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中編

大変お待たせいたしました。


 ――つづいて気象情報です。お伝えしておりますように、週末に寒気が流れ込み寒くなる見込みです。この強い寒気により北日本から西日本の広い範囲で、22日にかけて山沿いを中心に大雪となるでしょう。太平洋側の平地でも10センチから20センチ程度の積雪となる所があるでしょう。一時的に吹雪く所もあるかも知れません。21日金曜日の帰宅時間帯、交通機関への影響が出るおそれもあります。今後の情報に、ご注意ください――




『ああっ! またやっちゃったよお。間違えたあ。なんでなの、ちゃんと紅茶をとったはずなのに……』

『あれ、唯ちゃんまたコーヒーを買っちゃったの? わたし飲んであげるよ』

『ううん、菖子ちゃんには二回も飲んでもらったし悪いよ。砂糖とミルクをもう少し足してみようかな。たしか先生の冷蔵庫に残ってた気がする』

『そのカフェオレに入れるの? もうコーヒーじゃなくなっちゃうじゃない』

『あーあ。なんでコーヒーなんてものがこの世にあるのかなあ。あの苦味さえなければなあ。だいたい、ミルクティーとカフェオレを並べて売るなんて、消費者に優しくないよ』

『仕方ないかもね、大学の売店なんだし』

『それ、売店の人が聞いたら怒りそうだな』

『あれっ。紙コップはないのかなあ。この前戸棚にあるの見た気がしたんだけど……』

『あっ、そうだった、ごめんね唯ちゃん。わたしが使ったんだ。わたしのカップは、前に家に持って帰っちゃったんだよね』

『そっか、佐東さん、あと一週間でイギリスだっけ。なら、俺の使う? 桂木さん』

『いいの? 真成君。わたしも早く新しいカップ買わなきゃ』

『取っ手が外れたんだっけ?』

『びっくりするよね。そこだけ器用に外れるなんて。ねえ真成君、真成君のカップって、このテディベアのカップ? なんか、似合うような似合わないような……』

『ははっ、実家出るときに適当なの持ってきたから。それより桂木さん、ちゃんとしたコーヒーカップで飲んでみたら? おいしく感じるんじゃないか』

『神様がいたら、案外そうしてくれるかもね。でもそれ、マグカップだし』

『だけど菖子ちゃん、一応コーヒーカップのうちになるのかも』

『神様まで大げさじゃないなあ……妖精とか』

『だったら、コーヒーカップに棲む妖精?』

『うーん、ちょっと語呂が悪いなぁ。コーヒーカップの妖精……。いや、精霊のほうが洗練されてそうじゃないか?』

『じゃあ、コーヒーカップの精霊でいいの?』

『その精霊、じつはすごいんじゃない?』

『なんで?』

『マグカップがコーヒーカップのうちに入るなら、コーヒーカップは、なににでも違和感ないでしょう?』

『なににでもって?』

『ミルクだって日本茶だってスープだって、それで飲んでもおかしくないでしょう? シリアルなんかもそれで食べられるんだし』

『じゃあさ、コーヒーカップの精霊はさ、いい加減な性格なんじゃないか? 反対に、ティーカップで牛乳飲んだりコーヒー飲んだりする奴、あんまりいないから――だからティーカップの精霊は、潔白なんだよ、きっと』

『えっと、ティーカップにも精霊がいるって設定なんだ?』

『今思いついた』

『そう言われると、ティーカップでコーヒーは飲まないかもね』

『なんか話が見えないよ、真成君も菖子ちゃんも……、なんの話だったっけ?』

『コーヒーカップが多用途だっていう話』

『だからコーヒーカップの精霊は、だらしないってこと?』

『精霊も人間もいい加減なくらいがいいんだよ』

『基準がよくわかんないよ』

『それはそうと唯ちゃん、イギリスのお土産どうしようか。よさそうなティーカップがあれば、買ってきてあげようか? たしか探してたよね』

『えっほんとう、菖子ちゃん。あ、でも割れ物だし気をつかうよね? それなら、茶葉がいいなあ』

『それより本場のティーカップの精霊を連れて帰ってもらったら』

『多岐君その話まだつづいてたの。それにさっきの流れだと、精霊はコーヒーカップのものじゃないと意味ないんじゃない?』

『うん。しかも言ってることが、なんかオヤジくさいよ』

『うわっ、ひどいな二人とも』

『あははっ。やっぱり菖子ちゃんにお任せするよ』

『そう? だったら、唯ちゃんがあんまり気をつかわないような物にするよ』

『うん、ありがとう、菖子ちゃん』

『男前だなぁ佐東さん。半年向こうに行くんだっけ? なら、二年の終わりまでには戻ってくるのか』

『三月には帰ってくるよ。帰ってきて唯ちゃんと多岐君が付き合ってたらびっくりするかも』

『あはは。そのときは菖子ちゃん、妬いてくれる? でも、留学なんて、すごいよねえ。わたしなんて、英語の文字を見てるだけで頭痛くなるのにさあ』

『でも唯ちゃん、卒業論文は世界の食の流通について書くんじゃなかった? 参考図書に、英語の本も必須だよね』

『そこはコーヒーカップの精霊にお願いしたい……』

『あれっ、その話終わったんじゃなかったっけ』

『ええっ? 言ったのは真成君でしょ。……真成君には、解らなくてももう英語のことは聞かないでおこう』

『それは結構傷つくなぁ』

『あーあ、わたしが菖子ちゃんになれたらなあ』

『なんか小学生みたいだよ、唯ちゃん。それに唯ちゃんなら、多岐君に聞かなくてもできるようになるよ』

『ふふっ、そうだね、ありがとう菖子ちゃん。帰るの楽しみに待ってるね』



◆◆◆ ◆◆◆


「菖子ちゃん、週末寒くなるって知ってる? 雪が降るかも知れないんだって」

 うん、とそれきり相手は黙った。それ以上の反応はなかった。電話口からは静かな音が返ってくるだけだ。ゆいもまた、言葉が続かなかった。11月の下旬を最後に、友人の佐東菖子さとう しょうことは会っていなかった。最後に会った彼女の印象から、唯はなんとなく菖子が心配だった。

 次に唯は、なにを話すべきか迷った。だから目は、床をうろうろと泳いだ。カーペットのほころびと、デパートの紙袋の少しくたびれた角とを、行ったり来たりした。

「真成君とまた会うの?」唐突に菖子の声が割りこんだ。

「うん、明日会うつもり」菖子に電話を掛けた趣旨を伝えるべく唯は答えた。

「菖子ちゃん、この間言ってたことだけどね」

 唯は明日、友人の多岐真成(たき まさなり)と会うことを菖子に話しておこうと思った。

 真成と頻繁に会うのは好ましいことではないと、唯は先日菖子に言われたことが、どうしてか頭の隅にちらついていたからだ。

「菖子ちゃん、このままじゃいけないのかな。わたし、真成君とは仲の良い友達同士でいたいよ」

「それはわたしが決められることじゃないよ。だけど、真成君はそれでいいと思う? 唯ちゃん、ちゃんと訊いたことある?」

「それは、ないけど……。でもわたし、真成君と恋愛したいとは思ってないよ」

「本当にそれでいいの?」

「だって、真成君には彼女がいるんだよ?」

「真成君がそう言ってたの?」

「ううん、それを聞いたのはだいぶん前だけど……。でも、急にどうしたの菖子ちゃん。なにかあったの?」

「わたしは、いつまでもはっきりしないままでいたら、だめなんじゃないかって思う。変わらなきゃいけないと思う」

「変わるって、菖子ちゃんが?」

 少し間があいて、菖子は言った。

「わたし、許せないことが多くなっちゃった」

「許せないこと? それってどんなこと?」

 菖子の声が泣きそうになっているような気がして、唯は身構えた。言い表せないなにかが身に迫ってくるように感じた。カーペットの綻びを意味もなく凝視した。

「他人にいろんなことを求めてしまうようになって、それが嫌で許せないの。でも、できない人も、許せない」

「できない人って、仕事ができないって意味?」

「ううん、そうじゃない……。あんまりうまく言えない」

 うまく言えない? 菖子がというのか。

「でも、はっきりしなきゃって、それこの間も言ってたけど、菖子ちゃんはずっと前からなんでもはっきりしてたよね? 菖子ちゃんが、はっきりできないことがあるなんて、わたしあんまり想像できないよ」自分の言葉を否定してほしくて、唯はつい強い口調になった。

「そうだよね。わたしも、そう思う」

「菖子ちゃん……?」 

「わたしは、他人の気持ちがわかってないって」

「そう言われたの?」唯は訊いた。まさかと思った。

 菖子が他人の気持ちがわからない人間だなんて、どんな場面であり得るというのか。

 混乱したままの唯には、ついに彼女の言葉を胸に受けとめるだけの手段を持たなかった。

「唯ちゃんは、人を羨んだり、妬んだりしたことはないの?」

 衝撃よりもむしろ笑い飛ばしそうになった。菖子はなにを言うのだろうと思った。唯がいつでも羨ましいのは、菖子だった。ましてねたみなど、菖子には一番縁遠い言葉に思えるくらい、唯にとって菖子は明るい存在だった。

 だがついに衝撃はきた。それはどんっと、重かった。 

「唯ちゃんみたいに、なりたい」 

 唯は絶句した。思いもよらない菖子の告白だった。胸に襲った重みはけれど徐々にそこでくずれた。それは次になにかが怒涛に押し寄せる予感だった。唯はぞっと身を寒くした。足場が急に薄い氷になったような感覚だった。心もとなさがひたひたと近寄ってくる。唯は目をせわしく動かした。なにかにすがらなければいけない気がした。ふいにデパートの紙袋の端を、唯はとらえた。瞬く間に、その光景は流れ込んできた。



 ――菖子ちゃん、留学なんて、すごいよねえ――


 ――コーヒーカップに棲む妖精?――


 ――じゃあ、コーヒーカップの精霊――


 ――いい加減なくらいがいいんだよ――




 ああ、なんで。――真成君。

 明るい同窓生の笑顔に、氷がパキン、と音をたてた。


 


◆◆◆ ◆◆◆



 真成が煙草を吸っているのを、唯は見とめた。

 背広の前のボタンを留めていない姿は、普段の彼の印象からはだいぶんくつろいだ格好だった。黒髪短髪、顎のスッキリした薄めの顔立ちの唯の同窓生は、カントリー調のやわからい店の雰囲気によく似合っていた。唯はふと、胸を押さえた。

 オレンジ色の照明が和みをさそう、一軒家を改築したらしい店内だった。黒いアイアンの椅子に深い茶色のテーブルがいくつか並んでいる。カフェも兼ねた、店の入り口の木製のドアと対面するかたちで、店の一番奥にはソファーが置かれてある一角がふたつある。おそらく夕方には、店のほど近くにある佳明館かめいかん大学の学生が訪れるのであろう。唯が学生の頃には、なかった店だ。

 四本足のソファーは、背もたれは低いがクッションは座り心地がよさそうだった。そのソファーに、背を預けることなく真成は座っていた。

 唯に気づくと彼は、たちまちにその煙を消した。そんな真成の行動を見て、唯は一瞬声がつまった。

「気にしなくていいのに」どうしてか、かなしいような気分でそう言った。

「いや、ごめん。本当は吸わないつもりでいたんだけどさ」

「めずらしいよね、真成君が煙草吸うところ」

「ああ、うん。ちょっと」真成は、それ以上の言葉を言わなかった。唯は言葉につまって、真成を見下ろした。店に入って真成を見つけたとき、ほっとしたような嬉しいような苦しいような気持ちになった。だから胸を、押さえていた。

「どうかしたのか、唯ちゃん」突っ立ったままの唯に真成の声が響いた。

 ――優しすぎる。

 ふと、昨夜の菖子との会話が脳裏をよぎった。

 昔からだったろうか。自分は、いつから真成とこんな風だっただろうか。なにか、引っかかっていたことがあったように思った。いや、わからない。きっと考えなくていい。けれど、店に入って真成を見たときのほっとしたような感情はなんだったろう。煙草を消す彼の動作に、声がつまったのはなぜだろう。

 唯は知らないうちに、マフラーに顔をうずめていた。それは目前にある課題や思考からいっときの猶予ゆうよがほしいときにする、彼女のくせでもあった。

「学生の子が好きそうなところだね」

 彼女の同窓はそう話題をかえた。

「それってつまり、わたしが子どもっぽいってこと?」

 唯はぱっと顔をあげた。すらりと快活に言葉が出た。内心の驚きを隠して、唯は笑った。真成の優しさに、切ない気持ちになった。


「真成君、結局ごめんね。お店になっちゃって」ようやく腰掛けて、唯は言った。

「いや、すぐわかったから平気だよ。下宿の近くだったし」

「そっか、大学の正門側だもんね、こっち。そうだ、一館いちかんが遠いって真成君も菖子ちゃんもよく文句言ってたよね」唯の通っていた政治学部棟の一号館は、学生の間では“いちかん”と呼ばれていた。真成と菖子の住む部屋は大学の正門近くにあり、そして“いちかん”は正門からは一番遠い場所だった。唯はそれを懐かしむように目を細めた。

 仕事がおした唯は、駅での待ち合わせを継続させるか迷ったあげく、店の場所がわかるならば直接、店で落ち合おうと真成に連絡した。そして、行ってみるよと彼らしく気負うところなく返事はきたのだった。

「この辺に用があって見つけたって言ってたけど、めずらしいね」

 唯は11月中旬にデパートの骨董フェアに訪れたさい、誤ってコーヒーカップを買ってしまったことを真成に話した。

「ははっ、唯ちゃんまた間違えたのか」

「笑わないでよ、真成君。たしかに、いつものことだけどさあ」

「いや、いつものことっていうか、大学のときにそんなことがあったと思ったんだよ」

「覚えてるの?」唯は驚いた。

「紅茶とコーヒーを間違えて買ってさ、菖子ちゃんに飲んでもらってただろ。何回もあったよなぁ」

 真成はまた笑った。

「そんな楽しそうに言わないでよ。どうせなんにも変わってないもん、わたしは」

 冗談半分にむくれて言うと、真成がこちらを見つめていることに気づいた。

「そのままが一番いいんじゃないか」

 唯は今度は、泣きたいような気持ちになった。

 そう言う彼の声は優しかった。まただ、と思う。真成は、優しい。

 急に菖子の顔が浮かんだ。すると昨夜の電話の彼女に受けた衝撃が、強く再現された。

「菖子ちゃんは、変わったかも知れない……」真成に聞こえないほど小さな声で、唯は言った。

 唯ちゃんみたいになりたい。裏切りにも似た気持ちで、唯はそれを聞いたかも知れなかった。



◆◆◆ ◆◆◆



「うーん、すみませねぇ。もう取り扱ってないんですよ」白髪まじりの男はそう言って唯を見た。

 赤朽葉色あかくちばいろのようなセーターに白のシャツをのぞかせて、薄いグレーのスラックスをはいている。狸のような丸い目が、愛嬌をさそう風貌だった。11月下旬にしては、今日は暖かかった。

「骨董を取り扱っていた者が、先年亡くなりましてね」

 唯は目を大きく開けた。ええっ、と落胆を思わず口に出していた。

「もしかして、今日はわざわざこちらに?」不思議そうにも見える面持ちで、男は唯に尋ねた。

「はい、あの、コーヒーカップを」

「コーヒーカップ?」男が少し驚いたように言った。格子門の前に、二人は立っていた。唯は、神崎骨董と毛筆で書かれた表札を見ながら言った。

「わたし、ここのお家に入ってみたいなあってずっと思ってたんです。あ、大学生だったときに下宿先がこの近くで。それで散歩してるときによくここの前を通ってたんです。入る機会なんてないだろうなって思ってたんですけど、この前、間違えてコーヒーカップを買ってしまって……。ネットで売ってもよかったんですけど、せっかくだからこちらに伺ってみようと思って」

 大学生当時だった唯は、この格子門構えのゆかしい外観の家のなかで、どのような所作が行われているのかを知りたかった。古風ではあるものの、まるで普通の民家である。どんな人が、どんな物を持ち込むのかあるいはどんな人がその商いを営んでいるのか、閉じられた門はいつも唯の興味をさそってやまなかった。それゆえに、この格子門構えの家のことを思い出した自分は、四年間抱きつづけた謎を解き明かすまたとない絶好の機会を手に入れたと浮き立った。コーヒーカップを買ったという落胆が一気に吹き飛ぶくらいに爽快な心持ちになったのだ。

「学生さん? 佳明かめいの?」

 またしても驚いたようにもとれる調子で、神崎は唯を見た。そんな男を見て、今度は唯が不思議そうに答えた。

「はい、もう卒業して家もこの近くじゃないですけど」

「こんなことをお尋ねするのは失礼なんですが、どちらの学科だったか訊いてもいいですかね」

「学科は、ええと、政治学部の国際政治学科です」

「ああ、そうだった、学部ですね。ああ、じゃあ“しょかん”ですか」

 唯は聞きとれなかった。

「えっ? なんですか、それ」

 神崎は目を瞬かせた。鼻の高い狸のようだ。

「あれっ。政治学部は“しょかん”って言わないんですか」

「しょかん……? わたしがいた頃は、“いちかん”って言ってましたよ」

「いちかん、ですか」

「はい、一号館を略して……。あの、もしかして佳明に行ってらっしゃったんですか?」

 唯はこのやりとりがどこへ向かうのかやや不安になって訊いた。

「ああ、わたしじゃないんですよ。いやいや、すみませんねぇ」

 パーマをあてたようにうねっている髪が、間延びした男の口調に合わせるようにゆれた。

「あの、だめですかやっぱり」不毛にも思えるやりとりは、少し彼女を疲れさせた。

「ああ、いやいや、ごめんなさい。ちょっと、そのカップを見せてくれませんかね」

 唯は若干諦めの気持ちを持ってデパートの紙袋を差し出した。

 神崎は紙袋を開けた。その表情はさっと変わった。

「ひょっとして、マリア・テレジアですか」

 白地に、口縁に金彩のほどこされたカップを慎重に手にとって神崎は尋ねた。

「はい。知ってるんですか?」

 およそマリア・テレジアなどには縁がないと思わせるたぬきのような顔立ちに、唯は目を見張った。この男は、骨董を取り扱っていないと先ほど言っていた。それにこの男の風采ふうさいは、なんともちぐはぐである。秀麗な狸という表現が相応しいだろう男と、マリア・テレジアのカップは、どうにもそぐわない印象だった。

 神崎はじっとカップを見ていた。その顔は、唯には読みとれない。険しくはないが穏やかでもなく、どことなくもの思うところがあるようであった。

「そうですか、佳明の学生さんでしたか」神崎はもう一度そう言った。

 神崎の手のなかのカップは、門の影のなかに入っていた。



◆◆◆ ◆◆◆



「なら、引き取ってもらえるようになったんだ?」

 唯が佳明館大学の近くまで来た経緯を聞いた真成は尋ねた。

「うん多分ね。一応、伝手つてはあるみたい。お金はもらえなくてもいいんだ。もしかして払うことになるかも知れないけど」

「もったいないな。持っておけばいいんじゃないのか」

「真成君もそう思う? 神崎さん――、あ、骨董の家のひとね。神崎さんもそう言ったんだ一度は」

 安くはなかっただろうに、もったいなくありませんかと訊いた、初めて神崎を訪ねた直後に見た男の複雑そうな表情を唯は思い返した。だからそのときはコーヒーカップを神崎には預けず、持って帰った。そしてどうやら伝手ができそうだということで、今月初旬の休日にもう一度カップを神崎のもとに持って行ったのだった。その査定が出たと、月曜の夕方にあった神崎からの電話で知った。

「でもわたし、そういうコーヒーカップは絶対使わないんだ。マグカップならともかく」

 そうだ、と唯は思い出した。「コーヒーカップの精霊」唯はそうつぶやく。

「真成君、コーヒーカップの精霊って、覚えてる――?」

 けれどそう言うのと同時に、菖子の言葉がより重く唯の胸にかかった。今月初旬に大学のそばを通ったときには、唯の菖子から受けた衝撃は、まだ昨日のようではなかった。そうだ、それに、今目の前にいるひとのことも、深くは考えていなかった。

 そしてまた、学生の頃のきらきらした菖子の顔を唯は思った。イギリスに留学する直前の彼女の颯爽とした顔を。あれは教授の研究室で、繰り広げられた一場面だった。 

「覚えてるよ。たしかコーヒーカップの精霊は、いい加減なんだったよな」

「そうだよ。なんで覚えてるの」唯はなぜか真成の顔を直視できずに訊いた。

 目線を落とす唯に、一拍遅れて真成が応えた。

「どうかしたの、唯ちゃん」そう問う声は、唯にはあまりにやわらかかった。

「わたしが先に訊いてるの」幼い子どものようだと自分を思った。

「菖子ちゃんがさ、イギリスで結局ティーカップを買ってこなかっただろ? 唯ちゃんの土産にって言ってたのにさ。理由は忘れたけど、それは多岐君の言ってたコーヒーカップの精霊のいい加減さに惑わされたせいだとかなんとか、帰ってきたときに菖子ちゃんが言ったんだよ。やたらと理不尽だと思ったから、よく覚えてる」

「そうだったの?」唯は目を丸くして顔をあげた。

「そうだよ、あれ、唯ちゃんはそれで覚えてたんじゃないのか」

「わたしは――……」

 唯ちゃんみたいになりたい。そう言った菖子の声が、唯の頭に強く響いた。

「わたしってさ、人の気持ちが、ちゃんとわかってないのかな」

 思わずそう言っていた。

「いきなりどうしたんだ、唯ちゃん。思ってたんだけど、今日、変じゃないか?」

「へ、変ってなに、変って。真成君が覚えてるとは思わなくて、ちょっとびっくりしたっていうか……」

 そう取り繕うとしたけれど、唯はそのままなにも言えなくなった。

 菖子のあの言葉は、そのまま自分に言われた気がする。ならば自分はやはり、変わらなければいけないのだろうか。

 あのやりとりのなかで真成の顔が浮かんだとき、自分はなにを思っただろう。いつまでも、このままでいたい。はっきりしなくていい、曖昧な関係にただ浸っていたい。マフラーに顔をうずめると感じる心地よくただよえる空間に、身を任せていたい。気づかずずっと、そう思っていたのではないのか。

 真成と話したようなコーヒーカップの精霊は、物事を曖昧にして、寛容にして、惰性的にしているのかも知れない。学生時代は、そうだった。物事をいちいちはっきりさせなくてよかった。曖昧にして、なんとなく流して過ごしていた。曖昧だから、どんな境もつけなくてよいと。だから多分それはただの惰性だった。ならば今、見なければならないものが、あるのではないだろうか。どこか遠くで、音が聴こえた。

 そのとき真成が唯をじっと見つめていたのを、彼女は気づかなかった。



「そういえば留学から帰ってきてすぐ、菖子ちゃんは大学院生と付き合ってたよね。真成君も彼女ができちゃうしで、わたしすねてたことあったんだよ。あ、そういえば、彼女は元気?」

 マフラーを巻きつけながら唯は真成に訊いた。問うて唯は、なぜ自分がこんな質問をしたのかわからなかった。瞬く間に気持ちは沈んだ。ますます胸は、重くなった。

 店から出ると、風は急に冷たく頬をたたいた。昼間の暖かさを思い出せなくなるほどだった。天気予報では明後日の金曜から寒くなり、雪が降るといっていたか。だが金曜といわず、明日にでも雪は降るのではと思われた。

「誰のこと?」怪訝な声で真成が言った。

「えっ?」

「俺は、今はそんなひといないよ」

 真成の言ったことを、唯はすぐに理解できなかった。

「ごめん、そうだったの? てっきり、大学のときのひととずっと付き合ってるのかと……」

「まだそんな風に思ってたんだ」

「ご、ごめんね真成君」

 真成の声が険しくなった気がして、唯はあわてて謝った。

「なんで謝るんだ」

「だって、気を悪くしたよね?」

「唯ちゃん」

 真成の足がとまった。

「俺は、本当は言おうかどうか迷ってたよ。今日店に来てからも、言うか言わないか考えてた」

 それ以上の言葉を、唯は聞いてはいけないような気がした。店に入った唯を見つけたとき、すぐに煙草を消した真成の姿が、なぜか脳裏に現れた。あのとき感じた、かなしいような気持ちに、目を向けてはいけない気がした。なにを、と訊こうとして思いのほか強い真成の視線と出会って、唯はたじろいだ。思わず目を逸らした。

 だから、彼女は真成から少し目を逸らしたから、彼の瞳に、ある感情に裏付けられた鋭い光彩が走ったことに気づかなかった。

「唯ちゃんは、俺の気持ちに気づいてはないと思うけど。本当は、このままでいるべきかずっと考えてた」

 唯は息がつまりそうになった。

「なんで」

 なぜ、突然にそんなことを言うのだろう。

 ちがう、そうじゃない。

 真成は、いつの頃からか優しかった。その理由を、唯が解りたくなかっただけだ。

 自分はいつから、こんな危うい位置にいたのだろう。いつの間にか、足元に氷が張っていた。

 ああそして――、なぜそれに気づけなかったのだろうと至る。ともすれば菖子から最初に受けたあの衝撃は、雪のようではなかったか。ふわふわと舞っていた粉雪が、急に雪玉に変わって投げつけられたような衝撃ではなかったか。ならば自分はずっと、ふわふわとした雪でなにも見えなかったのだ。雪は積もり、いつの間にか足場となっていたのだ。そしてときに、滑るような氷が張りさらに雪は積もりつづけたのだ。ならば今、いや少し前から、雪は溶けはじめていたのだ。唯のまったく知らないところで。正確には、知ろうとはしなかった場所で。だからついに、氷は現れた。足場の心もとなさに怯えるような薄氷となって。そうだ、音はした。パキンと音は、鳴った。

 だからそう思ったのは、きっとなにかの合図だった。

 ふいに手首がつかまれ、唯は真成に引き寄せられた。

「ま、真成君?」

「唯」

 その呼び名に、唯は目を見開いた。撃たれたように、唯は動けなくなる。痺れるような感覚が全身を駆けめぐった。

「ま、真成君。このままってなに?」もはや訊かずともわかることを、どうしても猶予がほしくて訊いてしまった。それが相手の回答を早めるだけと、理解はしているはずなのに。

「それは唯が一番、知ってるんじゃないか」

 理由はついに、解ってしまった。唯は瞳を震わせた。

「いつから……いつからなの」

「それを聞いて唯はどうしたいんだ? なら、昨日って言えば応えないのか? 会ったときからって言えば応えてくれるのか、違うだろう?」

 真成の吐く息は、白かった。唯のとらえられた手首は熱く、指先は冷たかった。唯はなすすべもなく真成の目を見た。

「俺は、唯が好きなんだ」

 真成はとらえた手首を強く引いた。唯は思い切り抱き締められる。唯、と唯の髪にその名をささやく。真成の背広の布が、ざらりと頬にふれた。

 瞬間、唯はどこにいるのかわからなくなった。視界は卒然、吹雪になった。激しい雪に見舞われたように、前が見えなくなった。だから確かに真成の手を求めたと思った。

 でも、動けない。人混みではぐれたさ迷う幼子のような心細さが風のように突き抜ける。

「真成君――やだ、放して」

 放してほしくない。もっと強い力でつかまえていてほしい。

 でも、目まぐるしく風は変化する。吹雪はいよいよ激しくなる。ますます唯を惑わせる。

「ま、真成君っ」唯は思い切り真成を押し退けた。

 泣きそうになった。切なさが身体中を侵食する。

「唯ちゃん――、唯」

 ああ、だめだ。聞いてはいけない。足元を見てはいけない。

「わたし、今までみたいに……」

「唯」

「だって……」

 唯は勢いよく顔をマフラーにうずめた。こうすればなんとかなるかも知れないと思った。いつもみたいに、心地よくただよう空間に自分を飲み込んでほしかった。自分だけの空間に閉じこもって安心していたかった。けれど迫りくる切なさは、速度を増す。雪はどんどん唯に当たる。


「ごめん。もう、いいよ」

 え、と唯は顔をあげた。

「困らせたみたいだ。悪かった、帰ろう」

 唯は声が出せなかった。真成とは、ずっとこんな関係をつづけていけると思っていたし、なにも変わらないと思っていた。変わる必要もないと。

 けれど、片方がそう思っていないのなら、成立する関係ではない。真成に二人の関係のことを訊いたことがあるのかという菖子の言葉が、今更ぐさりと胸を打った。

 パキンと音が鳴る。ああ、だめだ、気づかなくていいんだ。気づいたのなら、解ってしまう。

 ふいに真成の靴の先が、唯の反対側に向けられた。そうして一歩一歩と遠ざかってゆく。

 ――待って。解ってしまうから。

 今なにか言わなければいけない。

 ――行かないで。知ってしまうから。

 けれど白い息が、夜に溶けるだけだ。

 恋は、砂糖菓子みたいに、甘い。

 恋は、ビターチョコみたいに、苦い。

 誰なんだろう。そんな風に言ったのは。


 自分の馬鹿馬鹿しさに笑いたくなった。

 なんて苦しい。なんて苦い。

 前は、ますます見えない。


 けれどもこの期に及んで唯の胸を占めるのは、甘い痺れだった。

 真成の背広の、感触だった。



 ――真成君。わたし、わたしは。

「真成君が、好きなんだ」

 ひときわ大きく、氷は割れた。



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