後編(一)
後編を区切って掲載することにしました。お待ちくださいまして、本当にありがとうございます。
「桂木さん、業務は二時に締め切ることになったから。今日は早く帰りなさい」
電車が遅れたために朝礼を逃した唯は、上司からそう告げられた。今日の夕方遅くから、大雪の予報がなされているからだ。
関東の一部では今日未明から雪が降りはじめた。そのため早くから一部交通機関に影響が出ていたのだ。
「はい」そう応えたものの、早く帰宅できることを喜ぶ気持ちは、唯のなかにはなかった。
唯は重くたれ込めた雲をぼんやり眺めた。
「いやあ、急に風が出てきましたね、寒くて参りましたよ」
「早くあがれるからって、遊びに出たり飲みになんか行くんじゃないぞ。電車が止まったらシャレにならんからな」
放心したままの唯の耳に、同僚と上司のやりとりが流れていた。
一昨夜、駅で真成と別れるとき、足元を見てばかりでほとんど顔をあげることのできなかった唯に、真成は友人同士がとるべき物理的に適切といえる距離を唯との間において、彼女に振り返った。
混雑した改札口には、遅い時間にもかかわらず、大学生と思しきグループが話をしているのが見受けられた。真成の視線がわずかの間、そちらに固定された。
――佳明の学生だな。
唯は、自分の不明朗を言い当てられた気がした。肩にたれるマフラーの端を握り、なにも言えず、ただ真成を見つめた。
真成は唯に向き直った、けれど彼もなにも言わなかった。真剣そのものの表情で彼は唯を見つめていた。
行き交う人の波も風も、すべては立ち消えたと、いやそうではない、時を止めたと唯は思った。真成と自分の間にある空間だけが存在しているかのようだった。
一歩踏み出してしまえばいい、そう自分を急き立てるものは確かにあるはずなのに、唯の足はまったく地面に固定されて、声もなく立ち尽くすしかない。
たとえばこの空間に、声をあげて自分はここだよと真成へ叫んだとして、求めた手のままに飛び込んだとして、けれどそれは、なんの心配もいらず安らぎへといざなってくれるものではないだろう。心地よさに目を閉じる、無邪気な空間ではないだろう――、唯ははじめて自分の感情に怯えた。真成が自分を見つめる双眸には、大学時代には明らかになかった光が宿っていた。
――――安心しきっていた。あの双眸に。
唯は愕然とした。真成が意図して保っていてくれた距離に、自分は漫然としていたのだ。
それは、恐れるものはなにもないということに、他ならないのではないだろうか? 唯は混乱の極致だった。
とっさに、くるりと身体を反転させた。あれほど動かなかった足は、逃げるとなると笑えるほどすんなりと繰り出せた。駆け出した唯の肩に、赤色のマフラーが翻った。
マフラーを握りしめて唯は、これまで安穏とあたためてきた空間が、自分一人の要素でのみつくられたものでないことを、まざまざと感じていた。心に降りつもった雪も、張った氷も、相関的に成ったものであったなら。
――――唯ちゃんは、ひとを妬んだりしたことはないの?
――――どうしよう、菖子ちゃん、なんて言えばいいの。菖子ちゃんだけが変わっていたんじゃないんだ、わたしも菖子ちゃんも真成君も、みんな――――。
込み上げる思いに、唯は後ろを振り返ることはできなかった。
「唯ちゃん」
仕事を切り上げぼんやりと駅へ歩いている途中、声を掛けられたそのひとを見て、唯は動揺を隠せなかった。
◆◆◆ ◆◆◆
「あれあれ、桂木さん?」
深い飴色の格子門をくぐって重いガラス戸を引いた先に見たものは、呆気にとられたような神崎の顔だった。
相変わらずの太い眉毛の下のつぶらな目と通った鼻梁は、信楽焼の狸を思い起こさせるものだった。
「すみません、ベルは鳴らしたんですが」
キャメルのコートのファーの上から赤色のマフラーをぐるぐると巻いた唯の姿に、神崎は腰を後ろに引いて首を突き出し、目をしばたかせた。赤朽葉色のようなセーターから、白い襟をのぞかせて薄いグレーのスラックスの出で立ちは、目にするのは三度目の姿だった。
「はあ、そうでしたか」と頭をボリボリかいたために、パーマをあてたようなうねった白髪まじりの毛が、それにあわせて、ゆらゆらと揺れた。
「あの、ご連絡もせずにすみません。あのコーヒーカップって、いま見られますか?」
ばつが悪いように唯はガラス戸に手をかけた。玄関脇の南天の木が、ひゅうと鳴った風に赤い実をあおられた。
「はあ、あの、それは構いませんがね……いや、弱りましたなあ」
困ったような様子で神崎はあたりを見回した。土間に入り込んだ風は、小さいつむじを起こして、式台に片足を掛けて今日はスリッパを履いていない神崎の靴下に、寒そうに流れた。つい二週間ほど前にここへ訪れたときは、日差しが随分と暖かであったと、この間とはおなじでない静けさに唯は気後れした。けれど彼女は、胸にあるこの焦燥を逃してしまうわけにはいかなかった。
「あの、やっぱりご迷惑です、か。あっ、それともこちらにはありませんか」
神崎のつぶらな目をおそるおそるといったふうに見た唯に、狸のような男は少し意表を突かれたような顔になった。
「へ、あ、いやいや、そういうわけじゃないんです」
そうして、今その事実に気づいたというように目をぱちぱちと瞬かせて、「今日は雪が降るんじゃあなかったですか?」と外を窺うように首を伸ばした。
今度は唯が目を瞬く番だった。
「そういえば……そうでしたね。ああ、いやだなあ、いやになるなあ、もう。わたしってたまにこういうことやっちゃうんです、だからティーカップを買いに行ったのにコーヒーカップを買ったり、さっきも――」
そこまでしゃべって唯は目線を上げ、目にした光景に思わずこう口にした。
「あのお部屋、なんかすごく物が増えてませんか?」
玄関のやや奥、左に見える和室を唯は指差していた。
以前に唯が訪問したときにも、その和室には物がいろいろと置かれてあったように思ったが、今はそれにも増して、物が畳を埋めていた。
それは古いものばかりのように思えた。そう思って見てみると、階段の手前には把手の黒光りする和箪笥がどっしりと座っているし、いかにも年代物といった置時計も、以前に見たときの位置と変わっていないようであった。
唯の示す方向を追って、神崎の面持ちがなにやら神妙になったと唯には見て取れた。綺麗な顔をした狸が、むずかしい顔をしている風情だった。
「なかなか、一人では如何ともいきませんねえ……」
秀麗な狸のような通った鼻梁をもつこの男の背に、それは何者かがわざと影を背負わせたような哀愁があった。唯は神崎を不思議に見た。
神崎はその視線には気づかないのか、詮方ないですなあ、と息を吐いた。
◆◆◆ ◆◆◆
「この間は……」
ふたり、同時に発したおなじ言葉に、菖子は少し驚いたような顔を、唯は怯んだような顔を見せた。
「入ってから訊くのもなんだけど、お店はここでよかったかな?」
座ったままとっさに椅子を引くふりをして目を逸らした唯に、菖子は遠慮がちに微笑んで、そう切り出した。昼下がりの喫茶店は、重いまどろみのなかにあるようだった。ときおり窓をふるわす風は、雪の予感を裏切りなく引き連れて、ゆき過ぎた。
「帰るところ引き止めてごめんね。随分早いんだね」
菖子は自分の腕時計を斜め見た。凛とした姿勢は変わらず、ショートボブにゆるいパーマをあてた黒に近いワインレッド色の髪も、彼女の特徴的な顔立ちをよく引き立てていた。
「うん、今日は二時で終わっていいって上司が……。雨だったり風だったりで、電車が止まっちゃうことわりとあるでしょ? 大雪は寒いし、困るよね。菖子ちゃんはまだ仕事?」
「そうなの、このあと戻らなきゃいけなくて。今日くらいは早く帰れるかもって期待してるんだけど」
「そうだよね、会社でもまだ残るっていうひといたし。でも反対に怒られてたよ。どうでもいいいから早く帰れって。そんなこと言われると、笑えるよね、菖子ちゃんいつも忙しいもんね――」
普段の会話のようにそう返して、唯は自分の迂闊を呪った。
「……この前言ったことはどうかしてた――なんて、都合がいい発言だよね唯ちゃん」
答えることができず、唯はおずおずと菖子に目を合わせた。彼女の肩にかかった内巻きのカールが、するりと弾んだ。
「どうしたらいいか判らないことが増えて、ほんとう、どうしたらいいんだろう――」
菖子は、テーブルについた肘の両手を握りしめた。彼女のするカルティエの腕時計は、おのずと唯の目を惹きつけ、彼女の特徴的な左目の三重の瞼は、なにかを皮肉るように、手元に運ばれてきたコーヒーカップに流された。
「許せなくなったって、言ってたこと?」
唯は、砂糖もミルクも入れていないティーカップを、スプーンでくるりと一周させた。
「新しいことをしようとすると、“あれが慣例だから”とか、“もう少し様子をみてからにしたら”とかって言われるようになったの。変革は必要だけど、どうしようもないこともあるって、誰もかれもはっきりした意見を言ってくれなくて」
「菖子ちゃん」
「わたしは、時間を掛けてすることと、そうじゃないことの区別はできるはずだって。それは判断できるよ、でも、滞りがあることを見過ごしていいとも思わない。そう言ったら、佐東さんは、人の気持ちがわかってないって――」
「菖子ちゃんは、間違ってないよ。わたしこそ、なんて言ったらいいのか……」
カップに突きさすように立てたままのスプーンに、紅茶の波紋のゆらめきがあつまった。
「気持ちとか経験は、自分一人のものだと思っていたよ、でもぜんぶがそうじゃないって、昨日気づいた。やっとだよ、でももう遅いかもしれないよ」
「もしかして――、真成君?」
唯は頷いた。
「菖子ちゃんは知ってたの?」
「付き合ってるひとがいても唯ちゃんに会うっていうなら、そうじゃないかとは思ってたよ」
「会わないほうがいいって言ったのは、それだから?」
「それもあったんだけどね。もう友達のままだと、いけないんじゃないかと思って。少しでもいい加減にすることが、周りからどんどん許されなくなって、だけど唯ちゃんは素直で、わたしにはそれがすごく遠いことのように思えたの」
唯ははっとした。
――唯ちゃんみたいになりたい――自分のなかに湧き上がっていたこの問いを、自分が菖子に投げかけるとは思ってもみないことだった。
「わたしには、まだちゃんと決められないよ……。菖子ちゃんこそ、どうなりたいの?」
腕を解いて、菖子は三重の瞼をゆっくりと伏せた。
唯はティースプーンの柄を、カップの縁にひどく静かに傾かせた。カチ、と乾いた音が、耳に障った。
「イギリスにいたときは……ううん、ちがうわ、最近まできっと考えたこともなかった。なんとなく自分のやりたいことと今が違うようになるだなんて。唯ちゃんも真成君も、やりたいことを叶えてるでしょう?」
「そんなことないよ、わたしはそれなりだよ。真成君は……たぶん、意外と今の仕事が性に合ってる……」
菖子は曖昧に笑んでカップに口をつけた。
「ほら、そうでしょう? わたしが言いたいこと、誤解してほしいわけじゃなくて。唯ちゃんと真成君は、とても近い距離にいるんだよ。自分の状況をお互いに話せるくらいに」
「菖子ちゃん! 言いたいのは、それなの?」
いい加減で曖昧なままに流されているように思っていた自分に、羨む気持ちを突きつけられる皮肉に、唯は鼻白んだ。学生時代の華やかな菖子の笑顔と、見えもしない自分がはしゃいでいる姿が、ぐるぐると唯の頭で回った。
「わたしは明確に解決したいのに――……、正直になると人と衝突しちゃうみたいよ」
「みんなそうなんじゃないの? それでも、菖子ちゃんがわたしを羨ましいだなんて、そんなの、菖子ちゃんらしくないよ。菖子ちゃんは、そんなに綺麗な時計を買ったじゃない。憧れだって昔から言ってた……」
菖子はあまり興味の湧かないように、ああ、と口にした。ふと、菖子がその時計を買ったときのことを唯は思い出した。
唯と真成それぞれに彼女が連絡をとり、二人に見せたいからと言って三人、あつまったのだ。
意外な顔をしていたのは真成だったなと思った。菖子が興奮気味に、高価なものを買ったなとどわざわざ電話をしてくるとは、大学四年間の付き合いでも垣間見なかった菖子の一面だったらしかった。
「菖子ちゃん、文句言ってたんだってね、真成君に。一昨日ね、そう言ってたの……。“ティーカップを買いそびれたのは、真成君が言ったコーヒーカップの精霊のせいだ”って」
菖子が時計を自慢する姿は、しかし真成にその文句を言った彼女から連想することは容易に思えた。
「ティーカップ? わたし、唯ちゃんに何を買ったんだっけ」
不自然なほどぎこちない笑みを浮かべた菖子に、唯は衝動的に椅子から立ち上がっていた。椅子のひっくり返る派手な音を、唯の耳はどこか離れたものとして拾った。
「しょ……」
まどろみを突き破るような衝撃だった。拍子にカツーン、とティースプーンがテーブルにすべり転がった。指に引っかけてしまったカップの中身は、緩慢にその曲線を伝い落ちた。
唯は瞠目した。対する菖子の顔は、ぽかん、と表する以外にないものだった。それはいつか見た菖子の、少し気の抜けたような表情以上に、なんの含みもないものだった。
カラン、と人が首をふるような動作で、ティーカップは唯の起こした衝動の余韻にゆれていた。