もないから死ぬだけだ」
「妹さん。大事にしてたの?」
私は静かに疑問を投げる。答えはない。おそらくは、愚問だったろう。
エドガーは立ち上がって缶ジュースをゴミ箱に放り投げるように捨てる。ゴミ箱に到達する途中であふれ出したジュースがロビーの床に飛び散り、残っていた液体がゴミ箱の中でとくとくと暖かい血のようにあふれだした。
「あんた本当に死ぬ気なの?」
私は再度訪ねた。
「なんで服なんか着てたの? トイレ行くだけだったら絶対いらないよね。ってか今だってトイレ行ってないし。逃げるつもりだったんでしょ? 違う? 絶対そうだよね」
服を着替えるエドガーの姿を見てから、ずっとそれを疑っていた。私もずっと同じことをする機会をうかがっていたから。本当に自殺をする気がない以上、どこかで自殺志願者一行から逃げ出さねばならない。
「もしそうだとすりゃなんだよ」
エドガーはそう言って不機嫌層にアタマをかく。
「おまえに関係あるのか?」
「関係ないなら隠す必要ないじゃん」
「もっともだ」
「逃げたら?」
「どうしようかね」
エドガーは薄く笑う。それは私の追及に対する、明確な肯定だった。
「怖くなった」
そう言ってエドガーは視線を逃がす。
「あまりが首吊ってるの見てて、怖くなった。亀太郎があのメスガキ見捨てようとしてるの見てて、怖くなったんだ。あまり、あいつ妹に少し似てるよ。
なあ、なんで人間ってこんなに不便なんだろうな。こんな生きててもしょうがない人間でも、一丁前に死ぬのは怖いのはなんでなんだろうな」
自殺志願者は矛盾している。生きていることに何も見出さないのに、死ぬことは怖くてできないのだ。
そんな矛盾の中で、彼は生きている。
しばらく二人で沈黙していて、私はふいに足音に気が付いた。
数人の足音、それも強い。そして迫ってくる速度が異様に速い。走っている、ように思えた。反応はしたのはエドガーだ。とっさに私の体を引っ張って、自販機の陰に体を忍び込ませる。それから私を半ば羽交い絞めにするようにして、僅かな隙間に二人でもぐりこんだ。
「……警察か」
エドガーは言った。私は絶句する。どうしてそんなものが来ているというのだ。
息を飲み込んでいると、しばらくして、ホテルの出入り口の自動ドアが開いた。私は息を飲み込んで彼らの姿を確認した。
制服を着た警察官が、十人ばかり、いた。
彼らは私たちの目の前を、私たちに気づくことなく通過する。息が詰まりそうな時間。彼らのうちの一人でもこちらに振り向けば、私たちはすぐに捕捉されてしまう。
……というか。
「……どうして隠れたの? 何食わぬ顔で出て行けばよかったじゃない?」
「アホか俺たち自殺志願者ご一行だぞ?」
「そうだけど……」
「奴らが何のためにここに来ているか考えろ。二人とかならともかく、あの人数だぞ?」
警官たちはホテルの受付でなにやら言葉を交わす。奥に案内され、お互いになにやら耳打ちしながら受付の向こうの扉の奥へと入っていく。
その時、私は偶然にも、扉の向こうに『彼女』の姿を見た。
それはあまりだった。つい先ほど公園で首吊りを行っているところで遭遇した、自殺志願者の少女。本来なら、今頃部屋で寝息を立てているはずのその子が、なぜここに。
「今のうちだ!」
警察官全員が扉の奥へ消えた瞬間、エドガーは言って、私の手を引いて自販機の陰から飛び出した。強い力で、ひょろ長い体躯には見合わない敏捷な走りだった。
「ちょっと……どういうことなの? あまりが受付の奥にいたんだけど? ねぇ!」
「決まってるだろ!」
エドガーは叫んだ。
「あいつ、死ぬのが怖くなってロビーに降りたんだ。それで受付に全部吐いちまって保護されたってわけだ」
「はあ?」
私は引きづられるようにして階段を登らされながらいう。エドガーは吐き捨てるように
「気付かなかった俺らも間抜けだがな! 布団は確かに膨れてたと思うんだが……夕方買い込んだ服でも丸めて突っ込んでたのかも知れん」
「なにそれ……というかエレベーター使ってよ足痛い!」
「アホか。エレベーター来るの待ってる間に捕まったらどうすんだ」
「二言目にはアホって……。っていうか、あまりがそんなことする?」
「おまえあいつの何知ってんだよ? むしろこうなって当然なんだ。俺らみたいな訳わかんねぇのに付いて来て、怖くなって、家に戻らなくちゃって思ったんだろ? そんで部屋を出て、うろうろしてたら声かけられるかなんかして従業員に保護されて、警察呼ばれたんだ。おまえや俺はもちろん、亀太郎だって未成年だ。連れ戻されるかもしれない、いや、あんな大人数出来たからには、たぶんそのつもりだ」
生きることと、死んでしまうことの狭間で、あまりの幼い心は生きる方へと傾いた。夜、灯を消した部屋の中で、考える時間はいくらでもあっただろう。
「そんなことって」
「おかしくもなんともない。俺もついさっきやろうか迷ったことだしな。おまえみたいにふつーについてきてる奴のほうがおかしいの! 警察が来る前に、あのノロマ連れて逃げなきゃならねぇ……」
ノロマというのは亀太郎のことだろう。
「に、しても、多すぎない?」
「それは言えるな。なんだってんだあの人数は。自殺志願者一行を説得するにはオーバーすぎやしないか? ……誘拐事件とでも思われてんのかね……いや……」
エドガーがぶつぶつと口にする。私が息を切らすころには彼女のいる六階にたどり着いていた。「走るぞ」いうエドガーに無理やり立たされて、廊下を全力でダッシュして部屋に向かう。
足音を轟かせながら走っていると、廊下の闇の奥から現れた細身の影があった。
「亀太郎!」
エドガーが叫ぶ。おろおろとした様子だった亀太郎は私たちの姿を認めると、表情を輝かせてこちらに駆け寄ってきた。
「エドガー! ブウさん! どこ行ってたんですか心配したんですよ。無事ですか? 怪我してないですか怖くないですか? なにがあったんですか? ところであまりちゃん知らないですかどこ探してもいないんです。ねぇ? 知らないですか?」
「おまえは一応年長なんだからもう少し状況を想像しろ」
エドガーは亀太郎には酷なことを言って
「警察がロビーに来てる。そんであまりがホテルの従業員に保護されてたのをブウが見てる。もうすぐ俺らのところにも来るはずだから、逃げるぞ」
「はあ? えっと、すいませんどういうことですか?」
亀太郎は困ったように首をかしげる。
「警察? 警察っておまわりさんのこと? ですよねそれ以外ないもん。それで、え? 逃げる? なにから? それよりあまりちゃん見つけたんですかどこですか?」
エドガーの説明にも親切さや丁寧さが欠如しているのは認めるが、それにしても亀太郎の察しの悪さはどうにかならないものかと思う。
「もういい! 行くぞ!」
そう言ってエドガーは亀太郎の首根っこを引っ張って廊下を走る。「な、なんですか? ねぇ? あまりちゃんは?」涙声で引きずられる亀太郎の後ろを私はついていった。
「どうしてそっち行くの? 階段向こうでしょ?」
部屋のほうに向かって走るエドガーに私は言う。エドガーは舌打ちして
「アホか。ロビーに戻ってどうする。警察に固められてたらまずいだろ!」
「じゃあどうやって?」
「部屋の窓半分開いただろ? 滑り込めばそこから逃げられる」
エドガーがとんでもないことを言って、しかし、それが最善策であるだろうことは、少し考えればはっきりとした。
☆
亀太郎に鍵を開けさせて、ホテルの部屋へと戻る。最低限度の荷物をリュックサックに詰め込み、エドガーが背負った。
「いいか。まずそこの縁に足を引っ掛けて、三つ隣の窓の縁まで移動する。それからそこのパイプに手ぇ伸ばして、それ伝って下まで降りるんだ」
指を刺しながら指示して、それからエドガーはおっかなびっくり足を踏み出す。窓をくぐる時、リュックサックが引っかかって舌打ちをし、私に向かって投げてきた。エドガーがくぐり終えてから、渡す。
実際に窓の縁を移動してパイプの前まで来て、エドガーは振り返った。
「早く来い。ただし、気をつけろ」
エドガーは言う。私は躊躇した。退くならば、逃げるならば、このタイミングなのではないかと。こんな危険なことをするより、「ごめん」と一言口にして、部屋から逃げ出して、警察から保護を受けてしまうのが私にとって最善なのではないかと。
「大丈夫ですか?」
亀太郎は心配げに私のほうを覗き込む。
「手をつなぎましょう。そしたら、足を滑らせて死ぬときは一緒です。怖くないですよ」
そう言って屈託なく笑い、差し出された亀太郎の手を、私は無言で振り払った。目を丸くする亀太郎に「先行って」と告げ、おっかなびっくり縁に足をかけ進む彼女の後ろを進む。
エドガーはうなずいてから、息を吸い込んでパイプへと飛び移る。
はたして、それは上手くいった。数十センチの距離だ、まともな身体能力があれば失敗するはずもない。するすると降りていくエドガーに続き、亀太郎が飛び乗る。私も続いた。
地上へと降り立って、私はその場でへたり込んだ。エドガーは忌々しげにホテルの上階をにらみつけてから、「行くぞ」と言い放ってホテルに背を向けて走り出す。
「ちょっと待って」
私は叫ぶ。
「駐車場はそっちじゃないでしょ」
「アホか」
エドガーは言って
「俺たちのことをあまりが話してたら? 駐車場なんざ絶対に待ち伏せされてるよ」
「そうなんですか?」
亀太郎は目を丸くして
「なら車は置いていきましょう」
自分の所有物を手放すことに何の躊躇も感じさせない口調で言う。あの高そうなオープンカーを惜しげもなく捨て置ける亀太郎の神経に驚愕しつつ、私はエドガーに問うた。
「それでどこいくの?」
「どっか遠く。ここじゃないところ」
酷く端的な答え。
「どっか遠く、とにかく遠く。ここにいられないから、逃げるんだ、逃げ場はないけど元の場所にも戻れないから。とにかく走る」
☆
私たちは走った。それはせいぜい、何分とかの時間だったと思う。
その途中。おいてってください、と亀太郎が言った。
死んでしまいます、と言った。休ませてくださいもうずいぶん走って息が切れました。疲れましたもう持ちませんおいてってください私を置いて逃げてください。もういいですここでくたばりますだからお二人で逃げて私もう無理です。と息を切らして地面に転がって亀太郎は言った。
「どうする?」
情けない声をあげてへたり込む亀太郎を見下ろして、エドガーが私に視線を向ける。
亀太郎ほどオーバーでないにしろ……つかれきっていた私はその場でひざをたたみ、「休んであげたら?」と切り出す。エドガーは「あー」とアタマをかいてから。
「実際もう十分逃げたっちゃあ逃げたけど……相手はパトカーだしな。もう俺らの失踪にも気づいてるだろうし……せめて隣の町までは……」
流石にただの自殺志願者相手に、パトカーで追いかけたり道路を封鎖したりはしないはずだが……。
「無理です」
亀太郎は地面に這い蹲りながら言う。
「隣町って……そこは何キロ先ですか? 足痛いですしお腹痛いですしもう無理ですしお願いですから置いてってください……」
「よしじゃあ置いてくか」
エドガーはそう言って視線を亀太郎からはずす。
「幸運を祈ります……」
亀太郎ははいつくばったまま、腕を持ち上げる。その手には高価そうな茶色の財布が握られている。
「どうか……お二人が最後に楽しい思い出を作って死ねることを願っています」
エドガーはその財布を引ったくり、言う。
「おう世話になったな。おまえはここでくたばれ」
「ぐっとらっく」
言って、亀太郎は親指を立ててから、腕をばたりと下ろす。それから死んだように動かなくなった。
「ちょっと……本当に見捨てるの、これ?」
私はエドガーのほうを向く。エドガーは肩をすくめて
「あー。気分悪いがもうそうするしかない感じ? いや……」
言って、エドガーは道路のほうに視線を向けた。
一台のタクシーが、『営業中』のランプを点灯させながらこちらに走ってくる。エドガーはそのタクシーの前へと飛び込み、財布を持った両手を振って合図をした。
☆
くたばっている亀太郎をどうにか中に押し込み、私たちはタクシーに乗る。若者を通り越して子供の集まりでしかない私たちに、運転手は不信そうな表情を浮かべたが、エドガーが亀太郎の財布から一万円を三枚ほど取り出して「これでいけるとこまで」と言った途端、目の色が変わった。
「これだけあれば、橋を渡ってY県のほうまでいけますよ」
「そこって確か……海もありますよね。山が多くて静かなところ。いいじゃないですか。もうそこにしましょうか?」
亀太郎のその一言に、私は冷たい手で心臓をわしづかみにされたような気分になった。エドガーは「どうすっかね」と曖昧に言葉を濁す。
運転手は私たちのほうに不信げな目を向けながら、「忘れ物が見つかりました」と電話機に向かって口にしている。助手席に座ったエドガーが私のほうを向いて耳打ちした。「不審者が乗った時の連絡だぜ」そう言ってきしむような笑いを漏らす。
「どっかで乗り換えた方がいいか。……ほら、亀太郎」
そう言ってエドガーは亀太郎に財布を放って返す。「はぁい」と、亀太郎はそれを受け取ってから、疲弊した顔でポケットに無造作にしまいこんだ。
タクシーから流れるラジオは、両親を殺して逃走中の海原砂輝子という浪人生の少女について報じている。最近はこの話題でもちきりだ。飽きる様子もなく毎日報道され続けるそのニュースに退屈し、私は睡魔に襲われた。前の席では、エドガーがこれまでの疲れに耐え切れず早くもこっくりこっくりとしている。ふと隣に視線を向けると、亀太郎が優しげな表情意で微笑んでこちらを見た。
「眠ったほうがいいですよ」
そう言って亀太郎は私の額に手を置き、体を寝かせてくれる。
「どこかに付いたら起こしますから」
それは、子供のころの遊園地の帰り、母親が言ってくれたような暖かい声だった。そんな日々もあったことを思い出し、泣きたいような気持で、私は目を閉じる。
疲れきって力を失った体を、走行する車の振動が揺らす。亀太郎の暖かい手のひらの感触。ゆりかごの中のようだ、私は思う。
このままこうして眠っていたい、二度と起きなくていい。
☆
山が増えてきた。途中でタクシーを一つ乗り換え、しばらく進むと、今度は海が見えてくる。
そのタクシーからも降りて、亀太郎がお金を渡す。すっかり朝になって、まばゆい光が私たちを照らした。
「思わず寝ちまったな。だが良く眠れた」
エドガーはそう言って体を伸ばす。
「それは良かっふぁうあうわぁああ」
亀太郎があくびをする。それからこてんと首を横に倒して目を閉じる。立ったまま寝ているような体勢だ。「起きろ」とエドガーがアタマをたたく。
「あまりは」
私はいった。
「あまりはどうなったのかな」
亀太郎が思いつめたような様子で俯く。
「そうですね……無理に連れてきましたけど、やっぱり怖くなっちゃったんでしょうか。自殺するのが……怖くなっちゃったんでしょうか。やっぱり、あの時に死なせてあげなかったのが、よくなかったのかもしれません」
「別に」
エドガーは言う。
「別に良いだろ。あいつはあいつで……、一人で生きていくなら、それでいいだろ」
あとから怖くなるくらいなら死ななければ良い、などというのは乱暴だろうか。どんなに死が怖かろうが、かといって生きていてもどうしようもないという状況は、確実に存在しうる。だがしかしもしそうでないなら、死ぬることなく自らの人生に向き合っていく勇気が僅かでもあるのなら、惰性でもなんでも先に進むのはあくまで前向きなことのはずだ。
「けれど……あの子はこれから何度も、何度も何度だって、あの時死ねていたら、って思いますよね」
あまりを生かした私たちを、責めるような口調ではなかった。ただ、自分の元から逃げ出した少女を慮り、哀れむような、そんな言葉だった。
これからつらい思いをするくらいなら死ねばよかったのに。
そんな哲学を、亀太郎は確かに持っている。
「あんたさ」
私はいった。前にも口にした問いだった。
「なんで死のうとしてるの?」
亀太郎は曖昧に笑う。エドガーは鼻を鳴らすだけだった。
「あまりの携帯番号、知ってるぜ」
エドガーが唐突に口を開く。
「は? なんで?」
「教えてくれたんだよ」
「だから、なんで?」
「なんでって……」
「そういやあんたあまりとトランプしてたりして、結構仲良かったけど……。なんなの? ロリコン?」
「妹に似てたんだよ」
エドガーは吐き捨てるように言う。
「ちょっと……教えてよ。それ。つか誰か電話持ってない」
聞きたいことは山ほどある。ただ、生きることからも死ぬことからも逃げ出したあまりに、いえそうなことは、何もなかったけれど。
「やめておきましょう」
亀太郎は言った。
「電話をするのは、やめておきましょう。私たちはこれから死に行く人間です。あまりちゃんが私たちから得られるものは、何もない。あの子が生きていくことを選んだならなおさらです」
そのとおりだった。
「海を見に行きましょう」
唐突に、亀太郎は宣言する。
「ここからなら近いはずです。ふふ、人生で海を見たことは、私、ただの二回しかないんですよ」
「なんでもいいよ」
エドガーは言った。
「好きにしろ……おまえが満足するまで、好きにしろ」
好きにして、満足したら、その先に。
いったい何があるというのだろう。分かっていて、しかし、そんなことは口にしてはならないと知っていた。
☆
砂浜は茶色のように野暮ったくも、金色のようにゴテゴテともしていない。空と海は両方とも青いけれど、どちらも違う色。
「その違いを表現するのを、殊更難しいように感じる人もいますが、それは誤りです」
亀太郎は言う。
「海の青を表現したいなら海の絵をかけばいい。空の青を表現したいなら空の絵を描けばいい。混ぜた絵の具をぽんと紙の上において、それが空の青か海の青かを見分けさせる……なんてことをしようとするなら、そんなことははじめから不可能というだけです。
言葉での表現はもっと簡単です。単に『砂色、空色、海色』と言えばいい」
スケッチブックを取り出して、亀太郎は目の前の海の様子を色鉛筆で模写していく。砂浜の上に無造作に置かれた色鉛筆、細い手で色鉛筆を手繰る亀太郎、削られた鉛筆の削り粕と共に、なびく黒い髪。潮風の匂いは、少しだけつんとしていて、それでいて香ばしくて暖かい。
広い。ただひたすらに広い。視界に開けるのは砂浜と、ごうごう波打つ海だけだ。
「おらよ」
背後に冷たいものを感じて振り返る。エドガーが片手に持った缶ジュースを、私の背中に押し付けていたのだ。
「ひぅう!」
同じことをされた亀太郎が思わず飛び上がる。静寂が深いほど驚きは大きい、亀太郎ほどオーバーにならずとも、私の心臓は高くなっていた。エドガーはおかしそうにその場に腰掛けて、手に持ったコンビニの袋を示した。
「腹減ってねぇか? 菓子と飲み物くらいある」
こいつは案外気が利く奴だ。エドガーはその場に広告紙を広げ、その上で菓子の袋を開けた。柿の種、ピーナッツ、スルメ。
「酒のつまみみたいね」
私は言ってオレンジジュースの缶を開ける。
「だらだらつまむならこういうのが一番いいんだ。甘い奴や油っぽい奴だと途中から食うのがだるくなる」
言ってエドガーは柿の種4、ピーナッツ1の割合で食べ始めた。
波の音を聞きながら、漠然と上を向いて雲が流れるのをただ眺める。誰も邪魔をするものはいない。ただ時間が流れる。潮風が吹く。何度吹いてもかぐわしい匂いは変わらない。亀太郎が絵を描く音がする。エドガーが品なく音を立てて菓子を食べる。
誰も来ない。私たちの時間だけが流れる。今頃世界はどうなっているだろうか。そう、世界。それはこの地球上をさす言葉でも宇宙やその果てにあるかもしれない異次元な空間をさすものでもない。社会、私の周囲のちっぽけな社会。私が今生きているはずだった、生きているはずのちっぽけな人生。
家族がいる。クラスメイトがある。教師がある。塾がある。勉強がある、テストがある、人間関係がある。
慶介がある。
慶介が、あった。
こんなに静かな時間が流れるのに……こんなに安らぐ場所があるのに、どうして私はこれまで苦しんでいたのだろう。安らぐものなど何もない学校に通い、叱咤するものしかいない塾で好きではない勉強をし、安らぐものなど何もない家に戻り、ベットの中で自問する為に眠る。そんな毎日を、私はどうして過ごしてきたんだろう。
生きているからだ。
慶介は言った。
生きているからだ。生きている人間は常にそんな風に悩んで苦しむって決まっていて、つまり生きるってのはつらいことで、それと同じくらい楽しいのかと言われればそれは人それぞれで、楽しくもなんともなかったとしても死ぬ訳には行かないからとりあえず惰性で生きていて、別にそれはことさら立派でも尊いことでもないだろうし、ことさら自嘲するようなことでもない。
それがおまえで、その程度がおまえなんだから。
「バカにしてんの?」
していない。死ねないからダラダラ生きているような人生しか送れない奴だっている。多分僕がそうだ。きっと、おまえも。
「幸せなこともあるかもしれない。自分を変えられるかもしれない」
そうかもな。何かが起きるかもしれない。何かを起こすきっかけをつかめるかもしれない。きっかけがなくても何かを起こせるかもしれない。
「本当にそう思う?」
だいたいの場合は、何も起こらないし何も起こせない。それでも起こることを信じることに意味がある。僕は信じるのをやめたがね。
「なにそれ」
それで生きてんだ。そういうものだから。しんどいことを全部乗り越えて、その先の小さな安寧をただ浪費して、また次のしんどいことを乗り越えているうちに、気が付けば何もないまま、どんどんズタボロになって行きながら、人生が終わっている。
いいじゃないか。それでいいんじゃないか、誰も笑えやしない。
ジタジタあがいて、何も変えられず、何者にもなれず、だとしてもそれは、おまえの、おまえだけの、かけがえのない輝きなんだ。
「大げさね」
そうかもな。
「さっきから何ぶつぶつ言ってるんだ」
エドガーの声がする。私ははっとして振り向く。
亀太郎がどこか優しげに、こちらを見ている。エドガーはふてくされたような顔だ。
「気持ち悪いぞおまえ」
ため息をつく。私は軽くエドガーをにらんでから視線を逸らす。
潮風が吹く。波の音がする。
「波の音、涼しいですね」
亀太郎は言う。
「暑い涼しいんでしょうね。冬に涼しいなんて思いませんから。ずるずると、もうこんな季節。結局冬の間中、わたしは生きていたんですね。この静かな世界を、知らないままで、生きていたんですね」
誰に語りかけているという風でもない。しかし私はそれを聞いていた。
この屈託のない女にも、それなりの人生があったのだろう。それがどういうものなのか、何に苦しみ何に絶望し、どんな瘴気を吸ったのか私には分からない。
「たぶん、もう海はそんなに冷たくないと思います」
亀太郎は言う。私は、アイスを飲み下したような気持ちになる。
「もうこれ以上……ジタジタしても仕方がないでしょう。生きることに余計に悲しむだけです。死ぬことに余計に苦しむだけです。だったら、みんなで手をつないでいられるうちに……ここでもう終わらせましょう」
「……あんたなんで死ぬの?」
三度目の質問。亀太郎はいつもはぐらかすこともしない、ただ曖昧に微笑んで、問い掛けをかわすことすらせずにただ沈黙してきた。
けれどもその時は違った。亀太郎はたどたどしい口調で、しかし、答えた。
「別になんでもないですよ。生きるのがいやになった、って言えば、それはもう、皆さんと同じ理由」
「なんで生きるのがいやになったの?」
「なんででしょうか。誰も愛してくれないから? 自分がどうしようもないほど小さくて醜いから?」
「何でそう思うの?」
「具体的なことを言えば……わたしは浪人したんです。浪人っていうのは大学受験に落ちて一年勉強しなおすことなんですけどね。あはは、つまらない理由でしょう。
一応受かってはいたんですよ。いくつかの私立の医学部に。わたしお医者さんになるんですよ。なるんですよ、というより、なるはずだったんですよ。なることになっていたんです。なって欲しいって願われていたんです。
お父さんは病院を一つ持っていて……わたしはその跡継ぎ。女で跡継ぎが務まるかって話は、父と父の周りの偉い人の間で何度もかわされていました。わたしはそれがどういうものかは分からなかったんですけど、そのとおりに生きるしかなくて。それでも良くて。
ある日父は『こいつしか生まれなかったから仕方がないだろう』と怒鳴りながら暴れました。
わたしは頬をぶたれました。何度も何度もぶたれました。それからです、日常の中で何かこう、たまればたまるほど苦しくなるような何かがおなかの中にたまっていくみたいな、そんな錯覚を感じ始めたのは」
「瘴気だよ」
私は言う。
「それは瘴気だ」
「瘴気ですか……あは。難しい言葉。わたしむずかしいことば苦手なんです。アタマ悪いから。
でもいいですね。その言葉いいですね。もらいます、瘴気です」
亀太郎はおかしそうだ。エドガーは憮然とした顔で視線を海に注いでいる。憤っているのか、叱咤したがっているのか、自嘲しているのか。
「アタマ悪いなりに勉強しました。そうすれば両親はわたしのことを愛してくれました。出来が悪いと酷く殴られましたけど、それ以外の時は愛してくれているように振舞ってくれました。そんな両親が好きでした。
好きだからがんばりました。殴られたくないからがんばりました。がんばって勉強して……大学を受けました。いくつか受けて一つだけ落ちました。
父は言います。東大以外は大学じゃないそうです。
わたしは浪人しました。うんと殴られました。これ以上生きるのがいやになったので、死ぬんです」
良い家に生まれた。立派な家業もある、それを受け継ぐという将来もある。
しかしそんな亀太郎にも、どうしてもないものがあった。手に入らないものがあった。
「逃げ出して死ぬくらいなら自分の人生を手に入れようとは思わなかったの?」
私は問うた。亀太郎は曖昧に笑んで
「そうですね。医者にならなくても良かったのかもしれません。他にいろいろあったのかもしれないですけど、でも他の生き方を考えるのも、恐ろしくて。
怖かったのかな? いいえ……面倒くさかったのかな? それとも……寂しかったのかな」
亀太郎は首をかしげる。
「そういえば考えたことなかったなぁ。なんでわたし、他にどうするか、何ができるか、考えなかったんだろう。お医者さんなんて、何をするのかも分からなかったのにね。人を治すえらい人、くらいにしか、思わなかったのにね。なんででしょう」
亀太郎は自分の人生を自分のものにできなかったのだ。そして生かされることに、しだいに絶望していったのだ。
「ほらたいした理由じゃねーよ」
エドガーはけらけらと笑う。
「やっぱり甘えたアホだよ、おまえは」
亀太郎は曖昧に微笑む。愛想笑いや苦笑いの類ではない、彼女は人に欺瞞しない、ただ笑う。
「そうですね。そうかもしれません」
人は自分の周囲で起きている小さな絶望から、決して逃れられない。こんな弱々しい少女にはなおさらのことだ。
逃げ場があるとすれば、安寧があるとすれば、それは死ぬことだけだ。
「甘えたまま死ぬますよ、わたしは死にます。ここで死にます」
「そうかよ。じゃあそうするかね……。ここまではどうだった? 十分楽しめたか?」
気遣うように、エドガーは言った。亀太郎は驚くほど屈託なく微笑む。
「はい、十分です。エドガー、あなたは優しい人でした」
「お世辞は嫌いだ。お世辞じゃないなら、もっと嫌いだ」
「ごめんなさい。でも、ありがとう」
そう言って亀太郎も立ち上がる。そして、エドガーと二人で私のほうを見た。
「付いてくるか?」
エドガーが問う。私は首を縦には振らない。横にも振らない。ただ何も言わずに、波打つ海の先に待つ死を覗き込み、震えた。
「エドガー」
私は言った。
「あんた死ぬの?」
「さあな」
「さあって」
「ここまで来たら付き合うしかねえだろ。実際にくたばるかどうかはともかくとして、くたばることができるかどうかはともかくとして、この女と一緒に海を進む。水が鼻まで迫って来て、そっから死ぬかどうかは分からない。苦しいか怖くなるかで逃げ出すかもしれないし、逃げ出すこともできずに死ぬかもしれない。とにかく俺はこの海をこの女と一緒に進む。どうなるかは、考えない」
エドガーはただ虚無的だった。亀太郎と一緒に入水をやって、その先に待ち受けるものがなんであれ、それをただ受け入れるだけのつもりのようだった。亀太郎のように死に魅せられてはいなくとも、死を殊更に拒むようなことも、またしない。拒む為の気力は、大切な人と一緒に失ってしまった。
「大丈夫ですよ。きっと死ねます」
亀太郎は微笑んで、わたしを誘うように手を伸ばす。
「少し苦しむかもしれませんが、手をつないでいればきっと死ねます。手をつないでいればきっと怖くありません。だから、ブウちゃんも一緒に……」
白い手、相手を包み込む優しい手。一緒に死のうと誘う、その手。亀太郎の目に迷いはない。彼女は死ぬだろう、どんなにか苦しくても彼女は海を進み、その先の死を手にするだろう。
わたしは黙ってその手を払いのけた。
「……ブウちゃん?」
亀太郎は屈託なく首をかしげる。「ごめん」わたしは言った。死ぬつもりもなく付いてきたことを謝った、亀太郎のようにはなれなかったことを謝った、
「そっか」
亀太郎は言った。納得したように、言った。
「そうですよね。……そんな気がしていました。あなたといた時間は、楽しかったです」
言いながら、亀太郎は私に財布を手渡してきた。
「おまわりさんに保護を求めてもいいですが、わたしたちの亡骸とこれ以上付き合うのを嫌がるなら、これを使って家に戻って下さい」
「いらない。それより……」
その時、私の背後で砂を踏みつける足音が聞こえた。
振り返る。制服を着た警官が十人ばかり、海岸に向かって降りて来ていた。亀太郎の無垢な瞳がすっと細められる。エドガーがため息をついて肩を竦めた。
「お迎えのようだぜ? 海原砂輝子さん」
エドガーが言う。私は息を飲み込む。……海原砂輝子、両親を殺害して今も逃走中だと報じられる、浪人生の名前。
それが……彼女とでもいうのか。私は愕然として亀太郎の方を見る。亀太郎は……僅かに眉を伏せて、ちょんとうなずいた。
「お気づきでしたか? エドガー」
「ホテルにやって来た警官、ただあまりを迎えに来たにしては妙に多いと思ってな。あんたの過去について尋ねたことはなかったが、何があってもおかしくはない。んで、さっき明かしたおまえの身の上話と、ニュースで報じられる海原砂輝子の情報は、あまりにも一致している」
「あは。そうですか、ごめんなさい。人殺しだってこと、ずっと黙ってて」
「いや。俺には関係ないことだ」
二人がやり取りをしている間にも、警官たちはじりじりと距離を詰めてきている。
「エドガー」
亀太郎は言った。
「ナイフを一本、持っていましたよね。あれ、わたしにくれないですか?」
エドガーは逡巡するような表情をしながら、しかし最後はどこか諦めたかのように、ポケットから木工用の小さなナイフを取り出して亀太郎に渡す。
「動くなっ!」
私を追い越しながら警官の一人が言った。亀太郎は表情のない顔でナイフを掲げ、自らの首元に付きつける。
「こちらのセリフです」
静かな、しかし良く通る声で亀太郎は言った。それから私に向かって笑いかけ、次にエドガーに向かって笑いかける。
亀太郎は静かに海に足を踏み入れた。エドガーは黙ってそれに付いてきた。警官たちは動けない。ざぶざぶと、二人は海の中へと踏み行ってゆく。
「待ってっ」
私は言った。はじかれたように亀太郎たちに向かって走り出す。警官たちは私に手を伸ばそうとしたが、海の方ばかりを注視していた彼らは、誰も私を捕まえることができなかった。
追いついた頃には、膝まで水が及んでいた。「なんだよ?」エドガーが問いかける。
「おまえも仲間に入りたくなったか?」
「そうじゃないっ! 待ってよ! なんでもいいから、とにかく待って。いかないで」
「何を待つっていうんですか?」
亀太郎は穏やかな表情を浮かべていた。
「ブウちゃん。あなたの優しさは分かります。あなたがわたしに言いたいこともわかります。そしてそれはきっと正しいことでしょう。いえ、何が正しいことなのかは分かりませんが、わたしはそれを聞き入れるべきなのでしょう」
綺麗に微笑んで、亀太郎は私の頭に左手を触れる。暖かい手だった。
「でもごめんなさい。できません」
そう言って、狂気めいた瞳で、右手に持ったナイフに力を込める。
「来るぞっ」
エドガーが言った。水をかきわけるような音がする。警官たちが、亀太郎を確保しようと海の中へと走って来るのが見えた。
「手を握ってて」
亀太郎はわたしに向けて左手を差し伸べる。
わたしがその手を掴むと同時に、真赤な鮮血が亀太郎の首筋から激しくほとばしった。
亀太郎の身体が手折られた花のようにふわりと海へ崩れていく。手から滑り落ちたナイフに目もくれず、エドガーが彼女の右手を掴んだ。
ばしゃりと音がして、亀太郎の身体が水を跳ねながら海へと浸かった。彼女の血の赤色は、透明な海に溶けて消えていく。完全に沈み、流されて行きそうになるのを、エドガーが支えてやっている。亀太郎は満足そうな表情を浮かべながら青い空を見上げた。
「綺麗ですね」
亀太郎は言う。
「見てください。海を、空を。綺麗ですよ、こんなに綺麗ですよ。こんなに綺麗でいいんでしょうか。涙が出てきますね。
幸せですね、こうして大切な友達に手を掴んでもらえるなんて幸せですね。ああ、どうしてこんなに空が綺麗なのに、こんなに幸せなのに、わたしは死んでいくんでしょうか」
「すまねぇな」
エドガーはぶっきらぼうに言った。
「結局一人でくたばらせて、悪かったな」
「いいえ。ありがとう」
亀太郎は笑う。
「ブウちゃんも」
私は泣いていた。優しかった亀太郎が死ぬ、自ら選んで死ぬ、誰にも救うことができずに死んでいく。私の制止など意に介さず、死んでいく。
亀太郎は困ったように笑った。流れ出る血と共に生気が抜け落ちて、どんどん真っ白になって行く。
「あなた達はきっと生きるんでしょうね。ブウちゃんもエドガーも、わたしがいなくなった後もきっと、それぞれに生きるんでしょうね。死ねないですもん、そう簡単には、死ねないですもん。だってこんなに冷たいもの、こんなにも底なしで、震える程恐ろしくて暗くて……あなた達にはきっと耐えられない。あなた達は、まだまだ死ねない。
わたしが死ぬことに付き合ってくれてありがとう。わたしが死ぬ時に一緒にいてくれてありがとう。この瞬間だけならわたしは世界で一番幸せだって、胸を張って言えます。せめてあなた達の生きて死ぬのが、少しでもつらくなくなるように、願っています」
優しい声で亀太郎は言った。言葉を一つ紡ぎだすたびに、亀太郎の命が声とともにかききえていくようだった。そして最後に一つ小さな息を吐き、身体に残っていた魂の欠片を吐き出すと、完全に力を失った。
警官が私達を引き裂いて、亀太郎の身体を連れ去って行く。エドガーははがいじめにされ、わたしの肩に手が置かれた。
☆
海原砂輝子の遺体からは、両親からの虐待の跡と見られる痣や火傷などが多数見つかったという。
優秀な医者になり病院を引き継ぐことが、砂輝子の人生に対し両親が与えた十字架だった。そのことに疲れ弱音を吐けば容赦ない暴力が彼女を襲った。
両親からの愛情を得る為に勉強をし続けることが砂輝子の全てであり、その在り方から抜け出す方法を彼女は冷静には考えられなかった。追い詰められた少女が瘴気に満ち溢れた世界から逃げ出す為に取った行動はあまりにも短絡的だったが、しかし同時に、砂輝子を確かに解放せしめるものでもあったのだろう。
「やっぱり甘えた馬鹿だよ、あいつは」
警察署の前のベンチに腰掛けたエドガーこと加賀谷了は、たいして長くもない両足を組み替えながら口にした。
「本当に馬鹿くせぇ」
そうだろうか。私は思った。自分の周囲の小さな世界で起きているちっぽけな絶望から逃げ出すことなど、誰にもできない。彼女のような華奢な少女であれば尚更だった。
「逃げるくらいなら親を殺すことなかったし、親を殺せるくらいなら逃げ出す必要なんてなかったんだ。できることは他にいくらでもあっただろ? 逃げ出す先なんて考えればいくらでもあっただろ? なのになんたってあいつはあんな最悪な方法を取っちまったんだ。なんで血まみれで泣きじゃくりながら、俺らみたいなガキに手ぇ握られて死ななきゃいけなかったんだ。そんなんで満足しなきゃだめだったんだ」
「悔しいの?」
「納得いかねぇんだよ」
加賀谷は歯を軋ませながら口にする。
「納得いかねぇったら」
「ふうん。だったら……」
だったら……。
加賀谷はどうするべきなんだろう。私はどうするべきなんだろう。砂輝子の死に、砂輝子の儚い人生に納得できないというのなら、私たちはいったいこれから何をすればいいのだろう。
「あまりは今どうしてるって?」
唐突に、加賀谷は話の矛先を変えた。私ははっとして加賀谷に向き直り、答える。
「連絡取れたよ。あまりっていうのは本名みたい。豊川あまり。色々あって、引っ越して転向することになったって」
「へーん」
「あんたに会いたがってた。懐いてるみたい。会ってやったら?」
「どうすっかな」
言いながら、加賀谷は小さく肩を竦ませた。
砂輝子のことが警察に露見したのは、ホテルであまりが話した砂輝子の車(父親のものらしい)の特徴が、警察の持つ情報と一致したからのようだ。『7777』のナンバーの高級車なんてそう誰しもが持っているものではない。そして最後は、わたし達を乗せたタクシー運転手の証言で、警察はあの海岸を突き止めたという訳だ。
「これからおまえはどうするんだ?」
加賀谷がたずねる。わたしはどうとも答えることができずに、「あんたは?」と問い返した。
「俺か? 俺は高校に通うことになった。定時制だけどな。亀太郎のことマスコミに話したら取材料ってことでまとまった金が入ってよ」
「死ぬのやめるの?」
わたしがたずねると、加賀谷は肩をすくめて、言った。
「怖くなった」
それから、共犯者を見るような表情で、私に視線を向ける。
「おまえもだろ?」
わたしは何とも答えない。
ただ一つ言えるのは、私には亀太郎と名乗った彼女のように、綺麗な顔をして死んでいくことはできないということだ。自分の人生を終わらせることに満足してくたばる勇気など自分には備わっていなくて、だから私は生きるしかなくて。この孤独と瘴気に満ちた中を息を止めながら腹這いに進み続けるしかない。
いつかつらくなるかもしれない。つらくなって、何もない死の暗闇の中に救いを見出すかもしれない。死に魅せられた彼女のように。そして本当に死ぬかもしれないし、踏みとどまってまた生きることになるかもしれない。そんなことを繰り返している内に死ぬのかもしれないし、しぶとく生き続けるのかもしれない。
まだ分からない。それは未来のこと。慶介や彼女が手放して、私が捨てそこなって手元で腐らせ続けている、しかし確かに存在しているはずの、私の未来のことだ。
「まあせいぜい、がんばれや」
加賀谷は空を見ていた。死ぬ前に彼女が見ていたのと同じ、泣きたくなるほど透き通って綺麗な空の色が、限りなく広がっていた。
読了ありがとうございます。