帰還の蒼光
淡橙に染まる天井が、静かに私を見下ろしていた。蛍光灯が、無表情にはめ込まれている。
天井は均等に白く石造りの壁ではない、そしてランプではなく蛍光灯がある。
なぜ……?
それらに見覚えはあれど、疑問が浮かぶのだ。
ここは、こちらなの?
まどろみから覚醒しはじめた聴覚が、音をとらえた。
視線を移動させ、音のする方を見る。
低い電子音を放つのは、枕元の台に置かれた金属の箱だった。いくつかのスイッチがあり、その横に英語でなにやら書かれている。 箱からは半透明のホースが出ていた。それを目で追い、口元を覆っていた酸素吸入器に気づいた。
外そうと手を動かし、うまく力が入らないことを知る。まるで長い間使われていなかったように。
『どうしましたか?』
吸入器を外した途端、声が降ってきた。マイクを通したような女の声だ。
視線をさまよわせると、天井にスピーカーがついていた。声はそこから降ってくる。
『……どうしましたか? 三輪さん、目がさめたんですか?』
「……はい」
ここは病院だ……。
上半身を起こして、室内を見回す。白い壁に白いベッド。病室の隅に置かれた台には、聴診器や手指消毒用の液剤があった。
プ。と、電子音を最後に、ナースの声は止んでしまった。
「……私……どうしてここにいるんだろう」
呟いても、だれも応えてはくれない。
通話を切り、ナースは深呼吸した。
「先輩、207号室の患者、目が覚めたんですか」
聞き耳を立てていた後輩は無視して、受話器を取る。そして医師のポケベルに送信した。
207、と。
その患者の状態を初めて聞いた時、ただの貧血かと思っていた。
患者の名は三輪暁。若い女性ということもあり、ベランダで倒れているところを発見した隣人が、驚いて大げさにしてしまっただけだと考えていた。
だが診断の結果、そうではないことがわかった。
バイタルサインが全て低数値を示しているのだ。つまり、呼吸、脈拍、血圧、体温が異常なほどに低い。しかも、排尿、排便といった生理的機能が停止している。
点滴を受ければ、口より食物を摂取せずとも排泄物は出るはずなのに。とりいれたエネルギーは、どこへ供給されているのか?
まるで全精力を使い、自らを癒しているかのようだった。医師として、そんなことを考えてはいけないのだろうが。
彼女に外傷はなかった。CTスキャナ等で精密検査を行っても、どこにも異常は見られなかった。ただ意識がなく、ただバイタルサインが異常なだけだった。
三輪暁は眠り続けていた。
つい、さきほどまでは。
ベッドで上半身を起こしていた彼女は、ベッドの足下に取りつけられたハンドルを回して、ベッドの上部を背もたれのように起こそうとしたナースを制した。
「……このままで結構です。ありがとう」
「バイタルは?」
聞くと、ナースは持っていたボードに目を走らせる。
「三六、七十、十八、一二十の六十です」
頷き、ベッドへ近づいた。彼女は私を見上げる。きっと実験動物を観察するような目つきで、私は彼女を見返しているのだろう。だがそんなことはどうでもよかった。
「私は医師の田村という。三輪暁さんだね」
彼女がうなずくのも、ろくに確認せず、私は手に持っていたファイルを開いて差し出した。
「これに、サインしてもらえるかな」
彼女はきょとん、と、差し出したファイルを見ていた。
「……ドクター」
とがめるように、ナースが呟いた。
説明不足か、と気づく。
「ここは医大付属病院だ。これは、医大の研究に協力するという書類なんだよ。これにサインすると、君は
治療費を払わなくて済むんだよ」
彼女が身寄りのない、孤児だということは救急車を呼びつけた中年女性から聞いている。両親の遺した遺産で暮らしているらしいが、それも遺産というほどのものではないそうだ。治療費を払わないで済むのなら、喜んで協力してくれるだろう。
が、医師の予想に反して、暁は興味なさそうにファイルから目を上げた。
「今日は何日ですか?」
逆にそんな質問をされ言葉に窮していると、背後のナースが身を乗り出した。
「貴方が倒れたのは二八日でしょう? それから一か月間眠っていたから、今日は二八日なのよ。十一月二八日」
医師が暁を実験材料にしようとしているのがわかったのだろう。ナースはまるでかばうかのように、暁と医師の間に入り込み、やけにていねいに日にちを教える。
「え……?」
息をのんだ暁を見返して、ナースは苦笑した。
「一か月も眠っていたなんて聞かされて、やっぱり驚いた? でも本当よ」
「待って下さい」
いたわるように微笑むナースの腕を掴み、暁は必死の形相で再び尋ねた。
「私が発見されたのは、十月の二八日だというんですか」
ナースは怪訝に暁を見返し、困惑して医師を仰いだ。
「そうだよ。なぜ疑問に思うんだい?」
「どういうこと……? エゾは時間も越えることができるのかしら……」
医師の問いなど聞こえていないようで、うつむいてなにかを呟くと、再び顔をあげた。
「私は、どこで発見されたんですか?」
妙なことを聞く。記憶に混乱があるのだろうか?
「……君の自宅のベランダだそうだよ。どうしたんだい? 記憶がないのかい?」
暁は答えず、ナースの腕を離すと、口元に手をやり考え込んでしまった。
「三輪さん……?」
ナースが呼びかけると、無理につくったとわかる笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。なんでもありません。ちょっと、疲れてしまったようです」
そう言われると、医師もナースも長居はできなくなる。
「じゃ、この書類については、また明日にしよう。身体に異常はないようだけれど、もう二・三日様子をみ
ようか」
「なにかあったら、枕元にあるボタンを押してくださいね」
暁は力なく頷く。けれどその瞳には、なにか強い意志が感じられた。
病室を染める橙に浮かび上がる、目に見えぬ炎のようだ。
蒼い炎。
医師とナースは病室を後にする。
「外から鍵をかけておけ」
「ドクター」
医師は有無を言わせぬ鋭い目つきで、ナースを見下ろした。
「はい」
その夜、西大付属総合病院から、ひとりの患者が行方不明になる。
見回っていたはずの若い警備員は、ひどく混乱したまま、事情徴収を受けた。
「最初は悲鳴かと思ったんだ! けど、よく考えたら鳥の鳴き声みたいだった。知るかよ、なんだって病院に鳥がいるのかなんて関係あるかよ。俺の知ったことじゃねえよ。でもさ……もしかしたら、ただの雷だったのかもしんない。だって、なんか光ったんだよ。そう、あの鳴き声みたいな音と一緒にさ。光ったんだよ。蒼く」
その鳥の鳴き声は、他の患者も聞いたというが、そんなものは事件になんの関係もなさそうだった。そして役にも立たなかった。
結局、行方不明の患者は、治療費を払えないと判断し逃亡したということで、決着がついた。
服もなく、靴もなく、金もなく、なにももたず、彼女は逃げたのだと。
それが不可能だということは、ひとりの医師とひとりのナースが知っていた。
病室には、外から錠がおろされていたことも、翌朝錠はそのままであったことも、暁を探すのになんの役にも立たなかった。